梅見街歩きツアー #2

 百花園の「新梅屋敷」、そして香梅園の「小村井梅園」と江戸の色と香を楽しみました。
香梅園を後にしてからは、いよいよラストの亀戸天神へ向います。基本的には探梅となるのでしょうが、それはそれで以外に楽しいものだったりするのを知るいい経験となりそうです。

梅屋敷

 香取神社から道を南下して北十間川方面に向います。
左手のずっと塀の続く広大な敷地にあるのが、あの超有名な「花王」の工場です。
花王
花王といえば特に説明しなくても殆どご存知の如く洗剤・トイレタリー等、日本を代表する日用品メーカーです。
実は個人的にこの「花王」は、十数年以上前、私の担当するクライアントだったのです。従って当時は週に1、2度はこの花王すみだ事業所を訪れていたのです。
あまり知られていはいないかも知れませんが、ここ花王すみだ事業所では、かつてあの超有名なマイクロソフトのある意味第1歩である“Windows95”のCDを製造していいたのです。

 何故花王がというと、私の記憶ではそれ以前に花王ではフロッピーディスクの製造の事業を始めていたのです。それは確か洗剤や化粧品に用いられている“界面活性剤”の性質を利用して表面処理に活かせる事から始まったというようなことだったと記憶します。詳細は忘れましたが、いずれにしても1990年代の頃だと思います。
そしてあのマイクロソフトのWindows95の発売に際して、そのCD製造をマイクロソフトから依頼されたのです。これも私の記憶では日本でこのCDを製造できる企業(工場)は花王を含めて3社だけだと聞いた記憶があります。そしてこの頃、このCD等に関連する業務を私が担当することになったのです。 しかしながらWindows98の発売の前の業務準備中に突如、花王からこの分野の業務から撤退する旨の連絡があり、花王との仕事は終わったのです。
僅か2、3年の関係でしかありませんでしたが、当時大変な話題のWindowsに関わったことは楽しい思い出です。余談ながら当時のその部門の担当の方は、日用品関係のセクションに移るか、この事業を引き続き行う花王シンガポールだったかに転勤するか迷われていましたが、確か最後のメールにはシンガポールに行きますとおっしゃっていたような記憶があるのですが、今はどうされているのでしょうか。
個人的に実に懐かしい思い出のある花王なのです。

 花王の敷地の最南部が北十間川に面しており、そこに掛っている橋が「境橋」です。
境橋
北十間川については以前東京迷宮案内の【時空を超える旅 ~江戸・水・散歩~ 彷徨】で訪れましたが、そのときは一番隅田川沿いの“枕橋”を散策しました。
この北十間川は隅田川と中川を結ぶ運河ですから、どちらが上流か下流かと言うことは置いといて、花王側から見て境橋の右手側が隅田川方向で、一番隅田川沿いの近くにあるのが枕橋でした。
ここからも当然スカイツリーが綺麗に見えました。

 北十間川に架かる橋は、隅田川方向から枕橋、源森橋、小梅橋、東武橋、京成橋、西十間橋、十間橋、境橋、福神橋、東武亀戸線橋梁、新小原橋の11橋あります。
このうちこの境橋は万治年間(1659年以降)の北十間川掘削時に掛けられた橋の1つで、創架は寛文2(1662)年だそうで、現在の橋は昭和49年に架け替えられた橋なのです。
当時、北十間川の北が葛西領本田筋と呼び、南側の新田筋との境にあったことから「境橋」の名がついたのだそうです。現在でも北が墨田区で、南が江東区ですから、やはり境橋の由来は果たしているようです。
こちらが中川方向で、左手の白い大きな建物が花王で、先にある橋が「福神橋」です。
北十間川
この辺りから川沿いを歩けるように遊歩道が作られています。温かくなったら気持ちよい散歩道となるのでしょう。
境橋を渡って北十間川沿いを東に1、2分歩いた歩道に石碑と梅の木が1本植栽されています。
梅屋敷跡 梅屋敷跡

江東区登録史跡 梅屋敷跡
亀戸3-40、50~53付近
 梅屋敷は、江戸時代から続く梅の名所でした。もとは、本所埋堀(墨田区)の商人、伊勢屋彦右衛門の別荘で清香庵と称していましたが、庭内に梅が多く植えられていたところから「梅屋敷」と呼ばれるようになりました。なかでも「臥龍梅」と名付けられた一株が有名で、これはまるで龍が大地に横たわっているように見えるところから、水戸光圀が命名したと伝えられています。また、8代将軍徳川吉宗も鷹狩の帰りにこの地を訪れました。
江戸近郊の行楽地として、花の季節にはたくさんの人々でにぎわい、その様子は『江戸名所図会』『絵本江戸土産』(歌川広重)などの地誌にもとりあげられています。歌川広重はこの梅屋敷だけで十数種の版画を描き、とくに「名所江戸百景」の中の、太い梅の古木を手前にあしらった錦絵は傑作のひとつにあげられます。
明治43(1910)年、大雨により隅田川沿岸はほとんど水に浸り、亀戸・大島・砂村のほぼ全域が浸水しました。この洪水により、梅屋敷のすべての梅樹が枯れ、廃園となりました。
ここに残る石標柱は、江東区創立10周年を記念して、昭和33年に建てられたものです。
平成21年3月 江東区教育委員会
(現地案内板より)

やっとたどり着いた「梅屋敷」といった気持ちです。
まずは光圀が命名されたとされる龍の姿の「臥龍梅」とは一体どのような梅の樹木だったのでしょうか、江戸名所図会での記述です。

臥竜梅
   同所、清香庵にあり。俗間、梅屋敷と称す。その花一品にして垂弁潔白なり。薫香至つて深く、形状あたかも竜の蟠り臥すがごとし。園中四方数十丈が間に蔓りて、梢高からず。枝ごとに半ばは地中に入り地中を出でて枝茎を生じ、いづれを幹ともわきてしりがたし。しかも屈曲ありておのづからその勢ひを彰す。よつて臥竜の号ありといへり。『梅譜』に、「臥梅・梅竜」などいへるにかなへり。
『梅譜』に日く、
都城を去ること二十里、臥梅あり。偃蹇〔高くそびえるさま〕十余丈、相伝ふ、唐物なりと。これを梅竜といひ、好事の者酒を載せてこれに遊ぶ、云々。
(江戸名所図会より)

 臥竜梅の花はいたって白い色の花で、大変にその香は深く形状に至っては竜が蟠り臥すような、大変尋常ではない形の梅であるといっています。
樹の高さはそれ程高くないようですが、枝が四方にはり出し、半ば地中に潜り、また、そこから出て来るといった形で、どこが枝で何所が幹なのか判らない状態なのです。しかもくねくね曲がっていることから臥竜と名付けられたようです。
現在は当然無いわけですが、全国には「臥龍梅」と名のついた老梅の樹が多くあるようです。
普光寺の「臥龍梅」 八代の「臥龍梅」 《左・普光寺の「臥龍梅」、右・八代の「臥龍梅」:(C)妖樹の森》
確かに臥竜といわれるとその通りで、このような梅があったのでしょう、まさに言いえて妙です。

 それでは梅屋敷自体はどのような情景だったのでしょうか、江戸名所図会の挿絵です。
江戸名所図会の挿絵
今回からカラーの着色モノを掲載いたしました。
小村井梅園が約1ヘクタールの広さを持っていたのですから、その半分としても約1500~1600坪はあった広大な梅園といるでしょう。
この挿絵のキャプションにこのようなことが記載されています。

白雲の竜をつつむや梅の花 嵐雪
  如月の花盛りには容色残んの雪を欺き、余香は芬々として四方に馥し。また花の後、実をむすぶを採り収めて、日に乾かし塩漬けとしてつねにこれを賈ふ。味はひことに甘美なれば、ここに遊賞する人かならず沽ふて家土産とす。
(江戸名所図会より)

 白い花を結んだ臥竜梅という竜を包み隠すように、周囲を梅の花が幾重にも花を開いていて、さしずめ白雲が竜を包んでいるように見える梅の花という意味だそうですが、香リ高い白い可憐な花が終わり実を付けると、その梅の実は塩漬けにして売られ、あまりの美味しさなので、お土産に買っていく人が多かったようです。「花より団子」ならぬ「花も団子も…」ですが、文化11(1814)年発行の十方庵敬順「遊歴雑記」には、土産として買ってゆく人があまりにも多いため、梅の実の供給が追いつかず、小伝馬町あたりから干梅を搬送させてなんとかしのいでいたと記載されていたようです。
江戸時代からすでに偽装まがいの行為があったのですね。

 もう一方の名所江戸百景の錦絵「亀戸梅屋舗」がこちらです。
名所江戸百景「亀戸梅屋舗」
これは結構有名なので今更説明もいらないくらいなのだそうですが、私自身は知りませんでしたから少し掘り下げてみます。
「名所江戸百景」は、広重最晩年の揃物といわれる版画で、全120図(内1図は二代目広重、1図は目録)の超大作で、広重生涯の画業を総決算するといわれている記念碑的な傑作なのだそうです。
そのテーマは江戸の市中と郊外に渡って優れた景観に四季折々の人や情緒を探求し、新しい名所を発掘することです。そして西洋的な遠近法の活用、俯瞰、鳥瞰などを駆使した視点、光の線の繊細な使用、そしてズームアップの多用など独創的な画面構成による魅力的な作品といわれています。
更に視覚的な面白さもさることながら【きょなん水仙の里】で訪れた鋸南町生れの菱川師宣から始まった江戸時代の浮世絵版画が摺りや彫りの技術面において最高の高みに達したのが、ちょうどこのシリーズが刊行された安政3~5(1856~58)年の頃で、「大はしあたけの夕立」の“雨の線”、そして「亀戸梅屋舗」の“ぼかし”など完成度は随一とも言われ、江戸中の人々を魅了したベストセラー版画なのです。

 アートのことは良く判りませんが、特に「大はしあたけの夕立」や「亀戸梅屋舗」がクローズアップされているのは単にテクニカル的な面だけで一躍有名になったのでは無いかもしれません。
確かに「江戸名所百景」自体はベストセラーとなったのでしょうが、個別の評価はこの2作品が特にゴッホによって模写されたという事実によって後世注目されたといったら言い過ぎなのでしょうか。
日本趣味・花咲く梅の木 《日本趣味・花咲く梅の木》
まさに模写、あのゴッホの模写ですから一目も二目も置かれる作品となりえるでしょう。
ちなみにこちらがそ広重版とゴッホ版の「大はしあたけの夕立」です。
左「大はしあたけの夕立」、右「日本趣味・雨の大橋」 《左「大はしあたけの夕立」、右「日本趣味・雨の大橋」》
だからといって広重の評価が下がるものでもなく、この広重の作品と共に「梅屋敷」もまた歴史の中に埋没するようなことは無いでしょう。

 そして運命の明治43年の洪水により、百花園の「新梅屋敷」、香梅園の「小村井梅園」、そして「梅屋敷」という全ての梅林が壊滅したのです。
その後、百花園は再建され、香梅園は復活されたのですが、梅屋敷だけは残念ながらこの石標柱がその名残なのですが、実はもう一ヶ所その「梅屋敷」の名残があるところが近くにあるそうなので、次はそこに移動します。

 少し進んだところを右折して実に下町らしい路地を進みます。
路地
路地を進むと突如住宅街の中にまぶしいくらいの朱色に輝く鳥居と社殿があります。
伏見稲荷大明神
「伏見稲荷大明神」だそうです。
ここが何故「梅屋敷」に関連するかといえば、かつてこの地も「梅屋敷」の敷地内、というより伊勢屋彦右衛門の別邸宅で、その屋敷神とされていたのいが、この伏見稲荷大明神だったからなのです。
かなり綺麗な社殿なのは地元の氏子達の信心が篤いということの現れでしょう。

 社殿の扁額には「梅屋敷伏見稲荷神社」と刻まれています。
伏見稲荷大明神
流石に梅屋敷の屋敷神を想起させる稲荷社です。
この伊勢屋彦右衛門については殆どプロフィールは判りません。呉服商だったようですが、江戸時代のこの当時江戸の町でよく言われた“江戸に多きもの 伊勢屋、稲荷に犬の糞”とか“伊勢乞食に近江泥棒”などといった伊勢商人や近江商人が「伊勢屋」や「越後屋」「丹波屋」といった店が軒を連ねていたのです。
ここで想起するのは現在の「伊勢丹」で、確かに創業当初は「伊勢屋丹治呉服店」といったそうですが、創業は明治19(1886)年ですから、伊勢商人の伊勢屋の流れではないようです。
やはりこの伊勢・近江商人の流れを組む呉服屋はあの「越後屋」の“三井高利”に代表されるのでしょう。いずれにしても伊勢商人については井原西鶴が『日本永代蔵』の中で「人の気を見て商の上手は此国の人也」と言っているように、伊勢商人の商売上手は大変なものだったようですから、伊勢屋彦右衛門もその様な才覚に恵まれた人だったのでしょう。
ちなみに現在の三越には「三囲神社」が百貨店の屋上に鎮座しており、先の花王の社有地の中にも「花王神社」があるくらいですから、当時の屋敷神のある伊勢屋がどれほどのものかは容易に想像できるところでしょう。

普門院

 一旦西進し、左折してやや大きな通りを南進すると右手に「普門院」があります。
普門院

普門院(開運毘沙門天)
由来
 普門院は真言宗の名刹で、福聚山善應寺と号します。大永2年(1522)三股(隅田川・荒川・綾瀬川が落ち合うあたり、現足立区千住)城中に創建され、元和2年(1616)に現在地に移りました。その時、過って梵鐘を隅田川に沈め、鐘ヶ淵(墨田区)の地名の由来になったといわれています。
江戸時代の地誌「絵本江戸土産」には、将軍が鷹狩の際に立ち寄り腰を掛けた御腰掛の松が描かれています。
亀戸七福神のひとつ(毘沙門天)として親しまれています。
(現地案内板より)

 こちらが山門です。
普門院
今回のツアーではここは説明だけしていただき通過点となっているので、境内を参詣することができませんでしたが、それも団体行動の悲しさですが、それを補っても余りある魅力あるツアーなので文句は言えません。
ということで「普門院」を後で調べてみれば、江戸名所図会にも掲載されている古刹のようです。
普門院
もう少し詳しい由来が記載されています。

福聚山普門院
   善応寺と号す。同所一丁ばかり東の方にあり。真言宗にして、いま大日加来を本尊とす(慶安二年己丑、住持沙門栄賢博給の誉れあるをもつて、公命を得て寺産若干を賜り、永く香燭の料に充てしむとなん)。
御腰懸けの松(堂前にあり。昔大樹御放鷹のみぎり、御腰をかけさせられしとなり。ゆゑにこの名あり)。
慈眼水(同所にあり。加持水に用ゆ。普門慈眼の意をとりて名とす)。
身代わり観世音菩薩(当寺に安置す。伝教大師の作にして聖観音なり)。

 縁起に云く、大永二年壬丑千葉介(中務太夫)白胤(兼胤の孫にて季胤の二男なり)三胯の城中に一宇の梵刹を開き、この霊像を安置し、長賢上人をして始祖たらしむ(いまの普門院これなり。三胯といへるは、隅田川・綾瀬川・荒川の落ち合ひ、三俣になるところをいへり。昔千葉家在城の地なり。その頃普門院の廓と称しけるとなり。しかれども後兵火にかかり、堂塔ことごとく灰燵せり。この際にいたり洪鐘一口、隅田川に沈没す。その地を名づけて鐘が淵と呼ぶ。元和二年(あるいはいふ、六年)住持栄真法印、公命によりて三胯の地を転じて、寺院をいまの亀戸の邑に移すといふ。なほ当寺縁起および当寺新鐘の銘に詳らかなり)。往古千葉自胤の臣佐田善次盛光(後薙髪して観慧と号せり)虚名の罪により諜に伏すとき、日頃念ずるところのこの霊像の加護にて、その白刃段々に壊し、危難を遜れたり(この霊瑞により自胤、三胯の城中に当寺を創し、長賢上人を導師とし、かつ開祖とす)。また天文三年国中おはいに疫疾流行し、死に至る者少なからず。されどこの霊像を念ずる輩はことごとく病平愈し、はた病に臨まざる者は病者と床を等しうすといへども、あへて染延の患へなし。そののち住持長栄上人睡眠のうち、一老翁の来るあり。「われはこれ施無畏大士なり。多くの人に代はり疫病を受く。ゆゑに病苦一身に逼れり。上人願はくはわが法一千座を修して、予が救世の加彼力となるべし」と。夢覚めてのち、ますます敬重を加へ、本尊を拝し奉るに、仏体に汗みちて蓮台にしたたる。感涙肝に命じ、それより昼夜不退に一千坐の観音供を修しければ、国中頓に疫疾の患ひを遁れけるとぞ。ゆゑに世俗、身代はり観世音と唱へ奉るとなり。
(江戸名所図会より)

 現在は静かな佇まい(のような感じですが)ですが、病苦に功徳のある寺院として篤信されていたようです。
もう一つ山門の写真の左に「伊藤左千夫の墓」と刻まれた石標柱がありました。
普門院
どうやらここには伊藤左千夫が眠っているようです。
伊藤左千夫といえば云うまでもなく、明治から大正時代にかけて活躍した歌人・小説家で、「野菊の墓」といえば読んだり、見ていなくてもタイトルだけは知っている人が多いでしょう。

 伊藤左千夫は千葉県山武市の農家出身で元治元(1864)年に生れました。
そして意外なことに明治22(1889)年、現在の墨田区江東橋に牧舎と住居を建てて牛乳業を営んだのだそうです。牛乳業をしていたというのも驚きですが、墨田区で牧場(牧舎)があったというのもまた時代でしょう。現在JR錦糸町南口の広場に伊藤左千夫牧舎兼住居跡ととして歌碑が立っているそうです。
牛乳業(搾乳業)に専念する傍ら歌に魅入られ代表作となる「牛飼が歌よむ時に世の中のあたらしき歌おほいに起る」を詠み、“牛飼いの歌人”といわれたようで、この頃、正岡子規との出会いがあり、子規の門下として子規と歌にますます傾倒していくのです。
そして短歌雑誌『馬酔木』『アララギ』の中心となって、斎藤茂吉、土屋文明などを育成しつつ、明治39(1906)年に「野菊の墓」を発表して夏目漱石に絶賛されました。
大正2(1913)年3月には牧場を売り、江東区大島に移転するも、その年の7月にこの世を去ったのです。そしてこの普門院に埋葬され、ここには先の「牛飼いが…」の歌碑があるのだそうです。
墓所 歌碑 《墓所と歌碑:(C)ギャラリーimozuru》
実物を見ていませんので、大きさなどはわかりませんが、いずれにしても静寂のなかに更に静かな時を過ごしているようです。
ここからは最後の目的地「亀戸天神社」に向います。

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