大黒山

2大巨頭ともいうべき、菱川師宣と源頼朝の足跡を訪ねた後は、勝山漁港の中心街に向います。
保田漁港同様、潮の香りが自然を感じさせてくれながら、歴史の息づいた町のようです。

醍醐新兵衛

勝山市街で最初に訪れたのが、勝山のシンボルともいえる「大黒山」です。
標高75mの小さな山ですが、とりあえず勝山の街が一望できるとのことなのでまずは登って見ることにしました。
ちょうど街の中央を流れる川のそばに駐車場があるので(多分観光用の駐車場ではないかと…)、そこに車を停めて「大黒山」を目指します。
駐車場から1、2分も歩くと「大黒山」へ登る階段口が現れます。
大黒山
綺麗に整備された階段があるので、登るのも実に楽なようです。こうして整備してくれるとありがたいですね。
ホンの1分ほど階段を登ると、階段は直ぐ突き当たりとなり、道は左右に分かれています。
大黒山
右は大黒山山頂方面という道標があります。
そしてその前の山肌に掘られた洞窟のようなところに、墓石が安置されています。
初代醍醐新兵衛墓所

醍醐新兵衛の墓
町指定史跡 指定:昭和49年11月3日 所在地:勝山413 大黒山
関東捕鯨の祖、醍醐新兵衛定明は、江戸前期の寛永7年(1630)勝山で生れました。醍醐家祖先の出自については諸説ありますが、慶長末期には勝山にあって、鯨を漁していたようです。
定明は、一代の間に捕鯨業を組織化し、名主として村を指導する一方、浄蓮寺や妙典寺の再興に貢献した篤信の人でもありました。
宝永元年(1704)3月、75才で没した定明は、仁浜浦を一望できるここ大黒山の中腹に葬られました。
法名 妙醍院法醐日円居士
以降、醍醐家は、代々新兵衛を称し、勝山の大組、新組、岩井袋組の鯨組を率いる総元締として、また大名主として、勝山藩から名字帯刀を許されていました。なかでも8代定緝、9代定固は幕命により蝦夷四島に航し、北海道、樺太に漁場を開き、北洋漁業開拓に貢献、明治に至って10代徳太郎は小笠原、伊豆大島洋上での洋式捕鯨、鯨加工業発展に貢献し、房州勝山醍醐新兵衛の名を日本水産史上に輝かせました。
昭和30年、初代定明墓碑を復興するにあたり、蜀山人(江戸後期の狂歌師)の狂歌一首を刻んだ碑を脇にそえました。
“いさなとる安房の浜辺は魚篇に 京という字の都なるらん”
○“いさな”とは鯨のこと。これは文化2年(1805)蜀山人が勝山を訪れた際、醍醐家の繁栄をたたえて贈った歌です。
鋸南町教育委員会
(現地案内板より)

まずは何故東京湾で捕鯨…、から紐解く必要がありそうです。
今から6000年前の縄文時代に、日本では縄文海進と呼ばれる海水面の上昇があったそうで、海水面は現在より13m程度高かったそうです。従って当時の東京湾は現在の群馬県、栃木県に至るほど広域な東京湾で、この頃の東京湾を“奥東京湾”と呼んでいます。更に遡って12万年前にはこれより海面が高く、房総半島が島だったのだそうで、この頃の東京湾を“古東京湾”と呼んでいます。一方、氷河期であった2万年前頃は逆に現在より100m近く水位が低かったそうで、この頃は横須賀市の観音崎付近以北が陸地となっていて、利根川、多摩川、入間川等の現在では東京湾に注ぐ川を集めた「古東京川」が流れていて、現在でも東京湾の水深30~80mの海底にその痕跡が残っているそうです。
そしてその古東京川の流れが徐々に地層を削って谷をつくり、その後水位の上昇と共に谷は海に沈み、それが東京湾海底谷となったのです。
こうして形成された東京湾なので横須賀市の観音崎の北までは比較的水深が浅く、久里浜の南沖は急激に深くなっているのです。
東京湾 《東京湾の範囲》
図のようにピンク色の部分が狭義の東京湾で比較的水深の浅い部分で、それに水色の部分を加えたものが広義の東京湾です。そして水色の部分が水深が急激に深い“海底谷”となるのです。

このような構造の中で、房総沖に流れる世界三大潮流の一つである黒潮(日本海流)が、海底谷によって枝分かれして鋸南町の浮島に向って流れてくるのです。
そして、この黒潮と共にクジラもまた入り込んでくるのです。海底谷に沿って東京湾に入り込んだクジラですが、そのまま東京湾の奥深くに入り込むのではなく、ちょうど、先ほどの東京湾の地図にあったピンク部とブルー部分の境界に「熱塩フロント」と呼ばれる自然の結界とも言うべきものがあるため、海底谷に沿って浮島方面に向ったクジラは、みささぎ島付近で引き返し、岩井袋周辺を通って戻っていったのだそうです。
東京湾構造 《東京湾の構造》
この「熱塩フロント」とは、内湾と外湾の境目で海水の濃度や温度が違い、特に冬にははっきりと海の色までが違う潮目ができるほどのものだそうです。丁度、現在の久里浜~金谷の東京湾フェリー航路のあたりになるようです。
このように海底谷や熱塩フロントといった東京湾の構造によって、勝山沿岸は江戸時代においては鯨道とも呼ばれた一大漁場だったのです。現在では勿論漁は行われておりませんが、クジラの回遊はあるそうで、稀にTVなどでも放映されているようです。

一方、日本の捕鯨は、16世紀に南紀太地(和歌山県太地町)の和田仁左衛門が集団漁法による捕鯨を始め、これが発祥と言われています。江戸時代の初め、ここの捕鯨船が操業中に遭難、漂流し安房勝山に漂着したのでした。そして、この漁民が勝山の漁民に技術を伝え、関東では始めて安房勝山で捕鯨が行われるようになったのです。
恵まれた鯨の漁場を前にして、勝山の本格的な捕鯨を行ったのが醍醐新兵衛定明で、50隻以上の捕鯨船で「突組」とよばれる組織を構成して始めたのです。
この当時、捕鯨の発祥地太地では既に「突取捕鯨」から効率が良い「網取捕鯨」に漁法が変わっていたのですが、この安房の漁場のツチクジラは深海に潜る性質があり、網を使えないためにモリだけの「突取捕鯨」が続けられたのでした。海底谷の大陸斜面がツチクジラの棲息に良かったようです。
そして新兵衛が組織した捕鯨は、旗頭や世話人、羽刺、鯨をさばく出刃組、脂をとる釜前人足など、57隻、600人あまりが従事していたのです。
これにより醍醐家は捕獲した鯨を買取り、脂肪を取る頭・皮・骨・尾だけを取得し、肉は全部関係者に配分したのです。この買取のことを“勝負”といい、鯨の大きさにより「本勝負・半勝負・無勝負」という3段階の大きさで価格設定したのだそうです。
そして、これ以後、捕鯨漁夫を確保するため捕鯨の季節には鯨の捕獲の有無にかかわらず漁夫ひとりごとに1日5合の白米を与え、海上に出て「カジキ鮪」を突くほかの他の網漁業を禁止するなど漁夫を拘束し、豊漁期ではひと夏に50頭以上捕獲したこともあったようです。そして一族は11代にわたって代々新兵衛を名乗り、捕鯨元締めを家業とし浜名主を世襲し、莫大な利益を得たのです。

こうして利権を得た醍醐家でしたが、時代と共に魚群が次第に沖に移るようになったことから、捕鯨は徐々に遠海での漁業が求められるようになり、アメリカ式捕鯨銃を使用する外国捕鯨船が集り、数多くの鯨を捕獲していたのです。これに伴い日本近海での鯨が減少し小型和船での鯨組は、沖合での操業ができないため、従来からの古式捕鯨は衰退していったのです。
こうした状況の中、日本の捕鯨を守る為に幕府は8代目の醍醐新兵衛定緝に蝦夷地での捕鯨調査を命じアメリカ式捕鯨を始め、更に9代目の新兵衛定固も、元治元(1864)年に北洋に出向き、樺太沿岸でサケ漁を試みたのだそうです。また、この頃には鯨油を製造して販路を海外に向けて輸出しようと図ったのですが、品質が悪いため成功しなかったようです。
そして10代目の新兵衛徳太郎は、明治22(1889)年、渋沢栄一や大倉喜八郎らの資金援助を得て、農商務省の官吏関沢明清と館山の豊津村において捕鯨と鯨油製造の日本水産会社を設立したのです。近代捕鯨として大きな期待をかけられたようですが、やはり鯨油製造の技術的な問題と捕鯨の不振により、3年余りで会社は解散となったそうです。
そして11代目の新兵衛新司は缶詰製造等を研究したようですが、昭和12(1937)年に亡くなってからは、嫡子がなく醍醐家は廃絶となったのです。

このように11代に渡って日本捕鯨の発展のために寄与した醍醐家なのですが、家系としては遥か古まで遡ることができるようです。
安房醍醐氏の起源は仁寿(851年頃)まで遡ります。諸説あるようですが、様々な古文書によると38代目までは「佐王藤原姓」と記載され、“康平5年(1062年)秋佐王親定藤原新兵衛筆”文書によると、「弘治2年(1556年)3月没、行年86歳徳仁院殿安房大居士、俗名醍醐新兵衛藤原安房」という記述が見られることから醍醐新兵衛開祖の7代前に安房に移住し、戦国時代の乱世の中で落剥して漁師になったのではないかと考えられているようです。
また、“日本紋章学”には平家物語に醍醐三郎実秀の名が登場するそうで、その家系は由緒あるものだったのです。
ここにもまた鋸南町のスーパースターが居たようで、“みかえりちゃん”と“よりともくん”に続く第3のキャラクターとして「しんべいくん」がいるのです。
しんべいくん 《しんべいくん:(C)鋸南町》

中央の墓石が新兵衛の墓碑で、右側にあるのが蜀山人の狂歌碑です。
蜀山人の狂歌碑
若干、狂歌の説明の補足があります。
いなさ=勇魚=鯨=魚篇に京と書く。京(けい)は兆の上の単位で大きいという意味で、要するに鯨のおかげで京都と同じくらい繁栄していると詠んだ歌なのだそうです。当然ながら上手いことを言うものです。

大黒山展望塔

小道は左右に分かれているのですが、まずはやはり大黒山の頂上を目指します。
少し進むと左手に案内板があります。

岩牢跡
徳川10代将軍の時代、勝山藩領の農民の窮状を直訴した金尾谷村(旧富浦町)の名主、忍足佐内をこの石牢に入れ見せしめとしました。勝山藩西領騒動として、義民忍足佐内の名と共に現在に伝えられています。
南房総観光圏整備事業
(現地案内板説明文より)

明和7(1770)年の干ばつで農民は大変苦しみました。安房国勝山藩領もその例外ではなく、それぞれの村の名主達は勝山の役所に訴え、年貢の減免を願い出たのです。奉行の稲葉重左衛門と代官の藤田嘉内が被害の様子を調べたのですが、金尾谷村と白坂村(どちらも富浦町)、そして小原村の三か村だけは、役人に対する賄賂をしていなかったため訴えが認めてもらえず、農民に大きな負担がかかったのでした。
願いが認められなかった三村のひとつ金尾谷村の名主の忍足佐内は、小原村の名主平兵衛と一緒に村人を救うために藩主酒井大和守の江戸家敷に行き、村人が困っていることや、奉行の悪政を訴えたのです。奉行らはこのことで佐内を恨み、勝山の牢屋に閉じ込め、明和8(1771)年、悪政が発覚することを恐れて佐内らは白塚川原で処刑されてしまったのです。これが勝山藩西領騒動なのです。
この後、佐内の遺族らは奉行や代官の悪政を訴え、佐内の汚名返上を願い出て、この願いは藩により聞き入れられ、奉行や代官の悪事を認め、佐内の名誉が回復されたのです。
残念なことに、ここは落石があるのでしょうか、それとも石牢内が危険なのか、金網が張り巡らされていて石牢の痕跡が良く判りませんが、良い話だけはしっかり記憶しました。
岩牢跡
そんな佐内の無情を慰めるかのように、反対側の斜面には綺麗な水仙が咲いています。
水仙
流石に水仙の町です。

ここからしばらく石段を上りますが、キチンと整備されたという石段ながら、1段1段の段差が大きいので意外と疲れてきました。
若干、息も切れ掛かってきた頃に上手い具合にベンチが設置されており、左、展望台近道、直進、大黒山展望台の道標が立っています。
休憩所
更にベンチの脇にも案内板があります。

水仙
花は金環を著け放いて自ら秋 軽く雲裏に盈ちて香柔を弄す 暗香水を離れて恍として近づき難し 気は圧す東方六十州
新井文山
(現地案内板より)

新井文山とは江戸時代後期の儒者で、郷里安房の館山藩主稲葉正巳にその学識を認められ、士分に取り立てられ、その後郡奉行になったのだそうです。
内容は良く判りませんが、水仙の色香の良さを表したものなのではないでしょうかね。
ちょっと一息ついて先に進みます。
ここは一気に展望台近道を行きます。
後で知ったのですが、直進のほうは遠回りながら緩やかな坂道だったのですが、近道という魅惑的な言葉に惑わされ、諤々の足で、より急階段を登るはめになってしまったのです。
ウォーク・ドント・ラン、まさにこのとこでしょう。

それでも階段の途中から頂上の建物らしきものが見え始めました。
展望塔近道
どうやら頂上は直ぐそこで、到達すると何とも妙な展望台を見て取ることができます。
展望塔
丁度、近道から登ると展望台の裏手(何を基準に裏なのかは特にありませんが、海を向いたほうを表とした場合のことです)に登ることとになるようで、鉄筋コンクリートむき出しの柱に、何故か城郭風の屋根のついた展望台が目の前に現れるのです。
そしてこの展望台は、更に階段で上がれるようになっています。
展望塔
最後の一踏ん張りで天守閣(!?)に登ります。

眼前に広がるのは遥か彼方の三浦半島でしょうか、まさしく絶景です。
三浦半島
そして正面にある島が「浮島」です。その隣にある穴の開いた小さな島が「オオボッケ」で、その左の更に小さい島が「コボッケ」という島だそうです。
浮島
丁度、左の海域が「鯨道」で、この先には鯨が潮を吹いて盛んに回遊していたのでしょう。
更にこの「浮島」には頼朝にも劣らない伝説があるのです。

浮島伝説
日本武尊・景行天皇・天皇の料理番誕生
東国平定を成し遂げた日本武尊の死後、父の景行天皇は皇子と同じ旅路をたどり、弟橘姫の供養も兼ね、浮島にやって来ました。浮島がとても気に入った天皇は、しばらく滞在したと言われます。この時、天皇に同行していた磐鹿六雁命が浜辺でとれた大きな蛤や、角で作った弓の先で釣り上げた堅魚(鰹)を料理して天皇に差し上げたところたいそう喜ばれ、以来、天皇家の料理番になりました。後に料理の神様としても祭られるようになりました。
(勝山港通り商店街・鋸南町商工会発行「勝山の歴史・文化 案内書」より)

“天皇の料理番”といえば、堺正章のTVドラマかと思えば、こんな昔からあったのですね。
この磐鹿六雁命は料理番として膳大伴部の姓を与えられ、以降、醸造・調味料の神「高倍神」として祀られたそうです。そして高家神社(千葉県南房総市)、高崎神社(栃木県小山市)、およびどちらかの神社の勧請を受けた各地の神社で祀られ、調理師や調味業者からの信仰を集めているのです。そして、この磐鹿六雁命の子孫の高橋氏が代々宮中の大膳職を継いだのだそうです。
この代々大膳職を継承していた高橋氏が、安曇氏と勢力争いがおこったときに、古来の伝承(磐鹿六雁命の件)を朝廷に奏上した延暦8(789)年の家記である「高橋氏文」という逸文が残っているそうです。

参考:参考:【天璽瑞宝「高橋氏文」逸文 http://mononobe.digiweb.jp/siryou/takahashi.html

この浮島には、景行天皇の古井戸や行宮跡等と共に、祭神が景行天皇・日本武尊・磐鹿六雁命の3神である浮島神社があるそうです。
この3神は普段加知山神社にあるので、毎年7月の第2土曜日、勝山祭礼の次の日の日曜日に浮島神社に御霊を渡す「島まつり」が行われているのだそうです。そしてこの「島まつり」は同時に「クジラまつり」であることから、御霊を迎えるときには船べりを叩きながらクジラ唄を歌い、クジラを捕り悠々と運んで来るさまを再現しているのです。
実に伝説の多い地です。
南方向が勝山漁港です。
勝山 地図
案内板に絵図が記載されています。

里見水軍の海城 勝山城跡
八幡山にある中世の曲型的な海城で曲輪跡、堀切の遺構も残っています。
里見水軍の拠点で対岸相模の北条水軍としばしば海戦を繰り返しました。城主は正木氏。海を知り尽くした500隻の漁船があり、勝山が勇猛な捕鯨の村として栄えるのは、鯨組みに水軍の血が受け継がれ影響を与えていたからです。

山見方(のろし山)
遠く州崎・大房岬に山見方を置き、東京湾に入り潮を吹いているクジラを見つけ「のろしで知らせる」合図を監視する場所であり、鯨組にのろし・ホラ貝で合図する場所。

日より山
「日より山」は全国に数ヶ所有り天気を予報する山です。今の気象所です。江戸から京・奥州に向かう船が、一端ここの良好な船溜りに停泊し、海運天気を聞いてから出港していました。天気予報が悪いときは、2~3日止まってから出港したそうです。その為宿があり内宿という地名が残っています。
(今でもここの漁師の天気予報は気象庁より当たると言われています。)

魚見山(ようみやま)
「日より山」の南にある魚の群れを見る山
南房総観光圏整備事業
(現地案内板説明文より)

猟期は6月~8月で、東京湾に入り潮を吹いているクジラを見つけた“のろし”を「山見方」が見つけ、ホラ貝で知らせることで捕鯨が開始されるわけです。
ホラ貝の音を聞くと世襲制の権利を与えられた大組17隻・小船「新組」16隻・岩井袋組24隻の合わせて57隻が一斉に出船するのだそうです。恐らく57隻の出港は壮観だったことでしょう。
このようなシステムも整っていたようです。これも醍醐家の賜物なのでしょう。
そしてこの辺りが内宿のようです。
内宿周辺
ここで時化を避けて寝泊りしていたのでしょう。
また、勝山城については、もう一つ説明があります。

勝山城の由来
勝山城は、源頼朝が石橋山の戦いに敗れ当地へ逃れてきた際、いち早く従臣した地頭安西氏が出城として築いた砦に始まる。
安西氏は大黒山南方の八幡山山麓に主郭を構え、江戸初期里美氏滅亡までこの地を領した。
その後内藤氏、佐倉市の居城となり、寛文8年(1668年)酒井忠国が若狭小浜藩より分封され、以来9代201年に渡る酒井勝山藩1万2千石(天和2年、1万5千石を数えたが翌3年、弟忠成に3千石分知した)の居城として明治に至る。
この勝山城展望塔は、鋸南町30周年を記念して、ここ大黒山山頂に建設する。
平成2年9月 鋸南町
(現地石碑碑文より)

ちょうどこの辺りが勝山藩陣屋跡なのだそうです。
陣屋跡周辺
当時は山を背にして東西北は幅4間ほどの堀と土塁に囲まれ、中央に陣屋屋敷、敷地は堀を含めて焼く4500坪の広さがあったそうですが、現在は井戸2つと屋敷から逃げる為のトンネルが残っているそうです。
勝山城展望塔は勝山城跡を見るための展望台なのですが、ここも頼朝関連だったわけです。
となると砦から考えると700年近くの歴史を持つ砦・城となるのですから、意外と侮れない城跡です。しかしながら何故勝山城跡に展望台を設置しなかったのでしょうか。より相応しい気がするのですが…。

そして北方向を見ると鋸山の全貌が見渡せます。
鋸山方面
鋸というよりはナイフといった鋭さです。
東方向は勝山の市街地と田畑という自然あふれる光景です。
市街地と田畑
海と山に囲まれた地というのも素敵な場所です。
勝山の眺望を満喫して展望塔を降りますが、展望棟の一画に大黒天が祀られていました。
大黒様

大黒山(堂山)
平地に立つ「一つ山」で昔は大黒堂がありました。神のつどる山であり、信仰の山です。
大黒様は食物・財福を司る神。福袋と打出の小槌をなでると…
南方にえびす山があり、海側から見ると「えびす・大黒」に見えます。
南房総観光圏整備事業
(現地案内板より)

元々大黒堂があったことから大黒山と呼ばれるようになったようですね。その名残としてここに大黒様の石像が置かれているのでしょう。
展望塔を降りて、今度は正面(海側)から大黒山を下山します。

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