銀座でフェルメール #2

 ギャラリーを見終わってからは、フェリメールに関する展示室に移動します。
冒頭にあった“あのアングル”とは一体何のことなのでしょう。

ヨハネス・フェルメール

 第2会場はフェルメールなどに関する資料のコーナーで、4Fにある第1会場から3Fの第2会場に下りてくると「アトリエコーナー」があり、フェルメールに関する解説があります。

ヨハネス・フェルメールの世界
 ヨハネス・フェルメールは1632年、オランダ・デルフトにて生を受け、1675年に永眠しました。彼が生きたのは、オランダがヨーロッパにおける繁栄国として成長を遂げた時代でした。小国でありながら全世界を相手に交易する一方で、国内においては芸術が花開いたオランダは、当時まさに黄金時代を迎えていたのです。
フェルメールの日記や手紙は、現在まったく残されていません。私たちは、彼を取り巻く人々や彼の作品そのものから、どうゆう人物だったのかを想像するしかありません。彼は生涯をデルフトで過ごし、才能を開花させ、光と平和、そして神秘に満ちた独自の世界を創造しました。そして今もなお、人々を魅了し続けているのです。
(館内パネルより)

 ここからはフェルメールのプライベート、ビジネスに関しての解説です。

フェルメールと彼の家族
 ヨハネス・フェルメールは芸術に囲まれて育ちました。父のレイニエは、織物職人、宿屋の主人、美術商という三つの仕事を持っていました。この全てが息子の感性に影響を与えたと考えられています。織物をデザインする才能は息子に受け継がれたことでしょう。また、経営している宿(「空飛ぶ狐」と「メーヘレン」)には、常に芸術家が訪れ、飲んだり食べたりして楽しく騒ぐ場所でしたから、幼いフェルメールがテーブルの下に潜り込み、画家たちの話を盗み聞いていた姿が想像できます。さらに美術商という仕事柄、家や宿の中のいたる所に絵画があったのではないかと思われます。
フェルメールの日記や手紙は今も見つかっていません。そのため、彼がどのような人物であったのかは依然として不明です。プロテスタント教徒であったフェルメールは、妻カタリーナと結婚するために、カトリック教徒に改宗しました。二人は15人の子供に恵まれましたが、うち4人は早世しています。一家は、裕福であった彼の義母マリア・ティンスと同居していましたが、フェルメールは妻に11人の子供と多額の借金を残し、43歳で死去しました。
(館内パネルより)

 1653年に結婚した際にデルフトの画家レオナールト・ブラーメルが結婚立会人を務めていて、この8ヵ月後に芸術家のギルドに親方画家として登録されていることから、この時点では画家としての職を持っていたようです。
但し、親方画家として登録される為には当時最低6年以上の修行が必要で、その修行の際に師匠として仕えた画家が「レオナールド・ブラーメル」「クリスティアーン・ファン・カウエンベルフ」「ヘラルと・テル・ボルフ」と考えられているようです。
ブラーメルはデルフトで絵画を教えていて、メーヘレンの常連客だったことから一家と親交があったとされています。カウエンベルフは一番師としての可能性が高い画家のようで、フェルメールの妻一家との接点もあり、「ディアナとニンフたち」でのスタイルの類似性を上げているのです。そしてボルフは、フェルメールの室内画において影響を与えていると考えられている画家なのですが、正確なところはわかっていないようです。
しかしながら古今東西少しの才能があっても絵筆1本で生活できる人は少なく、父には借金があった様に、フェルメールもまた決して恵まれた状況ではなかったため裕福な義母に頼らざるを得なかったようです。
しかし、父親の死後1655年に実家の家業を継ぎ、居酒屋で宿屋でもあった「メーヘレン」の経営に乗り出し、当時の絵画におけるパトロンや義母のおかげで、この当時は大変裕福であったようです。
この辺りが彼の前半生となるのです。
そして解説ではこの当時のデルフトの状況や先のギルドに関する解説があります。

デルフトのアートシーン
 デルフトは陸路と水路の両方が発達した街で、貿易拠点として栄えていました。海と直結しているでデルフスハーフェン港には、16世紀には既にビール工場や絨毯工房が建ち並び、東インド会社と西インド会社の両者ともデルフトに拠点を置いていました。17世紀にはビール工場はデルフトから撤退し、陶器製造がそれに代わる産業となり、今日に至っています。
フェルメールが生きた当時、デルフトの画家達はギルド、酒場、道端などで顔を合わせては芸術について語り合い、刺激し合っていました。こうした刺激的な環境に惹かれ、16世紀末17世紀半ばごろまで、大勢の素晴らしい芸術家達がデルフトに集ってきました。

デルフトのギルド「聖ルカ組合」
 当時、オランダの各都市にはあらゆる職業のギルドがあり、各ギルドにはその職業の守護聖人にちなんだ名前がつけられていました。画家にとっての守護聖人は聖ルカで、その名を冠したギルド「聖ルカ組合」にデルフトの芸術家たちは加入を求められていました。同ギルドは絵画のほかにも、ガラス工芸品、陶芸品、書物などの制作とそれらの売買まで取りまとめていました。
このころ、カトリック教会における芸術家や職人の仕事の場が少なくなり、彼らにとっては経済的に不安定な時代でした。ギルドに加入していないものは、街で絵を販売することも、弟子を取ることも許されませんでした。ギルドに加入することで、芸術家や職人は自身の生活を維持していたのです。経済活動は、ギルドが担った重要な役割でした。
(館内パネルより)

 その当時の「聖ルカ組合」の建物です。
「聖ルカ組合」
結構立派な建物だったようですが、それを模して現在あるのがオランダの「フェルメールセンター・デルフト」です。
「フェルメールセンター・デルフト」
流石にフェルメールの故郷ですから、観光資源として開設されたものでしょう。
この当時の「聖ルカ組合」でフェルメールは1662年から2年間、そして1670年からも2年間理事を務めており、2度にわたる理事選任は非常に珍しいことから、当時の画家としての評価が高かったものと推測されているようです。
この当時、フェルメールと同時期に「聖ルカ組合」で活躍していた画家が4人います。 カレル・ファブリティウス:レンブラントの弟子で、1647年結婚を機にデルフトの居住し、デルフトでは風景画と自画像を制作しています。
ビーデル・デ・ホーホ:1652年にデルフトに移り、中流階級のこぢんまりとした室内の情景の作品が有名です。
ヘラルト・ハウクヘースト:1635年からデルフトに居住し、光の技法や遠近法などの作品が有名です。
コルネリス・デ・マン:1642年に聖ルカ組合の会員となり、風俗画、肖像画等を残しています。
この4人が当時フェルメールとも交流を持っていたのではないかと考えられているそうです。

 このころがフェルメールの絶頂期であったのでは無いかと考えられており、様々な協力者のほかにやはりパトロンの存在抜きでは芸術家は語れないようです。

フェルメールとクライアントたち
 フェルメールの生きた時代、デルフトは活気ある街で、主な産業は陶器、絨毯、そしてビールの製造でした。デルフトの住民は稼いだお金を絵画などに使いました。しかし、デルフトのアート市場はあまり大きくはなく、多くの芸術家たちは財力も権力もあったアムステルダムに移ります。しかしフェルメールはデルフトを離れませんでした。フェルメールが独自の世界を描き続けることができたのは、ピーテル・クラースゾーン・ファン・ライフェンという一人のパトロンの存在がありました。
フェルメールの死後20年以上が経った1696年、フェルメールの21作品が一度にオークションにかけられました。そのオークションには、ヤコブ・アブラハムスゾーン・ディシウスのコレクションから「牛乳を注ぐ女」や「小路」などが出品されましたが、それらはピーテル・クラースゾーン・ファン・ライフェンから相続したものでした。
ファン・ライフェンとフェルメールは旧知の仲であり、フェルメールが彼から借金をしていたことと、ファン・ライフェンの妻の遺書煮のフェルメールの名前が記載されたことがわかっています。
(館内パネルより)

 ちょうどフェルメールが理事を務めていた頃がフェルメールにとっても、オランダ絵画界においてもピークで、バブル景気に浮かれた時代だったようです。
しかし、1670年代になると第3次英蘭戦争の勃発や、フェルメールとは違った画風の若手が台頭したことにより、オランダ国内は荒れ義母の援助も縮小し、フェルメールの人気も低迷してきたのです。それに追い討ちをかけたのが最大のパトロンであるファン・ライフェンの死で、子沢山のフェルメール家は莫大な負債を抱え駆けずり回ったようですが、結局首が回らず、1675年にデルフトで死去したのです。
フェルメールの死後、妻のカタリーナによって一家は破産し、顕微鏡を発明したアントニ・ファン・レーウェンフックが死後の遺産管財人となったのは有名な話です。
結局、義母の遺産を孫(フェルメールの子)に直接相続した為、妻のカタリーナは過酷な生活を送り、フェルメールの死後12年たった1687年56歳でなくなったのです。
このように最後は悲惨な状況で幕を下ろしたのですが、謎に包まれた人生と希少価値の作品によってこれだけの人気を得たのはフェルメールにとっては良かったことなのでしょうか、それとも・・・。
フェルメールの人生を追った後は、“フェルメールのアトリエ”を見学します。

アトリエ

 「アトリエ」の説明です。

ヨハネス・フェルメールのアトリエ
 ヨハネス・フェルメールは彼が生きた時代でも突出した存在だといえます。同時代のほかの画家たちも同じテーマや素材を用いましたが、フェルメールの光、構成、色、立体感やストーリー性は類まれなものです。どのようにして彼の傑出した作品は生れたのでしょうか。彼の作品が作り出されたところに遡って、謎を解いていきましょう。
(館内パネルより)

 ここで、フェルメールの技法や道具についての解説に注目してみます。

【観察】
 道に降り注ぐ光、壁に映る影、周りの人々の微妙な動き-フェルメールはそれらすべてを並外れた観察眼でとらえました。観察したものすべてをアトリエに持ち帰り、作品の中で巧みに表現しました。ただし、私たちはフェルメールの見たままを作品に見ているのではなく、彼が見せたかったものを見ているのだということを胸に留めておきましょう。
【空間】
 フェルメールは鑑賞者の好奇心を大いにかきたてる画家です。完璧に創り上げた空間によって、見る者を静かに発見の旅に誘います。当時の画家たちは遠近法に加えて画中への別の空間の導入や、水平線の強調などを多く利用していました。そしてフェルメールはそれらを独自の方法で組み合わせて、完璧な空間を生み出しました。
【ルプソワール】
 フェルメールは人物を中央に置きますが、その人物が前面に来ることはありません。人物はテーブルや他の人物、カーテンや柱などの奥に描かれ、また背景よりも暗く描かれていることがあります。この手法はフランス語でルプソワールと呼ばれ、“押し返す、遠ざける”という意味の動詞「repousser」から来ています。このルプソワールによる奥行きは、彼の作品の大きな特徴です。
【顔料】
 フェルメールがそうしたかどうかはわかっていませんが、当時、顔料は街角の薬屋で買うものでした。顔料は鉛、尿、希少鉱石、ガラス、植物、木片など、じつにさまざまな原料から作られており、フェルメールはその中でも、色持ちの良い高価な顔料を好みました。そのため、「真珠の耳飾の少女」のように、彼の作品の色彩は今日まで保たれてきたのです。フェルメールが良く使用した顔料には、ウルトラマリン、鉛錫黄、アイボリーブラック、鉛白、カーマインレッド、バーミリオン、緑青粉があります。
フェルメールは技法においても独創的な画家でした。織物やガラスの奥行きを表現するのに、薄い色のニスを塗るという手法をとった作品があります。また、「小路」などでも見られるように、煉瓦造りの建物を描くため、絵具に砂を混ぜて厚みをもたせたこともありました。
【色彩】
 芸術が花開いたオランダ黄金時代の画家たちが使っていた顔料は、わずか20種類ほどでした。とりわけ倹約家だったフェルメールが使用したのは7種類ほどでしたが、それはじつに彼の画面を決定付けています。「真珠の耳飾の少女」のターバンの青や、「牛乳を注ぐ女」のブラウスの黄色 -フェルメールの画面の色彩は、そのいずれもがそれでしかありえない色として現れています。このような色数の限られた“パレット”が、フェルメールの絵画を作りあげているのです。白、黄色、青や赤など、織物や窓や陶器に見る鮮やかな色使いは、彼の画面の独特なアクセントとなっています。
【画家の画材】
 17世紀の画家は、天然顔料とリンシード油を混ぜてオリジナルの絵具を作っていました。キャンパスの枠の大きさを決めるのも、布張りも自身で行っていました。そうしてやっと絵を描く段階に入ります。まず初めにキャンバスに地塗りを施し、その上に絵画の下塗りをし、それから画面を構成する各要素を描いていきます。ここでもフェルメールの職人技が見られます。
【絵具作り】
 絵具は、顔料と結合材(つなぎ)で作られています。フェルメールに時代には既製の絵具はなく、画家かそのアシスタントがアトリエで顔料とリンシード油を混ぜて必要な分だけ作っていました。顔料によって混ぜ方も変わってくるため、非常に手間のかかる仕事でした。混ぜた顔料を石の上に広げ、好みの濃度になったところで絵具が完成します。
(館内パネルより)

 このようにある意味すべて自前で要しなければならない時代だったようで、その顔料などが展示されています。
何故か一番左に“クルミ”が展示されているのですが、明るい色、特に肌色の顔料の結合材としてクルミ油として数世紀にわたって使われて来たものだそうです。
クルミ油
その隣があの「ラピスラズリ」です。
ラピスラズリ
アフガニスタンから輸入されていた半貴石で、17世紀当時は高級品で、この石から「ウルトラマリン」という顔料が得られたのです。「ウルトラマリン」は“海を越えてやって来た”という意味のラテン語「ultra mare」に由来しているのだそうです。
その右側にあるのが5種類の顔料です。
顔料
さらに一番右には「パレット」が展示されています。
パレット

【絵筆】
 絵筆はオランダ語で「penseel」と呼ばれる。これは「小さな筆」を意味するラテン語「peniculus」に由来する。いつから絵画に筆が用いられるようになったかは不明である。絵筆は動物の毛を用いたものが最も多く、豚、馬、ヤギ、ラクダ、テン、イタチ、カワウソ、リス、アナグマなど、その種類は豊富である。画家は描こうとするものによって毛の種類を選ぶ。毛の品質や性質のほか、筆の形も重要な要素となる。例えば、先の細い円筒形の筆は細い線を描くために用いられる。咲きの幅広い平たい筆や、「フィッシュ・ブラシ」と呼ばれる扇状の特殊な筆は、色や輪郭をぼかすためや、はけ筋を消すためなどに用いられる。画家は通常15本から25本程度の絵筆を常備している。
(キャプションより)

 こうして一通りの準備が済むといよいよ描くわけですが、そのアトリエが反対側に作られています。
“あのアングル”
何となく見たことがあるような、無いようなコーナーですが、こうして写真をトリミングすると、これが“あのアングル”なのです。
“あのアングル” 「手紙を書く女と召使い」
そう、「手紙を書く女と召使い」の構図がこちらのセッティングなのです。
なかなか凝ったコーナーでした。

福岡伸一の部屋

 アトリエを後にしてその前に小さなコーナーの一画があります。
ここはこの「フェルメールセンター銀座」の館長(総合監修)である分子生物学者の福岡伸一のコーナー「福岡伸一の部屋」です。
ここでは福岡氏が英国王立協会で発見した顕微鏡の発明者アントニ・ファン・レーウェンフックの書簡に残されたフェルメールに関するミステリーを紹介するコーナーです。
どんなミステリーか興味津々です。

 まずはレーウェンフックという人がどういった人なのかかいつまんで見ます。
レーウェンフック
レーウェンフックはアマチュア科学者として、手作りのシングルレンズをはめ込んだ顕微鏡を自作し、科学史上の大発見といわれる水中微生物や血球、精子の発見をした科学者です。
その顕微鏡のレプリカが展示されています。
顕微鏡のレプリカ
そしてこれらの精密で膨大な観察記録を綴り、スケッチとともにロンドンの英国王立協会にその報告書を送り続けたのです。
その報告は1673年に始まり1723年までの約50年間にわたるのですが、その報告書は現在でも王立協会の書庫に保管されているのです。
この報告書を見た福岡氏が立てた仮説が、このフェルメールセンター銀座のきっかけともなった仮説なのです。

福岡伸一“ある仮説”
2009年、ロンドンを訪れた福岡は、英国王立協会に保存されているレーウェンフックが王立協会に宛てた書簡を閲覧する機会を得ます。その中に、卓越した表現の観察スケッチを発見し、そのスケッチが描かれた時期とフェルメールの生涯を照らし合わせ、「ある仮説」-すなわち、フェルメールが描いたかもしれない素描画の発見という説を発表します。
「私は自分で絵を上手に描くことができなかったので、熟練した画家に依頼した」とレーウェンフックは書き残しています。
同じ年に生まれたフェルメールとレーウェンフックの間に生前交流があったであろうことはこれまでも指摘されていますし、レーウェンフックが、フェルメールの絵画「天文学者」と「地理学者」のモデルではないかという説も有名です。レーウェンフックはフェルメールの死後、彼の財産管財人となったという記録もあります。しかし、生前の二人の交流を裏付ける直接的な史料は見つかっていません。
もし、今後、フェルメールの素描画が発見されたり、新しい解析法が開発されたりすれば、英国王立協会に保存されたレーウェンフックの書簡のスケッチの作者に関して、世紀の発見ということになるかもしれません。
(館内パネルより)

 その書簡のレプリカが展示されており、精密なデッサンを見ることができます。
書簡のレプリカ 書簡のレプリカ
福岡氏はこれを“素晴らしいスケッチ”と呼んでいます。
ここからがミステリーの謎解きなのですが、“熟練した画家”とは記録的に残されている範疇ではウィレム・デル・ウィルト(1691~1724)という画家となっているのですが、レーウェンフックの記録のなかで最初に“素晴らしいスケッチ”が登場するのが1674年12月4日付けの書簡ですので、この当時はまだウィルトは誕生していないことから、違う画家の存在が推測されるのです。
では何故この“素晴らしいスケッチ”が重要なのかというと、この1674年12月4日の書簡に登場した“素晴らしいスケッチ”のタッチが、その後の1675年3月26日付と1676年2月22日付けの書簡に残されていて、それ以降は違ったタッチの“科学的なスケッチ”となっているからなのです。それは最初の3点の“素晴らしいスケッチ”が、科学的には正確ながら陰影や濃淡、コントラストの連続性や丸みが消失し、平坦な絵となったそれ以降の絵と比べるとまったく違うものだったからなのです。
つまり1674年から1676年2月の書簡に描かれた“素晴らしいスケッチ”がフェルメールのものと考えると、1975年12月に亡くなったフェルメールの生存期間と3点の“素晴らしいスケッチ”と、それ以降の“科学的なスケッチ”が違ったものになったことが、奇妙に一致しているとことを主張しているわけなのです。
それを時系列的に著したものがパネルに掲出されています。
館内パネルより 《館内パネルより》
確かにありえないことでは無い気もしますし、実に興味深い主張であることも確かです。
永遠の謎で終わるのか、世紀の大発見となるのかはわかりませんが、歴史のミステリーはその真偽がどうあれ、非常に楽しいのです。 これからの情勢を見守りたいものです。
この後は最後のコーナーに向います。

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