なまずの里 #2

中川から北上し、一旦吉川駅に戻り、南口から北口に回ります。
ここから更に北上してナマズを探訪します。

花しょうぶの町

北口に出ると、ロータリーの中央には南口と同じようにモニュメントが立っています。
吉川駅北口

発展
この噴水モニュメントは、豊かな自然と長い伝統を誇る街、吉川が平和を愛し、力強く未来に飛躍していく姿をイメージしたもので、大空に向って伸びる名産「花しょうぶ」の若葉と、吉川の「Y」をデザイン化したものです。
(現地案内板より)

確かに言われてみれば「花しょうぶ」です。
発展モニュメント
花しょうぶとYを掛けるとは流石に市の花だけあって…、市の花は「サツキ・ツツジ」ですか。でもやはり市の花の見所は「花しょうぶ」の…、ではなく桜と菜の花とコスモスですか。となると何故「花しょうぶ」となるかといえば考えられるのは産業、ってことでしょう。要するに吉川は、切花用花しょうぶの産地で有名なのです。
花しょうぶには大別すると江戸系、伊勢系、肥後系の3系統に分類される古典園芸植物で、関東では江戸中期頃に初の花しょうぶ園が葛飾堀切に開かれ名所となったのですが、特筆すべき事項は旗本松平定朝で、60年間に渡り300近い花しょうぶの品種を作出し、花しょうぶ栽培の歴史は定朝以前と以降で区切られるほどとなり、この江戸で完成された品種群が日本の栽培品種の基礎となったのだそうです。

このように花しょうぶの栽培が盛んな関東にあって、吉川の花しょうぶ栽培は大正末期に始まりました。
大正末期吉川の先駆者が伊豆・峰温泉に立ち寄ったとき、温泉の湯と湧き水を混合し栽培する花しょうぶ園を見てヒントを得、江戸川流域の三輪野江地区でのヨシズの覆下栽培が最初といわれています。
その後、時代は下って昭和45年に春日部普及所の指導で地下水を利用したビニールハウス栽培に成功したことから、吉川の花しょうぶ栽培が拡大していったようです。
そして昭和53年の第3回日本花菖蒲生産技術大会で評価され、昭和61年には東京サミット会場に3000本が飾られたそうです。更にダイアナ妃来日の際に迎賓館に飾られ、平成4年にはオランダで開催された「フローリヤード92」にも出品されるほど有名になり、より盛んになったのです。
現在では先端の栽培技術により4月中旬から6月中旬までの長期出荷が可能となり、数多くの品種のある中、葉形の良い江戸系古花で、純白の大輪の花で生花には欠かせない“初霜”が栽培の90%を占めるそうです。
初霜 《初霜》
そして年間約50万本が出荷されている一大産業となっているそうです。
南口のなまず、北口の花しょうぶという事で、吉川市の歴史・文化・産業が凝縮されたモニュメントといえるのでしょう。

駅寄りには「ラッピーランド」と書かれた派手な緑色の店舗があるので立ち寄って見ました。
ラッピーランド
なまずの里吉川の“なまず”をテーマとした観光案内所を兼ねたアンテナショップです。恐らく吉川市か商工会辺りが運営しているのではないかと考えられます。
丁度、行ったときにスタッフの方が出かけるところでしたが、無理に戻っていただき中に入れていただきました。
確かになまずの特産品があふれていますが、写真では見えにくいですが、入口脇には本物のナマズが飼われています。
ラッピーランド
ショップ内は文字通り所狭しと“なまず”の特産品、グッズなどが陳列されています。
ラッピーランド ラッピーランド ラッピーランド
せんべい、まんじゅう、手ぬぐい、ハンカチ、キーホルダー、etc…。
無理に引きとめてショップを開けていただいたので、来た早々ですがお土産にこの「平野せんべい」を購入しました。
平野せんべい
何故このせんべいを購入したかといえば、他の様々な食品は殆ど形や柄ナマズをモチーフとしているのですが、唯一このせんべいだけがナマズの粉末を入れて焼かれたものという事で購入してみたのです。
とは、言いながらも特にナマズの香がするわけでもないのですが、何となくナマズを食べているようで、実に吉川らしいお土産でしょう。

さてここから北口側の散策を始めますが、ロータリーをグルッと半周すると、そこにはもう一つモニュメントがありました。
「花園より」モニュメント
「花園より」というタイトルのようですが、母子が船に乗っているような…。解説が無いので良く判りませんが花園なのです。

割烹ますや

ロータリーからまずは“いちょう通り”を北上します。
1、2分も歩くと左手に「よしかわ天然温泉あゆみ」という大きなビルがあります。
よしかわ天然温泉あゆみ
昨今流行の温泉施設で、ここの食事処「五ッ平太」でなまずが食べられるようですが、流石に昼にも早く、気持ちは行きたい温泉もガマンして先に進みます。
この先で“いちょう通り”を左折し、県道67号線、通称葛飾吉川松伏線を右折して北上します。この県道67号線がある意味“なまずロード”といっても良いかもしれない、なまずを扱った店舗の多い通りなのです。

県道を北上すると左手に大きなモニュメントがあります。
月の公園
「月の公園」という名前のとおり月をかたどった判り易いモニュメントです。
更に北上して「保」という珍しい名の交差点を右折して「日蔵院」に立ち寄ります。
路地を入ったところに山門があります。
日蔵院
参道を進むと参道に対して90度の位置に本堂が建てられています。かつては現在の参道の左右に表参道があったのかもしれません。
本堂はかなり立派で、結構新しそうです。
日蔵院 日蔵院
梁などの彫刻もされていますが、意外と現代的な彫刻で逆に温かみを感じます。
本堂の横に文化財の標柱が立っています。
日蔵院
「吉川町指定考古資料 日蔵院の板碑(弘安7年(1284年)」とあります。
残念ながら板碑は屋内に保存されていて見ることはできませんが、少なくとも鎌倉時代には日蔵院は建立されていたという証となるものでしょう。

参拝を済ませてもとの県道に戻ります。
「保」交差点から再び北上すると、左手に「鷲神社」があります。
鷲神社 鷲神社
こちらの神社のついても由緒などは全くわかりませんが、妙に立派な木造の鳥居に惹かれました。
小さな神社ですが、ここもまた熊野山神社や蕎高神社のように地区では重要な神社なのかも知れませんね。
その斜め右側には古風な豆腐屋があります。
豆腐店跡
なんといってもそのレトロ風な煙突が特徴的な店舗です。もう無住なのでしょうが、何となく歴史ある川魚料理の並ぶ通りに似合った光景です。
そしてその先の左手にある店舗が、今日一番の目的である「割烹ますや」です。
なまずのイラストの書かれた看板にまずは惹かれます。
ますや
左手には「ますや」の店舗があります。
ますや
かなり大きな店舗で、建物のも綺麗ですが、実はこの「割烹ますや」は江戸時代に創業した180年の歴史を誇る老舗なのです。
歴史を感じる建物ではありませんが、それもそのはずで昨年リニューアルしたそうです。
ますや
ということで、今日はここで“なまず”をいただくことにしたのです。

“なまず”をいただく前に、なまずと吉川のなまずの歴史を紐解いてみます。
そもそも“なまず”って何モノと問われれば、当然、魚なのですが、爬虫類とか両生類とか思われる方がいるそうなのですが、それもその容姿・風貌からそう思ってしまうのも無理からぬことかも知れません。
その特徴的な容姿の一つに色が上げられます、そう、あの真っ黒な姿です。しかし実際には日本にも世界にも様々な模様や色の付いたナマズが存在しているのだそうです。
「縦縞模様」「横縞模様」「水玉」「豹柄」「まだら模様」などがあるそうで、こんな一例が挙げられます。
レッドテールキャット コリドラス・セミアクィルス 《左:レッドテールキャット、右:コリドラス・セミアクィルス》
といったようにナマズといっても大変種類が多く、2006年の時点では2800種以上が確認されているようで、魚類の中ではスズキ(約1万種)、コイ(約3200種)に次いで3番目に大きな一群なのです。魚類28,000種から考えれば実に魚類の1割がナマズなのですから驚きです。ですから黒一色と考えるほうが無理があるといっても良いのかもしれません。
ここから考えると、その分布も南極大陸の化石種を含めると地球上の全大陸に分布していることになるのだそうで、恐るべしなまずです。

そしてもう一つの特徴が口ひげで、鼻・上顎・下顎など頭部に最大4対のヒゲをもっているのです。
この口ひげは多機能な感覚器官で、舌と同じ機能を有し距離を測る器官でもあるのです。したがって移動やエサを探すときなどは、この口ひげを最大限に使用しているということになるのです。
更にこの口ひげは種によって様々で、口ひげの届く範囲がエサを捕食できる範囲なので、魚食性のナマズのひげは長く、草食性のナマズは短いということがあります。また、ヒレナマズ科などでは空気呼吸のための特殊な器官ともなっていて、水の外でもある程度生存が可能のナマズもいるのです。
なまずの口ひげは単なるファッションではなく、実に重要な器官だったのです。

こうした特徴とともに、生態もまた興味深いものがあります。
意外なことにナマズは鳴く種があるのだそうで、しかも鳴き方は2通りあるのです。
一つは日本やアジアに分布している“ギギ”などの胸ビレの棘を鳴らす種で、文字通り「ギギッ、ギギッ」と聞こえるのだそうです。
ギギ 《ギギ》
言うまでもなく、鳴き声からこの名称が付いたわけです。
もう一つは浮き袋の振動を利用して鳴くもので、こちらは「グゥーグゥー」とウシガエルのような鳴き声なのだそうです。
これらのナマズが鳴くときは漁獲されたときにも鳴くことから、外敵への警告の役割と考えられているようで、コミュニケーションかどうかは不明なようです。

また、ナマズの中には電気うなぎのように発電するナマズがおり、特にデンキナマズは最大400ボルトを超える電圧を発生させることが可能で、デンキウナギ(約600ボルト)に次ぐ高い発電力を持っているのです。
デンキナマズ 《デンキナマズ》
そのほかに夜行性であり、毒性を持ったものなどがいるようで、流石にその種の多さゆえにバリエーションも豊かなようです。

次は日本におけるナマズを調べてみます。
世界には2800種のナマズが分布しているのですが、日本に棲息しているナマズは、特定外来生物を除くと、たったの3種類となります。この内のビワコオオナマズとイワトコナマズは琵琶湖とその関連水系のみに棲息する日本固有種であるのに対して、日本、東アジア全域に渡り広く分布しているのが「マナマズ」です。
マナマズ 《マナマズ》
しかしながら「マナマズ」の日本における本来の生息域は西日本に限定されていたと考えられていたのです。縄文時代の貝塚など全国各地の遺跡からナマズ種の魚類の骨格が出土しているのですが、古い時代のものは滋賀県より西の地域に限られていたようです。その一方中国で発達した医薬に関する学問である本草学者の人見必大が著した『本朝食鑑』(1697年)などの複数の文献記録や、愛知県と東京都の江戸時代の遺跡等の出土物などから、マナマズは人為的な移植によって江戸時代中期には関東地方に、そして後期には東北地方に分布を広げたと推測されているのです。

参考:本朝食鑑 1 (東洋文庫 296)

そしてこのマナマズこそがいわゆる私たちが一般的にイメージする“ナマズ”の姿といえる、扁平な頭部と長い口ひげ、そして貧欲な食性を特徴とするナマズで、古代から食用として漁獲されたり、様々な文化に取り入れられた歴史を持つナマズなのです。

それではナマズと日本には一体どのような関わりがあったのでしょうか。
食材としてのナマズとしては、東アジア地域では古くから、マナマズを食用魚としていました。世界のナマズ目魚類の総漁獲量は意外なことに1990年代以降急激に増加しているのだそうで、その大半ははアジア地域でのナマズ類養殖業の普及にあるようです。マナマズもまた主要な養殖魚種の一つで、2006年のアジアでの総漁獲量(養殖分)145万トンのうち、30万トン余りを占めているのです。
かつて日本では農村部等を中心として、主に自家消費のための小規模なナマズ漁が行われていたのですが、近年では琵琶湖周辺地区や埼玉県南東部(吉川市)などの特定の地域での漁獲が中心となっています。ナマズ食の歴史自体は古いながらも、現代の日本では決して一般的な食材ではなくなっているのです。
一方、これに反してこれもまた意外なことに、アメリカでのナマズは食材としては実にメジャーなものなのだそうです。
カーター政権の頃ですから1970年後半頃から、アメリカでは動物性脂肪の過剰摂取が肥満と心臓病を招くというので、大統領自らダイエットを呼びかけ、女性たちは脂肪が少なくて蛋白質の豊富なナマズに飛びついたのが始まりといわれているようです。
アメリカではフィッシュバーガーなどに使用されているのですが、その種はアメリカナマズといわれる「キャットフィッシュ」で、文字通りナマズの口ひげが、猫の口ひげに似ていることからこう呼ばれているのです。特にブルーキャットフィッシュとチャネルキャットフィッシュの肉はオオクチバスとならんで賞味されていて、ナマズ漁獲高の大半を占めているのです。
その漁獲高ですが、アメリカの水産養殖の生産量の約半分をナマズが占めていて、ミシシッピ、アラバマ、アーカンソー、カリフォルニア、ルイジアナの各州には大規模なナマズ養殖場があり、全州をあわせると約6万haに及ぶそうです。
アメリカではメジャーな食材として使用され、更にアジアでの養殖量は増加傾向にあるなかで、日本では古くから食されていながら、現在では非常にマイナーな食材となったのは、日本の食文化の変遷によるものといえそうです。

こうした日本における食材としてのナマズとしては、日本産のナマズ科3種の中でイワトコナマズが泥臭さが少なく最も美味とされ、マナマズはこれに次いで味が良いとされているようです。そしてビワコオオナマズは大味で独特の臭みがあり、殆ど利用されることはないようです。
前述した人見必大の『本朝食鑑』では、ナマズは味は良いものの、なますや蒲鉾として利用されるに過ぎないと記載されている一方、シーボルトらによる『日本動物誌』(1850年)では、ナマズはあまり食用にされず、むしろ薬用に用いられると記述されているそうです。
豊かな食文化の繁栄する日本で、あえてナマズを食する必要も無いということでしょう。ある意味現在では珍味という意味合いに近くなっていると考えるべきかも知れません。

このように日本の淡水域に広く分布するナマズながら、一般的な食用魚では決してなかったわけですが、その独特な外観と生態は古くから親しまれ様々な文化・伝承に取り込まれたようです。
その一番の伝承が“地震とナマズ”でしょう。
日本では地震の予兆としてナマズが暴れるという俗説が広く知れ渡っていて、地面の下の巨大なナマズ=大鯰が暴れることにより大地震が発生するという迷信・民俗です。
このナマズが地震の源であるという説は江戸時代中期には民衆に広まったと考えられているようですが、そのルーツについては不祥のようです。しかし、安土桃山時代の1592年、豊臣秀吉が伏見城築城の折に家臣に当てた書状には「ナマズによる地震にも耐える丈夫な城を建てるように」との指示があることから、この時点では既にナマズと地震の関連性が形作られていたことが窺えるのです。そして江戸時代末期の安政の江戸地震などの社会不安を背景として、ナマズ絵などを描いた浮世絵が流行っているのです。
鯰絵 《鯰絵》
このように地震のみならず絵画の世界でも大きな文化を残しているようです。
瓢鮎図 《瓢鮎図》
これは「瓢鮎図」とう室町時代の画僧・如拙によって描かれたもので、ぬめった皮膚のナマズを滑らかなヒョウタンでいかに押さえるかという禅問答をテーマに描かれた水墨画で、後世のナマズ画に多大な影響を与えた作品として、現在は国宝となっているそうです。
このように食材というよりは、文化としての親しみのほうが深いのが日本のナマズといえるかもしれません。

こうしてナマズの生態や関わりを紐解いたところで、実際にナマズを食します。
詳細については 美味是好日での【ますや】を参照していただくとして、この日いただいたのは“ナマズの天ぷら”と“なまずのたたき揚げ”でした。
なまず天ぷら御膳 なまずたたき揚げ
ナマズの天ぷらは、実にホックり軟らかい白身魚でした。また、「ナマズのたたき揚げ」はナマズの身と骨を一緒に“たたき”、味噌を塗って油で揚げたものです。見た目はグロテスクですが、一般的なツミレよりは軟らかいなから、骨のコリコリ感ともマッチングが絶妙な一品です。
どちらにしても泥臭さはなく若干拍子抜けの感もありますが、これが吉川市を代表する食文化の一つと思えば、実に貴重な機会でした。

参考:【ますや】http://masuyayoshikawa.web.fc2.com/

ナマズを堪能し“ますや”を後にして県道を北上します。
少し先に進んだ左側にもう一軒「料亭糀家」があります。
料亭糀家
こちらもナマズ・川魚料理の料亭だそうですが、更に歴史が古く創業400年なのだそうです。
一言400年といってもピンときませんが、安土桃山時代から江戸時代初期のころですから、とんでもない歴史を持っていることになるわけです。
“ますや”や“糀家”という恐るべきともいえる歴史を持った老舗が残っているのもまた、吉川市の一つの歴史・文化といえるでしょう。
先ほどナマズについてしらべましたが、ここではなまずと吉川市の歴史、関わりを最後に掲載しておきます。

川のまちよしかわ。知っておきたい吉川の歴史
東に江戸川、西に中川が流れ、平坦で地味肥沃な吉川地域は、古くから農耕に適していました。七世紀から八世紀の歌を集めた万葉集の東歌にも「鳰鳥(におどり)の葛飾早稲(かつしかわせ)を饗(にえ)すともその愛(かな)しきを外(と)に立(た)てめやも」とあることから、千数百年前から早稲米の産地であったことが分かります。
その後も河川を利用した東国物資の流通拠点として価値を高めました。室町時代初期には下総国下河辺庄(しもうさのくにしもかわべしょう)吉川市といわれる交易市場が開かれ、物資や人々が集まり大きく栄ました。
江戸時代には幕府の直轄領となり、新田開発が押し進められました。有数の水田地帯となった吉川地域は、さらに「早稲米」産地として発達。米の生産量が多くなり、年貢米や商品米が盛んに江戸へ積み出されるようになると、ますます河川交通が活用され、川に挟まれた吉川は、その地勢から一大産業地方都市として繁栄しました。
今もわずかに残る平沼河岸の倉庫群は当時の面影をしのばせています。
このように川で栄えた歴史をもつ吉川では、川の文化がはぐくまれ、川魚料理という食文化が根付きました。江戸時代初期には、河岸付近に川魚料理を売り物にした料亭が軒を連ね、物産とともに集まった人々の舌を楽しませてきました。
川魚料理は「吉川に来て、なまず、うなぎ食わずなかれ」といわれるほどの名声があり、新撰組の近藤勇、元総理大臣福田赴夫氏、同中曽根康弘氏なども吉川に来て食しています。
また、川は人々にとって食材の宝庫、憩いの場として身近な存在でした。川魚漁や川で遊ぶ子どもたちの姿が日常的に見られ、家庭では、なまずの身を包丁でたたき、みそなどを練り込み、丸めて揚げた「なまずのたたき」などが郷土料理として親しまれてきました。 この川に親しんできた歴史・文化が、吉川が「なまずの里」といわれるゆえんなのです。
(吉川市オフィシャルサイトより)

オフィシャルサイトに昭和初期の吉川町の町並みの地図がありますが、確かに店舗が隙間なく並んでいる様子が窺えます。
昭和8年頃のまちなみ 《昭和8年頃のまちなみ:(C)吉川市》
また、糀家のサイトによれば、勝海舟や板垣退助なども訪れたようですが、確かにこれだけ賑わっていれば著名人が訪れるのも無理からぬ話でしょう。

参考:【料亭糀家】http://www.yoshikawa-kojiya.com/

歴史を残した人々に愛された歴史ある吉川のナマズなのです。

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