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梅見街歩きツアー #1

 美味しいものは行列しても食べるものだという気持ちが、近年少し判りかけてきたこのごろなのですが、やはり待たずに済ませられることに越したことはありません。
昼食をいただいた「pasta & pizza SANTINI」は時間もまさに昼食時でしたし、後になって知れば非常に美味しいパスタの食べられる地元常連の通うような店舗だったので、店内は既に満席一歩手前といった感でしたが、滑る込みセーフとばかりに入店しオーダーをすませたのがまさに12:00ジャストでした。

 午後のスケジュールは昼食後東向島駅に戻り、時間が有れば駅周辺を散策し、2駅先の小村井駅までおよそ10分で12時50分の集合時間にという行程です。
しかし、ここで何とオーダーしたパスタが出されたのが、12:25まで実に25分待たされることとなったのです。まあ、ちょうど昼時なので仕方ないのですが。
サクッと済ませて出発することもできたのですが、まあ、最悪タクシーで行けばという安易な気持ちで気持ちゆったりと味わい、12:40分に店を出たのです。
まあ、駅にして2駅、しかも都内ですからそれ程の距離があるとは思えません。タクシーでも10分もあれば充分とばかりに進んだのですが、明治通りや水戸街道では全くタクシーを拾えません。
結構あせり半分で、タクシーを拾えたのが12:50分で既に集合時間ですが、とりあえず遅れる旨を連絡して小村井駅に到着したのが13:00ジャストに到着しました。
やはり時間指定のあるものは、余裕を持って行動しなければならないことを、久しぶりに教えられました。

香梅園

 小村井駅には既にツアー参加者が駅前に集っており、スタッフの方3名にお詫びを言って事なきを得ました。
小村井駅 ツアースタッフ
今回の参加者は7~8人(関係者らしき方もいたので…)のようで、予定の15人の半分程度でした。催行が順延になった影響があるかもしれません。
スタッフの注意点を聞いていざ出発ですが、下町らしい注意点が1点告げられました。
下町ゆえに道が狭くその分歩道も狭いのですが、それに反比例するかのように自転車の通行が非常に多いのだそうです。そこで前から後から来る自転車に対してスタッフが注意を呼びかけるので、必ずその際は住居(建物)側に寄ってくださいとの注意でした。結構事故も起っているようですから。
また、今回のツアーには“Jcom”のロケがあるそうで、BSで見られるそうなので楽しみです。
そんなこんなで出発ですが、確かに狭い歩道がこの有様です。
ツアー
歩行には注意するのも頷けます。

 最初の目的地は「香取神社香梅園」です。
小村井駅から明治通りを南下し、2、3分で右折して進みます。
進んだ道は何の変哲も無い通りなのですが、この道は古くからある「平井道」と呼ばれる通りなのだそうです。
平井道
この通りを東(今来た明治通り方向)方向にしばらく進むと“平井橋”があり、その橋を渡ったところに浅草の待乳山聖天、埼玉の妻沼聖天と並んで関東三聖天と呼ばれる“平井聖天”があるのだそうです。 この道はいわゆる平井聖天の参詣への道というわけで、実際は吾妻橋から押上、北十間川沿いを通って境橋を左折し、香取神社を右に進み平井聖天に向う古道なのです。
平井聖天自体不祥ながら平安時代創建ともいわれる古刹だそうなので、古くは随分とこの道も往来で賑わっていたのでしょう。
平井道とスカイツリー
その古道からもスカイツリーが望めますので、時代は確実に流れているのです。

 ここからホンの1、2分で最初の目的地である「香取神社香梅園」に到着です。
香取神社香梅園
大きな石造の鳥居が存在感を示しながら、鳥居に掲げられた梅祭りの提灯が華やかさを演出しています。
香取神社香梅園
まずは一同境内に入り宮司からの挨拶を受けるのですが、残念ながら園内の梅はやはりここでも探梅のようなので、その代わりにと嬉しいプレゼントをいただきました。
挨拶 写真集
非売品の「香梅園」という36ページの梅園の豪華写真集です。
そして宮司より香梅園についての説明をいただきました。
梅園説明

小村井梅園の由来
 小村井梅園は江戸時代に作られ、当時の名所案内にも数多く紹介された江戸近郊の梅の名所です。
 香取神社の東側に位置し、小村井村字出土511番に3,300坪の広さを持ち、切絵図には「梅屋敷 名主小山孫左衛門 年毎御成有」と記され、毎年梅花の盛りには将軍家の御成りがあり、御成り梅の名も残っていました。紅梅白梅と姿良く、また老樹も多く大きな実も取れました。
 園内には、築山や池に多くの名石が組まれ、東西に亙り松の大木が2列に並び立ち、鴨・鷺など多くの鳥が飛び交い、利根川の魚を畜った釣掘りもあり、花菖蒲に秋の七草と、多くの人で賑わいました。安藤広重の「絵本江戸土産」の錦絵には「小村井は亀戸より4、5町巽の方に在り此の所に香取の社あり、その傍梅園ありて満開の節は薫風馥郁として行人の鼻を穿つ、実に新古の梅屋敷にも倍したる勝景…」と記されています。惜しくも明治43年の大水で廃園となりました。面影を忍び、此處にその由来を記して記念とします。
平成2年9月吉日 平成2年度世話人
(現地案内板より)

 新古の梅屋敷とは、百花園で知った亀戸の「梅屋敷」、そして百花園の「新梅屋敷」をいうのですが、それの倍ほどもある3,300坪の広さですから名所になるのも当然でしょう。
そしてこちらが広重の「絵本江戸土産」の“小村井梅園”です。
「絵本江戸土産」の“小村井梅園” 《小村井梅園:(C)写真集「香梅園」》
中央に富士山のような築山があり、それを囲むように池がめぐらされています。当時、ここには大きく価値のある石が数多くあったそうで、それらを中心として梅が植樹されていたようです。絵で見る限り梅園というよりは山河そのもの、自然の風景といっても過言ではない広大さのようです。
事実、2009年の3年前に訪れた埼玉県の【越生梅林】が約2ヘクタールですから、3,300坪=約1へクタールの小村井梅園はその半分もの広さがあったわけです。

 このように下町三大梅園の一つでもあるかのような小村井梅園でしたが、新梅屋敷=百花園同様、明治43年の洪水で跡かたも無いほどのダメージを負ったようです。
そして百花園と同じように残ったのは石碑ならぬ庭石で、価値があるもの故に数多くの石が買われ、運び出す為1つの石に牛馬数頭で引いていったようで、その中には坂道が登れず沿道の民家に飛び込んでしまったエピソードもあるそうです。
それでも百花園は再建されたのですが、小村井梅園はその広さゆえだったのか再建されることはなかったのです。しかしその江戸の情緒とも言うべき小村井梅園のそれこそ文字通りの江戸の“香”が復活する時が来たのです。

はじめに
 江戸時代の名所としての「小村井梅園」が明治43年の大水で廃園になりました。その面影を偲ぶ思いから、平成6年度の神社役員の皆さんと相談しながら梅園の設立を願い、平成6年2月に小村井香取神社「香梅園」として、何とか開園の日を迎えることができました。
 それ以来、小村井香取神社香梅園奉賛会の皆様方、また各関係の方々の御協力のもとに、今年で無事に16年の歳月を経ることができました。この節目に際しまして、平成6年2月のスタートの時点からのその年々の姿を再現して、ここに記念の小冊子を纏めることにいたしました。
 「香梅園」の設立趣旨、造園上の特色、献花祭の時の御神札、テレホンカード、クオカード、参詣の皆棟方から御奉納いただいた短歌・俳句、開花した梅花の絵にも優る姿、等々を交えて「香梅園」の16年の来し方の足跡を織り成してみました。どうぞその思いを御理解いただき御覧頂ければ幸甚です。
 改めて御関係の皆橡方の御協力に深く感謝申し上げ、ここに厚く御礼申し上げる次第です。
平成22年3月 小村井 香取神社』(「香梅園」写真集より)

 写真集が刊行したのが2年前ですから、現在では18年の歳月が経過しているということでしょう。
香梅園の足跡 《香梅園の足跡:(C)写真集「香梅園」》
宮司としては念願だった梅園だったそうで、100本以上の梅を植樹したそうですが、梅園の面積に比べて梅の木が多すぎ、かなり窮屈でゆったりした情緒が失われることも念頭にあったそうですが、やはり色彩とその香に包まれる梅園として考えた末だったと語られていました。
このあたりのことも写真集に記載されています。

香梅園について
 香梅園の設立につきましては、、江戸時代の名所としての「小村井梅園」の復活ということもありますが、香取神社の境内に多くの種類の花梅を集め、その花色の多彩と馥郁とした香りの高さとを香取様にお供え申し上げるという方に比重がございます。更に、参拝する方々が境内の多彩な花梅を拝観することにより、香取様の御神徳を益々戴くことができますようにとの願いも、込められてございます。
 名称は、香取様にお供えする梅園、香りの高い多くの花梅の梅園、この二つのことから「香梅園」といたしました。
その梅園の造りとしましては、京都にある庭園の造りを参照にし、梅園の中の中門は桧の丸柱に杉皮の屋根を葺き、備州の桧材の格子戸をつけ、裾には高低の差をつけた縦の桟を追加しました。欄間の額は楡(にれ)の銘木に「香梅園」の丈字を彫って黒漆を塗りました。中門の手前には、右に南天左に柊(ひいらぎ)南天と水蛍燈籠を配します。南天も柊南天も共に難を転ずるといわれます。水蛍燈籠ほ蛍燈籠ともいわれ、二つの重なった三角の窓から見える燈(ともしび)が蛍の飛び交うようにチラチラとして見える風情から名付けられました。中門の手前ほ丹波の切石を敷き並べ、中門の中は鉄平石を乱張りにし、縁取りに六方右を立て並べてあります。園内は回遊式になっていまして、梅の花は歩むごとに目通りの高さで味わっていただけるとともに、枚垂梅の垂れ下がる花のトンネルの中を歩むに似て、その雰囲気は楽しいものです。花の雲の中を歩いているようです。
 今回、香梅園の梅花の咲き誇る姿をそれぞれに写して記念の写真集にしましたので、お楽しみ頂ければ幸いです。
(香梅園写真集より)

 宮司からいくつかの種類の品種をご説明いただきましたが、特に宮司がお気に入りの紅白梅も教えられ、白梅なら「茶青八重」、紅梅なら「緋梅大輪」とおっしゃられていました。合わせてのちほどゆっくり見させていただきましょう。
一通りの説明をいただいてから、しばし自由行動となります。20分ばかり「香梅園」を探梅してみます。

 参道を挟んで左右に梅園があり、左側には「香梅園」と書かれた標柱があり、いくつかの梅は開花しているようです。
香梅園 香梅園
開花している紅梅(…かどうかは枝を切ってみなけっれば判りませんが)は「紅千鳥」という品種です。
香梅園
意外なことにこの紅千鳥は遅咲き種なのです。
一体どうなっているのでしょうか、今年は。

 右側にある一画が前述された回遊式の梅園です。
中門
そしてこちらがその中門です。
中門
ちょうど同じようなアングルから撮られた梅の最盛期の風景が写真集にあります。
中門(写真集) 《中門:(C)香梅園写真集》
このように今日は探梅だということを認識させてくれるのですが、年月の経過とともに詫び・寂びが梅園にぴったりあっているのも良い風情です。

 中門の手前の左手には“愛子親王誕生記念”の梅があります。
香梅園
「夫婦枝垂」という品種のようですが、これが記念の梅なのでしょうか。標柱に一番近いのですが、間違っていなければ何となく品種と誕生記念の意味合いがミスマッチのような気がするのですが…。

 中門から回遊庭園に入ると、こちらもやはり探梅に相応しい状況ですが、確かに盛りだくさんといった梅園です。
香梅園 香梅園 香梅園
奥まったところに宮司お勧めの「緋梅大輪」が咲いています。
緋梅大輪 緋梅大輪
鮮やかな緋色と文字通り大き目の花びらが印象的です。
その隣には我が家にもある「酔心梅」ですが、こちらは我が家同様まだ開花していませんでした。
酔心梅
更に回遊式の戻ってきたあたりにもう一つのお勧めの白梅「茶青八重」がありますが、こちらもまた開花はまだのようです。しかし、その隣の「玉牡丹」は見事に咲き誇っています。
茶青八重 玉牡丹
殆どがまだ開花していないといった状態ですが、満開となると見事な梅園になるのだろうと推測できます。
今回はいただいた写真集で観梅することにしましょう。

香取神社

 集合時間となったので、神社の社殿前に集合しますが、神楽殿、神輿庫など結構境内は広く二の鳥居もかなり重厚感のある石造です。
境内 神楽殿 御輿庫
社殿前に集合すると、宮司から観梅ができなかった代わりに香取神社を案内し、社殿に入れていただけるとのこととなりました。
社殿 社殿
嬉しい2つ目のプレゼントです。
そこで社殿に入る前に由緒を確認しておきます。

香取神社
鎮座地:東京都墨田区文化2丁目5番8号
御祭神:経津主大神(又の御名 伊波比主大神)
御由緒:
経津主大神は天孫降臨に先だち、天照大神の勅を奉じ武甕槌神(鹿島の神)と共に出雲に降り、大国主命と御交渉の結果、国土を皇孫に捧げ奉らしめ、次いで国内を平定して日本の建国の基礎を築かれた武勇に優れた神様で国運開発・民業指導・海上守護・縁結び安産の神様、更には、武徳の祖神として廣く仰がれております。
当神社は、永萬元年(1165年)の葛西御厨の文書、応永5年(1398年)の葛西御厨注文等に鎮守村名が見られ、平安時代の末期、当地開拓のために千葉県香取郡から6軒の人々が移住し、小村井の氏神様として鎮守しました。
大正5年頃まで、老樹鬱蒼と繁茂し円形の森林をなし、鳥類はもとより狸の類も巣を作り、隣地には小村井梅園が存して、明治43年頃までは四季の遊びの場所ともなりました。
現在の御社殿は、昭和29年の建立で、本殿は流れ造り、拝殿は入母屋流れ造りの総桧造りです。
主なる御祭事
歳旦祭:1月1日、例大祭:9月第一の土・日曜日、節分祭:2月節分日、諏訪神社祭:10月27日、祈年祭:2月17日、七五三祝祭:11月15日、幣帛祭:3月16日、新嘗祭:11月23日、大祓:6月30日・12月31日月次祭:毎月1日・15日、二十六夜:1月・10月の26日
(現地案内板より)

 この香取神社の南に東西に流れる北十間川より南は湿地帯を開拓してできた土地で、この周辺の北部エリアは古墳時代前期頃までには人が住めるデルタ地帯であったようです。
奈良時代では隅田川が武蔵と下総の国境で、隅田川沿いのデルタ地帯は下総国葛飾郡という行政区域でした。正倉院に伝わる養老5(721)年の戸籍によると、葛飾郡大嶋郷には50戸、1,191人が住んでいたそうです。そして奈良から平安時代にかけて丁度大嶋郡は千葉県市川市の下総国府への道であった東海道が通っていたことによるのでしょう。
中世になると墨田区北部一帯は、葛飾・江戸川・江東区の一部とともに葛西と呼ばれるのですが、これは葛飾郡の西部にあったことと、桓武天皇の子孫である葛西氏が支配する土地であったことによるものなのです。
そして鎌倉時代にその葛西氏によってこの地は伊勢神宮に寄進され“葛西御厨”と呼ばれるようになったのだそうです。そしてその当時の資料には、寺嶋(現在の東向島)、墨田(墨田・堤通)、小村江(京島・文化あたり)などの地名が載っているのです。
その後、室町時代は関東管領上杉氏、戦国時代には後北条の支配下となるのです。
東京でも古い歴史を持った地であることを知りました。

 拝殿に昇段すると宮司からの説明がありました。
それは、この拝殿の見事な天井画でした。
天井画
1枚が約75cmあるそうなので結構大きいはずですが、こう並べられるとそれ程との感はありませんが、横6枚X縦5枚の計30枚ありますが、 そして、その並びや絵にもそれぞれ奥深い意味があるようです。
流石に広い天井ですので、写真では収まりきれないので、額に写された写真で確認します。
天井画一覧

 まずは4角にあるのが、すっかりおなじみの中国の神話である「四神」が配置されています。
天井画
右上に東の「青龍」、右下が南の「朱雀」、左上が北の「玄武」、そして左下に西の「白虎」です。
それぞれの方角を司る霊獣で、日本では人生にたとえ、若年期を「青春」、壮年期を「朱夏」、熟年期を「白秋」、老年期を「玄冬」と表現されていたのですが、現代では“青春”しか使われてはいません。
そして外側の列を飾っているのが鳥の絵です。
その中でも上列の「紅猿子」、右列の「日輪双鶴」、左列の「月に雁」には太陽と月が描かれているのですが、この中での注目は「月に雁」で、見る角度によって月の光が違って見えるのです。
天井画 天井画
写真だと色が多少違いますが、2枚の月の色が違って見えるのは判るでしょう。

 そして2列目には横4枚X縦3枚の計12枚に草花が描かれています。
天井画
これは12月までの月を著していて、根の向いているほうが本殿なのだそうで、献花の仕方になっているそうです。
これらの種類や配置により、宇宙の広がり、そして花鳥風月を著しているのだそうで、 これらは全て宮司が考えられたものだそうで、「香梅園」といい実に風雅な空気に癒される思いです。

 そして最後に隠された取って置き…、というほどではありませんが、この天井画は30枚プラス1枚の31枚あるのだそうです。 その1枚がこちらの「雀」です。
天井画
雀が稲穂をくわえている絵ですが、かつては“白すずめ”というアルビノなどは神聖視されていたようです。秋の実りの時期に稲の籾米を食害する害鳥と言われているのですが、実は春先には苗の害虫を食べる益鳥とも言われ、総合的には益鳥としてのメリットが大きいという説が強いようですが、ここでは稲を加えて繁栄をもたらすという意味で雀が描かれているのだそうです。

 観梅の代わりといいながらも、それ以上の実に見事なものを拝見させていただきました。
拝殿
これで香取神社を後にしますが、ここ香取神社には文化財も残されています。
今回はそこまで自由な時間がなったので残念でしたが、それを差し引いても充分楽しませていただきました。
最後に宮司から一言。
「写真集や拝殿案内したことは、亀戸天神では言わないで下さい。」とウィットを込めておっしゃられていました。

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