向島百花園 #2

 百花園の歴史や由来が理解できたところで、いよいよ入園します。
江戸の庶民文化の一旦ともいえる百花園を思いっきり味わってみます。

庭園ガイドツアー

 入園したときが丁度AM11:00で、毎週土日にはAM11:00とPM2:00にボランティアによる庭園のガイドがあるとのアナウンスに、良い機会なのでガイドをしていただくことにしました。
ここ向島百花園でも2月4日から3月4日まで梅まつりが開催されているのですが、こちらの梅はどのような状態なのでしょうか。
早速スタートし、最初に説明をいただいたのがこの句碑です。
芭蕉句碑
ちなみに横の方がボランティアのガイドの方で、失礼ながらお名前は失念しました。
この句碑は言わずと知れた芭蕉の句碑で、「春もやや けしきととのう 月と梅」と刻まれた江戸時代末期に建てられた碑だそうです。
この句碑のポイントは「はせお」と刻まれた俳号が良く使用されている所なのだそうです。
芭蕉句碑
江戸時代の頃は“芭蕉”と書かずにこのように書いていたようです。

 その隣にある「益賀句碑」はこの百花園に縁のある句碑です。
益賀句碑
それは、この句碑に刻まれた書体が、縁の文人でも登場した絵師である酒井抱一の筆によるものなのだからです。
この碑も文化11(1814)年の建立だそうなので江戸時代の句碑です。
この酒井抱一は、徳川末期の画家および俳人で、姫路城主酒井忠仰の第二子です。尾形光琳に私淑し琳派の雅な画風に俳味を取り入れた詩情ある洒脱な画風に翻案し江戸琳派の祖となった、粋人中の粋人といっても良い人なのです。酒井抱一のプロフィールについては東京迷宮案内の【雑司ヶ谷七福神 彷徨】で訪れた法明寺「蕣(あさがお)塚」で紐解きましたが、ここ百花園においては、百花園を命名した人でもあり、いわゆる百花園の重要なパトロンという存在なのです。

 2基の句碑の先には庭門があります。
庭門 庭門
戦災後に復元されたものだそうで、扁額には「花屋敷」と記載されていて、左側に縦書きで書かれているのが“蜀山人”という署名で、大田南畝の書によるものです。
大田南畝は天明期を代表する文人・狂歌師で、膨大な量の随筆を残しました。
大田南畝 《大田南畝》
勘定所幕吏として支配勘定にまで上り詰めたエリートだった一方で、余技で狂歌集や洒落本などを著し、唐衣橘洲・朱楽菅江と共に狂歌三大家と言われる程の文人であったようです。また、左右の柱には「東西南北客争来」と「春夏秋冬花不断」の一対の聯が掛けられていて、これは大窪詩仏の書になるものだそうです。
一対の聯
大窪詩仏とは江戸時代後期の漢詩人で、先の蜀山人によれば、「詩は詩仏、書は米庵に狂歌俺、芸者小万に料理八百善」、「詩は詩仏、三味は芸者よ、歌は俺」などといって激賞したのだそうです。
その八百善での会食がこちらの絵です。
料理八百善 《左から大窪詩佛、酒井抱一、亀田鵬斎、蜀山人(太田南畝)と推定されています》
右の「春夏秋冬花不断」の下には“文政丁亥”と書かれていいます。
春夏秋冬花不断
是非この年を調べてみてくださいといわれたので調べてみれば、文政10(1827)年にあたり、この頃の詩仏は下り坂にある頃で、文政8年に秋田藩に出仕し、殆ど拘束を受けない条件で江戸の藩校日知館の教授であった頃であった時期のようです。
そして性格的に穏やかで物事に頓着しない性格で少しも驕ることがなく、人付き合いも良く、酒を好んだことから多くの文人墨客と交流し、詩壇のアイドルとまで言われたようです。恐らく百花園でも人気者だったのかもしれません。
ただ、残念なのはこの聯も扁額同様復元されたものだということです。

 そして庭門を抜けて庭園に入るとすぐ左手に更に石碑があります。
墨沱梅荘記
亀田鵬斎の「墨沱梅荘記」碑で、梅の名所である百花園について書かれたもので、文政11(1814)年に書かれたものだそうです。
亀田鵬斎とは江戸時代の化政文化期の書家、儒学者、文人で、「下谷金杉の酔先生」と親しまれたようですが、塾を閉じて50歳頃より各地を旅し、多くの文人や粋人らと交流し始め、特に享和2(1802)年に谷文晁、酒井抱一らとともに常陸国を旅したことがきっかけで、後この3人は「下谷の三幅対」と呼ばれ生涯の友人となったのだそうです。
亀田鵬斎 《亀田鵬斎》
ちなみに百花園に出入りしていた谷文晁は、江戸時代後期の日本の画家で、江戸南画の大成者であり、上方の円山応挙、狩野探幽とともに「徳川時代の三大家」に数えられたほどの文人です。

 そしてその先の頭上に妙な木があります。
柏
葉は全て枯れているのに枝についたまま落ちないという不思議な樹木ですが、これが柏の木なのだそうです。そしてこの葉があの柏餅を包んでいる柏の葉なのですが、生の柏の葉を見たのは初めてです。
柏の木の先は一際広いエリアとなっていて、緋の毛氈の椅子と朱の日傘が梅祭りを感じさせてくれます。
庭園
そして手前にあるのが早咲きの「紅冬至」で、その後にあるのが「しろかが」という品種です。
紅冬至 しろかが
八分咲きの「紅冬至」と二分咲きの「しろがね」といったところでしょう。
この状態での観梅としてはちょっとガッカリなのですが、ガイドの方から「観梅」に対して「探梅」という梅の楽しみ方であることを教えていただきました。

 高野素十という明治から昭和に掛けた俳人の句にこのような句があります。
「探梅や 枝の先なる 梅の花」

探梅とは、まだ冬のうちに、春を待ちかねて野山へ早咲きの梅を探しに行くことである。
冬枯れのなかに春の兆しを探る。その心馳せが肝腎である。
果たして梅の花に出会えれば結構なことだが、出会えなくても文句はない。(素十の)句は、梅を探ね歩いてやっと見つけた枝先の一、二輪の花だけ詠んで、言外に春を待つ思いを滲ませている。
俳人のこのゆかしさも、梅に劣らない。
(長谷川櫂「季節の言葉」小学館より)

 この“探梅”という言葉を冬の季語としたのは芭蕉といわれていて、この微妙な季節感を感じ取るのも梅の楽しみ方ということなのでしょう。
万葉集にもいくつか探梅の歌が詠まれています。
「我がやどの 冬木の上に 降る雪を 梅の花かと うち見つるかも」巻8-1645 巨勢宿奈麻呂
梅の木を眺めながら、蕾はもう膨らんできたかとじっと目をこらしているうちに何時しか雪が白梅に見えてきて…、といった粋な歌なのです。まさにポジティブシンキングの極みここにありといったところでしょう。
私たちも今日は「観梅」ではなく「探梅」を楽しむことにします。

 斜め左に移動すると、その一画には「七草」が植えられていました。
春の七草
七草といえば春と秋の七草ですが、今日は「春の七草」が植栽されていました。
芹(せり)・薺(なずな)・御形(ごぎょう)・繁縷(はこべら)・仏の座(ほとけのざ)・菘(すずな)・蘿蔔(すずしろ)の七草ですが、これは14世紀の南北朝時代に四辻善成という右大臣が源氏物語の注釈書“河海抄”のなかで、「せりなずな 御形はこべら 仏の座 すずなすずしろ これぞ七草」と記載し、これが後年、春の七草の七種の草と詠み並べ方の基となったものなのだそうです。
そして、春の七草は「七草がゆ」にして食べるなど、”食”を楽しむものですが、秋の七草の方は花を”見る”ことを楽しむものなのだそうです。

 更にこの百花園には「夏の七草」があります。
夏の七草 夏の七草
勿論、咲いてはいないので現在は看板だけですが、夏の七草が記載されています。
これは夏といっても七夕の花として飾られるのが夏の七草のことです。そして花束が扇形に仕立てられるので、またの名を「花扇七草」というのだそうです。初めて知ったのですが、冬は流石にないのでしょうね…。

また、秋の七草に関しては、この区画のすぐ前の区画に「秋の七草」の歌碑が立っています。
「秋の七草」の歌碑
「秋の野に 咲きたる花を 指折り かき数うれば 七種の花 芽(はぎ)の花 乎花(おばな) 葛(くず)花  嬰麦(なでしこ)の花  姫部志(おみなえし) また藤袴 朝貌(がお)の花」と刻まれている碑で、山上臣憶良という奈良時代前期の歌人の歌です。
秋の七草は万葉集のこの歌で山上臣憶良が選定し現在に至っているのだそうです。
ここに記載のある乎花はススキのことで、朝貌とは朝顔ではなく“桔梗”のことであるのが定説になっているのだそうです。

 そしてもう一つこの一画には重要なポイントがあるそうで、それは手前に張られた、一見無造作に見える竹と荒縄の柵なのです。
竹と荒縄の柵
とりあえず手っ取り早く柵を作ったというものではなく、きちんとした由緒があるものなのです。
前述したようにこの百花園は多くの文人墨客の協力によって作りあげられたのですが、彼らは流石に文人として一過言ある人たちなので、1本の木、1つの石、1筋の道にもこだわりを持っていたのです。
その中で、植え込みと園路との境界をどうしたら良いかという議論が沸き起こり、各自の思いがまとまら無いために、鞠塢が最初に園の計画をした時の仮の区画に用いた青竹の先に荒なわを結んで廻らせた形態をそのまま残すことで、文人達に納得させたものなのです。ある意味では歴史的な生垣といえるのかもしれません。

 この七草の一画の周りには梅が沢山植栽されているのですが、やはりごく一部の早咲きは咲いていますが、多くは蕾のままです。
梅 梅
これがまさに探梅の醍醐味といっておきましょう。

 その先に見える建物は「御成座敷」という建物だそうです。
御成座敷
この「御成座敷」というのは、百花園創設当時に来園者のために酒井抱一が設計したといわれている建物です。この建物の基礎は、当時、隅田川の洪水に対処する為、池を掘り、その土で基礎(塚)を築いた「水塚」という上に建築されたのだそうです。
そして、11代将軍・家斉がお成になって以来、「御成座敷」と呼ばれたそうです。しかしながら、安政の大地震で倒壊、再建され、更に東京大空襲で焼失し、3代目は昭和36年に再建されたそうですが、老朽化のため昭和61年に改築され現在に至っているものです。
現在は宴席や集会所として利用できるそうです。また、先の「茶亭 さはら」で料理の用意もできるようなので、多くの文人墨客が集った歴史と江戸情緒を味わうにはぴったりの場所といえるかもしれません。

 「御成座敷」の前を通って次は百花園のビュースポットとともいえる池に向います。
池
グルッと池の周りを巡ると、このようなビュースポットに到着します。
スカイツリーと百花園
まさに江戸と平成のコラボレーションとでも言うべき風景です。勿論、このような光景は江戸時代は当然としても、昭和の人間ですら予想しなかった光景といえるはずです。
しばし歴史の流れを感じてみたいものです。
池の辺に大きな石碑が2基あります。
きょうげん塚
1つは「きょうげん塚」というものです。

きょうげん塚
 二世河竹新七、俳名は其水、晩に古河黙阿弥と改む。壮年より演劇作者となり、古稀の齢を踰えて明治25年の春、喜の字の祝さえなしけるに、明くる年料らずも病のために身まかりぬ。その一生の間に書き綴りたる新作の狂言およそ三百余ほどありて、古来の作者に珍しきことなれば、その名を続ける門人等師のむすめと計り、これを後の世に伝えてんと、石を建てて狂言塚と名づけ、初代の名残りの葱塚になずらえて、しのぶの文字を書きつくることしかり。
明治27年11月
(現地案内板より)

 何気ない石碑ですが、この古河黙阿弥という人は幕末明治期の歌舞伎狂言作者なのですが、当時の歌舞伎界ではかなり重鎮だったようです。
古河黙阿弥
文化13(1816)年、江戸・日本橋の裕福な商家に生まれ、若い頃から遊蕩にふけり、14歳で道楽が過ぎて親から勘当され貸し本屋の手代となって生計を立て、芝居の世界にも出入りするようになったようです。
そして天保6(1835)年に仕事を辞め、20歳のときに5代目鶴屋南北の門下となり、初代勝諺蔵を名乗って狂言作者見習となり、この年の3月に江戸市村座の番付に名が出たのが作者生活のスタートだったのです。
そもそも抜群の記憶力があったことから“勧進帳”等は若い頃から読んでいたので、全てを暗記して難役・弁慶を務める7代目市川団十郎を後見(歌舞伎役者の背後などに控え、その補助を行う役者や舞台要員のこと)によって認められ、天保12(1841)年には芝晋輔 、天保14(1843)年には「2代目・河竹新七」を襲名して江戸河原崎座の立役者となったのです。
そして嘉永7(1854)年、4代目市川小団次のために書いた「都鳥廓白浪」が大当たりとなり、これが出世作となりました。以後、慶応2(1866)年に小団次が亡くなるまで『三人吉三廓初買』(三人吉三)や『小袖曾我薊色縫』(=『花街模様薊色縫』、十六夜清心)などの名作を次々に発表し、また、3代目澤村田之助には『処女翫浮名横櫛』(切られお富)、13代目市村羽左衛門(5代目尾上菊五郎)には『青砥稿花紅彩画』(白浪五人男)などを書き、引っ張りだことなったのです。

 明治維新後もその筆は衰えず、5代目尾上菊五郎、初代市川左團次、9代目市川団十郎等に名作を書いたのです。
しかし、明治時代となって文明開化の世となり、西洋の演劇に関する情報も知られるようになると、歌舞伎の荒唐無稽な筋立てや、興行の前近代的な慣習などを批判する声があがり、明治5(1872)年、歌舞伎関係者が東京府庁に呼ばれ、貴人や外国人が見るにふさわしい道徳的な筋書きにすること、作り話(狂言綺語)をやめることなどを申し渡されるなど、のちの演劇改良運動のきっかけともなる気運となってきたのです。
その様な空気の中で、特に9代目市川団十郎に乞われて新七も、時代考証を行い史実に基づいて脚色した新しい時代物である“活歴物”をいくつか書いたようですが、その9代目が演劇改良運動に本格的に取り組み始めると、これに嫌気がさし始め、明治14(1881)年の『島鵆月白浪』(島ちどり)を一世一代の大作として引退を宣言したのです。
その引退の際に「自分の意見(反演劇改良運動)に耳を貸すものがいないならもう黙っていよう」という自虐的な意味合いで、名前を河村新七からただの「黙阿弥」と改めたのです。
こうして引退した黙阿弥でしたが、当時黙阿弥に匹敵する作者がおらず、結局、助筆の立場ながら事実上の立役者であり続けたのだそうです。
そして演劇改良運動が活歴の失敗という形で幕を下ろすと、黙阿弥は名前を古河黙阿弥と改め、意欲的な創作活動は以前にも増して活発になり、それは最晩年まで変わることはなかったそうです。

 生涯の作品は360本に及ぶという大家ですが、歌舞伎を知らない人にとってはやはりそれ程馴染みはないのですが、意外と身近にその作品に触れていたようです。
恐らく歌舞伎を知らない人でも「こいつぁ春から縁起がいいわえ」や「知らざあ言ってぇ聞かせやしょう」という科白は聞いたことがあるでしょう。
これらが古河黙阿弥が書いた『三人吉三廓初買』(三人吉三)大川端庚申塚の場、お嬢吉三の科白であり、『青砥稿花紅彩画』(白浪五人男)浜松屋の場、弁天小僧菊之助の科白なのです。
特に前者の科白は、通りすがりの夜鷹を大川に突き落として金を奪ってみたところなんと百両もあったという、とんでもない幸運を素直に喜ぶ盗賊の浮かれ具合を言い表したもので、強盗傷害犯の悪逆さを観客に微塵も感じさせないのが「黙阿弥調」と呼ばれる華美な科白なのだそうです。
そして更に古河黙阿弥の本領発揮したものが、小心者であったり因果に翻弄される弱者でありながら盗賊などである悪人を主人公とした“白波物”という分野を確立したことにあるといわれているのです。
このように掘り起こしてみると、歌舞伎を殆ど知らない人でも、「ああ、あれね」と気付く人も多いでしょう。100年以上も経過した作品が、現代の一般社会に残っているほど、名作を残したまさに大家といえる人なのです。

 余談ついでながら、この“黙阿弥”、「元の黙阿弥」の由来のような気がしていたのですが、本来の由来は戦国時代の1551年、大和の武将筒井順昭の遺言に由来するものなのだそうです。
内容は筒井家当主である筒井順昭の死に当たり、嫡男・順慶が幼いため敵対する松永家から攻められる可能性もあるので、順昭の死後、順昭に似ている木阿弥(黙阿弥)という僧を影武者に仕立て時を稼ぎ、筒井家が安泰となってから木阿弥は任を解かれ、「元の木阿弥」に戻ったという故事です。
既に江戸時代にこの故事を新七が知っていれば、“筒井家当主→平民(僧)”をなぞって“当代の大作家→庶民”という意味で木阿弥という名を使用し、“黙して語らずこと”を掛けて「黙阿弥」としたならば、さすが当代一流の作家たる由縁といえるでしょう。なぜなら、ただ単に“黙して語らず”だけであれば本名・芳三郎をもじって「黙三郎」、あるいは「黙七」でもよいわけですから、「元の木阿弥」ならず「唯の黙阿弥」とは、やはり洒落の効いた話といえるのです。

 もう一つの石碑は「しのぶ塚」という碑です。
しのぶ塚

しのぶ塚
隅田川よ二面よと、歌舞伎にも浄瑠璃にも世にもてはやさるる荵売は、安永四とせ中村座の春狂言に初代中村仲蔵が勤め、前の河竹新七の作なり。そが正本を、ある人より贈られて久しゅう秘蔵せしは、名を嗣ぐ者の幸せと悦びしが、この度ここに埋みて、昔忍ぶの墳と名づけその故よし記しつくるは、隅田川の流れ絶えせず伝えて、二面の二つなき功績を、後の世に遺さんとてのわざになんありける。 明治13年3月
(現地案内板より)

 先ほどの「きょうげん塚」と後先になりましたが、この「しのぶ塚」は初代河竹新七に関するの碑なのです。
初代河竹新七が初代中村仲蔵のために作った浄瑠璃を「荵売」〈垣衣戀寫繪(しのぶぐさこいのうつしえ)〉といい、この“荵”をとって「しのぶ塚」としたのです。
先の「きょうげん塚」の最後に記載されていた「初代の名残りの葱塚になずらえて、しのぶの文字を書きつくることしかり」は、このしのぶ塚を真似て付けたものだという事です。
歌舞伎にまつわる碑、2基もまた百花園では見所のようです。

 園の中央付近に戻ると、紅梅も一部開花している梅の木がありました。
梅 梅
白梅も結構ですが、やはり紅梅のほうが個人的には梅らしさを感じます。
するとガイドの方から、「白梅と紅梅の見分け方を知っていますか」と問いかけられたのですが…!
白い花が白梅で、赤い花が紅梅で、まあ、ピンクはなんと言えば良いのか判りませんが、そんなところでしょうと思っていたところ、思っても見なかった回答を教えていただきました。
梅の紅白の見分け方は、花の色ではなく枝の断面が紅色ならば紅梅で、逆に紅色の花が咲いても枝の断面が紅色でなければ紅梅では無いということになるのだそうです。
白梅と紅梅 《白梅と紅梅の枝の断面:(C)青梅市観光協会》
今まで、何回か観梅をしましたが初めて知りました。実に驚きの事実です。

 最後に案内いただいたのが、こちらの小さな花「セツブンソウ」です。
せつぶんそう せつぶんそう
直径2cm位の白い花で、可憐な花です。
このセツブンソウは関東地方以西に分布していて石灰岩地域に多いそうです。名前は文字通り節分の頃に咲くことから付けられたのです。
確かに可憐な花ですが、それだけでわざわざ案内していただいたわけではなく、このセツブンソウはレッドリストでの準絶滅危惧種なのです。やはりその可憐さゆえか、乱獲や自生地の環境破壊によって希少植物となっていることから、咲いているときには見ておくべき花なのです。
案内がなければ絶対に気がつきもせず、見ることもなかったでしょう。

 これで予定の30分のガイド時間も10分以上過ぎてしまったことから、今回の庭園ガイドはこれで終了です。
やはり案内をしていただくと新しい知識を得たり、理解がし易かったりと貴重な経験となりました。
お礼を言ってボランティアの方と別れ、この後少しの時間園内を散策しました。
萩の道
秋には萩が見られる「萩のトンネル」などを見ながら、百花園を後にしました。

 園をでた先には、「日本一のきびだんご」なる屋台も出ていました。
きびだんご きびだんご
百花園に似合った下町の庶民的な風景でした。
この後、丁度12:00になったこともあり、百花園のすぐ前にある【pasta & pizza SANTINI】で大変美味しいパスタをいただいてから、午後のメインである観梅ツアーに参加します。
サンティーニ
しかし、この時はこの後に起こるアクシデントに思いも寄らなかったのです。

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