水仙まつり #1

鋸南町の北の玄関口とでもいえる鋸山と保田海岸を散策してからは、今回の散策テーマの一つである「水仙まつり」に向います。
まずは情報収集とばかりに保田駅に向います。

江月水仙ロード

保田駅前の観光案内所でまずは情報を聞き取ります。
保田観光案内所
鋸南町の水仙スポットは大きく3ヶ所あるそうで、「江月水仙ロード」「谷沢水仙郷」「をくずれ水仙郷」の3ヶ所だそうです。
保田観光案内所
今回は時間的な問題もあり、比較的近くの「江月水仙ロード」を散策します。約3kmの道沿いに水仙が咲き誇っているそうで、片道30~40分はかかるのです。意外と歩かなくてはならないことに一瞬の躊躇がなったといえば嘘になりますが、まあ、散策しないことには始まりませんので、とにかくのんびり歩いてみることにしました。特に駐車場などの位置を確認して早速水仙ロードに向います。

車を臨時駐車場に停めてここからは徒歩で文字通りの散策です。
少しばかり歩き出すと、このように個人の方が沿道にお店を出しています。
露店
ここでは花の他にも様々なものが販売されていました。
その先にある小さな橋、権現橋の下には保田川が流れています。
権現橋 保田川
この保田川沿いは桜の名所となっていて2月中旬頃には桜が開花し始めるそうです。このあたりは河津桜に「頼朝桜」という愛称をつけて“日本一の桜の里”を標榜し、平成13年から13000本を町内に植栽したそうなのです。
竹灯篭まつり その桜まつりが「竹灯篭まつり」といわれるもので、竹製の灯篭やローソクで河津桜を照らすイベントだそうで、今年は2月25日に行われるそうです。
そしてそのイベント会場がこの権現橋から上流にかけてのエリアなのだそうです。
興味はそそられますが、恐らく今年は100%行けないでしょう。

権現橋を渡った先からが「江月水仙ロード」の始点となるようです。
江月水仙ロード入口
しばし道沿いを行くと、道の両側に水仙が現れ始めました。
江月水仙ロード 江月水仙ロード 江月水仙ロード
場所によっては斑な部分が多いですが、それでも非常に綺麗に咲いています。この水仙まつりは一応1月一杯までで、若干花のピークは過ぎた時期のようです。
また路地では何故か魚の干物が販売されています。
干物露店
これも海の近いエリアの特徴でしょう。水仙を見ながら干物を食べるという構図はなかなかお目にかかれ無いことです。
という事で、ししゃもを試食させていただけるという事で、ちゃっかりいただきました。確かに美味しかったのですが、ここで直ぐお土産を購入というのも何なので、とりあえず先に進むことにしました…、という言い訳ではありません、決して。
道路とは別に保田川の川沿いにもたくさんの水仙が咲いています。
江月水仙ロード 江月水仙ロード
これもまた見事な光景です。
丁度、高架になっている道路が富津館山道路の高速道路で、この下辺りに多くの水仙を見ることができます。
江月水仙ロード 江月水仙ロード
そして水仙の群生する美しさと共に、何ともいえない甘い香りが漂ってきます。
これだけの数の水仙があると、何所にいてもその香りを楽しむことができるようです。

またしばらく進むと農家の方の庭先に水仙が販売されていました。
水仙農家 水仙農家
水仙は置いておくとしても、目が釘付けになったのが「辛味大根」です。
辛味大根
これは蕎麦の出汁に薬味として入れるとめっぽう美味しいのです。しかも冬の時期しかないので貴重なのです。
大きいのを1つ50円で購入するか、小さいのを2つ50円で購入するか、運命の分かれ道ですが何となく得した気分になる!?…、2つで50円を選びました。
先ほどの干物は躊躇しましたが、辛味大根は旬ですから絶対に蕎麦好きには買いでしょう。
勿論、辛味大根をおろして蕎麦の出汁にたっぷり入れて食べますが、以前北本市の蕎麦屋で食べた辛味大根のすりおろしの絞り汁に味噌と薬味を入れて食べる「おしぼり」という食べ方にも挑戦してみたいです。
いやあ、帰ってからが楽しみです。

すっかり興味が違った方向に向いてしまいましたが、ここは再び水仙に注目します。
見事な水仙の群生です。
江月水仙ロード 江月水仙ロード
ここで少し水仙について知っておきましょう。
水仙の学名Narcissusは、ギリシャ神話に登場する美少年ナルキッソスに由来しています。
神話によるとナルキッソスはその美しさに様々な相手から言い寄られたものの、高慢にはねつけて恨みを買ったのだそうです。そしてその様な恨みによる呪いを聞き入れた復讐の女神ネメシスにより、水鏡に映った自分自身に恋してしまうようになったのですが、当然水面に映った像はナルキッソスの想いに決して答えることはなく、ついに彼はそのまま憔悴してしまったのでした。そしてその体は水辺でうつむきがちに咲くスイセンに変わったということから、スイセンは水辺であたかも自分の姿を覗き込むかのように咲くようになったのだそうです。勿論、このナルキッソスがナルシストの語源となったのはいうまでもありません。
そして、この日本で呼ぶところのスイセンという名は、「仙人は、天にあるを天仙、地にあるを地仙、水にあるを水仙」とう古典に由来し、この“水仙”を音読みしたものなのです。
このような由来の水仙ですが、ラッパスイセンやニホンズイセンなど数多くの品種があるようで、原産地は主にスペインやポルトガルを中心とした地中海沿岸地域、アフリカ北部に広がり、その原種は30種類ほどあるといわれています。
日本ではニホンズイセンが中国を経由して渡来したものなのだそうです。
日本での分布は、本州以南の比較的暖かい海岸近くで野生化し、群生しているようです。特に越前、淡路、鋸南は日本三大水仙群生地といわれています。
確かに以前、東京迷宮案内の【「谷中七福神」彷徨】で訪れた岡倉天心縁の地に水仙と次のような説明がありました。

越前水仙について
ここには、岡倉天心にゆかりのある福井県より寄贈された越前水仙が植えてあります。なお、この水仙は地元谷中初四町会の皆様により植栽されました。
平成19年10月5日

水仙はヒガンバナ科の多年草で、原産地は地中海といわれており、日本にある水仙は中国から伝わったとされています。福井県の越前海岸に群生する水仙を特に越前水仙と呼んでいます。越前海岸は、房総半島、淡路島と並んで、日本三大群生地のひとつで、約60ヘクタールの水仙畑は日本一の規模を誇ります。日本海に面した急斜面で寒風に耐えて咲く姿が、別名「雪中花」と呼ばれ、多くの作家、歌人、画家の題材にもなってきました。凛とした表情で咲き誇る越前水仙は、芯の強い県民性に通じるとされ、昭和29年に福井県花に指定されました。

岡倉天心と越前水仙
天心は、亡くなる1ヶ月前にカルカッタの女性詩人に宛てた手紙の中で、「もしも私の記念碑を建てねばならぬというのであれば、水仙を少しばかりと香しい梅樹を植えよ。」と記しています。越前を心のふるさとと慕った天心が、水仙をこよなく愛していたことがうかがえます。(参考文献: 「祖父 岡倉天心」岡倉古四郎 著)-現地案内板説明文より-

このように見た目は美しい水仙ですが、意外なことに有毒植物で、食中毒症状と接触性皮膚炎症状を起こすのだそうです。致死量は10gだそうですが、よほどでも無い限り死に至ることは少ないようです。ナルキッソスの怨念なのでしょうか。
こういったところが水仙に関するウンチクですが、日本の気候と水仙は相性がよいようなので、植え放しでも勝手に増えるのだそうです。そうなるとこの水仙ロードも、益々これから多くの方たちを楽しませてくれるのでしょう。
江月水仙ロード 江月水仙ロード
またまた道の左側にはハウスがあり、水仙が販売されていますが、道の右側には看板が立てられています。
農家

水仙の里 江月
保田地区の水仙は、江戸時代から有名で、船で江戸に出荷され、江戸の正月を飾る花として、江戸の町屋や武家屋敷に呼び売りされ、とても人気がありました。
その昔、近くのお寺の和尚さんが中国から持って帰り、植えて広まったのが保田の水仙のはじまりと伝えられています。
和水仙は別名「雪中花」とも呼ばれています。
(現地案内板説明文より)

江戸時代中期ころから“元名のはな”としてもてはやされたのだそうです。元名とは、鋸山の南面の傾斜地が、水仙の好適地とされていたことから、このあたりの元名村の地名から“元名のはな”と呼ばれるようになったようです。
江戸時代後期に至って、房総沿岸を巡視した老中松平定信が、保田の水仙に感嘆した記述があることから、この頃は広く自生し一大産地となっていたようです。
さらに、明治期には東京の生花問屋が栽培と市場開拓に尽力し、三代目広重の「大日本物産図会」の浮世絵として描かれ、房州の水仙は一気に有名となったのです。
大日本物産図会・安房国水仙花 《大日本物産図会・安房国水仙花:(C)九州大学デジタルアーカイブ 》
この「大日本物産図会」は明治10(1877)年に開かれた第1回“内国勧業博覧会”に因んで販売されたもののようで、日本各地の特産物が描かれているものです。
ちなみに近くのお寺の和尚さんとは、鋸南町大帷子の秀東寺という寺院の和尚だそうで、昔は水仙のことを“秀東花”と呼んでいたそうです。
流石に日本三大群生地のことだけはありそうです。

さらに水仙ロードを進むと斜面一杯に植えられた水仙や、再び保田川沿いに咲く水仙が見られます。
江月水仙ロード 江月水仙ロード 江月水仙ロード
しばし水仙ロードを甘い香りと共に楽しむことにします。
そしてカーブした道なりに進むと「江月コミュニティーセンター」に到着します。
江月コミュニティーセンター
いわゆる公民館的な施設です。 ここでも水仙ほか様々なものが販売されていますが、ちょっと気になったのが保田川を挟んだ向こう側にある家屋です。
薄茶 江月庵
看板には「薄茶 江月庵」と記載されていますが、敷地内には入れないようです。ちょっと興味をそそられるのですが、どのような施設なのでしょうかね。
さてこのコミュニティセンターが、江月水仙ロードのほぼ半分くらいのようです。ふらふらとのんびり来たので、既に30分程度掛ってしまい、現在丁度12:00です。ここからまだ30~40分歩いて、さらに戻るとこれから1時間半近くはかかる計算となります。当然体力的な問題と、雑司ヶ谷(食事をとれなかった)の二の舞は避けたいとの思いから、今回はここで引き返すことにしました。まあ、結構水仙も堪能したこともあり、まさに花より団子を地でいくように駐車場まで戻ったのでした。
景色と香りを堪能して、ついでにちょっとの歴史を知って癒された水仙ロードでした。

菱川師宣生誕地

水仙ロードを楽しんだ後は、車で10分ほどの保田海岸方面に一旦戻ります。
この鋸南町は水仙の町であると共に「菱川師宣縁の地」としても有名で、今朝来た国道127号線沿いに誕生地があるのです。
菱川師宣誕生地 菱川師宣誕生地
菱川師宣誕生地 看板が泣ければ見失いそうな一画にその碑が立っていました。

県指定史跡 菱川師宣誕生地
昭和33年3月23日 指定 千葉県鋸南町保田182 鋸南町教育委員会
浮世絵の祖・菱川師宣は、安房国保田村で縫箔刺繍を業とする菱川吉左衛門の長男として生れました。俗称は吉兵衛。晩年は剃髪して友竹と号しました。生年は不詳ですが、寛永中頃(1630年頃)と推定されています。
父のもとで家業の縫箔の修業をするかたわら、幼い頃から画技を好んだ師宣は、のちに江戸に出て、版本の挿絵師として名を高め、延宝から元禄初期(1673~1694)にかけて活躍。当時一部の人々の間でしか鑑賞できず、また高価だった絵画を、木版画により広く庶民に普及させた功績は高く評価されます。
また、庶民風俗を題材とした新しい絵画様式「浮世絵」を確立。師宣の描く美人画は、当時「菱川ようの吾妻おもかげ」と世にもてはやされました。江戸で大成した師宣ですが、終生故郷房州を愛し、落款に「房陽」「房国」と冠称し、晩年には保田の別願院に梵鐘を寄進しています。
元禄7年(1694)6月4日、江戸で没しました。
(現地案内板説明文より)

師宣の祖父は藤原七右衛門といい京都に在住していました。その子であり、師宣の父である吉左衛門は慶長2(1597)年頃に生れ、京都で縫箔師の修業を積んだのち元和年間(1615~)に江戸にやってきたそうです。
縫箔とは、“縫”の刺繍と“箔”の摺箔を併用して文様を表したもので、摺箔の平板さを補う為に所々縫いを加えたのが始まりだそうです。そして次第に縫いの部分か多くなり、桃山時代に流行したのですが、現在では能の衣装にその縫箔が見られるようです。
縫箔 縫箔 《写真:(C)佐々木能衣装》
当時の江戸は開府したての頃ですから、海のものとも山のものともわからない新興都市だったので、あえて競合の少ない新興地で一旗上げようと考えたのか、或いは田舎臭い江戸に京の文化を取り入れるために呼ばれたのかは定かではありませんが、大きなチャレンジであったことでしょう。

いずれにしても、大いなる決意で江戸に上京、当時は下京したであろう吉左衛門が何故にここ千葉県鋸南町の保田に居住することになったのでしょうか。
それは師宣の母に理由があったのです。師宣の母であるオタマは房州保田の岩崎甚左衛門という人の娘でした。江戸で縫箔師の仕事を始めた吉左衛門は、どういった理由かは定かではありませんが、江戸に出ていたオタマと知り合って結婚し、オタマの地元である保田に居住することとなったようです。
現在でいうところの工房に当たるわけですが、江戸からの発注を元に制作し、陸路或いは海路で江戸まで送ったのかもしれません。いずれにしても江戸から離れた保田で生活が成り立ったのは、吉左衛門の腕が立っていたと言えるのかもしれません。
このような生活の中で、吉左衛門とオタマの間には7人の子ができ、師宣は第4子で長男として生れたのです。残念なことに師宣の死後18世紀初頭に「元禄の大地震」による大津波によって、師宣の墓所から生家までことごとく流されてしまい、保田における師宣の資料が殆ど消失してしまったことから、師宣については謎の部分が多くあり、そのうちの生年についても不祥で、おそらく寛永7(1630)年頃ではないかと考えられているようです。

こうして誕生した師宣ですが、幼い頃から絵を描くのが好きで、長男ゆえ家業を手伝いながらも刺繍の下絵などを描くかたわら、漢画や狩野派、土佐派などの諸流派に接し、独学で画技を磨いたのだそうです。
師宣の描いた様々な絵本の中には、彼の経歴を紹介した序文などが記されているものがあるそうです。その様な中の一つに「大和武者絵」というものがあり、その序文には「爰に房州の海辺、菱川氏という絵師、船のたよりをもとめてむさしの御城下にちっきょして、自然の絵をすきて、青柿のへたより心をよせ和国絵の風俗、三家の手跡を筆の海にうつして、これにもとずいて自ら工夫して、後この道一流をじゅくして、浮世絵師の名をとれり」と記載されていて、独学で自分の流派を築いていった事が判るのです。
しかしながら、職人としての修業は親元で出来ても、絵師としての修行はやはり房総の猟師町では難しいということもあって、16歳で江戸に修行に出たといわれているのです。
こうして生れ故郷を離れていよいよ江戸での生活を迎えるのです。

関連記事
スポンサーサイト


コメント

    コメントの投稿

    (コメントの編集・削除時に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)


    トラックバック

    Trackback URL
    Trackbacks