元禄大地震

それ程大きいわけでもない鋸南町ですが、鋸山、日本寺、保田海水浴場、水仙、そして菱川師宣と実に見所の多い町です。
そして師宣誕生の地のすぐ近くには、師宣の墓所が存在しているのです。

別願院

誕生の地から僅か歩いても2、3分で墓所のある別願院に向います。
国道から少し入ったところが別願院の山門で質素な造りの中に静寂な空気を感じます。
別願寺
観光シーズンともなれば、もう少し参詣者も増えるのでしょう。
山門を抜けて進むと左手に地蔵尊が祀られています。
元禄海嘯菩提地蔵尊

元禄海嘯菩提地蔵尊
元禄16年(1703)11月23日(新暦12月31日)午前2時頃、房総半島沖を震源域とする推定M8.2の大地震が発生しました。世に元禄地震と呼ばれています。
地震により発生した海嘯(津波)で、東京湾岸や九十九里海岸を始め、関東各地は甚大な被害を受けました。
関東一円で、死亡者が8,000人以上におよぶことが、調査により判明しています。ここ保田(浦)地区でも、実に319人もの方々が亡くなられ、当別願院に埋葬されました。
当山においても、この津波により、本堂が流失し、師宣を含む多くの墓石が海底に沈んだと、伝えられています。周りの無縁仏の中には、命日が発生日のものも見受けられます。
その昔、津波罹災者追福の為、茅葺の地蔵堂が建てられていました。これも流失や焼失が重なり、その後犠牲者を合祀した石仏地蔵となり、「元禄海嘯菩提地蔵尊」と名づけられました。現在のお地蔵様は、明治期に寄進されたものです。
毎年、施餓鬼会に塔婆を奉納し、元禄海嘯遭難者緒霊のご冥福をお祈りしております。また、地元住民からは、霊験あらたかな「いぼとり地蔵さん」としても、長い間親しまれており、香華の絶えることがありません。
後方の石塔は、関東大震災直前の大正12年(1923)4月1日、221回忌に建立された津波慰霊碑です。
(境内案内板説明文より)

2011年3月11日の東日本大震災は、1年近くの経過を見ようとしているこの時においても、未だに記憶どころか爪あとさえ残っているほどの大惨事でした。
特に関東の人間にとって、特に関東大震災を経験していない人にとっては、恐らく経験上最大の地震だったのでは無いでしょうか。そんな地震が関東大震災前にあったことは当然知ってはいながら、あくまで歴史上としての事象でしかないものが、突然、現実として突きつけられたような気がしてくるのです。
そこでここではその「元禄大地震」を紐解いてみたいと思います。

震源は房総半島南端の野島崎と推定され、大正12年の関東大震災と同タイプの海溝型地震であると共に、震源地分布も類似していることから大正の関東大震災以前の関東大震災と考えられているようです。
このような未曾有の震災でありながら江戸では比較的被害が軽微だったようで、江戸城の諸門をはじめ、藩邸や長屋などで建物の倒壊による被害が出た程度だったようでで、平塚や品川では液状化現象が起きたそうです。
しかし、相模灘や房総半島南部での被害は大きく、小田原城下では大火が発生し、小田原城天守も焼失するような壊滅的被害を及ぼし、東海道の各宿場でも多くの家屋が倒壊したそうです。そして関東全体で12ヶ所から出火し、倒壊家屋約8000戸、死者約2,300人、被災者約37,000人と推定された大災害となったのです。そしてこの地震で三浦半島突端が1.7m、房総半島突端で3.4m隆起したようです。さらに震源地から離れた現在の山梨県、長野県でも被害が記録されたそうです。

一方、相模灘から房総半島では津波の被害も発生し、熱海では7m程度と推定される津波が押し寄せ、500戸ほどあった人家の殆どが流出したそうです。また、鎌倉では鶴岡八幡宮に津波が押し寄せ、伊東では川を遡った津波によって被害が出たようです。
他のエリアでは三浦で6m、九十九里で5m、浦賀で4.5m、稲毛・横浜で3m、品川・浦安が2m、そして本所・深川・両国あたりでも1.5mの津波を記録したそうです。さらに、隅田川の遡上も記録されていて、六義園でも被害を受け、殆どの松が塩害で枯れてしまい、復興するのに30年近く掛ったそうです。また、先の九十九里では海岸から5km程度の内陸まで津波が到達し、現在の白子町で1,000人、長生村では900人を越える犠牲者が出たのです。そして北方面には釜石まで津波が届いていたそうですので、今回の東日本大震災と反対のパターンのような大災害だったことがわかります。

次にこの大地震における千葉県での被害をクローズアップしてみます。
まずは地震のあった当時の記録ですが、現在の勝浦市にある高照寺の過去帳にその記載が残されています。

元禄16年11月22日の深夜12時頃、前代未聞の大きな地震があった。大地が大きく裂け、数え切れないほどの建物が倒れた。そして深夜3時頃には津波が押し寄せ、人や家が押し流された。安房上総だけで死者は1万人余り、全体では数え切れないほどの死者が出た。
(防災誌「元禄地震」より)

このように大変大きな地震だったことが判ります。
また、一方地震の後の津波に関しての災害が、実に昨年の東日本大震災での津波の状況と実によく似ているところが(個人的に報道程度の情報しか知りませんが)あるように思えるのです。

元禄16年の冬、11月22日は空も晴れ、海は風もなく波が穏やかであった。日も暮れて夜の12時ごろ、突然の地震が起きた。家中寝静まっていたところを、起きては転びながらもやっと立ち上がり、部屋の戸を開け後ろへ出た。親子みんな無事に門口に廻った。(中略)
浜台の老若男女が皆円正寺山の西にある平地に上って小さな松の木にすがった。寝静まったときの出来事なので慌てて、着物も帯びも忘れ、真裸で出る男女もあった。(中略) 杢兵衛が家に戻ってみると、庭の中に波が押し寄せて腰くらいの深さになって、井げた(四角に組んだ井戸の枠)の縁が少し見えるほどであった。何もかもが海になってしまい、恐ろしいので早く家の中に入り、伊勢神宮のお札を持ってまた寺山に戻った。(中略)
12月1日まで岡の庭に居た。その日、午後4時ごろ浜の家に戻った。哀れな事に、親は子を亡くし、また子は親を亡くし、夫婦もはぐれ、さらに幼子も波にさらわれ、親兄弟嘆き悲しむ有り様は、なんとも心痛む思いであった。目も当てられず、言葉も消えうせるほどのはかなさであった。(中略)
(地震から)10日15日のうちは、浜に多くの死人が打ち寄せられた。昼夜犬がその死体を食いちぎって、家の門口までくわえてくるので恐ろしくて外に出られない。(後略)
(防災誌「元禄地震」より)

これは旧富山町高崎浦(現在の南房総市)の名主が記録したといわれているものです。とにかく騒然とした状況であった事が手に取るようにわかる記録です。
さらに津波に関する記録です。

元禄16年、11月22日の夜、子の刻(深夜12時ごろ)に突然大地震が襲った。山崩れで谷は埋まり、地割れで水は吹き出るし、また石壁が崩れて家は倒れるし、とてもこの世の出来事とも思えなかった。こんなときは津波がくるので、早く逃げれば助かる。昔から、津波が来るときは井戸の水が干上がると云われているので、井戸を見たがいつもと同じである。海辺を見れば潮が大きく引いていた。そして、丑の刻(午前2時ごろ)になって、大山のような潮が九十九里浜に打ち寄せてきた。(中略)
数千軒の家が流され、また数万人の僧俗男女のほか、牛、馬、鳥、犬まで溺死した。木や竹に捕まって助かっても寒さで死んでしまった。自分も流されて五位村(現白子町五井)の十三人塚の杉の木に取り付いたが既に寒さで仮死状態であった。しかし、情けある人が焚き火で暖めてくれたので奇跡的に助かった。家財はすべて流されてしまった。明石原の上人塚の上では多くの人が助かったが、遠く逃げようとしても市場の橋や五位の印塔では多くの人が死んだ。(中略)
これからは、大地震の時は必ず大津波が襲ってくると心得て、家財を捨てて早く岡へ逃げること。たとえ近くても高いところだったら助かるのだ。古所にある印塔の大塚や屋根に上った人も助かっている。このことよくよく心得ること。(後略)
(防災誌「元禄地震」より)

これは九十九里の白子町の医師・池上安闊が書き記した覚書だそうです。津波によって生死をさまよった筆者が一命を取り留めたときの体験が記載され、さらに津波にまつわる言い伝えや、津波に対する心得なども記載されていて、後世に伝えるべき非常に貴重な文書と言えるでしょう。
現在とは人口の数も違いますから、その規模は比較にはならないでしょうが、人々の恐怖、不安、そして悲しみはいつの時代でも同じであることを改めて認識し、“喉もと過ぎても、熱さは忘れない”心がけが必要であることを教えてくれているようです。
このような未曾有の地震における千葉県の被害は、その死者数を見ただけでその甚大さを理解できます。
「資料日本被害地震総覧」によると死者数の合計は10,367人で、その内訳は、房総6,534人、小田原領2,291人、関東駿豆397人、江戸340人、甲府領83人、諸国722人と死者の半数以上が房総半島だったのです。特に房総では流家が多かったそうなので、やはり津波の被害が甚大だったといえるようです。

さてこうした大地震がもたらしたものは、死者や破壊、恐怖、不安、悲しみだけでなく、地殻変動によるその後の生活をも変えてしまったのです。つまり地震によって土地の隆起と沈降が起こったわけなのです。
房総半島においては、南房総市の白浜から千倉にかけてが隆起し、逆に鋸南町や鴨川市では沈降しているのです。
元禄地震における房総半島の上下変動量 《元禄地震における房総半島の上下変動量:(C)防災誌「元禄地震」》
イラストの白い破線が上下変動量を表しており、その数字が上下変動量で単位はメートルで、南房総市の白浜から千倉にかけて(C~D)の南部が大きく隆起し、鴨川から鋸南町を結ぶ線では沈降していることがわかります。
この地殻変動は何をもたらすかといえば、沈降した鋸南町や鴨川市では海食(波による侵食)によって田畑を失い、建物の移転が行われました。一方、隆起した地域では新田開発によって新しい田畑を得ることになるのですが、新しい土地をめぐる争いや塩業への影響などもあったようです。
こういった様子も古文書に残されているようです。

安房の国本名村(現在の鋸南町元名地区)におきまして、田が浪の中にどのくらい没したかとたずねられましても、見当がつきません。本名村より三里ほど南方にあります那古村(館山市那古)から七浦(南房総市千倉町大川、白間津、千田、平磯あたり)周辺では、干潟が現れ、もとから湊だったところは岡となり、新田や屋敷ができています。それに対し、本名村とその近辺では土地が沈下し年々海中に没していくので、かつての地図と異なってしまいました。潮風よけの土手や松林などは浪によって打ち崩され、また、かつての田畑が大部分なくなってしまいましたので、どうか、当地においてご確認くださるようお願いいたします。(後略)
(防災誌「元禄地震」より)

この文書は、「恐乍口上書を以御願申上候」という元禄地震の44年後の延享4(1747)年にだされた嘆願書です。
恐乍口上書を以御願申上候 《写真:(C)防災誌「元禄地震」》
元禄地震後の沈降と侵食で水田が海中に没した為、役人に現地を確認して欲しいという内容で、農民や漁民にとっては死活問題でもある深刻な状況を窺うことができる古文書なのです。

それではその隆起と沈降の実際の姿はどうだったのでしょうか。
こちらが隆起した例の震源地域といわれている野島崎周辺です。
野島崎周辺 《写真:(C)防災誌「元禄地震」》
元々は陸続きではなかったところが、地震の隆起によって陸続きとなったといわれているところです。
一方、沈降した例がこちらの絵図です。
妙本寺周辺と仏崎 妙本寺周辺と仏崎 《写真:(C)防災誌「元禄地震」》
これは鋸南町の妙本寺周辺と仏崎と呼ばれる岬を描いた絵図で、左右(本来は上下)の絵は同じ場所を描いたものだそうで、左の図は地震前で、右の図は地震後です。
地震前には岬の先端付近に鳥居が描かれているのですが、地震後には岬の先端が消滅し、鳥居が見えなくなっていることから、海に沈んだと考えられているようです。さらに岬まで伸びていた道が途中で寸断されていることからも岬の消滅と考えられているのです。
現在の写真では岩礁となった仏崎をうっすらと見ることができるようです。
妙本寺周辺と仏崎 《写真:(C)防災誌「元禄地震」》

このような未曾有の大震災だった元禄大地震ですが、風説では、この震災の起こった年の2月に赤穂浪士46人が切腹しており、浪士たちの恨みで起こった地震と噂されたそうです。まあ、それだけ社会不安として多くの人々に暗い影を残したということでしょう。
東日本大震災から遡ること約300年前に、同じような災害が関東地方にも起こっていたのです。大正時代の関東大震災は火災による被害が甚大だったそうですが、元禄の大震災では東日本大震災と同じように津波の災害が甚大だったのです。
地震国日本にあってプレート型地震においては、そのエネルギーの蓄えと放出が繰り返されるのですから、ある意味歴史としては偶然ではなく必然なのです。それ故に東日本大震災の被害を改めて認識し、その痛ましさを感じると共に、新たな大地震に物心共に備える必要を訴えているかのようです。
いずれにしても昨年の震災に全く無関係ではなかった私にとっても、改めて今回の被災者の方たちの復興を願うものです。

菱川師宣墓所

散策などと軽い気持ちで参詣したのですが、身の引きしまる歴史を感じながら本堂に参拝をします。
別願寺本堂
本堂の前には師宣縁の寺院らしく、「見返りの松」が植えられています。
見返りの松
これは菱川師宣記念館の初代館長が寄進したものだそうで、本堂と共に落ち着いた佇まいを感じます。
そして、どちらかといえばこちらが従となってしまった感のある師宣の墓所に参詣します。
菱川師宣の墓 菱川師宣の墓

鋸南町指定史跡 菱川師宣の墓所
昭和49年11月3日指定 千葉県鋸南町保田127 別願院
浄土宗林海山別願院は、通称浜の寺といい、元和5年(1619)本郷村保田町の住人が霊巌上人に願って造立されたと伝わります。この地区では半檀家制といい、檀那寺は他寺であっても、墓はここに置く風習がありました。菱川家もその例です。
菱川師宣は元禄7年(1694)5月、親族の追善供養のため、別願院に梵鐘を寄進しました。残念ながらその梵鐘は、太平洋戦争の際、供出させられましたが、鐘楼跡の基壇は残っています。
菱川師宣の忌日は長い間不明でしたが、妹オカマの嫁ぎ先である勝善寺(南房総市二部)、江戸での葬儀が行われた浅草誓願寺の支院徳寿院(現在は多摩霊園前に移転)、保田の菱川家の菩提寺である昌龍寺(鋸南町保田)など関係寺院の過去帳の発見により、元禄7年6月4日、戒名「勝誉即友居士」と判明しました。
江戸で没した師宣は、おそらく終生愛し続けた故郷保田の別願院に遺骨が移され、墓石が建てられたと思われますが、死後9年後に起こった元禄の大地震、大津波により房総沿岸は大打撃を受け、別願院も流失、当時の記録も墓石も失われてしまったと考えられています。現在の墓石は、白御影石の墓碑は昭和2年、東京の井上書店主によって建てられ、中央の仏像型の墓碑は平成5年、師宣300回忌に子孫の菱川岩吉氏らによって建てられたものです。
鋸南町教育委員会
(現地案内板説明文より)

その梵鐘の写真が同じ案内板に掲示されています。
梵鐘
周廻7尺、厚2寸5分、口2尺2寸5分、長3尺5寸とあり、寄進施主は「菱川吉兵衛師宣入道友竹」と記載されています。
長さが3尺5寸とあるので、凡そ1メートルくらいでしょうか、極一般的な梵鐘といえるでしょう。しかしながら戦時中の供出で無くなってしまったのは、返す返すも惜しいことですが、当時、文化財にでもなっていれば免れたかもしれませんが、国策ですから仕方ないことでしょう。

師宣の最後は江戸の村松町(現在の東日本橋)の自宅で死去したようですが、その死の1ヶ月前にこの梵鐘を寄進したのは、虫の知らせなのでしょうか。この梵鐘や落款などから、師宣の故郷を思う気持ちは人一倍強かったことが窺えます。
それにしても現在でも子孫がいらっしゃるとは、無関係ながら嬉しくなってしまいそうです。なんと言っても300年以上続く菱川家ですから。
ちなみにここに記載のある東京の井上書店とは、東大の正門前にある古書を扱っている書店のことでしょうか。何となく関係ありそうな気もするのですが。
誕生と逝去の地である保田は、まさに菱川師宣の町といっても過言では無いかもしれません。
次は、その師宣の活躍を知ることができる記念館に向かいます。

関連記事
スポンサーサイト


コメント

    コメントの投稿

    (コメントの編集・削除時に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)


    トラックバック

    Trackback URL
    Trackbacks