七福神めぐり -恵比寿神-

清立寺を後にして、いよいよ最後の七福神に向います。
時刻はPM1:30ですが、ここまで来ると正月の3日ですので、殆ど開いている店はありませんのでとにかくこのまま進み、鬼子母神方面に戻ってから昼食を考えましょう。

宝城寺

清立寺からは旧弦巻川に沿って西に進みますが、50~100mくらい進むと正面に「宝城寺」があります。
宝城寺
山門の脇には“祈雨日蓮大菩薩”と彫られている石碑があります。清立寺の雨乞いの松=日蓮上人像と何か関係するものでしょうか。 江戸名所図会にはこのように記載されています。

不動山宝城寺
清立院の西の小坂を隔ててあり。豆州玉沢の法華寺に属す。当寺安置の日蓮大士(1222-82)の影像は、大覚大僧正(妙実、1297-1364)の作なりといふ。諸人結縁のため、正・五・九月の十三日内拝あり。また、毎年十月八日より十八日まで、法華経読誦千部修行あり。
(江戸名所図会より)

この大覚という僧は、近衛経忠の子、あるいは後醍醐天皇の皇子と言われ、初めは真言宗の僧だったそうです。1313(正和2)年京都布教中の日像の説法に共感して大覚寺の地位を捨てて弟子となり、1358(延文3)年、後光厳天皇の命により、雨乞いの祈祷を行い効験が現れた功績によって、日蓮に大菩薩の号、日像に菩薩の号を賜わり、大覚は大僧正に任じられたのだそうです。
宝城寺の創建は天正期(1573~92)、或いは寛永期(1624~44)で、1702(元禄15)年、牛込からこの地に移転して来たようです。従って200年以上の時を経て京都からこの地に本尊が移ってきたわけですが、その経緯は当然わかってはいません。ちなみに先の碑は1819(文政2)年の建立だそうなので、本尊の霊威を祈念して建立されたものなのでしょう。従って清立寺の雨乞いの松とは関連は無いようです。
本堂を含めて清立寺とは対照的にしっとり落ち着いた佇まいで、清立寺と一緒に江戸名所図会にも挿絵の中に描かれています。
宝城寺 江戸名所図会 宝城寺 江戸名所図会 宝城寺
それでも雨つながりで隣り合った清立寺と宝城寺は、雑司ヶ谷の雰囲気に実に良く似合う風情です。

宝城寺からさらに西に進み、しばらくすると都電荒川線に突き当たります。
この荒川線の踏切を越えた先に最後の七福神である「大鳥神社」が見えます。
都電踏切
が、その前に道沿いに水車小屋があるので寄ってみました。
水車小屋
地主の方が趣味というか、地域貢献というか、いずれにしても個人で立てられたもので、休憩所として使用してよいようです。 水車も大小2つあり、小屋も手作り風で実に味わいがあります。
干したトウモロコシや、瓢箪、わらじ等がさらに牧歌的な雰囲気を醸し出しています。
さらに右手の庭部分には木道や井戸など古の風景です。
水車小屋
もしかすると旧弦巻川の河畔にこんな水車小屋があったのかもしれません。 雑司ヶ谷の味わい深き風情とでもいっておきましょう。
それでは七福神の大鳥神社に向います。

大鳥神社 -恵比寿神-

線路を渡りますが向こうに見えるのが都電鬼子母神の駅です。
都電荒川線
そういえば今日はまだ1両も都電を見ていませんでした。
踏み切りを渡ったしばらく後に、今日はじめての都電を見かけました。
都電荒川線
何か長閑な光景に見えるのは私だけでしょうか…。
古く大きな社号標と新しく大きな鳥居がよいコントラストを成しています。
大鳥神社

大鳥神社御由緒
1.祭神:日本武命
1.配祀:倉稲魂命
1.沿革:
正徳年間鬼子母神境内に鷺明神として創祀せらる。
明治維新、神仏分離の令に依り、大門欅並木の料亭蝶屋地内に大鳥神社と開構、仮遷座す。此れを憂い、旧幕臣矢島昌郁氏、自己の宅地を社地として奉献、永久鎮座の地、漸く定まる。
その後、境内地を漸次拡張し現状となる。
1.境内社:
昭和のなかば首都高速道路5号線開通に伴い、元日の出町より移り本社と相並び奉祀す。
三杉稲荷神社と構す。
1.神事:例大祭 9月上旬土日曜日、酉の市 11月酉の日、大祓 6月・12月晦日、月並祭 毎月1日・15日
1.神徳:開運・招福
(現地由緒書より)

なるほど、元々は鬼子母神の境内にあったということで、江戸名所図会の挿絵を見ると確かに鬼子母神堂の左手に鎮座していたことが判ります。
江戸名所図会 鷺大明神祠 江戸名所図会 鷺大明神祠
そして図会ではこのように記載されています。

鷺大明神祠
堂前左の方にあり。祭る神詳らかならず。あるいはいふ、出雲国神戸郡鷺村の鷺浦に鎮坐したまふ、素蓋鳴尊の妾女皐諦女なりといふ。この神は疱瘡の守護神にして、正徳(1711-16)の頃松平羽州侯、神告によってこれを勧請す。疱瘡寄願の輩、広前の小石を拾ひ得て守護とす。例年八月朔日祭りあり。また、毎月朔日をもつて縁日とす。
(江戸名所図会より)

正徳2(1712)年、松江藩主松平公の嫡男が天然痘にかかった際に、託宣によって鷺明神に祈願したところ快癒したことから、雑司ヶ谷鬼子母神境内に祀ったのが始まりなのだそうです。そしてこの鷺明神は厄病除けの神として尊崇されているのです。
しかしながら神仏分離によって鬼子母神境内から出されてしまった鷺大明神は、明治元年に「大鳥神社」に改称し、40坪の借地に祠がある程度の粗末な神社だったそうです。
そして明治20(1887)年に矢島氏が200坪の自宅を寄進し、自ら祠主となって神社の復興に努めたのだそうです。そうして社運も興隆し現在に至っているのです。矢島氏もたいしたものですが、協力した氏子達と一体となった努力の賜物なのでしょう。

境内に入ると正月らしい「茅輪」がありました。
茅輪 茅輪
「茅輪」の存在は知っていましたが、見るのは初めてです。この茅輪は神社の行事ですから当然神事で茅輪神事というそうです。神事としての意味合いは、この輪を潜り越えて罪やけがれを取り除き、心身が清らかになるようにお祈りするものなのです。
この由来は、神話時代の素箋鳴尊が旅の途中で一宿を求めたところ、豊かな生活をしていた「巨旦将来」というものはそれを断りました。そしてその兄であり貧しい生活をしていた「蘇民将来」は、貧しいながら宿を与えて厚くもてなしたのです。
後に再訪した素箋鳴尊は弟「巨旦将来」の妻となっていた兄「蘇民将来」の娘に茅輪を付けさせ、それを目印として娘を除く弟「巨旦将来」の一族を滅ぼしたのだそうです。
この伝承から「蘇民将来」と書いた紙を門に貼っておくと災いを免れるという信仰が生まれたようです。そして最初は茅輪も人々が腰につけるほどの小さなものだったのですが、時代がたつにつれて大きくなり、これを潜って罪やけがれを取り除くようになったのだそうです。
基本的には大祓と呼ばれる6月30日の夏越の祓として茅輪神事が行われていたようですが、現在では12月31日の年越の祓でも行われるところも多いようです。

実際にお参りをして見ました。
茅輪の潜り方は、1.正面からくぐり、左に周り戻る。2.正面からくぐり、右周りで戻る。3.正面からくぐり、左周りで戻る。4.正面からくぐり、そのまま真っ直ぐ進み、参拝すると記載されていました。
初めて茅輪くぐりをして、何となく清々しい気分で社殿に向いました。
社殿
かなり重厚感のある立派な社殿で、最後の参拝を済ませました。

そして肝心の七福神はと境内を見渡すと、境内の右手に恵比寿神が小さな社に祀られているようで、ここで最後の朱印をいただきました。
西宮神社
この恵比寿神が祀られている社は「西宮神社」だそうです。

西宮神社
ご祭神:蛭児命(えびす様)
御神徳:家内安全・商売繁盛・大漁・海上安全・豊作
例祭日:9月29日
御由緒
大鳥神社が江戸時代に法明寺鬼子母神堂境内に鎮座していた頃、「えびす様」が合祀されておりましたが、明治の神仏分離によって現在の地にご遷座されました以降はその行方は分からなくなっておりました。
ところが、平成22年に雑司が谷の地に七福神が創設され、それに伴い同年の9月29日に元々大鳥神社と一緒に祀られておりました「えびす様」を兵庫県のえびす宮総本社であります攝津西宮神社よりその御分霊を戴き、この大鳥神社の境内社としてご鎮座されました。
えびす様は七福神でも唯一の日本が起源の神様で、商売繁盛の神として親しまれております。
(現地由緒書より)

七福神めぐりのために勧請したものという、まさに雑司が谷のための大鳥神社といえるでしょう。
さらにこれには続きがありました。

えびす像御開帳について
えびす様の像は西宮神社の御神体として鎮座されております。神社では御神体は人目に触れてはならぬものゆえ、いわゆる御開帳をすることはできません。
現在、御神体とは別にえびす様の石像を建造中であります。今年の春頃には完成を予定しておりますので、石像が完成しましたら再度お参り戴ければと思います。
(現地説明文より)

なるほど一つの楽しみではありますが、とりあえずは朱印を頂、この説明書に描かれた「えびす様」で我慢しておきましょう。
朱印 恵比寿神
西宮神社の左隣には石碑が置かれています。
下水道施設記念碑
下水道施設の記念碑で、要するに弦巻川の暗渠を記念するものだそうです。よく読み取れなったのですが、弦巻川の水質が悪化し伝染病の原因となったことから昭和7年に暗渠化したことが記載されています。
「公衆衛生の根本的解決」「失業救済事業」「本町100年の大計」といったスローガンからプロジェクトの重要性が伺えます。これによって現在の弦巻川の暗渠化、下水道化、弦巻通りの整備となったわけですから、雑司が谷を一変させた歴史的プロジェクトといっても過言ではないでしょう。
その隣には極々一般的でありながら、ある意味奇妙なプランターが置かれています。
雑司ヶ谷ナス

江戸・東京の農業 雑司ヶ谷ナス
江戸時代、清戸坂の北側一帯は雑司ヶ谷村の畑(現在の雑司ヶ谷墓地は一部)で、坂の道ぞいには雑司ヶ谷清戸村百姓町があり、江戸への野菜供給基地としてナスのほか、ダイコンや青菜などを生産していました。
とくに、味がいいと評判になった雑司ヶ谷ナスは、江戸時代後半から大正時代の中頃までもてはやされていました。
ナスの栽培には、下肥(人糞尿)や馬糞が多く使われていました。
ナスはその用途が広いため需要も多くて、キュウリと並んで夏野菜のなかで重要な地位を占めていました。大正時代の中頃まで、伝統的栽培技術は引き継がれ、その後、年毎に早く収穫できる技術が開発されたことから、昭和の初めにはタネまきの最盛期は、2月15日前後となりました。
文献によると当時北豊島郡(現在の荒川・板橋・北・豊島・練馬の各区)におけるナスの作付け面積は約200ヘクタールと記されています。
平成9年度JA東京グループ
農業協同組合法施行50周年記念事業
東京あおば農業協同組合
(現地案内板説明文より)

当初はこの案内板だけあったのですが、昨年豊島区立千登世橋中学校の生物環境科学部で、地元の伝統野菜である「雑司ヶ谷ナス」の栽培が行われ、60年ぶりに雑司ヶ谷ナスが復活したことからプランターに植えられたそのナスを、この大鳥神社に奉納したのだそうです。
2年前に向島で「寺島ナス」が復活したそうですが、ナスの匂いも強く、あく等味に深みがあり、若干食べにくいナスだったため、雑司ヶ谷のナスもその様な味ではないかと想像されていたようですが、かなり美味だったようです。
ちょうどよい機会なのでこの「江戸伝統野菜」を調べてみました。
「江戸野菜」という正式な名称は無いのだそうですが、江戸時代に江戸やその近郊の野菜づくりがさかんな地域で改良された野菜の品種全体を「江戸野菜」というようになったそうです。
その代表的なものが以下の品種です。

きゅうり - 馬込半白胡瓜(東京都大田区)
なす - 寺島茄子(墨田区)、 砂村茄子(江東区)、蔓細千成(多摩地域)
かぶ - 東京長蕪(滝野川蕪)(北区)、品川カブ(品川区)
にんじん - 馬込三寸人参(大田区)、砂村三寸人参(江東区)、滝野川人参(北区)
うど - 東京独活(もやし独活)(多摩地域)
ごぼう - 滝野川牛蒡(北区)
うり - 鳴子瓜(新宿区)、東京大越瓜(中野区)
かぼちゃ - 淀橋南瓜(内藤南瓜)(新宿区)、居留木橋南瓜(品川区)
だいこん - 亀戸大根(江東区)、練馬大根(練馬区)、大蔵大根(世田谷区)
しょうが - 谷中生姜(台東区)
長ねぎ - 千住葱(足立区)
菜っ葉 - 小松菜(江戸川区)、三河島菜(荒川区)、のらぼう菜(多摩地域,埼玉県比企郡(小川町))

これ以外でもたくさんあるようで、現在でも生産されているものも多いようです。
まさに、江戸の味ということになりますね。

参考:【NPO法人ミュゼダグリ】http://www.musee-d-agri.org/index.html

そしてその奥、社殿の右横にあるのが「三杉稲荷神社」です。
三杉稲荷神社 三杉稲荷神社
もともと「三杉稲荷神社」は大鳥神社の兼務社であったので、移転に当たって大鳥神社の境内になり境内社となったものだそうです。
鬼子母神で始まった七福神めぐりですが、鬼子母神から分離された大鳥神社で終了したのも、実にキリのよい行程だったかもしれません。
ここからは最後の仕上げに掛ります。

本納寺

大鳥神社で七福神めぐりを終えて、最初の「雑司ヶ谷案内処」に戻ります。
案内処では全て朱印を戴くと、何やらプレゼントが頂けるとかで、打算的夫婦としては絶対に忘れてはいけないイベントです。
流石に空腹を憶えながらですので、自然と早歩きになりがちですが、ちょっと佇まいのよい寺院があったので寄り道してみます。
「本納寺」というそうで、ここは七福神の喧騒の無い清楚な佇まいの寺院です。
本納寺
この本納寺も江戸名所図会に記載があります。

妙永山本納寺
鬼子母神の堂前、東の方の小路左の側にあり。法明寺に属せり。当寺に九老僧の像を安ず(九老僧は、日朗上人(1245-1320)の徒弟たり。いはゆる日印・日像・日輪・日典・日澄・日善・日行・日範・朗慶等なり)。
当寺は慶安三年庚寅(1650)、実蔵院日相上人開基して(天神・地祇・人鬼勧請護法堂と称す)、三宝の諸尊ならびに日月星の三光天を安ず。毎月十七日の夕より二十三日の暁に至り、三光同時に昇天の旦を待つ。終夜誦経唱題、怠慢なし。これを十夜待ちといへり。
(江戸名所図会より)

どうやらここも法明寺の末寺で、図会には1650年開基とありますが、寺伝によれば寛永5(1628)年のようです。
本納寺
そしてこの三光天とは、日天子・月天子・明星天子の総称で、法華経では日天子は宝光天子、月天子は名月天子、明星天子は普香(普光)天子といって、ともに法華の会座に列していて、日蓮聖人の大曼荼羅にも勧請されたものだそうです。
その三光天像がこちらです。
三光天 《写真:(C)本納寺オフィシャルサイト》
これは創建時のものではなく、天明8(1788)年に寄進されたものだそうです。
実はそのほかにもこの本納寺には見所がたくさんあったのだそうですが、如何せん空腹が故にじっくり参詣しませんでしたので、詳しくはオフィシャルサイトでご確認ください。

参考:【本納寺】http://www.honoji.or.jp/index.html

最後に「雑司ヶ谷案内処」に戻って、朱印の色紙を差し出すと色紙の裏にスタンプが押され、空クジなしのくじ引きができます。
七福神めぐり色紙 七福神めぐり色紙
昔から籤運のない私としては、案の定、参加賞という事で“メモ帳”をいただきました。
参加賞メモ帳
昨年の東京で最古の七福神めぐりと、今年の東京で(恐らく)最新の七福神めぐりを完了して、すっかり七福神に嵌りモードです。
江戸の雰囲気の残る雑司ヶ谷での平成の七福神とは、実に楽しい散策でした。
ところで昼食に行かなければ、腹、減りました…。
今年はよい年でありますように。

2012.01.20記

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