鋸山と保田海岸

1月28日土曜日、先週末の雨模様とは一転して晴天の1日ですが、この冬一番とも言われている寒波の来襲で非常に寒い日となっています。そういったなかでも一足早い春の訪れる南房総ですから、少しは春の兆しくらい味わえるかもしれません。
今回は当然車で訪れるのですが、幾ら交通網が整備されたとはいっても凡そ片道120kmは離れているので、少し早めにとAM8:00に自宅を出発しました。

東京湾アクアライン

新大宮バイパスを南下し与野ICで首都高に乗り、埼玉大宮線、5号池袋線、都心環状線、高速八重洲線、都心環状線、11号台場線、高速湾岸線を経て、高速湾岸線浮島JCからいよいよ東京アクアラインを走ります。実際、アクアラインは初めてなので結構興奮気味にテンションも上がっています。
浮島JCからは海底トンネルを進みます。このトンネル部分は“アクアトンネル”と呼ばれているそうです。ナビでは1本の筋だけしかない画面になったことで、海底トンネルであることを改めて感じさせてくれます。途中何も無いナビ画面に「風の塔」とやらの施設が現れます。実際の光景は道路の両側に黒い柵のようなものが続いているものでしかありません。
名前からも想像できる様にトンネル内の吸排気用の施設でしょう。丁度川崎浮島の沖合5km辺りにあるのだそうです。このトンネルが9.4kmあるのだそうですからほぼ中央に設置されているということです。
そして10分程度で海上に上がり、あの「海ほたる」に到着です。AM9:30少しすぎた辺りですから、ここまで約1時間半といった行程でした。

ここまで僅かに環状線で多少の渋滞があったにせよ、殆どスムースであったも同然で、流石に埼玉県から東京湾の中心まで1時間半とは40年以上前には夢にも思わなかった偉業でしょう。
「海ほたる」の駐車場も混雑という表示ではあったのですが、満車ではないようなのでここで休憩をとることにしました。
この「海ほたる」は豪華客船をイメージした5階建ての海上パーキングエリアです。
海ほたる 海ほたる
長さ650m、幅100mの人工島にあり、あの“タイタニック号”の凡そ2.5倍の大きさだそうです。
1階~3階が駐車場になっていて、3階のパーキングに車を止めて降りてみました。
3階のフロアからはエスカレータで上がり、4階では南房総市や鴨川市の観光プロモーションが行われていました。
海ほたる 鴨川市キャンペーン
まあ、房総半島もこれから春の始まりと共に、いち早く観光シーズンがやってきますから、それぞれの市町村では一段と力もはいるのでしょう。 そこからさらに上の5階のフロアーに上がると、そこはテラスになっています。

そして、そのテラスkらは東京湾が一望できるのです。
と、その前に何故かゆるキャラが登場していますが、「チーバくん」というそうです。
チーバくん
2010年、千葉国体のマスコットキャラクターとして考案され、2011年に千葉県のマスコットキャラクターとなったのだそうです。何故にチーバくんなのかといえば、横から見ると千葉県の形状をしているのだそうです。
チーバくん
こんな感じで「チーバくん」なのですが、このチーバくんが千葉県のマスコットキャラになったときに最初に挨拶に行ったのが、埼玉県のマスコットキャラである「コバトン」だったそうです。なぜなら「コバトン」は、埼玉国体のマスコットキャラから埼玉県のマスコットキャラとなった先輩だったから…、というどうでもよいような話でした。

ここから東京湾の景色を眺めます。海上ですからより体感温度は寒いのですが、折角ですので体力を振り絞ってテラスを巡ってみます。
まずこちらの方角が西で、川崎・横浜方面です。
海ほたる
海から突き出たヨットの帆のようなものが、海底トンネルで知った「風の塔」です。
風の塔
広さは東京ドームがすっぽり入る広さで、高さは自由の女神と同じ位の90mあるそうです。ここから見るとそうは見えませんが、実際はかなり大きいものなのです。
さて肝心な遠景ですが、若干舫っているのと、デジカメのスペックのために写りは良くありませんが、大黒ふ頭らしきものや、一番左に辛うじて横浜ベイブリッジを見ることができます。
川崎・横浜方面
本来は富士山も見えるようですが、今日は全く見えません。
目を転じるとテラスの左手に妙なモニュメントがあります。
モニュメント
これは海底トンネルの掘削用に使用された14.14mの実物大のカッターフェイスのモニュメントなのだそうです。
人類の力は実に偉大です。

西側から南側に移ります。
こちらは所謂東京湾の出入り口とでも言うべき“浦賀水道”方面です
浦賀水道
。薄らと陸影や建造物がぼんやりと見て取れるのですが、はっきりと浦賀水道であることは見ることはできませんでした。
それでも流石に貨物船も多く、幅12kmもある浦賀水道が実は非常に狭く、船のラッシュエリアなのが何となく判るような気がしてきます。

次は東方向で、木更津方面です。
こちらからは真っ直ぐ伸びたアクアラインの橋を見ることができます。
アクアブリッジ
アクアトンネルと対で“アクアブリッジ”と呼ばれています。
東京湾では木更津側の海は浅いことにより、船の航行が少ないので、海底トンネルよりコストの安い橋を渡すことになったそうです。長さは約4.4kmで海に架かる橋としては日本一長い橋だそうです。
特に継ぎ目を少なくして乗り心地を良くしたり、耐震構造などホスピタリティを考えた橋なのです。

最後は北方向ですが、こちらは流石に陸地までは遠いのでまさに薄らとしか見えません。
東京方面
視界がよければスカイツリーを見ることができるようです。

こうしてグルッと海ほたるを回って東京湾の景観を楽しんでみたのですが、流石に寒さに耐えられずこれにて引き上げることにしました。
途中、温かそうなモノに釘付けとなり、思わず購入したのが「海ほたる名物 あさりまん」です。
あさりまん あさりまん
木更津の名物である“あさり”を使った珍しいまんじゅうだそうです。
ほかほかというより、熱々のまんじゅうで、朝早かったこともあり小腹もすいたことから手を出てしまいました。人によっては生臭く感じる方もいるかもしれませんが、個人的には磯の香りあふれる美味な“あさりまん”でした。

初めての海ほたるを楽しんで先に進むこととしましたが、ここ海ほたるでは川崎、木更津の両方向からUターンが可能になっているようです。出口には川崎方面と木更津方面の2方向に分かれているので、間違えれば後戻りとなってしまうのです。
ちなみにアクアトンネル側は神奈川県警が、アクアブリッジは千葉県警が速度取締りを行っているとのことですが、全国的にも取り締まり検挙率が非常に高いのだそうです。まあ、一直線で視界も良いことからつい飛ばしたくなる気持ちもわからないことではないのですが、やはり規則は規則ですから守らなければならないのは当然です。

約4.4kmのアクアブリッジを僅か5.6分で通り抜けて木更津に到着です。
距離約15km、時間にして僅か15~20分程度の東京湾アクアラインは、現在社会実験と称して平成26年3月31日までの予定で、ETC車は800円で通行できるようになっています。現在の正規料金が普通車で3000円ですから随分とお得なのです。
しかしながらこれには試行錯誤の歴史が隠されていました。

首都圏の渋滞を大幅に解消する東京湾アクアラインとして鳴り物入りで1997年に完成し供用されましたが、時はバブル経済が破綻し不況のどん底にあった日本経済の背景にあって、普通車ですら4900円という高額な通行料金は批難集中であったようです。流石にこの金額ではと当時の亀井建設大臣の鶴の一声で、開通後5年間だけという条件で4000円に設定されたのです。
こうして開通したアクアラインですが、認知度不足と通行料の割高感により年平均交通量は1日あたり12,000台弱となってしまったのです。これは供用開始当初に推定された1日25,000台の半分以下という結果に終わり、毎年300億円に上る赤字を計上することとなったのです。
この結果を踏まえて2000年には通行料金を3000円に変更したにもかかわらず、大きな効果もなかったことから2005年から認知度アップと交通量増加を目的に数度にわたる社会実験が行われたのです。
その経過が以下の報道にあるのです。

アクアライン交通量、値下げで5割増に
昨年8月から実施されているアクアラインの通行料値下げの社会実験で、アクアラインの交通量は1日平均で50%増加した一方、期待された湾岸ルートの渋滞緩和につながっていないことが26日、千葉県や国土交通省などでつくる社会実験協議会の中間まとめで明らかになった。
アクアラインの1日平均交通量は、実験開始から今年3月までの8か月間で3万1400台と前年同期比50.2%の増加。特に大型車の増加が目立ち、平日の交通量は約6000台と、前年同期の2倍となった。
一方、値下げされたアクアラインに車が流れることで、渋滞緩和が期待されていた京葉道路(穴川―貝塚IC間)の交通量は、1日平均約10万台で実験前と変わらず、千葉市中央区登戸の国道14号でも、同約5万台と横ばい状態だった。県道路計画課は「アクアラインの値下げで『湾岸ルートの渋滞が緩和されるだろう』と考え、これまで湾岸ルートを利用していなかった人が利用し始めたと考えられる」と話している。
また、東京湾フェリー(富津市―神奈川県横須賀市)の利用客は前年比約30%減、アクアラインを通る高速バスの利用者も10%減っており、値下げによる負の側面も明らかになった。
(2010年5月27日 読売新聞より)

一応の結果はでているようですが、供用開始20年後にが推定交通量1日53,000台という目標に到達するのでしょうか。いずれにしても日本道路公団民営化により高速道路無料化はほぼ不可能な状況と言っても良いなかで、現在、東京湾フェリーとして残っている久里浜~金谷間にも第2アクアラインの構想もあるようですが、夢のまた夢、というよりは無謀な計画といえるのでしょう。
とりあえずは便利なうちに使用しておこうという、打算的家族の発想でした。

鋸山

房総半島上陸後は“アクアライン連絡道”を経由し、木更津JCで館山自動車道に乗り換え、富津竹岡ICから富津館山道路と名を変えて1つ先のICである富津金谷で高速道を降ります。
海岸沿いの国道127号線をしばらく進んで、最初の目的地である「鋸山ロープウェー」に到着します。時刻はほぼAM11:00ですから自宅を出てからちょうど3時間あまりで鋸南町に到着ということになります。海ほたるでの休憩もありますので、実質、所要時間は2時間半ということでしょう。
門柱には「鋸山ロープウェー株式会社」とあり、その先にロープウェー乗り場があります。
鋸山ロープウェイ 鋸山ロープウェイ
今回は時間の都合もあり、鋸山には登りませんが、それでも子供のころに来た(見た!?…であろう)鋸山に立ち寄ってみたのです。

鋸山の正式名称は乾坤山で、江戸時代には日本名山図会で日本80名山の一つとされたようですが、現在ではその名山という認識は無いようです。しかしなが標高329.4mで比較的海岸線に近い為、その眺望は素晴らしく東京湾一帯から伊豆大島まで見渡すことができるのです。
しかしながらこの鋸山を著名にしたのは、山自体が凝灰岩から成っており、建築などの資材として適しているため、古くから房州石と呼ばれ、良質石材の産地として江戸時代から盛んに採石が行われたところにあります。その石切り場は現在も残されているそうで、この採石によって露出した山肌の岩が鋸の歯状に見えることから「鋸山」と呼ばれるようになったのだそうです。
この採取された石材は、幕末から明治、大正、昭和にかけて、主に横須賀軍港や横浜の港湾設備、東京湾要塞の資材として利用され、さらに靖国神社や早稲田大学の構内などにも利用されたようですが、昭和50年代を最後に現在は観光資源となっているのです。
このように江戸時代から有名な石材“房州石”として知られていたようですが、以前、行田市の【さきたま古墳群(再訪)】で訪れた将軍山古墳で興味深い説明がありました。

石室に使われた「房州石」
将軍山古墳の横穴式石室には、表面にたくさんの穴が開いている房州石と呼ばれる石が、壁石に使用されています。
この石は、千葉県富津市にある鋸山周辺の海岸にみられる凝灰質砂岩の表面に、貝が棲み込むための穴を開けたものです。今でも穴の中に貝殻が残っていることもあります。
房州石は、東京湾から川をさかのぼって運ばれたと考えられます。採取地より120kmも離れた古墳に使われていることは、将軍山古墳の築造者の強大な権力と房総地方との政治的な深いつながりが想定できます。
展示している房州石は、石室に使われていたものと同じ石です。どうぞ、さわってみてください。
(将軍山古墳展示館内パネル説明文より)

この将軍山古墳は6世紀頃に構築されたことから、その頃から房州石は既に著名だったようです。
現在、自宅から行田市までは凡そ車で1時間掛りますから、行田市からここ鋸山までは約4時間かかることになります。6世紀頃は当然船を使ったのではないかと想像できますが、一体どのくらいの時間がかかったのでしょうか。それでも使用に値する石材だったということですから、機会があれば上まで登って石切り場を見てみたいものです。
鋸山ロープウェイ
ちなみに鋸南町は鋸山の南にあることから付けられた町名であることは、言わずもがなでしょう。

保田海岸

鋸山を後にして、再び国道127号線を南下し、途中から海岸線を進むと一つの碑が立っています。
房州海水浴発祥の地碑
石碑には「房州海水浴発祥地」と刻まれており、さらに以下のように碑文が読み取れます。

由来
明治二十二年,夏目漱石は旧制一高の前身,第一高等中学校の文科二年在学中 学友四人と共に房総を旅した。
八月七日,舟で房州に渡り,鋸山に上り外房二総を経 利根川を遡って帰った。日を経ること三十日 行程九十余里その間保田に滞在中 日々海水浴を楽しんだ。
そのことを誌した明治二十二年九月九日脱稿とある全漢文の「木屑録」には「日に鹹水に浴すること少なきは二,三次多きは五,六次に至る 浴時ことさらに跳躍して児戯の状をなす 倦めば則ち熱砂上に横臥す 温気腹を浸し 意甚だ適するなり」とある。
昭和丙寅七月 谷川徹三 
鋸南町長・厚海熊太郎  建立
(記念碑碑文より)

日本では江戸時代初期から古式泳法と言われる水泳が行われており、武術の1種として多くは河川や湖で泳いでいたようです。幕末になると外国人が来日し、横浜の居留地近くの海岸で海水浴を楽しんだ記録が残されています。日本人では医師である松本順が神奈川県大磯海岸に明治18(1885)年に、わが国最初の海水浴場を開いたそうです。
その4年後の明治22(1889)年、22歳だった夏目漱石が、第一高等中学校の学友4人とともに1ヶ月間の房州旅行を行ったのです。東京・霊岸島から汽船で保田に到着したのが8月7日でした。保田での滞在は10日間程度だったようで、その間昼は海水浴や鋸山散策、そして夜は酒盛りに囲碁・カルタなどをして大いに楽しんだようです。
旅から戻った漱石は、この旅行の紀行漢詩文集「木屑録」を書き上げたのでした。これによると日焼けで次第に真っ黒になる自分の姿に驚いたりしていたようですが、当時の海水浴は現在のような“泳ぐ”というよりも、現在の子供がビーチでするような海水に浸ったり甲羅干しをする程度の健康とレジャーを兼ねていたようなものだったと推測されています。

参考:漱石の夏やすみ―房総紀行『木屑録』

さらに漱石は小説「こころ」で保田が舞台になる場面を描き、保田は何所でも生臭いとか、海には大きな石がごろごろしているといったように良い印象はなかったようですが、それでも逆にそれだけインパクトは強かったということも言えるわけです。
こういった経緯から、房総におけるレジャーとしての海水浴はこれが最初だとして、この地に房州海水浴発祥の地の石碑が建立されたのです。

参考:夏目漱石「こゝろ」を読みなおす (平凡社新書)

この漱石の旅行には後日談があり、漱石は書き上げた「木屑録」を親友の正岡子規に見せたそうです。そしてこれに触発された子規はその2年後の明治24(1891)年、房総への一人旅を始めたのでした。
子規は3月25日、徒歩で市川から房総に入り、成田に立ち寄った後、千葉で写真撮影し、千葉から大多喜、鴨川と外房を歩き、その後野島崎から那古、市部経由で保田、鋸山を訪れて汽船で4月2日に東京に戻ったのです。
子規はこの模様を「かくれ蓑」「隠蓑日記」「かくれみの句集」の3篇からなる紀行文「かくれみの」を執筆して漱石に見せたそうです。
その句のなかには、「春風や鋸山を碎く音」「房州の沖を過行く鯨哉」などがあるそうです。
鋸山の採石が盛んだったころの情景を描き、一方では、東京湾にまだ鯨が見えた頃だったという、現在では非常に貴重な一場面を描写しているといった句なのです。

参考:かくれみの街道をゆく―正岡子規の房総旅行

このような経緯から、保田は大正から昭和にかけて館山や富津を抜いて房州一の避暑地となり多くの海水浴客が訪れたのです。特に大正10年、当時大スキャンダルとして世を騒がせた理学博士・石原純と女流歌人・原阿佐緒の逃避行の地が保田であったことから、多くの文人や墨客が保田を目指し、文化人のリゾートといった感もあったようです。さらに大正6年の鉄道開通もその人気に拍車をかけ、大正11年8月10日の滞在者が1,647人、大正15年同日が3,962人、昭和6年が5,266人、昭和9年が6,165人とうなぎ上りとなり、昭和3年当時の保田町の人口が5,638人でしたので、人口と同じ位の観光客が滞在していたことになるほど、人気のビーチとなったのです。

その保田海岸がこちらです。
保田海岸 保田海岸 保田海岸
真冬の海岸ですから人影もなく寒く寂しい限りの海岸ですが、夏には一変してあの喧騒が戻ってくるのでしょう。
多くの文人達が訪れた保田海岸は、歴史的な海岸だったのです。

  
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