梅見街歩きツアー #3

 普門院から5分ほど歩いたところが最終目的地の「亀戸天神社」です。
亀戸天神社が見えたところからは、その後にスカイツリーも見えてきます。
亀戸天神とスカイツリー
新しい光景の始まりとも言えそうです。

亀戸天神社-1

 ここを訪れるのは何年ぶりでしょうか。確か娘の中学だか高校とかの受験の時に訪れて以来ですから、少なくとも数年、或いは10年以上経っているかもしれません。それでも自分自身の受験なども含めて数回はここを訪れてるのは間違いありませんが、いずれにしても散策目的で来たのは初めてです。

 大きく立派な鳥居を抜けて境内に入り最初に宮司からパンフレットをいただき、挨拶と説明を受けます。
亀戸天神社 亀戸天神社
簡単な由緒と梅の見所の説明を受けましたが、やはりこちらも探梅のようですが、「紅梅殿」は是非参詣して欲しいとのことでした。
そして約20分程度の自由行動で一旦散開となります。
まずは社殿に参拝ですが、その前に由緒を確認しておきます。

亀戸天神社
 天満大神(菅原道眞公)、天菩日命(菅家の祖神) を奉祀する亀戸天神社は一般には広く「亀戸の天神さま」「亀戸天満宮」 と呼ばれ、親しまれております。
 古くは東宰府天満宮、本所宰府天満宮、あるいは亀戸天満宮と称されておりましたが、明治六年に東京府社となってより亀戸神社と号し、昭和十一年亀戸天神社と正称いたしました。
御祭神・菅原道眞公は、承和12年(845)6月25日、京都菅原院(鳥丸通り)に誕生され、幼少のころから学才にすぐれていたことは並々ならぬものがありました。御年5歳にして
「美しや 紅の色なる梅の花 あこが顔にも つけたくぞある」
と詠ぜられるほどの卓抜な才能を発揮したと伝えられ、やがて帝の御覚えもめでたく、次第に重用され、重要な政務を任命され、のち正三位右大臣兼近衛大将に進み、さらに御年57歳で従二位に昇叙せられました。
政見に対するすぐれた才能と相まって、菅公は多くの漢詩や和歌を作られ『類聚国史』や『三代實録』 の撰修をはじめとする学問上の功績は、わが国の歴史・文学の上にさん然と輝いております。
しかし当時権勢を誇った藤原氏の讒言にあって延喜元年(901)に大宰権師として九州大宰府に遷せられました。
その時、住み慣れた紅梅殿の庭前の梅を見て
「東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」
と詠ぜられたことはあまりにも良く知られております。
 大宰府にあっては天を恨まず人を怨まず、ひたすら清節のやがて現われることを期しましたが、そのかいもなく延喜3年(903)2月25日梅香る大宰府に誠心の一生を閉じられました。御年59歳のことでした。薨去後、人々は菅公を神として讃仰し、近世に至ってはことに学問の神として信仰を集めております。
 正保年間、九州太宰府天満宮の神人菅原信祐(道眞公の裔孫)は霊夢に感じ、菅公ゆかりの飛梅で神像を刻み、社殿建立の志願をもって諸国を廻り、寛文元年(1661)江戸に達し本所亀戸村にあった天神の小祠に奉祀いたしました。
時あたかも徳川幕府の大事業である本所開発にあたり、天神様を崇敬すること篤かった将軍家綱は現在の地に社地を寄進しました。そして、寛文2年10月25日、太宰府の社にならい、社殿、楼門、廻廊、心字池、太鼓橋等を営み、以来350年余後の今日まで、数ある東国天満宮の宗社として尊崇されてまいりました。
(亀戸天神社パンフレットより)

 まさに菅原道真の歴史そのものという由緒にことさら説明も必要ないでしょうが、昭和20(1945)年の東京大空襲によって御輿庫1棟を残して全て焼失したことは付け加えておきましょう。
そして、その後、道真を敬い家紋も梅を使用している旧加賀藩前田家の子孫である前田利建氏が中心となって復興し、梅も植樹され現在に至っているのです。
江戸名所図会にも記載されているのですが、図会では「宰府天満宮」と記載されています。

宰府天満宮
   亀戸村にあり。ゆゑに亀戸天満宮とも唱ふ。別当を天原山東安楽寺聖廟院と号す。司務兼宮司大鳥居氏奉祀せり(当社別当は柳営御連歌の列に加へられ、毎歳正月十一日営中に至り、御連歌百韻興行す)。御旅所は当社の南竪川通り、北松代町四丁目にあり(筑前国榎寺の摸しなり。薬師堂あり。八月二十四日祭礼のとき、神輿をこのところに遷しまゐらす)。
(中略)
 社記にいふ、開祖信祐(菅原善外の苗裔なり)始め筑前大事府にありし頃、正保三年丙成一夜菅神の霊示を蒙る。その夢中、「十立ちて栄ふる梅の稚枝かな」といへる発句を得たり。よつてその後、飛び梅をもつて新たに神像を造り、これを護持して江戸に下り、かの天満宮をいまの亀戸村に勧請す(初め勧請の地は、いまの宮居より東南の方、耕田のうちにあり。元宮と称して、かしこにも菅神の叢祠あり)。その後寛文紀元辛丑台命を蒙り、同年壬寅はじめていまの地を賜ふ。同三年突卯宮居を営み、心字の地・楼門等すべて社頭の光景、宰府の俤を摸せり。よつて同十一年辛亥後水尾帝宸翰を灌ぎ、菅神の尊号を下したまふ。また元禄十年丁丑、一社の神事・法式等宰府本宮の例に准ずべきむね、同じ帝の勅許を蒙る。しかりしより、神威顕赫として霊瑞昭著なり。当社至宝と称するものは、菅神佩かせらるるところの天国の宝剣なり。
(江戸名所図会より)

 そしてこちらが挿絵です。
亀戸天神社
当時から広大な境内を持つ天神社だったようで、配置等もあまり変わらないかもしれませんが、回廊、随身門が当時はあったのです。
ちょうど今年2012年を鎮座350年としているようで、今年10月25日には記念の大祭式典が行われるそうです。

 まずは参拝しますが、その前の手水舎は何とも珍しい五角形です。
亀戸天神社手水舎
ペンタゴンという手水舎は初めて見た気がします。
社殿は見ての通り重厚・華麗とでも言うのでしょうか、とにかく立派なものです。
亀戸天神社 亀戸天神社
バックにあるスカイツリーが現代を象徴しているかのようです。
この日も結構な参拝客で賑わっています。
亀戸天神社

 参拝を済ませてからは境内を散策します。
社殿前に2つの碑があります。
鷽の碑
1つは受験生には有名な「鷽」の石碑です。

うそかえ神事
愛らしくかわいい「うそ鳥」の素朴さは人々の心をなごませてくれます。
「いままでのあしきもうそとなり、吉に鳥かへんとのこころにて、うそかへといふ」と文政年間から伝えられ、今日もなお盛んに行なわれています。近年は勉学に励む人々のお守りとして人気を集めています。
(パンフレットより)

 ここ亀戸天神社では超有名な鷽替え神事ですが、鷽自体はあまり一般的ではない鳥かと思っていたところ、現在の130円切手にこの鷽がデザインされているようなので、現在では割とポピュラーということになるのでしょう。
鷽切手
ただ、気になるのは切手の値段で、定形外郵便物の50gまでの切手代は120円で、50g~100gまでが140円ですから、130円切手の使い道は端数用となると、あまり出番は無いようです。

 ここで「鷽替え神事」が出てきたところで、亀戸天神社の行事について調べてみると、実に多くの行事が行われています。
1月:歳旦祭(1月1日)、新年初祈願祭・企業各種団体参拝(1月中)、初卯祭(※平成23年は1月12日)、うそ替え神事(1月24日・25日)、初天神祭(1月25日)
2月:節分追儺祭(2月3日)、梅まつり(2月4日~3月4日)、菜種御供(2月25日)、紅梅殿例祭(2月25日)
3月:神忌祭(3月25日)
4月:藤まつり・学業講祭(4月21日~5月5日)
5月:出世鯉放流(5月5日)、花園社例祭(5月第2日曜日)
6月:夏越祓・茅の輪くぐり(6月25日)
7月:筆塚祭(7月25日)
8月:例大祭・献灯明(8月25日)、御鳳輦渡御祭(8月21日)、氏子神輿宮入り(8月22日)
9月:敬老延寿祭(9月25日)
10月:菊まつり(10月23日~11月23日)、菊まつりコンサート(10月22日)
11月:七五三(10・11月中)、七五三祝祭・出世鯉放流(11月13日)
12月:梅ヶ枝筆授与(不定)、納め天神祭・古神札焼納式(12月25日)、大祓(12月31日)、除夜祭(12月31日)
このように実に多彩な行事が行われているのですが、これらのなかには江戸時代から続いているものも当然あるわけです。

◇裏白連歌会(正月二日、連歌家において興行す)。
◇若菜の神供(同七日、今朝若菜の餅をたてまつれり。すべて元日よりこの日に至るまで、毎朝宮司・社人等神供を奉る)。
◇菜種の神事(二月二十五日菅神の御忌によりて、二十四日通夜連歌興行、二十五日午時に至り、神前において社人等梅の枝を持ち、梅花の神詠二十八首を披講す。また夜に入りて宮司・社人松明を照らし、榊と幣とを神体とし、本社より心字の池をめぐり、橋を越えて瓊凄門より入り、社前に松明を積んでこれを焚く。この祭事は宰府の形をうつすところなりといへり)。
◇雷神祭り(四月晦日より七日に至るまでこれを修行す)。
◇神御衣(四月晦日と九月晦日の夜、御衣をたてまつる)。
◇名越の祓へ (六月二十五日竪川の西、大河口に至りて船中これを修行す)。
◇七夕和歌連歌会(七月七日これを興行す)。
◇祭礼(隔年八月二十四日に修行す。当日竪川通り北松代町の御旅所へ神幸、同日帰輿あり。後水尾帝の勅許によりて、神輿供奉の行粧すべて宰府の例式に准へて、もつとも壮観たり。別当大鳥居氏乗車す。生子の町々よりも練物・車楽等を出だしてはなはだにぎはへり。翌る二十五日に至りて神詠披講、社頭において行ふ)。
◇月見連歌会(九月十三日に興行す)。
◇火焼きの神事(十一月二十五日に修行す)。
◇年越えの神事(十二月晦日、通夜修行せり)。
◇追灘の神事(節分の夜修行す。その余一季のうち神事多しといへども、ここに略す。当社の祭式はすべて宰府の例に准ふがゆゑに、一社の法式あり。もつとも古雅にして他に異なること多し)。
(江戸名所図会より)

 江戸時代においては風流な行事が多いようですが、現代では梅祭り、藤祭り、菊祭りといった雅な行事が多くなっているように感じます。
いずれにしても、いつの時代も庶民にとってはありがたく嬉しい行事とも言えるのでしょう。

 そしてその隣にあるのが由緒にもあった5歳のときの道真公の石像です。
道真5歳の銅像
すでに神童といった趣に溢れているようです。自分が5歳のときは…、考えるだけでも恐ろしいことです。
ここからは先に説明のあった紅梅殿を参詣しますが、その途中にやはり天神様には無くてはならない「御神牛」を視界に捕らえます。
御神牛

御神牛
 天神様・菅原道真公は、承和12年(845)「乙丑の年」の6月25日にお生まれになり、延喜3年(903)2月25日に大宰府の配所でお亡くなりになりました。
葬送の列が進む中、御遺体を乗せた車を曳く黒牛が臥して動かなくなり、これは道真公の御心によることと、その場所を墓所と定められました。
その後、そこに社殿を建立し、御霊をお祀りしたのが太宰府天満宮の起源で、この年も「乙丑の年」でした。
また、道真公が京都から大宰府へ下向の途中、白牛によって危難から救われたという故事も伝えられています。
このように道真公と牛との御神縁は殊の外深く古来より信仰されてきました。
この神牛の坐像は昭和36年、御鎮座300年祭にあたり御社殿の復興とともに奉納されたものです。』(現地案内板より)

 これも有名な由来です。
この御神牛も奉納されて50年経過するわけですが、天神信仰と“撫牛”が合体して、この通り所々が輝いています。
御神牛
本来の撫牛信仰としては、先に【時空を超える旅 ~江戸・水・散歩~ 彷徨】で訪れた“牛嶋神社”の撫牛が有名でしょう。

 撫牛から更に西に進んだところに「紅梅殿」が鎮座していました。
紅梅殿 紅梅殿
比較的小さな社殿ですが、ここでは既に開花している紅梅とともに美しい光景を織り成しています。
ここで“飛梅”伝説を確認しておきます。

菅原道真と飛梅
菅原道真(845~903年)は、55歳で右大臣兼近衛大将、57歳で後二位に昇進したが、順調な出せ、豊かな才能が貴族社食の反発を買い、藤原時平に中傷されて失脚。延喜元(901)年、筑紫国の大宰府政所に左遷され、2年後、無念のうちに死去した。
大宰府に発つ時、書斎から庭の愛梅を眺め、別れを惜しんで詠んだ歌はあまりにも有名。
「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」
その梅が主を慕って京都から大宰府に飛んで来て、根を下ろしたという「飛梅」の伝説が今なお残る。
亀戸天神社が創建された折、太宰府天満宮からご神木の「飛梅」の実生をもらい受け、本殿向かって右に植えたところ、みごとに咲き、脇に社殿を建て「紅梅殿社」「飛び梅社」と称した。空襲で焼失したが、昭和62(1987)年の神社御遷座325年を記念して、現在の場所に再興した。
(墨田区観光協会パンフレットより)

 これが大宰府にある飛梅です。
大宰府飛梅 《大宰府飛梅:(C)大宰府》
樹齢1000年を超えるといわれる白梅で、太宰府天満宮に植えられた梅の中では一番最初に咲き始めるのだそうです。
実際の飛梅伝説は更に神がかり的です。
大宰府左遷の際に、道真は京都の屋敷内の庭木の内から日頃よりとりわけ愛でていた梅の木・桜の木・松の木と別れを惜しんだのです。
そしてこれら道真を慕う庭木たちののうち、桜は主人が遠いところへ去ってしまうことを知ってから、悲しみにくれて見る見るうちに葉を落とし、ついには枯れてしまったのだそうです。しかし、梅と松は道真の後を追いたい一心で空を飛んだのです。ところが松は途中で力尽き、摂津国八部郡板宿(現在の神戸市須磨区板宿町)近くの丘に降りたち、この地に根をおろしたのだそうです。その地が「飛松岡」と呼ばれる地で、これを飛松伝説というのだそうです。一方、一人残った梅だけは見事その日一夜のうちに主人の暮す大宰府まで飛んでゆき、その地に降り立ったという伝説なのです。
この飛松伝説の現実的な経緯は、一説には道真に仕えて大宰府にも同行した味酒保行という人が株分けの苗木を植えたものとも、道真を慕った伊勢国度会郡(現・三重県度会郡)の白太夫という人物が大宰府を訪ねる際、旧邸から密かに持ち出した苗木を献じたとも言われているようで、勿論はっきりとしたことは判らないのですが、飛んでくるよりは確かに現実的ですが、ロマン溢れるといえばそれもありかもしれません。
小さな社である「紅梅殿」ですが、亀戸天神社に置いては重要な境内社なのです。

 ここからは心字池を渡り、境内の東へ向います。
心字池の中央には南北に参道があり、そこには3つの橋が架かっています。
女橋 平橋 男橋
左の社殿に近い太鼓橋が「女橋」で、この中央の橋が「平橋」、そして境内入口に近い太鼓橋が「男橋」なのだそうです。
この3橋は、太宰府天満宮に倣って造られていて、池と橋を人の人生に見立てた「三世一念の理」に基づいたもので、鳥居をくぐって最初の男橋は生きてきた過去を表し、中央の平橋は現在を、そして社殿に近い女橋は希望の未来を表しているのだそうです。そして3つの橋を渡ることによって心が清められ、神前へ進むようになっているのです。
奥深い橋で、前述した広重の名所江戸百景シリーズの「亀戸天神境内」としても描かれています。
名所江戸百景「亀戸天神境内」 《名所江戸百景「亀戸天神境内」》
江戸時代からここもまた名所として親しまれていたようです。

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