梅見街歩きツアー #4

 亀戸天神社もこれでほぼ半周ほどを散策してきたことになります。
やはり亀戸天神社は奥深い歴史と文化を持っています。

亀戸天神社-2

 平橋の近くに境内社があります。
弁天社
「弁天社」です。

弁天社
寛文5年、太宰府天満宮(福岡県)心字池畔に鎮まり座す志賀社を勧請したのを始めとしますが、時代の推移とともに、七福神の一つであり無量の福徳を与える弁財天(水の神・音楽の神)の信仰と習合し、一般には弁天様と親しまれて、福徳福智を増し天災地変を消除する開運出世・芸能成就の神として信仰されてきました。その間幾度か災害に罹りその都度復興されてきましたが、近年殊に社殿の破損も著しく、菅原道真公御神忌1100年大祭に伴う記念事業に併せ、地元宮元会役員一同を始めとする崇敬者各位の御奉賛により、装いも新たに修復されたものであります。
(平成13年12月1日遷座祭執行)
(現地案内板より)

 確かに習合したのですが、そもそもは名所として有名になり、当時の文人達が上野不忍池に見立てて“弁天堂”と称するようになったために「弁天社」とよばれるようになったそうです。このあたりも文人墨客の多い土地柄ですから。
ここからもまた参道を進まずに心字池を渡って境内の東側に移ります。
池の中央付近にある梅は五部咲きと言った所でしょうか。
境内の梅
それでも綺麗な純白の白梅です。 池を渡った先のちょうど境内の南側には「筆塚」があります。
筆塚

筆塚
筆塚は、書家や書道に励む人等が筆の労に感謝するとともに、一層の上達を願って廃筆を納めたものです。
と海やでは、「宮居に遠き人之為に、吉書初め(書初め)に可用筆を文政4年(1821)より毎年12月1日から晦日まで出す」と伝えられ、今も「梅ヶ枝筆」を授与しています。
特に、天神様の御忌日、2月25日には神苑の梅の木で調製した筆を授与いたします。
筆塚祭(書道上達祈願祭)毎年7月25日執行
廃筆、清書の焼納(おたきあげ)を行います。
(現地案内板より)

 前述した行事一覧にも「梅ヶ枝筆授与」が12月がありましたが、これに関しては恐らく一般的な筆に梅に因んだ名前の筆のようです。中では特別の注文で梅の木を使用したものも製作するのでしょう。
書道家や趣味の方には嬉しい授与品でしょうね。なかなか書道をやらないとその価値がわかりませんから。
筆塚の隣には「楷」の木なるものがあります。
楷

(別名トネリバハセノキ 爛心木)
中国(支那)原産のウルシ科の落葉高木で、曲阜の孔子廟に弟子の子貢が自ら植えたと伝わり、幹も枝もまっすぐのびるのが特長である。
大正4年白沢保美博士が、その種子を中国から持ち帰り苗に育てたのが、わが国に渡来した初めといわれる。
楷は、雌雄異株である上、各所に分散しているために、また花が咲くまでに30年余要するということから日本では種子を得ることができなかった。
この楷は、昭和45年秋金沢文庫(神奈川県)にある雌木から人工交配により得た種子が、翌年春発芽したものである。
献木 昭和48年10月 服部一殿
(現地案内板より)

 この白沢博士が苗に育て、日本国内の孔子や儒学に縁のある学校、湯島聖堂3本(雄)、足利学校1本、閑谷学校2本(雌)、多久聖廟1本(雄)に寄贈されたのが最初だそうです。
このことは【栃木県南部のグルメと歴史散策】で足利学校を訪れたときに楷の木を見ましたので良く憶えています。
この木の特長は実をつけるまで雌雄の区別がまったくつかず、雌株と雄株をあまり離して植えてしまうと交配できないのです。更に発芽率も50%と低いので数を増やすには相当の根気が要るようです。しかし成長力は大きく、樹齢も700年に達するものもあるので、一度育てれば枯れれまでの時間は充分有るといえるでしょう。
それにしても現在日本では非常に少ない木ですので、見かけたらじっくり見て憶えておくのが良いでしょう。
楷は中国では模範の木とされており、日本においても書体の「楷書」の語源されていて、意味は「強くまっすぐ」「手本」という意味を持っているので、道真公を祀る天神社にはぴったりの樹木といえるかもしれません。

 ここからは境内の東側に沿って北上し、社殿の方向に戻る事になります。
藤棚越しに見えるスカイツリーも中々な光景ですが、ちょうどこの藤が咲く頃にスカイツリーがオープンされるのです。
境内からのスカイツリー
当分向島周辺はごった返すのでしょうね。しばらくは近寄るのは止めておきましょう。
右側が梅園となっています。
梅園 梅園

神苑の梅
東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ
御祭神菅原道真公(天神様)と梅の花のゆかりはあまりにも有名で、厳冬の中に凛として咲き誇る姿は、古来より多くの人々に愛で親しまれてまいりました。
当社の梅は、藤の花とともに創建当初より名高く社殿や太鼓橋、その他多くの句碑、記念碑などに彩りを添えて咲きます。
ご社殿正面左右の絵馬掛けの中に、紅白梅の一対を始め東西参道沿いに、全体で50種類約300本の色々な梅花が、2月中旬より3月上旬にかけて、最も美しい時期を迎え境内一円はその馥郁とした香に包まれ春の訪れを告げてくれます。
(現地案内板より)

 例年とは違う気候によってここ神苑でも2、3分咲きというところでしょう。
梅園
多くのアマチュアカメラマンも多いようですが、ちょっと残念な気分かもしれませんが、それでも良いアングルを探して撮影しています。
この神苑の中にいくつかの碑があるのですが、一つ大きな石碑に注目します。
歌川豊国の碑
二人の肖像が刻まれた石碑で、横の案内板には「歌川豊国の碑」とあります。

歌川豊国の碑
幹はみな老を忘れて梅の花 楳堂
二世、三世ノ肖像ヲ田鶴年鐫ガ鐫刻ス 合画:豊原国周・豊斉国貞
明治26年11月、三世香朝楼国貞の発起により市川団十郎、尾上菊五郎等や錦絵問屋、浮世絵師の補助によって建立されました。
(現地案内板より)

 一見すると浮世絵の後期を飾った歌川一門の顕彰の碑ということになるのでしょうが、推測するに結構重要な意味が含まれているようなのです。
初代歌川豊国は、天明6(1786)年に処女作を発表以来、「役者舞台之姿絵」シリーズの“役者絵”や“美人画”で大変人気を博しました。
そして文政8(1825)年に没し、歌川派は二代目豊国が継いだのです。
この二代目豊国は、元々初代の門人で豊重と称し、門人のなかでは若輩で技量も今ひとつであったのですが、文政7(1824)年初代の養子となったことから、翌年初代没後に二代目豊国を襲名したのです。
この二代目豊国は初代の域を越えず、当時兄弟子であった国貞に押されて不遇な存在だったようです。そして二代目が天保6(1835)年に没すると、10年後の弘化元(1844)年、二代目の兄弟子であった国貞が三代目豊国を襲名したのですが、何故か三代目は二代目豊国の存在を無視して自らを二代目豊国と称して、豊重だった二代目豊国を抹殺したのだそうです。

 この当時この三代目豊国(元・国貞)に三代目歌川国政という門人がおり、嘉永5(1852)年、30歳の時に三代目豊国(元・国貞)の婿養子となり二代目歌川国貞を継いでいました。
元治元(1864)年、三代目豊国(元・国貞)が没すると明治3年頃、この二代目歌川国貞が四代目歌川豊国を継いだのですが、この時もまた、自らを三代目と称して騒動となったのです。
こうした中で抹殺された二代目豊国(元・豊重)側としては、二代目国貞が三代目豊国を名乗った明治3年に前年にあたる明治2(1869)年、二代目豊国(元・豊重)の甥であった歌川国鶴が、本来の和田姓に替えて“歌川”を戸籍姓として歌川宗家としての流れを守ろうとしたのです。
しかし前述の通り豊国は二代目国貞に名乗られた為、両歌川家および歌川一門の話し合いのなかで、四代目歌川国政がひとたび四代目豊国を預かり、五代目豊国は次の世代、即ち国鶴の子の歌川国松が継ぐ(追号)ところとなって二代目豊国(豊重)の系列に豊国が戻ってきたのです。

 そこで最初の案内板の記述に注目します。
まず「楳堂」は歌川一門の別名なので、実質四代目豊国ではないかと考えられるのですがどうでしょうか。
次の「田鶴年鐫」については判りませんでしたが、“国鶴”であれば大正8年まで生存した二代目歌川国鶴だと思われます。ちなみにこの息子が六代目歌川豊国です。
「豊原国周」は豊原周信及び歌川国貞(3代目歌川豊国)の門人で、「豊斉国貞」は四代目豊国門人の三代目国貞のことではないかと思われます。
そして「三世香朝楼国貞」は、そのまますんなりと読み解くと三代目国貞ということになり、結局「豊斉国貞」ということになってしまうのですが…、いやあ、素人が説くのは難しい。どうやらここまでのようです。
いずれにしてもここに描かれている肖像画の2世、3世とは誰のことかと考察してもはっきりとはわかりませんでしたが、残っている肖像画を見ると2世の肖像画は、どうやら初代国貞である実質三代目の豊国のようです。
歌川豊国の碑 2世の肖像画 《2世の肖像画》
したがって、ここに描かれている2世、3世の豊国は実際には三代目と四代目ということになるのです。
五代目が豊国となったのは、追号ですから国鶴の子の歌川国松が亡くなった大正8(1919)年ですから、明治26年、この碑が建立された時期は二代目豊国(豊重)が抹殺され続けていた時期に当たるのです。

 最終的に判ったような判らないような、ちょっと不完全燃焼的な面持ちですが、これを調べていて歌川一門の系図を見つけました。
て歌川一門の系図 《(C)NEO UKIYOE 六代目歌川国政》
それを見ると何と、現在でも7代目歌川豊国が現存し、6代目歌川国政もいらっしゃるということで驚愕にも似た面持ちです。

参考:【NEO UKIYOE 六代目歌川国政】http://www.kunimasa.jp/

何気ない碑でしたが、歌川家および歌川一門の歴史を垣間見ることができました。こうゆう因縁めいた話は好きですね、個人的に。 ただし、あくまで勝手な推測ですから、これが正しいかどうかは与り知らぬところです。
碑の反対がわには「花園社」があります。
花園社

花園社
ご祭神は、菅原道真公の北の方で、道真公の父君是善公の門人であり、道真公がご幼少の時の師であった儒者の島田忠臣の御女であらせられ、御名を宣来子と申し、相殿に御子達14方をお祀りしています。
寛文年中(1661~1672)亀戸天神社の創建と時を同じくして、筑紫(福岡県)の地より勧請し、以来花園神社、花園大明神とも号されて、安産・子宝・育児の神、また立身出世の守護神として信仰されています。
「安産御守護・岩田帯・安産祈願絵馬はご本社でお頒ちしております。」
(現地案内板より)

 花園神社といえば新宿を想起しますが、その花園神社とは全くの別で、勧請もとも全く違うようです。
女性を祭神としたり、美しい場所にあったことから“花園”と命名するケースが多いようです。確かにいかついイメージは社号からは感じられませんね。
そして神苑の先にもう一つの境内社「御山獄神社」が鎮座しています。
御山獄神社

御山獄神社
菅公の教学上の師、延暦寺第十三代座主法性坊尊意僧正を祀る。今もなお「卯の神」として知られ、正月初卯、二の卯、三の卯には江戸時代から伝わる卯槌や卯の神札が授与されて火防、雷除、商業繁栄、開運を祈る人々でにぎわいます。
(パンフレットより)

 特に「卯槌」は“卯杖”とよばれ、、“延喜式”や“源氏物語”等に記述が有り、宮中行事の邪気払いとして天皇、皇后、皇太子などの献上した縁起物だったそうです。
卯槌 《卯槌》
1000年以上前の風習が現在でも綿々と続いている貴重な行事なのです。
亀戸天神にはこのようにいくつかの境内社があったのですが、江戸名所図会では以下の境内社が記載されています。

紅梅殿:(本社の前、右の方にあり。筑前太宰府より栽すところの飛び梅の稚木なり)。
老松殿:(同じ左の方に並ぶ。花洛北野の一夜松を栽し植ゑたり)。
御岳の社:(本社の右にあり。叡山の座主、法性坊尊意僧正の霊を勧請す。菅神の師たるによりてこれをまつるといふ。卯の日をもつて縁日とす。ことさら正月初めの卯の日は参詣群集せり)。
花園の社:(御手洗の池の右にあり。菅神の北の方ならびに御子十四前を相殿とす)。
頓宮明神(同所にあり。昔菅神筑紫へ左遷のとき、同国榎寺にて夕陽に至りけれど御宿もさだまらず。しかるに賎の家を求めさせたまふに、あるじの翁、左遷の人にてましませば御宿はかなふまじきよし、情けなく申しけれど、その家の老女は情けある者にて、扉の上に新しき薦を敷きて請じたてまつり、麹の飯を松の葉に盛りて捧げたりしに、「志は松の葉に包むとのたまひし」とある諺を表したり。頓宮とは、その老嫗をさしていへり。老夫は縄をもつて縛す。いづれも後ろに青赤の二鬼彳みてあり)。
兵洲辺の神耐:(同所にあり。菅神逢ひたまふところの河童をあがめたりといへり。水中守護の神とす)。
(江戸名所図会より)

 「兵洲辺の神耐」が弁天堂の前身であるか「志賀社」なのかどうかはわかりませんが、それを除いて3社は江戸時代からあったもののようで、境内社自体も歴史ある境内社といえそうです。

 こうして社殿まで戻ってきて、そろそろ集合の時間も近づいてきたので、山門に戻りますが最後に3橋の参道を通って戻ります。
男橋から見た江戸時代からの光景と、21世紀のまさにこれからの光景を見ることができます。
社殿 境内 境内
これからも長い歴史を1つ1つ刻んでいくのでしょう。
最後に今回のツアーのアンケートを記入して終了です。勿論、アンケートは満点でしたが、流石に団体行動と個人行動ではおのずと違いがあるのは当然ですが、実に楽しい散策でした。
アンケートを提出して、最後にまた嬉しいプレゼントをいただきました。
ポストカード ポストカード
6枚セットの墨田区の名所ポストカードです。
ありがたく頂戴して、ここからゴールの錦糸町駅に向います。

 亀戸天神社を出て蔵前橋通りを西に進みます。
蔵前橋通り
しばらくすると川にかかり、渡った橋が「天神橋」で、その先に亀戸天神社の社号標が立っています。
天神橋 亀戸天神社社号標
この天神橋が掛っている川は「横十間川」で、北上すると北十間川とつながるのです。
横十間川
ここに社号標があるのはここが元々の参道入口のようで、ここから天神橋を渡って社殿に向ったようです。

江戸切子

 天神橋の少し先をツアー一行は左折するのですが、ここからは折角下町にきたこともあり、また前回向島を訪れたときに立ち寄れなかった「江戸切子」の伝統にふれてみたいと、一行とはここで分かれて蔵前橋通りをまっすぐ進みました。
百花園と江戸切子だけは予めプランニングしていたところで、天神橋から3ブロックほど行った先の「江戸切子館」を目指します。
ツアーが団体行動だったことから、勝手な真似はできないので、結局出発してから飲まず食わずでここまで辿りついたわけですが、流石に喉も渇いたので、蔵前橋通り沿いのレトロチックなカフェ【すみだ珈琲】で一休みとしました。
すみだ珈琲
大変美味しいコーヒーをいただきましたが、何といってもここでは江戸切子のカップでコーヒーが飲めたのです。実に江戸工芸の町だけのことはあるようです。

 ここから2ブロック先の交差点の角に目指す「江戸切子館」があります。
江戸切子館
中はそれ程広くは無いのですが、所狭しと江戸切子の製品が展示されています。
江戸切子館
中央に江戸切子の製造過程や種類を説明する展示があります。
江戸切子館
「江戸切子」とは、江戸時代後期、江戸大伝馬町にビイドロ問屋を営む加賀屋久兵衛が、南蛮人によって持ち込まれた硝子製品に切子を施したのが始まりと言われているようです。当時の貴重な記録「加賀屋の引き札」という現在のカタログに当たるものに多くの硝子製品・切子硝子が描かれています。
江戸切子館 加賀屋の引き札 《加賀屋の引き札:(C)江戸切子館パンフレット》
そして生産工程には、硝子器を作る行程と彫り(切子)を施す行程があり、どちらも熟練した職人によって製造されているのです。
切子の柄は切子紋様とよばれ、古典柄をベースに様々な組み合わせにより現在では無数の紋様があるそうです。

 少し気になったものをクローズアップして見ます。
こちらは11面体グラスで、江戸切子士の磨き技術の特筆するべきものだそうです。
江戸切子館
やはりこれなくしては語れないでしょう、東京スカイツリーとスカイツリー紋様のグラスです。
江戸切子館
また、江戸切子の特徴に一つである色も鮮やかで、ベーシックな赤と青以外に、黒、緑、ピンクなど実にカラフルです。
江戸切子館
但し全体的にはこれだけの手が掛っていますので、それなりのお値段ですが、記念などに1つ2つ買い求めるのはうってつけかもしれません。
奥では江戸切子の体験ができるようで、今日も二人の方が江戸切子を実際に製作されていました。
江戸切子館
予約をすればどなたでもできるそうなので、やはり記念日用に作られる方も多いそうです。
江戸の伝統工芸をじっくり堪能しました。

参考:【江戸切子館】http://www.edokiriko.net/

 これにて今回の散策は終了ですが、江戸切子館でいただいた「錦糸町お散歩マップ」に東京スカイツリーの全貌が見える道がこの先にあるようなので最後に行ってみることにしました。
それがこちらで「タワービュー通り」というそうです。
タワービュー通り
ちょうど道路が工事中だったので若干見づらいですが、それでもほぼ全体を見ることができます。
3日前の2月29日に東京スカイツリーが完成したとあり、後は5月の開業を迎えるだけとなったのです。
これから下町はスカイツリーバブルで賑わうのでしょう。下町が活性化して行くに伴い、また新しい面白い町になっていくのかも知れません。

 初めて参加したプチツアーでしたが実に楽しい散策でした。
今回は残念ながら、否、探梅のできたツアーでしたが、来年は観梅をして見たいものです。
花と歴史と充分楽しめた「梅見街歩きツアー」でした。

 自宅の梅の盆栽「酔心梅」も3月6日にやっと2輪開花しましたが、これを書き終えた3月14日でも満開となっていません。
自宅の酔心梅
ある意味で今年の冬は異常気象なのかもしれません。
先日東北大震災から1年を迎えたのですが、当然ながらまだ復興という名にも程遠い状況です。まだまだ季節も世の中も冬であることをしらしめているのでしょうか。
早く春になるとよいですね。

結局、3月3日から2週間経過した3月17日にやっと我が家の梅も満開となりました。
自宅の酔心梅
それにしても来週はもうお彼岸です。

2012.03.17記

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