源頼朝

水仙まつりから菱川師宣と散策してきましたが、これらは保田を離れて隣接する勝山に向います。
勝山の最寄り駅は“安房勝山”駅で、こちらにも勝山港という漁港があるのです。

源頼朝上陸地

道の駅きょなんから再び国道を下ると左側に眺望が開けます。
国道の右手には師宣に因んだ「見返りの松」が植えられ、海岸沿いのビーチは「鱚ヶ浦海水浴場」なのだそうです。
見返りの松 鱚ヶ浦海水浴場
この鱚ヶ浦からは、対岸の神奈川県観音崎から城ヶ島あたりまで眺望でき、空気の澄んだ日に見える青い富士山は、歌川広重の浮世絵、富士36景の一つ「房州保田海岸」として描かれているそうです。
房州保田海岸 《房州保田海岸》
年間を通じて富士山を見ることができ、東京湾越しの富士や富士に沈む夕日は格別なのだそうで、夕日の名勝として知られているのです。
但し、今日はまだ時間も早く、さらに霞がかっているためか眺望は望めませんでした。

鱚ヶ浦を離れて国道をさらに南下し、途中右折して海岸線を進みます。
このビーチからは先に通ってきた真珠島、鱚ヶ浦、そしてその後に聳える鋸山を見て取ることができます。
鋸山
また、左手の海岸線は勝山海水浴場で、その先の小さな島が「みささぎ島」で、その先の大きな島が「浮島」です。
勝山海水浴場 みささぎ島と浮島
同じように富士山は見えませんが、神奈川方面の陸地がうっすらと見ることができます。
三浦方面
頼朝上陸地碑 さて、そのビーチに2つの碑が立っているのですが、ここが有名な「源頼朝上陸地」なのです。

県指定史跡 源頼朝上陸地 竜島165-1
源頼朝が、治承4年(1180)8月、相州石橋山の合戦に敗れ、同国土肥郷真鶴崎を小舟で脱出、安房国へ渡航し、上陸した地点については、伝承をもとに数箇所の地名があげられていました。
中でも、安房郡鋸南町竜島と館山市洲崎は代表的な地点として有力視されてきましたが、文学博士大森金五郎氏の研究により、「吾妻鏡」の「八月二十八日、土肥郷真鶴崎より船に乗り、安房国に向い、二十九日同国平北郡猟島に着く」という記載と、十分な考証から現在の鋸南町竜島を上陸地点と認定するに至りました。
頼朝上陸当時の安房の国情は、安西・神余・丸・東条・長狭の五氏が、ほぼ国を五分して領国支配をしていましたが、長狭氏を除く四氏が敗戦の将・頼朝を擁立して鎌倉幕府創設の基礎を築きました。なお、四氏に擁立された頼朝と戦った長狭氏は、敗れて滅亡しましたが、鴨川市の一戦場はその古戦場として有名です。
鋸南町教育委員会
(現地案内板説明文より)

まずは頼朝の安房国上陸までの経緯を確認してみます。
源頼朝 《源頼朝》
事の始まりは、源氏が立ち上がるため平家の政権下で唯一源氏であった源頼政が、時の上皇である後白河法皇の皇子・高倉宮以仁王を担ぎ上げ、治承4(1180)年に平氏打倒の命旨を諸国の源氏に発令したことに始まります。
この令旨は伊豆国にいた頼朝にも叔父・源行家からも届けられるのですが、この時点で既に以仁王も源頼政も宇治で敗死していた事から頼朝はしばらく事態の成り行きを静観することにしたのです。
しかし6月になると頼朝も静観している場合ではなくなったのです。つまリ源氏の挙兵をつぶした平氏は引き続き諸国の源氏の追討を命じたことから、頼朝は逃げて一生隠れた生活を送るのか、それとも立ち上がるかの二者択一を迫られることとなったのです。
追い詰められた頼朝は挙兵を決意し、安達盛長を使者として父・義朝の時代から縁故のある関東の各豪族に挙兵の協力を呼びかけたのです。

そしてこの挙兵の最初の目標は好むと好まざるに関わらず、眼前の敵である伊豆国の国主代理である山木兼隆となるのです。そして8月17日、佐々木太郎定綱、次郎経高、四郎高綱、安達盛長らと北条時政達の軍勢が山木兼隆の館を襲撃し、伊豆国を手中にし相模・伊豆の武士300人程度が頼朝の下に集りだしたのです。
こうして伊豆を得た頼朝は、頼朝の頼みの綱ともいえる南関東の大豪族である三浦氏の援軍を受ける為、相模国土肥郷へ向かうのでした。また、それに応えて8月22日、三浦義明の息子次郎義澄・十郎義連,和田義盛たち三浦の軍勢もまた頼朝の軍に加わるために三浦半島から出発したのでした。
しかし、頼朝の後ろからは伊東祐親の軍勢300名が、前からは大庭景親の軍勢3000名が迫っていたのです。

こうした状況下なのでとにかく三浦軍と合流しなければならない頼朝軍なのですが、8月23日は神奈川県の真鶴岬付近にある「石橋山」周辺で三浦軍と合流するために移動していたのですが、夜になって大雨となり、運悪く三浦軍の援軍は増水した酒匂川で足止めされることとなったのです。
一方、追討軍は三浦軍が迫っていることを知り、夜襲により頼朝軍を攻めることを命令し、かくして「石橋山の戦い」が始まるのです。この石橋山は現在でも“みかん畑”になるほどの急斜面で、深夜土砂降りの中で壮絶な戦いが繰り広げられたそうです。そして夜明けごろ、総崩れとなった頼朝軍はちりじりに敗走したのですが、この時頼朝に従った武士は土肥実平以下わずか6名だったそうです。
明けて8月24日、大庭景親の軍勢は早朝から小さな戦闘を続けながら頼朝を追ったのですが、この地に詳しい土肥実平の導きによって、ひとまず土肥城(館)に逃げ延びたのでした。
土肥実平 《土肥実平》
しかしこの土肥城も攻められるのは時間の問題であろうと、箱根を目指して逃亡を続けるのですが、やはり最終的には捕まるのは時間の問題であると思われていました。

しかし、ここでいくつかの幸運が頼朝に訪れるのです。
相模の武士・飯田家義は夜中にこっそり頼朝のところに現れ、家来にして欲しいと頼んでいるのです。また、椙山というところに隠れていた頼朝だったのですが、大庭軍に追いつかれ「しとどの窟」に隠れていたのですが、その洞窟に頼朝が居ると知っていながら、「ここには誰もいない」と追っ手を遠ざけた大庭軍の梶原景時(後に頼朝の御家人となった)のような武士がいたからといえるのです。
梶原景時 しとどの窟 《梶原景時と「しとどの窟」》
そしてさらに夜になって箱根神社の別当の弟が頼朝を救出して、何とか箱根神社まで逃げ延びることができたのでした。
この当時の一般の豪族にあっては、それ程源氏・平氏の血筋が重要視される時代ではなく、自分にとってのメリット・デメリットで誰に就くかを決めていたようで、一時平家方と見せても、源氏に目があると見るや寝返るのも極自然な行為だったようです。まあ、思惑次第ということでしょう。

こうして箱根神社まで逃げ延びた頼朝ですが、箱根神社の末弟の智藏房良暹が兄たちを裏切り、僧兵を集めて頼朝を襲う計画をしていることが判明し、安全を期して頼朝は再び土肥実平らと土肥郷へ逃げたのでした。
その間、頼朝の頼みの綱であった三浦氏の衣笠城が畠山重忠・河越重頼・江戸重長らによって攻められ、三浦一族は城を逃れ、8月27日、海路安房へと向ったのでした。また同日頼朝の動向を確認した北条時政らが土肥郷岩浦から同じように安房に渡ったのでした。
そしてもう後の無い頼朝は8月28日、土肥実平の命で土肥の住人貞恒が用意した船により、真鶴から海路安房へと船出したのでした。
ここまでが安房への上陸前の経過ですが、やはり何か“持っている”人は持っているのです。この強運が後の鎌倉幕府の成立、武士の世の始まりとなったわけなのですから。

確かに後の無い頼朝でしたが、何故安房へ落ちたかというと、当時の房総半島の情勢ゆえだったようです。
その頃の房総半島情勢は、上総国(中部)に房総一の豪族・上総介広常がおり、下総国(北部)に千葉介常胤、そして安房(南部)には記述されているように五豪族が割拠していたのです。
そして石橋山の戦い以前の保元の乱では上総介広常、千葉介常胤共に頼朝の父・義朝に従い、広常は平治の乱にも出陣し名を馳せていたのです。このようにかつては源氏の家人であっても平家全盛の時代に広常も常胤も平家に従い豪族として勢力を振るっていたのでした。
その様な中で、安房の5豪族の一人である安西景益は、三浦義澄の娘婿であり、頼朝幼少の頃よりじっこんの間柄で、さらに上総金田保の領主金田頼次は三浦義明の娘婿であり、上総介広常の弟でもあったのです。
また、安房の丸御厨は頼義以来源氏の所領となり、源為義から義朝が最初に譲られた土地であり、この地の丸氏は保元の乱に安西氏らとともに義朝に従って出陣しているのです。
このような関係から頼朝が房総半島の勢力に期待を寄せるのも、藁にもすがる気持ちなら当然かもしれません。そして先に三浦氏が安房に渡ったことが、その決断を後押ししたようです。
こうして8月29日、人知れず頼朝は僅か6人の従者と共に安房に上陸し、迎えた北条氏や三浦氏と合流したのです。
上陸後の動向が鋸南町の伝説に残されています。これは「頼朝と郷土の伝説」というものです。

頼朝と郷土の伝説(抜粋)
頼朝これより、上総に至らんとし、大六、池月(今、江月)大崩の峯伝いに簑岡を経て貝渚に宿る。長狭の六郎らの夜襲にあい、4日安西が言を入れて勝山に帰り、12日まで、諸国に使を派して形勢観望のかたわら当国を巡見した。すなわち、5日海路洲の崎明神に参拝、11日、滝口明神、 野島、七浦、丸の館に入り、12日帰途鶴ケ谷八幡、那古寺、雀島明神を経て勝山に帰着、13日、300余騎再征のかどでに上る。岩井、平群、千代、本織、松田、和田浦、東条にて広常を待つ。至らざるにより、西進して大山から花立峠を越えて上総の西岸を北進造海、佐貰、磯根ケ崎、篠部、江川川尻を過ぎ、常胤がもとに至らんとした。途中の江月、市井原等にも頼朝にちなむ伝説が伝えられる。
(鋸南町オフィシャルサイトより)

これによると、まずは上総介広常と合流する為に上総に向ったようです。江月は先ほど訪れた水仙ロードの町で、大崩はその東方のやはり水仙郷のあるところです。ここから恐らく現在の嶺岡浅間の麓を通って鴨川市の貝渚に出たようです。ちょうど現在の県道34号線、通称長狭街道沿いを進んだものと考えられます。
しかしながらこの貝渚では、安房の5豪族の一人、長狭常伴に夜襲をかけられたのです。この夜襲は事前に察知した三浦義澄が討ち取って難を逃れたようですが、その戦場が鴨川市の“一戦場”というところで、現在は「魚見塚一戦場公園」になっているそうです。鴨川には何十回と訪れているのですが、ついぞ知りませんでした。
ちなみにこの時危うく難を逃れた頼朝は、偶然近くに用事で来ていた仁右衛門という漁師によって、近くの島にある洞窟に匿われたそうで、この島が現在の「仁右衛門島」なのです。
頼朝のかくれ穴 《頼朝のかくれ穴:(C)仁右衛門島オフィシャルサイト》
この仁右衛門島には2、3度渡ったことがありますが、小さな小船で渡った記憶がありますが、今はどうなのでしょう。しかもその洞窟のことは全く記憶にありません。まあ、小学生でしたから無理も無いでしょうか。そういえば最初に来たときに勝手に地元の従兄弟と仁右衛門島に渡って遊んでいたため、町では私が居なくなったと大騒ぎしていたと聞いたことがあります。
また、一度訪れてみたいものです。

参考:【仁右衛門島】http://niemonjima.web.fc2.com/

何はともあれ、ここは危険とばかりに安西景益の助言を聞き入れ、一旦勝山に戻ったのでした。
安房といえども見方ばかりではないことから、頼朝はまず安西景益に命じて、源氏に縁のある下野や武蔵国の小山朝政・下河辺行平・豊島清元・葛西清重らに呼びかけ、更に北条時政には甲斐源氏武田信義のもとに向わせたのでした。そしてこの時、房州の2代豪族の一人である下総の千葉介常胤は追従を誓ったのですが、上総の上総介広常は様子見をするといった態度を表したのでした。
この間の12日まで頼朝は勝山を中心に安房国を視察したのでした。
そして9月13日、300騎余りを従えて、まずは上総介広常との合流を再び開始したのです。今度は現在の県道89号線沿いを進んだようで、現在の岩井駅あたりから南房総市平久里中の平群、南房総市本織、南房総市和田町の現在の和田浦駅周辺を経由して、鴨川市東町の東条海岸辺りに向ったようです。そしてここで上総介広常を待ったのですが、結局広常が現れなかったことから、下総の千葉介常胤を頼ることとなったのです。

2度の無駄足を踏んで、頼朝は再度勝山方面に戻り、そこから富津市の萩生、佐貫を抜けて海岸沿いを進み、磯根崎が見渡せる現在の新舞子海水浴場を通り、富津市の篠部から現在の木更津駐屯地のある木更津市江川を抜けて、房州上陸2週間後、下総国の国府(現在の市川市国府台)に到着したのです。
そして9月17日、千葉介常胤は下総国国主代理を倒し、一族300騎余りを率いて下総の国府に頼朝を迎えたのです。この間近隣の豪族達が次々と頼朝配下となり、武蔵国へ歩を進め始めた9月19日、ついに上総介広常が一族と家来の総勢約17000名をひきいて頼朝のところへやってきたのです。この時の様子を吾妻鏡には「広常は頼朝が大したことのない人物だったら討ってしまうつもりだった」と記載されているそうです。確かにその気持ちもあったのでしょう。しかしこれに対して頼朝は卑屈にならず、堂々と叱りつけたことにより、広常は一気に頼朝の配下となったのだそうです。まさに犬を調教する際に、誰が主人なのか判らせるための方法と似たようなものでしょう。兎にも角にもこれで一気に20,000人以上の大軍となったのですから、周辺の豪族も流石に慌てたようです。
そして9月27日には軍勢約27,000騎となり、更に10月2日、江戸川・隅田川を渡って武蔵国に入るときには既に30,000騎以上に膨れ上がっていたようです。

その後、豊島清元、葛西清重、足立遠元などの武蔵の武将はもとより、10月4日には、畠山重忠、川越重頼、江戸重長という緒戦では敵方であった者たちも頼朝の勢威をみて投降してきたのでした。
そしてついに10月6日、畠山重忠を先陣にして鎌倉に入ることとなったのです。この時の軍勢は50,000騎に膨れ上がっていて、石橋山の合戦後僅か1ヶ月半の出来事だったのです。
この後、頼朝の天下への快進撃が始まり鎌倉幕府の成立を見るわけで、ある意味、“あわや…”の石橋山の合戦から安房上陸、鎌倉到達までの1ヵ月半が頼朝の運命を定めた重要な時期だったと言えるのかも知れません。そのように考えるとこの上陸地も頼朝の強運を授けた約束の地といったら、大げさでしょうか…。
900年以上も前に、その様な歴史的なことがあったとは思えないほど、現在は美しいビーチに変わっています。
そんな感慨にふけながらも、もう一つ案内板があるのに気が付きました。

再起・再生の地
源頼朝は打倒平家をかかげ伊豆で挙兵しますが、石橋山の戦いで敗れ、海路安房に逃れ、後の旗立て山を目印としてここに上陸。
八王子の宮・神明神社に再起祈る。
上陸してからわずか14日間で、敗軍の将頼朝は、房州の豪族を味方にして大勢力となりついに平家を滅ぼし、鎌倉幕府を開きました。 再起・再生の地です。
角無しサザエ・玉の井・姥塚(やり投げ)の伝説。
この地で姓を賜った方は、「左右加・馬賀」「艫居・間・渡」渡船の水主。「菊間・柴本・中山・久保田・鰭崎・生貝・松山」竜島七姓1
(現地案内板より)

まずは再起・再生の地は若干日数が合いませんが、とりあえず意味は判るとしても、後の「旗立て山」とは、鋸山のことなのでしょうか。調べてみると鋸山に「旗立て山」という別名はないようで、神奈川県の葉山に「旗立て山」があることが判りました。正式には鐙摺山というようですが、頼朝挙兵の際、頼朝に加勢した三浦義澄がこの山に旗を立てて気勢を上げたことから「旗立山」という名がついたそうで、鐙摺城という城もあったようです。ただそうなると上陸の目印といっても確かに後ですから、後ろに「旗立山」が見えるところに上陸しようという意味なのかもしれません。

再生・再起の話は理解できたとして、その後の伝説以降の内容は一体どういった意味なのでしょうか。当然、調べて見なければならないでしょう。
という事でまずはその伝説から調べてみます。
まずは、「角無しサザエ」ですが、これについては前出した「頼朝と郷土の伝説」に説明がありました。

頼朝と郷土の伝説(抜粋)
公一日御気晴しのため御遊漁、海岸の″さざえ″に御足を痛め給い、「飯島にさざえあるとも角なかれ」と。以来この海のさざえは今に至るまで角がない。おそらく波静かな所でおのずから角も退化したものか。
(鋸南町オフィシャルサイトより)

上陸した頼朝もたまには気晴らしとばかりに海岸を散歩でもしていたのでしょう。その時、海岸のサザエを踏んで足裏の痛みをこらえながら発したのが「飯島にさざえあるとも角なかれ」だったのです。
サザエの身になれば、まさに言いがかりとはこのことですが、流石に逃亡者といえども頼朝ですので、一応これ以降、この地で取れるサザエには角の無い丸いサザエになったとか…、という実にどうにもしまらない伝説なのですが、現実に海岸際のサザエは浪打で角が削られて丸くなるサザエがあるのが当然のようで、特に驚くにあたらないのですが、これには後日談があり、それが実に興味深い話なのです。

“いい国”作ろう鎌倉幕府という事で、頼朝が幕府を開いてから幾年月、その頼朝が安房上陸したルートの反対を行った一人の僧がいたのです。
丁度、房総の富浦(現在の南房総市)あたりから出港して、相模豊島(現在の横須賀あたり)に上陸となったのですが、その時船頭がその僧を負ぶって浜辺に降りたときに、この船頭がサザエを踏んでしまい足の痛みをこらえていたら、すかさずその僧が「南無妙法蓮華経…」と唱えると、不思議なことにサザエの角が無くなって無事に上陸できたという、大変目出度い伝説があるのです。当然、お分かりのようにこの僧は日蓮上人で、千葉県鴨川市の誕生寺から鎌倉に行くとなると、確かにこういうルートもあり得るわけで、そうなるとこういう伝説もまんざらでもなくとうことになってしまうのです。まあ、サザエにしてみれば2度も角を無くされたのですが、でも“サザエさん”には角がありそうです。
実際に横須賀市では“角なしさざゑ最中”というのが販売されているそうですから、鋸南町も作ればよろしいのに…。
東京湾の浦賀水道名物として“角なしさざゑ最中”と“角なしさざゑ饅頭”などというのも話題になって良いかもしれませんよ。

次なる伝説は「玉の井」です。
上陸した頼朝が、使った井戸なので王様の井戸「玉の井」…、ただそれだけのようです。若干拍子抜け。
最後の伝説に「姥塚」には、少し期待しましょう。
といいながらも殆ど判らずじまいでしたが、灯台下暗し。鋸南町のオフィシャルサイトの「頼朝と郷土の伝説」に説明が記載されているので、まるっと抜粋・引用してしまいます。

頼朝と郷土の伝説(抜粋)
行山南麓の小川家には拝領の槍を伝えたが数代前、ゆえあって刃物に打かえたという。行山西北麓に巨岩があり、東面して小洞二をうがつ、これを姥塚という。古来竜島、大六両村海境の一起点とされたが、頼朝のうば某、公の武運を日毎、堂に祈る、その死後これをまつりて姥塚としたと。
(鋸南町オフィシャルサイトより)

それでもよく判らないのです。もう少し優しく解説してもらえるとありがたいのですが…。
更に、姓の件についても解説されています。

頼朝と郷土の伝説(抜粋)
頼観神明の森に宿る。今の神明社の前身である。主人某、房総の将兵左右より多く来たり加わらん事を祈願し、よって姓を左右加と賜わった。
又いう、頼朝、主の歓待を謝し、我、天下を取らば、安房一国を与えようと、某、聞違えて「粟一石は裏の畑でもとれます、それより姓を賜われ」と、公、笑うて「さうか、馬鹿なやつ」と独言したまう。
某喜んで「左右加」「馬賀」を姓となしたと。前説真に近いか。公一日御気晴しのため御遊漁、海岸の″さざえ″に御足を痛め給い、 「飯島にさざえあるとも角なかれ」と。以来この海のさざえは今に至るまで角がない。おそらく波静かな所でおのずから角も退化したものか。この時漁夫、太郎右衛門、エイを得て献上した、ゆえにその島をエイ島という。エイ島あるいは飯島か。太郎右衛門は賞詞と共に姓を賜わり鰭崎という。浪人福原民部は珍らしい貝を得て献じたので、姓、生貝を賜い、御加勢を免ぜられた。
竜島の民家は当時18戸ばかり、それぞれに姓を賜わり例えば、家居、小松茂るがゆえに「松山」といい、菊間・柴本・中山・久保田・鰭崎・生貝と共にこれを竜島の七姓という。頼朝公渡船の水主を艫井・間・渡氏といい、今勝山に伝わる。
(鋸南町オフィシャルサイトより)

これは「あわいっこく」という非常に有名な伝説なのだそうです。
まずは「左右加・馬賀」ですが、ここにあるように神主が「房総の兵が頼朝公の左右に加わり、源氏が繁栄するように」と祈祷したお礼に“左右加”を与えられたと記載されていますが、もう一説にはまさに「あわいっこく」の元となった話のようで、村人の親切に感謝した頼朝が「もし天下を取ったらお前達に“安房一国”を与えよう」というと、それを聞いた村人は、“安房一国”を“粟一石”と勘違いし、「粟なら畑で取れます。それよりも私たちに姓を下さい。」と言ったのだそうです。これを聞いた頼朝は村人の欲の無さを笑い、「そうか、馬鹿だなあ」と一言つぶやいたそうです。それを聞いた村人は早速姓をくれたものと勘違いし、「左右加(そうか)」「馬賀(まが)」と名乗ったのだそうです。なかなかウィットに飛んだ伝説ですが、前者のほうが何となくありえそうです。
更に頼朝の姓の安売りは続きます。

頼朝が真鶴岬から海路安房に来たときの船頭・岩吉、潮太、波五郎の3人は、安房の地が気に入ったと見えて、真鶴には帰りたく無くなったのだそうです。そこで頼朝はこの3人に船に関連する「艫居・間・渡」という姓を与えてこの地に住まわせたという、実に安易なネーミングなのです。
そして次なる姓が竜島七姓ですが、お茶の代わりに柴を煎じて飲ませた人に与えたとのことから「柴本」との姓となったということですが、それ以外の「菊間・中山・久保田」については判らずじまいですが、何となく想像ができそうです。
ちなみに鴨川のところで記載した「仁右衛門島」ですが、実はこの時もまた助けられた頼朝は、その漁師である仁右衛門の“あわいっこく”安売りしたようですが、流石に漁師だけあって“姓をください”とは言わずに、匿った島の漁業権を下さいと答えたようで、頼朝は了承し、「平野」という姓と漁業権を与え、以来この島は「仁右衛門島」と呼ばれるようになり、平野仁右衛門氏の家系は今も続いているのだそうです。
このように頼朝に関する伝説がいくつも残っているのですが、これ以外にも先の伝説にはあるようなので掲載しておきます。

頼朝と郷土の伝説(抜粋)
○名馬、池月と馬賀氏
江月鶴ヶ峰山神宮に隣りして馬賀を名乗る旧家がある。乗馬池月を献上したので頼朝がその徳を賛え馬賀の姓を賜わったという。江月は池月をなまったもので馬の住んでいた場所を馬ノ住(小字)と称している。今も馬ノ住に近い武右衛門方に頼朝の馬つなぎ石がある。二十貫位の丸石である。
池月のひづめあとの石と伝えるものが、勝山小学校にもある。大きさ、およそ100×80×50cm位、中央に径深共10cm位の穴がある。もとこの地(中太房) の田んぼの中にあったが、耕作のじゃまだと取りのけると持主が病気になるといわれ、そのまま手をふれる者もなく残されていた。大正の初め、勝山小学校の敷地として田が胃収されたので、今は校舎中央の 築山、明治が丘に移された。恐らく古社寺の礎石であろう。市井原字井戸の上、明石源治家の庭先、井戸の付近に も頼朝公乗馬のひづめ跡と称鮎するものがある。

○み山の椎は笑がならない
同字、八田地先には公の宿られた洞穴というものがある。これを過ぎ、瀬高-保田見-梨沢に通ずる道路を「みやま」という。この道を馬に乗って通過中、椎の実が頭に当たったので、公は怒って「花が咲いても実はなるな」といわれ、以来「みやまの稚は実がならない」と。瀬高には早川を名乗る一族があるが、与兵衛家の祖は善左衛門為則と称し、石橋山の合戦に公に従い、後逃れてこの地に住し、農に帰したといわれる。

○榎本家の二つ紋
大六の名主は榎本と言い、代代秀輔と称する。頼朝上陸の時、和田義盛繚あって同家の女をめとる。よって榎本家は以来、和田氏の紋と自家の紋とを組み合わせて使ったという。あるいは後の和田氏房総の所領や朝夷三郎伝説とも関連があるか。土地の人は同家を御代官と称して栄えたが、大正に至って後継が絶えた。

〇日本寺の大そ鉄とかがみ岩
公、本名村に立ち寄って村名を問い、里人本名村と答えるを聞き、大いに喜び「我が本名を挙げんきざしならん」と。日本寺本堂前の大そ鉄は頼朝公の手植えという。又明鐘岬にはかがみ岩がある。公が雨露をさけられし跡という。今、地形変じて定かではない。胃島、蔵掛け石など皆、公にちなむ。
(鋸南町オフィシャルサイトより)

鋸南町のスーパースターは菱川師宣だと思っていましたが、どっこいもう一人頼朝というスターがいたようです。
そうです、この二人は鋸南町のシンボルキャラクターとして活躍しているのです。
みかえりちゃん よりともくん 《左・みかえりちゃん、右・よりともくん:(C)鋸南町》
なかなか明るく元気一杯で良いキャラクターですね。

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