向島百花園 #1

 3月3日(土)は朝から良い天気となりました。
2月29日に降った大雪は意外と翌日には気温も上がって大方は溶けてしまったようです。しかし前日の2日は朝から雨模様で体感温度では結構寒く感じる日でしたが、天気も良く比較的気温も温かい日となった3日は、私の体調を除いて散策日和となったのです。といっても、風邪をひいたという病気ではなく、前の晩に飲みすぎてしまいかなりな二日酔い状態にあったというです。
そんなことは今に始まったわけでもないので、この日も若干ふらつく体で自宅を出発し、今回もまた前回の墨田区散策同様、電車と徒歩での散策です。

 今回の散策は前述の通り、観梅ツアーで午後からの出発なのですが、折角行くのですから午前中にも少し散策しようと、やはり観梅のできる「向島百花園」に立ち寄る計画としました。
前回の墨田区散策では立ち寄れなかったことから、いずれ一度行ってみようと思っていたところですから渡りに船だったのです。
AM9:00に自宅を出発し、大宮駅から上野駅で銀座線に乗り換え浅草へ、そして浅草から東武線で前回の散策で下車した「曳船駅」の一つ先の「東向島駅」へ向ったのでした。

百花園の歴史

 丁度AM11:00少し前に東向島駅に到着して、5、6分ほど歩いて「向島百花園」に到着しました。
百花園入口の前が児童公園となっていて、奥に百花園の石標柱と入口があります。
百花園児童公園 百花園石標柱 百花園入口
入園口の左手に案内板があります。

向島百花園の沿革
 本園は、江戸時代文化2年(1805)頃、佐原鞠塢という粋人が、向島の寺島村で元旗本、多賀氏の屋敷跡約3,000坪を購入し、当時鞠塢と親交の深かった一流の文人墨客の協力を得、梅を多く植えたことから、「新梅屋敷」として創設したのが始まりとされています。
 往時は、江戸中に百花園の名が知れ渡り、多くの庶民の行楽地として賑わいました。なかでも、弘化2年には、12代将軍家慶の梅見の御成りがあり、明治になると皇室関係をはじめ、多くの著名人が来遊した記録が残っています。
その後、時代の変遷と共に、小倉家に所有権が移り昭和8年2月、国の「名勝」に指定され、時至って小倉氏の遺志(名勝永久保存のため)により、昭和13年10月に東京市に寄付されました。百花園を受領した東京市は、衰退著しかった庭園を復旧し、昭和14年7月8日制限公開にしています。
 この後、戦災で石碑以外は全て焼失しましたが、多くの方々の努力のもと同24年に再び復元。その後、荒廃を余儀なくされましたが初代鞠塢の「群芳暦」を基本に植栽し、同53年10月文化財保護法により「名勝及史跡」の指定を受け、今日に至っています。
この庭園の特徴は、芭蕉の句碑をはじめ二十数基の石碑と園全体の雰囲気が、江戸文人趣味豊かに作庭され、大名庭園とは趣を異にした草庭にあります。また初代鞠塢の頃から「詩経」や「万葉集」に因む歴史的草花を植栽し、春や秋の七草はじめ、四季それぞれの植物が植え込まれ、野趣豊かな庭園となっています。
江戸の文人墨客をはじめ庶民に愛され、今日まで受け継がれてきた、貴重な財産がこの「向島百花園」と言えます。
(現地案内板より)

 確かに元々は江戸時代に創設されたわりには、文化財等々に指定されたのは意外と新しいのに驚きました。これも戦災の影響なのでしょう。
現在では全国的に著名なこの百花園を創設した「佐原鞠塢」とは一体どのような人だったのでしょうか。
佐原鞠塢
まずはそこから紐解いてみます。

 佐原鞠塢は1764年とも1766年ともいわれているのですが、いずれにしても江戸時代中期に仙台で生まれ、幼名は平八と言っていたようです。
成人したのち天明年間(1781~1789)に江戸に出てきて、中村座の芝居茶屋・和泉屋勘十郎のもとで奉公したのだそうです。ちなみに和泉屋の女房が5代目市川団十郎の娘でしたので、この奉公中、後の7代目団十郎の子守をしていたというエピソードもあるそうです。
10年奉公して貯めたお金を元手に寛政8(1796)年、日本橋に骨董屋を開き「北野屋平兵衛」と改名したのです。
芝居小屋での奉公及び骨董屋としての幅広い付き合いの中で、次第に平兵衛は当代の文人達との人脈を作りあげ、自らもその過程で書画・和歌・漢詩などを習得し、粋人としての人格を形成していったようです。 また、商才にも長けており、文人達を集めた古道具市などを開催し店は繁盛していったのですが、あるとき「せり売り」という値を吊り上げるための手法、現代でいうところのオークション商法で幕府から賭博容疑を掛けられ、仕方なく店舗を閉め、一時現在の向島1丁目辺りである本所中の郷で隠棲し、菊屋宇兵衛「菊宇」と名乗ったのだそうですが、その後、文化元(1804)年 頃に文人の一人に勧められ、剃髪して「鞠塢菩薩」を号とし、佐原鞠塢と改名したのだそうです。
当時の交流のあった文人達は、大田南畝(狂歌師)、亀田鵬斉(儒家)、谷文晃(絵師)、酒井抱一(絵師・俳人)、(大窪詩仏(漢詩人)、加藤千蔭(国学者、書家)等がおり、彼らがこの庭園の創設を援助・協力したのですが、「“新”梅屋敷」というくらいですから、当然「梅屋敷」があってもおかしくは無いはずで、この近くの亀戸に「梅屋敷」があったからなのです。

 こうして創設された新梅屋敷は梅園として公開され、文化6(1809)年には、先の文人の一人である酒井抱一により、“梅は百花にさきがけて咲く”という意味から「百花園」と命名されたのです。
こうして江戸時代に文人墨客のサロンとして利用されながら、園の経営者としても鞠塢の才能はいかんなく発揮され、園内の茶店では園内の梅の実から“寿星梅”という梅干や、隅田川焼と言う焼き物を名物として販売し、更に園内に祀ってあった福禄寿に着目し、桜餅が門前の名物の長命寺の弁財天などを取り込み、谷中に倣って「隅田川七福神巡り」を提案するなどして、来園者の誘致を図り次第にその評判が高まっていったのでした。
この時期はちょうど江戸町人文化が最も栄えた文化・文政期(1804~30)にあたり、人々は花と親しみながら茶を飲み、隅田川焼を楽しんだと言われており、百花園共々隅田川東郊が江戸庶民にとって格好の行楽地となったのです。
このように百花園の創設と発展に寄与した佐原鞠塢は、漢詩集「盛音集」、句集「墨多川集」「花袋」のほか、「秋野七草考」「春野七草考」「梅屋花品」「墨水遊覧誌」「都鳥考」などを著し、自ら文人として天保2(1931)年に70歳で死没し、その後佐原家では代々平兵衛を称して、鞠塢と号してきたのだそうで、現在、園内の「茶亭 さはら」の店主がこの佐原鞠塢の8代目に当たる方なのだそうです。

 こうしてこの後、百花園は大いに賑わい、多くの著名人が来園するということになるのですが、そのあたりの顔ぶれを調べてみます。
まず、記述のある12代将軍・家慶の前に、文政12(1829)年、11代将軍・家斉が隅田川遊覧の折にこの百花園に立ち寄ったようです。
また明治になってからは榎本武揚や乃木希典などはちょくちょく立ち寄り、更に明治41年には明治天皇の孫である、昭和天皇・秩父・高松宮殿下が訪れ、時の韓国総監伊藤博文も韓国皇太子を連れて来園したのだそうです。

 この様に繁栄を極めた百花園も明治43年の洪水によって、事態は一変したのです。
明治43年8月におきた大洪水は1ヶ月以上の冠水に見舞われ、殆どの草花は枯れ、再起不能といってもよいダメージを与えたのです。これに対し当時の4代目鞠塢と5代目となる当時長男の梅吉は、善後策を協議し資金を借り入れして再建の道を進んだのです。しかしながら、大正時代となった世では、既に東京からの日帰り行楽地は箱根や熱海に取って代わられた時代でもあり、百花園は再建できたものの昔日の繁栄は望むべくもなく、多額の返済に窮することとなったのです。
この窮状を助けたのが小倉常吉という人で、慶応元(1865)年に埼玉県深谷市で生れ、日本の石油業界の先覚者という実業家です。 そしてこの小倉氏が百花園を救済した経緯が“小倉常吉伝”に記載されているのです。

 小倉常吉が明治四十二年頃(一説には三十九年)に買取った旧鍋島侯の下屋敷は、当時の南葛飾郡向島村字馬場一二九番地から一四九番地を占めていて、隅田川堤の東方約八〇〇米、そして、白鬚神社の東北東約四〇〇米、東武鉄道の線路の西側に所在し、敷地約一万坪といわれた広大な邸宅であった。(中略)屋敷の塀からのぞいている樹木の枝が電車に触れるほど近くを東武鉄道が走っていて、その玉の井駅を下車して、千住方面に少しばかり後戻りしたところにあった。広大な庭にはうっそうと樹木が繁っていて亭々と聳える喬木もあった。築山があり、面積一〇〇〇坪ほどの大きた池もあり、ボートを浮べて遊ぶこともできた。冬になると数百羽のかもがやってきて池に群がった。(中略)家屋は鍋島侯下屋敷当時のものを大正七年頃にとりこわし、百花園の前にあった旧池田侯の建物をそっくり移して建てかえた。建坪は二〇〇坪近くあったと言う。
正門はこの敷地の東南の角にあった。正門の方にはいくらか家屋が立ち並んでいたが、裏門を出ると、玉の井、墨田から千住あたりまでが一望のうちに眺められた。(中略)
 南方三〇〇米ほどのところに「百花園」があり、その間の土地の半分ほどが小倉常吉の所有であったという。その土地に多数の借家を建てさまざまな階層の人々に貸していた。
邸内に井戸を掘り、これらの借家に給水していたので「小倉水道」と呼ばれた。周辺の住民の便宜のために常吉が沼沢地を切り開いてつくった道は「小倉新道」、小さな川にかけた橋は「小倉橋」と呼ばれていた。当時、この付近はやはり樹木が生い繁った沼池が多く夜間には婦女子は一人では歩けないところであった。
百花園は小倉邸の、いわば隣近所とも言うべきところにあった。百花園が経営難におちいった大正四年、小倉常吉はその窮状を救った。
(墨東歳時記「小倉常吉伝」より抜粋)

 要するに小倉氏は佐原家(百花園)のお隣さんだったわけで、それ故に佐原家の窮状が手に取るようにわかっていたのでしょう。こうして百花園は小倉氏の所有となってしまったのですが、かなり小倉氏は大きな人だったようで、この援助の際、佐原家は小倉家に土地所有権を委譲する代わりに、小倉家は百花園を昔の姿に保存し、佐原家の園内における居住権と営業権を認めると言う契約が取り交わされたのだそうです。
こうして援助を得た百花園は辛くも持ちこたえ、大正12年の関東大震災にも火難を逃れ、昭和8年に“名勝”として指定されたのです。これは、多くの庭園が大名や富豪の手になるものであるに対して、百花園は純然たる庶民の手によって経営され、江戸の名残を昭和に伝えていると言う意味で指定されたのだそうです。

 こうしてめでたく名勝として指定された翌年の昭和9年、小倉常吉氏が没し、百花園は小倉未亡人の手に委ねられ、未亡人は昭和13年に百花園を東京市に寄付したのです。

寄附願
東京市向島区寺島一丁目百八十八番地
一、宅 地  二千九百三十八坪八合八勺
同所所在
一、建 物 木造平家建弐棟(延坪参拾壱坪弐合五勺)、同:木造弐階建壱棟(建坪参拾八坪弐合七勺)
一、碑 石  墨沱梅荘記碑 他 三十二基
一、庭園設備一切 向島区寺島一丁目百八十八番地ノ二
一、宅 地  拾弐坪
右私有ニ係ル土地建物其ノ他一切ヲ亡夫常吉ノ遺志ニ基キ御市公園地トシテ寄附致度候間永久ニ保存御経営被成下度段及御願候也。尚庭園設備補修費ノ一部トシテ金七千円也寄附致度申添侯
昭和拾参年九月二十八日
東京都赤坂区氷川町五十一番地 故小倉常吉妻 小倉乃ふ

東京市長 小橋一太殿
百花園寄附申出に際し小倉のふ氏代理兵須久氏より口頭を以て申添
昭和十三年九月二十八日市長室にて
一、比の寄附は小倉常吉氏生前に社会公共の為め何等かの貢献を為したき希望ありしも、急逝せられたるを以て、未亡人のふ夫人は、夫人に分与せられたる遺産の一部である百花園の土地を、東京市に寄附し亡常吉氏の遺志一部を達成されんものとするものである。
軽少のものではあるが何卒此の趣旨を了承せられたし。
一、百花園は先年維持困難となり荒廃に帰し処分せられんとせし時、常吉氏が保存の趣旨を以て買求め修理を為し、旧来通り之が所有者佐原氏に管理せしめ、未亡人の所有となりし後も其の旨を継承し今日に至って居るものなれば、東京市に於ては之れを永く保存され、江戸時代以来の名所を後世に伝へられんことを切望せり。
一、百花園は近年著しく荒廃し、殊に九月一日の風雨の為め損傷せるを以て、相当なる修理復旧を為して市へ寄付すべきものなれば、名勝指定庭園として直に運び難きを以て、其経費の一部として金七千円を寄付することとせるを以て宜敷取計はれたし。
一、園内には、元所有者にして創設者の子孫たる佐原鞠塢居住、管理の任にあるを以て、一切を挙げて御市へ寄附致し候も、縁故深き同人に対しては特別の御考慮を加へられたし。
一、園内一部に営業し居る料理店千歳は撤退せしむべき希望なるも、同建物は公園としても御不用なるやに承知し居るも、保存指定地域中に在るを以て、之の部分の解除を得て、料理店撤去方に御高配を乞ふ。
尚其期限に就ては御指示願いたし。
(墨東歳時記「東京都公園緑地部所蔵文書」より)

 特筆すべき事項は寄付の条件で、当時の佐原家の当主である(5代目梅吉氏)を東京市の職員として管理業務を委ねることを要望し、東京市は佐原一家の人たち全てを市嘱託としたのだそうです。実に小倉家の心使いに第三者ながら感服する次第ですが、このような経緯があったからこそ、現代でも8代目の佐原氏が管理をされているというわけなのです。
そして昭和14年制限公開をされたのを機に、百花園来由の碑として「東京市碑」が建てられたのですが、それがこの入口の右側に立っています。
東京市碑
面目も一新し新たな時代に進む百花園でしたが、昭和20年3月10日の東京大空襲により福禄寿の尊像一体を残したのみで焼失したのです。2度、3度の苦境に陥った百花園でしたが、多くの人たちの努力により昭和24年に再び復活したのです。

 現在、東京都の管理している庭園は百花園を含めて9ヶ所あります。それらの所有者を調べると前述された名勝指定の理由が明確に判ります。
◇浜離宮恩賜庭園(将軍家の別邸→皇室の離宮)◇旧芝離宮恩賜庭園 (老中・大久保忠朝→皇室の離宮)◇小石川後楽園(水戸徳川家大名庭園)◇六義園(柳沢吉保邸→岩崎家)◇清澄庭園(下総国・久世大和守→岩崎家)◇旧古河庭園(陸奥宗光の別邸→古河財閥)◇旧岩崎邸庭園(三菱創設者・岩崎家本邸)◇殿ヶ谷戸庭園(満鉄副総裁・江口定條の別荘→岩崎家の別邸)
全てが江戸時代の大名或いは実力者、そして明治時代以降では皇室、財閥など、いづれも時の有力者によって所有されていたのです。確かにスケール感や充実度などは大きな差があるのでしょうが、庶民の為の庶民による庭園というのが理解できる、貴重な庭園であることを認識させてくれるものです。
煌びやかな大名庭園とは違い、山椒は小粒でもピリリと辛いと人情溢れる歴史を持つ百花園は、まさに下町に相応しい庭園と言えるのでしょう。
入園料150円でいざ入園です。
入場券
江戸の庶民の名残を楽しみに、園内を散策します。

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