醍醐家の文化

小さな山、というより丘といっても良い位の「大黒山」ですが、その中には大きな歴史がたくさん詰まっていたようです。
まだまだ、知らない歴史があふれてくるかもしれません。

大黒山

大黒山展望塔を降りて頂上に再び戻ると、“大黒山にあの黄門様が”という案内板があります。

三朶花(日本の杜甫)
石井三朶花は、光圀に見出され、江戸小石川の水戸藩邸にあった彰考館に出仕することになりました。詩文が得意だった三朶花は彰考館でおもに「大日本史」の草稿を書いていました。彰考館とは光圀が「大日本史」編纂のために設けた史局で、同じ年佐々介三郎宗淳も彰考館へ出仕しています。
宗淳は史料収集に尽力した人で、ほとんど全国にわたって調査をして歩きました。
これがのちのテレビでおなじみの水戸黄門のお供、佐々木助三郎(助さん)のモデルとなった人です。

黄門様大黒山に
徳川光圀(水戸黄門)は、1674年鎌倉英勝寺墓参の途中勝山にやってきました。
当時編纂されていた「大日本史」の資料収集や史跡の見学を兼ね、浪人石井三朶花を招き「大日本史」編纂にあたらせるためでもあります。
三朶花の家は大黒山のふもとにあり、仁浜に住んでいました。
勝山藩主、酒井越前守忠栄は15隻の船を飾り立て海上で出迎えましたが、光圀はそれを避けて大黒山に上陸しました。光圀らしさを感じます。「甲寅紀行抄」
南房総観光圏整備事業
(現地案内板より)

何も言うことはありません、たった一言「面白い!!!!」です。
黄門様が諸国を漫遊していないことは周知の事実ですが、ここ勝山に来ていたとは結構驚きです。しかもこの甲寅紀行抄には「南に當て十町余に立山と云う山あり、里見安房守忠義古城の跡なり」と記載されているそうです。里見安房守忠義は室町時代から江戸初期にかけての大名で、安房国館山藩12万石の第2代藩主です。この里見忠義が死去した時、8人の側近が殉死し忠義と共に大岳院に葬られ「八賢士」と讃えられ、あの“南総里見八犬伝”の「八犬士」のモデルであろうといわれている物語に、黄門様は100年以上前に目をつけていたのかもしれません。流石に「大日本史」を編纂した黄門様といえるかも知れませんが、実際には黄門様の祖母蔭山殿は、里見の家臣・正木頼忠の娘で、当時の丁度60年前にこの城の敗亡があったことから、この地を感慨深げに見ていたようです。
そして勝山藩の出迎えも受けず、更に陣屋にも行かずに、石井三朶花の家に直接行ったそうですから、よほど光圀にとっては重要な人だったのでしょう。

下りの階段の横には石祠が祀られているのですが、クジラ、或いは大黒様に関係したものなのでしょうか。
石祠
更にその石祠の下側にある大きな岩が「魚見石」というもので、捕鯨の際にこの石の上でクジラの様子を信号旗で船頭やしたの鯨組に知らせた場所なのだそうです。
魚見石 魚見石
山見方(のろし山)、日より山、魚見山等と共に実にシステマチックな体制に醍醐新兵衛の賢さを改めて感じます。

階段を挟んで「魚見石」の反対側にも奇妙な形の大きな石があります。
大黒石
特に説明はないのですが、傍らに「大黒岩」と刻まれた石碑がありますので、この岩に削られた部分が大黒様にでも見えたことから、そういわれたのでしょうか。見えるといえばそう見えますが…。
そしてこの辺りから、上を眺めると展望塔の全容を見ることができます。
展望塔
まさに勝山城(!?)、といったところでしょうか。

そして今度は来るときの大黒山近道ではなく、比較的緩やかな下り坂を降り、最後にまた階段を進み醍醐新兵衛の墓に戻りました。
ここを左に階段を下りると駐車場に戻るのですが、「長谷寺」なる案内板がありましたので、そちらに寄ってみる事にしました。
水仙の小道を抜けると、朱塗りのかなり鮮やかな観音堂です。
水仙 長谷寺

長谷寺(通称 堂山の観音堂・おつげ観音)巡礼国札第6番
本尊十一面観世音菩薩。鎌倉長谷寺にて745年行基が開眼600余年信奉を集めた霊像。足利尊氏公が深く信奉帰依し、像の永存を念じ、1317年当山に奉還。
<二ツ引き両>は足利家の家紋。下の本堂は法福寺。

おつげ観音のいわれ
元禄16年(1703年)の大津波。この時堂山に逃げていた醍醐新兵衛は大慈大悲の慈顔溢れる観音様より「ここから逃げろ」の「お告げ」を聞き船で妙典寺高台に避難し、一命を得たと言います。
御守護と運長祈願により「お告げ」があるといわれています。
南房総観光圏整備事業
(現地案内板より)

観音堂の上部左右にある紋が足利家の二ツ引き両紋です。
長谷寺
おつげ観音の逸話として津波により牛も泳いで松の木に登り、水が引いて宙吊りになり、下ろすのに大騒ぎだったようです。微笑ましくもあるエピソードですが、その被害は前述したように未曾有の大災害だったわけですから、確かに一命を得たとは奇跡といえるかもしれません。
観音堂の左隣には「半僧坊講中の石宮」が祀られています。
半僧坊講中

半僧坊講中
「醍醐新兵衛出刃組・蔵前」の半僧坊講中の石宮
半僧坊は鎌倉建長寺にある火防と大漁祈願に霊験あらたかなる天狗信仰
南房総観光圏整備事業
(現地案内板より)

醍醐新兵衛出刃組とは文字通り出刃によって鯨を解体するグループのことで、大漁を祈願した天狗信仰をしたようですが、天狗は半僧防のお供とされており、火災は天狗が起こすのですが、逆に天狗の守護を受ければ火災にあわないという信仰のようです。そこからどうして大漁祈願となったのかは定かではありませんが、何事も信じるものは救われる、ということでしょう。
そしてその更に左手には「水難祈念碑」があります。
水難祈念碑
先の大津波の死没者供養の碑という意味でしょうか。何となく凛とした空気が流れているようです。
長谷寺の境内の更に下に「水月堂」があります。
水月堂 水月堂

水月堂(通称 身代わり千手観音)巡礼国札番外
1355年創建、元禄の大津波(1703年)により流出。
1740年3代醍醐新兵衛明定が元禄の大津波で死亡した多くの人々の供養と助かったことや、仏に感謝するため、守護を念じ大慈大悲の千手観音像を製作寄進。通称「身代わり観音」と呼ばれるようになりました。
南房総観光圏整備事業
(現地案内板より)

やはり保田から勝山、そして房総半島には元禄の大地震、大津波の歴史が色濃く残っているということです。
こうして大黒山を散策してからは、勝山海岸の方へ行って見ます。

勝山海岸

勝山海岸の堤防沿いを海に向って歩くと、その先に小さな島があります。
みささぎ島 みささぎ島
「みささぎ島」というそうです。大黒山からはあまりに直下なので見えなかった島ですが、ここにも伝説が存在しています。

みささぎ島伝説
日本神話では紀元111年景行天皇より東国平定の命を受け、子である日本武尊が相模の国から上総の国へ船で渡るとき、海が突然荒れ、船が沈没寸前になりました。妃の弟橘姫は「海神の心をお鎮め申し上げましょう」と言い残して海に身を投げました。するとそれまでの嵐が嘘のように止みました。
妃のなきがらは「みささぎ島」に漂着しました。近くに碑もあったとされています。
「みささぎ」という言葉は天皇・皇后のお墓という意味です。
(勝山港通り商店街・鋸南町商工会発行「勝山の歴史・文化 案内書」より)

現在、正式には「ミサゴ島」というそうで、文字通り“みささぎ”が訛ったものです。毎年8月16日に「みささぎ島」に向って灯篭流しが行われるそうです。きっと幻想的な光景を見られるのでしょう。

こうして水平線の目線で眺めると、光景が身近に感じられ、遠くに三浦半島も見ることができます。
三浦半島
勝山漁港と八幡山、オオボッケ・コボッケと浮島、鋸山に真珠島です。
勝山漁港 浮島 鋸山
勝山海岸もまた夏には大いに賑わうのでしょう。
勝山海岸
そして振り返れば大黒山が鎮座しています。
大黒山
かつてはここに東海汽船の運営する遊園地があったそうで、水族館や観覧車などがあり「川尻遊園地」というそうですが、自然の風景に恵まれた景勝地であることが判ります。
潮の香りを体一杯にしみ込ませて市街地に戻ります。

妙典寺

やはり勝山は醍醐新兵衛の鯨の町ですから、新兵衛の文化を巡ります。
最初に市街地に戻って訪れたのが「妙典寺」です。
あまり間口が広くは無い山門と参道の左手に一つの大きな碑があります。
妙典寺 勝山藩義士の碑
「勝山藩義士の碑」だそうです。

勝山藩義士の碑
幕末戊辰戦争で勝山を戦火から救うため、犠牲となった勝山藩義士の碑。
請西藩(木更津市)藩主林忠崇と連携した旧幕府方遊撃隊は義軍と称し挙兵、内房諸藩に援軍を求め勝山藩にも迫りました。勝山藩は戦火に巻き込むと言われ、苦慮のすえ31名を半ば公認、半ば脱藩の形で義軍に参加させ、箱根で官軍の大軍と激突。戦死16名、戦傷10名、行方不明2名とほぼ全滅。帰藩した藩士の代表2名も切腹を命じられました。
勝山を救った彼らの義を讃えるため建てられた碑です。
南房総観光圏整備事業
(現地案内板より)

勝山藩義士は実にいくつもの悲劇に合っています。
最初の悲劇は、請西藩林忠崇の挙兵と、幕府遊撃隊の人見勝太郎、伊庭八郎らとともに4月8日保田に到着した林軍の援軍要請により、福井小左衛門、楯石作之丞を代表とし脱藩という形で、藩は一切関わっていないような策略によって参加させられたことです。
そして海路伊豆に渡り小田原藩にも協力を要請するのですが、小田原藩を曖昧な態度の為、仕方なく伊豆を点々としてた後、箱根の関所を占拠したのですが、小田原藩に林軍掃討の明がだされ、5月19日林軍は小田原藩衝突するのです。この時勝山藩士は、人見勝太郎率いる第一軍の一番隊に組み込まれた為、最前線に立たされてしまったのです。
これが第2の悲劇で、多勢に無勢、勝敗はすぐ決定し、須藤静摩以下全滅の状態となったのです。
生き残った林軍は、海路館山に戻り内房諸藩の兵はここで降ろされ戻ったのでした。しかしここで第3に悲劇が起こります。
官軍は林軍に加担した内房諸藩に責任追及し、首謀者の切腹を命じたのです。
6月12日、官軍の駐屯する佐貫の三宝寺で、勝山藩士福井小左衛門、楯石作之丞の二人が責任を取り切腹させられました。
このような悲劇に見舞われた彼ら義士を讃えて、明治23(1890)年、この碑が建立されたのです。碑の題字「視死如帰」(死を見ること帰するが如し)は、幕府遊撃隊だった人見勝太郎の筆によるものだそうです。人見勝太郎は維新後、開拓使、茨城県令(現在の知事)を務め、箱根早雲寺には戦死者供養の墓碑を建立しているのだそうです。
ここにも戊辰戦争の一端があったようです。
参道を進むと立派な中門が立っています。
中門

妙典寺
妙典寺は醍醐山と号し、醍醐新兵衛家の菩提寺。
初代定明は田子の台妙典台に荒廃していた妙典寺を再興する為、自己所有地700坪を寄進し、ここに移しました。
南房総観光圏整備事業
(現地案内板より)

ここにはあの北海道捕鯨を始めた、8代定緝の墓があるそうです。
8代醍醐新兵衛定緝 《8代醍醐新兵衛定緝》
墓所はわかりませんでしたが、いずれにしても醍醐家縁の寺院として、その歴史と文化が息づいているのです。
白亜の本堂は、その朱の欄干とのコントラストが綺麗な美しいフォルムです。
本堂
醍醐新兵衛もこのような素敵な本堂になるとは夢にも思わなかったかもしれません。
本堂をお参りして妙典寺を後にします。

加知山神社

次なるは、妙典寺のほぼ隣(歩いても30秒ほど)にある「加知山神社」に向います。
途中、振り返るとあの大黒山を見ることができ、この角度からは展望塔も良く見ることができます。まさに勝山城に見えないこともありません。
大黒山 大黒山
石造りの鳥居の前には、結構新しい狛犬が鎮座しています。
加知山神社
参道の正面の社殿で参詣します。
加知山神社拝殿 本殿

加知山神社
加知山神社は古くは牛頭天王といい、祭神は素箋鳴尊です。
元禄の大地震大津波(1706年)仁浜の天王塚が浪欠したので1722年2代醍醐新兵衛明廣が敷地の日月に天王の社地を開き、社祀を再建し遷座しました。
1836年7代醍醐新兵衛定香奉納の大絵馬奉納(現在菱川師宣記念館蔵)。
明治になって加知山神社と改称され、郷社に昇格しました。現在、社殿には浮島神社、八幡神社の3社の御神体が合祀されており、勝山地区の祭礼の時に、浮島神社に御霊を移す「島渡し」が行われています。
(勝山港通り商店街・鋸南町商工会発行「勝山の歴史・文化 案内書」より)

こちらがその奉納された絵馬「八岐大蛇退治図」です。
絵馬「八岐大蛇退治図」 《写真:(C)たてやまフィールドミュージアム》
この絵馬の裏面には「鯨大漁追福のため、ならびに海上安全祈祷」と書かれていて、定香は鯨に対して感謝と供養をこめたものであるといわれているようです。それにしても記念館で印象に残っていないのですが…。
本殿の右隣には、もう1社の鳥居と社殿があります。
日月神社
こちらは「日月神社」で、現在の加知山神社境内はこの日月神社の社地だったのです。
祭神は天照大神と月夜見命だそうです。

また、加知山神社社殿の左手には「弁財天」がありますが、昨年の地震の影響だったのでしょうか、かなり石段が崩れていたので、上に昇るのは遠慮しておきました。
弁財天 鯨塚
ただ石段の脇には石祠が置かれています。

加知山神社の鯨塚
鯨組220年の歴史の中で、竜島(板井ヶ谷)に鯨塚は120基。
それ以前は醍醐家ゆかりの加知山神社(旧称牛頭天王)弁天様の下に100基ほど鯨塚があったものと思われます。
南房総観光圏整備事業
(現地案内板より)

今は数えるほどしかありませんが、絵馬のみならず鯨に感謝する気持ちはずっと絶えなかったようです。
醍醐家ゆかりの妙典寺と加知山神社を参詣して、最後にここに記載のある竜島(板井ヶ谷)の鯨塚に向います。

鯨塚

鯨塚に向う前にちょっと休憩です。
加知山神社の隣にしっとりした佇まいの和菓子屋があったので、立ち寄ってみました。
重田菓子店 重田菓子店
「重田菓子店」で、それ程歴史があるわけではないようですが、落ち着いた雰囲気に癒されます。
中に入ってショーケースには色とりどりの綺麗な和菓子が陳列されています。
重田菓子店
特に1月限定の水仙などは、実に綺麗な和菓子です。
特に名物は“どらやき”ということなので、店内で食べられると聞いて、2ヶどらやきをお願いしました。
お茶と一緒にいただいた“どらやき”がこちらです。
どらやき
確かに餡子も比較的甘くて、疲れた体には実に嬉しい甘さなのですが、それよりもこの“どらやき”を名物にしているのは、その餡子の量のようです。
ずっしりした重さと分厚さ、圧倒的な餡子に2人で1個が充分位なので、1個は残して追加でお土産として購入しました。
どらやきの他には水仙を始めとした“緑シリーズ”の和菓子をチョイスして見ました。
お土産
しっとり美味しい和菓子でした。
近くに行くことがあれば、甘いものが苦手な人も、あえて1つ食べてみて胸やけになるのも良いかもしれません。

ここから市街地を南下します。
途中にあるのが「勝山港通り商店街」です。
勝山港通り商店街
土曜日ともあって休みの店舗もちらほらあるようですが、海産物のお店は開いていました。地元の方の魚屋といった感じです。
商店街を入った左手に「まちかど博物館」という、どうやらクジラに関する展示している小さな博物館がありましたが、残念ながら土曜日は休みのようです。
まちかど博物館 まちかど博物館
館前には、あの「みかえりちゃん」と「しんべいくん」がおりました。ガラス越しに鯨の骨などが見えましたので、是非見たかったです。

ここから10分ほど歩くと竜島(板井ヶ谷)の「鯨塚」です。
鯨塚 鯨塚
現在は住宅地の一画といったロケーションですが、それでもそこだけは一種霊気のような特有の空気に支配されているようです。

鯨塚(板井ヶ谷)
勝山藩酒井家の分家で竜島の殿様(3000石)といわれていた旗本酒井家の弁財天境内に、鯨を解体する出刃組が1年に1基の供養碑を建てました。
ここには120基ほどあり堤ヶ谷石(地元の石)で作ってあります。
風化した為70基ほどは埋めてしまい、現在52基。
鯨塚は供養碑・祈願碑でありクジラの墓ではありません。弁財天は水神であり、財産を司る福神です。碑の大きさにより捕鯨数がわかるといいます。
1頭で油は26~7樽(1樽45kg)赤肉は60樽程度。
日本の鯨塚の中でも一番多い。
南房総観光圏整備事業
(現地案内板より)

最後に鯨の町、勝山らしい場所を訪れて、勝山の散策を終わります。
鯨塚
醍醐家と鯨の歴史と文化の残る町として、関東では貴重な町といえるのかもしれません。

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