花久の里

「花のオアシス」で花を堪能したあとは、鴻巣の歴史を散策します。
鴻巣市は江戸時代、鴻巣宿として宿場町になったことから発展がはじまり、 それと同時に、ひな人形の産地として380年以上の歴史を誇り、江戸中期には江戸十軒店(現・中央区日本橋室町)・越ヶ谷(現・埼玉県越谷市)とともに関東三大ひな市として栄えたのです。
因みに毎年行われている「鴻巣びっくりひな祭り」では、今年(2010年)、「ひな人形で飾る日本一高いピラミッドひな壇(nippon-1ネット認定)」として29段6.45mが日本一と認定されたそうで、これで6つ目の日本一です。

まずは、兎にも角にもここで昼食をということで、今回は鴻巣市の町興しとしてつくられている、川幅うどんを食べることにしました。
川幅うどんとは、「川幅日本一」をモチーフにしたうどんで、埼玉B級グルメに参戦したところ、初出場で準優勝を獲得したところから、町興しとして鴻巣の各うどん店で始まられたようです。
今回はその一つである【馬力屋】で昼食をとりました。
噂どおりの幅広のモチモチうどんが実に興味深くまた、美味しかったのでした。

川幅日本一

聞くところによると馬力屋から4、500m位のところに、その由来となった「川幅日本一」の地点があるそうなので立ち寄ってみました。
川幅日本一碑 鴻巣側 御成橋の袂に確かに円柱の日本一碑があります。

「川幅日本一 2537m 荒川 鴻巣市⇔吉見町」と記載されており、隣の御成橋は先が見えないほど、長い橋のようです。
この碑の横に川幅の定義が記載されています。
川幅日本一碑 実際の川幅日本一の場所は、ここから上流630m地点であることと、川幅は、荒川左右岸の計画高水位での堤防間の距離としていることです。
要するに計画された堤防間の距離を川幅と定義しているのですね。

と言う事で、実際に御成橋を渡ってみました。
川幅内の道と建物 川幅内の道と建物 半分は橋で、半分は堤のような感じで、川幅のなかにはこのような住居なども含まれており、所謂河川敷というイメージは覆されますね。

川幅日本一碑 吉見側 そして、吉見町側にも日本一碑が立っています。
ゆっくり走ると3、4分はかかるでしょうかね。

これはこれで、一つの重要な観光資源でしょう。

勝願寺

御成橋の県道27号線を鴻巣市市街に戻ると、JR高崎線の陸橋を越えたところに「勝願寺」があるので立ち寄りました。
「勝願寺」は鴻巣でも歴史ある寺院のようです。
それは山門を見ると何となく理解できます。
願勝寺山門 結構大きくどっしりとした重厚感のある山門で、山門の掲額には山号ではなく栴壇林と記載されています。

これについて調べて見たところ、この「勝願寺」は、浄土宗における檀林(僧侶の養成機関・学問所)で、関東十八檀林の一つに数えられている古刹だそうです。したがって当時は寺領も広く、多くの学僧のいた栄華が偲ばれるところです。
ちなみに埼玉県にある関東十八檀林は他に川越市の蓮馨寺と、さいたま市岩槻区の浄国寺の2寺だけだそうです。

牧野家累代の墓 山門を抜けて参道を進むと右側に「牧野家」の墓があります。

『丹後国田辺城主 牧野家累代の墓
天正18年(1590)9月、牧野康成は石戸領5000石を領した。その子信成は加増により大名に列し石戸藩主となる
のちに関宿に転じた信成嫡子親成は京都所司代を勤めたのち、寛文8年(1668)丹後国田辺城主35,000石の譜代大名として、約200年続き明治維新を迎えた。
ここには歴代の当主夫妻が眠っている』(境内案内板説明文より)

この牧野康成は天正10年の本能寺の変の際、家康が堺から三河へ逃げ戻った所謂、伊賀越えのときに随行していた34人のうちの一人だった武将ですので、家康初期の頃からの家臣であったようです。
その拝領した石戸領とは、現在の上尾市から鴻巣市南部にかけてのかなり広いエリアで、その中の川田谷村(現在の桶川市川田谷)に陣屋があったそうです。

願勝寺堂宇 参道の突き当りには、古い堂宇がありますが、何の堂宇なのかは判りません。

その右手にあるのが「仁王門」です。
願勝寺仁王門仁王像 かなり立派な仁王門ですが、山門以外はすべて明治3年の風害と明治15年の火災で失われたそうです。
そして大正9年に再建され、その時秩父三峰神社より寄贈された仁王像が現在の仁王像なのだそうです。

三つ葉葵 この「仁王門」をよく見てみると、徳川家の三つ葉葵紋を見ることができます。

これにより先の牧野家墓所同様、当時、勝願寺がいかに家康からの庇護の篤さを窺えるのです。

勝願寺は、鎌倉時代に良忠という僧が登戸の地に堂宇を建立したことが始まりとされ、清厳上人が天正元年(1573)に現在の地に再興したとされています。
徳川家康が文禄2年(1593)に鴻巣で鷹狩りを行った折に勝願寺を訪れ、2世住職 円誉不残上人に感銘を受け、様々な宝物を寄進したと言われており、その後、家康は、慶長2年(1597)、慶長6年(1601)、慶長9年(1604)にも鴻巣で鷹狩りを行っとされ、慶長6年に訪れた際には、 結城家当主であった次男・秀康の越前移封により、領主不在となった結城城中の御殿、御台所、太鼓櫓、鐘などを勝願寺に寄進したようです。
このような宝物や建造物は前述のとおり、悉く消失したのですが、今に残存していれば文化財だらけとなることでしょうね。

この仁王門を抜けると正面に本堂があります。
本堂 本堂は明治24年に再建されたそうですが、それにしても重厚感のある建物です。しかもかなり奥行もあり、明治といえども今だ栄華衰えずといった按配だったのでしょうかね。

鐘楼 右手には「鐘楼」があります。

この鐘楼の鐘は応永2年に鋳造された結城の花蔵寺のものだったそうですが、やはり明治15年の大火で割れてしまい、明治43年に再建されたときに、勝願寺の末寺でもあり、鴻巣の時の鐘を知らせていた五智堂の鐘が移されたそうです。
しかし、これも太平洋戦争により供出され、昭和44年に鋳造されたものが現在の鐘なのです。

武将達の墓 本堂の左手には、立て札のある墓が並んでいます。

左側の小さめの墓標が仙石秀久の墓です。

仙石秀久の墓
秀久は信州小諸(長野県小諸市)の城主。初め羽柴筑前守秀吉の家臣で淡路国須本城主であったが天正18年(1590)小田原征伐の武功により小諸を賜った。のちに徳川家康に仕え慶長19年(1614)出府しての帰途発病、同年5月6日当地で没した。当山にて殯し同年11月8日小諸の歓喜院に葬る遺命により当山に分骨建墓。
本廟は芳泉寺(長野県上田市)にある。』(境内解説板より)

その隣の一番大きな墓と、その隣の墓が真田信重の墓・信重の室の墓です。

右 真田信重の墓・左信重の室の墓
信重は真田信之(幸村の兄で信州松代藩の祖)の三男。慶安元年(1648)2月23日鴻巣で病没した。
母小松姫の縁で当山に葬る。また信重の室は鳥居左京亮の第六女、慶安2年(1649)12月9日に没した。
長野市松代町の西楽寺には夫妻の霊屋があって位牌が安置されている。』(境内解説板より)

長野県に関係しているのは、最後のその小松姫なる関係からなのでしょうか。
それにしても奥方の墓が大きいのは・・・。

そして一番右側がその真田小松姫の墓です。

真田小松姫の墓
小松姫は本多忠勝の女で家康の養女となり、真田信之(幸村の兄で信州松代藩の祖)に嫁し、元和6年(1620)2月24日没した。
生前当山中興二世の貫首円誉不残上人に深く帰依した。
そのような縁で元和7年(1621)一周忌に際し、信之の二女松姫(見樹院)が当山に分骨造塔した。
本廟は長野県上田市の芳泉寺にある。』(境内解説板より)

本多忠勝の女・・・、とあるのは決しておかしい関係の「女」ではなく娘です。本多忠勝といえば家康の1,2位を争うほどの重鎮ですから、その娘で家康の養女とあらば、どれだけ置かれている位置が高いかは言わずもがなでしょう。
そしてその小松姫が真田家に嫁いだことから、長野県とのつながりが深いのだと推測します。地理的にはおよそ繋がりが感じられない場所ですが・・・。

伊奈忠次・忠治父子の墓 そして最後に墓地内にある伊奈忠次・忠治父子の墓参りです。

『埼玉県指定史跡 伊奈忠次 忠治墓
大正11年3月29日指定
伊奈忠次は、三河国幡豆郡小島の城主伊奈忠家の嫡子として生まれた。初め徳川家康の近習となり、のちに関東郡代に任ぜられ、武蔵国鴻巣・小室で10000石を賜った。関東各地を検地し桑・麻・楮の栽培や水利の便を開く等、関八州は彼によって富むといわれた。茨城県結城地方特産の紬織(柳条紬)もその奨励によるものである。
彼の功績は幕府財政の基礎を定めたことで、その検地徴税の方法、すなわち、地方の方式は伊奈流と言って江戸幕府地方の基本となった。慶長4年(1599)には従五位に叙せられ備前守に任ぜられた。(のち大正元年正五位を追贈)。慶長15年(1610)61歳(57歳とも)で没した。法号は勝林院殿秀誉源長久運大禅定門。
伊奈忠治は忠次の次子。元和4年(1618)関東郡代を継ぎ、武蔵野国赤山(現埼玉県川口市)陣屋を構え7000石を領し、父忠次と同じく新田開発、河川の付け替え、港湾の開さく等に努めました。その在任は35年の長きに及び、幕府の統治体制確立の重要な時期に郡代兼勘定奉行として民政に尽くした功績はきわめて大きい。承応2(元年とも)年(1653)6月、62歳で没した。法号は長光院殿東誉源周大居士。
平成元年3月
埼玉県教育委員会・鴻巣市教育委員会』(現地案内板解説文より)

伊奈父子の墓所はここにあったのですね。
小室は現在の埼玉県北足立郡伊奈町小室のことで、現在残っている伊奈屋敷跡は自宅から10分程度の場所にあり、更に川口市生まれの私としては実に不思議な縁でしょう。
この埼玉県北足立郡伊奈町の町名由来は伊奈忠次で、子の忠治は茨城県つくばみらい市伊奈地区(旧・茨城県筑波郡伊奈町)の由来となっていて、親子2代で町の名の由来なのだそうです。
ここ勝願寺は家康に纏わる由来が多い、非常に興味深い古刹でした。

鴻神社

勝願寺からはわずか5,6分で「鴻神社」に到着です。
鴻神社社号標と鳥居 どっしりとした社号標と一の鳥居を抜けると右側に由来書があります。

鴻神社
鴻神社は明治6年にこの地ならびに近くにあった三ヶ所の神社を合祀したもので、もとは鴻三社といった。三社とは次の神社である。

氷川社・・・
鴻巣宿字本宮390番地(宮地5丁目)
鴻ノ宮氷川大明神あるいは端ノ宮(ハジノミヤ・ハタノミヤ)ともいい、鴻巣郷総鎮守として崇敬された古社であった。氷川社の神額は現在も鴻神社に残されている。

熊野社・・・
鴻巣宿字本宮389番地(宮地1丁目)
熊野権現と称していた古社で氷川明神を端ノ宮と称したのに対し中ノ宮と呼んだ。合祀前は社地3000坪を有し、巨木におおわれた森林であったという。

竹ノ森雷電社・・・
鴻巣宿字東側2283番地(現在地)
雷電社は現在地に鎮座していたもので、「竹ノ森」の名があるように付近には竹林が広く存在し、巨木と竹林によって囲まれた古社であり、天明期には遍照寺(常勝寺末)持となり、鴻巣宿の鎮守として崇敬されていた古社であった。

現在の鴻神社社地は竹ノ森雷電社の社地だったもので、合祀決定後、社殿の造営が行われ、明治6年9月24日に社号を鴻三社と定めた。
明治35年から40年にかけてはさらに鴻巣町内に所在した日枝神社、東照宮、大花稲荷社、八幡神社を合祀して明治40年4月8日、社号を鴻神社と改めて現在に至っている。
ここには鴻巣市の文化財に指定されている「香具拾三組御定免」「議定書」「商人講中連名帳並焼印」等貴重な史料が残されている。
またここ鴻神社では10月14日の例大祭のほか、ゑんぎ市や酉の市、夏まつりなど様々な行事がおこなわれている。
昭和63年3月
鴻巣市教育委員会』(境内案内板由来書より)

結局のところ7社を合祀して現在の鴻神社となったということですね。
ただし、鴻神社自体は明治以降なので古刹とはいえませんが、鴻巣の鎮守として崇敬されていることは間違いないようです。

その隣に文化財の説明があります。

『鴻巣市指定古文書
香具拾三組御定免
議定書
商人講中連名帳並焼印

昭和34年9月11日指定
香具仲間は露天商、大道呼売り商人、見世物等を行う仲間を云い、江戸時代には町奉行の支配のもとに行われ、従って奉行よりその定め書きが出されている。香具拾三組御定免は大岡越前守の名を以て発せられた定め書であり、この定めに従って鴻巣商人仲間は、仲間規約即ち議定書を作成して、加入者の自主的統制を計っている。議定書の末尾には享保20年卯ノ冬の記年がある。
江戸末期に至って鴻巣宿の商業は隆盛を極めたものと見え、豪商・紳商の話が伝えられている。商人仲間の数も大変多くなり、鴻巣講中連名帳に名を連ねたもの280名の多数に及び、仲間鑑札を発行して年行事がこれを監督した。
鉄製焼印は木製仲間鑑札に使用したもので三箇ある。
昭和62年3月 鴻巣教育委員会』(境内案内板解説文より)

鴻巣宿の規模としては、天保14(1843年)年では、宿内人口2,274人、町並み17町(約1.9km)、宿内家数566軒。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠58軒あったそうです。これは一つ手前の桶川宿の宿内家数347軒や旅籠は36軒、また二つ手前の上尾宿の宿内家数182軒、旅籠41軒に比べてもその賑わい振りがわかるところで、多くの商人たちが存在していた一つの理由ともなるのでしょう。
したがって、古刹の勝願寺やこの鴻神社の前身である鴻巣の鎮守であった竹ノ森雷電社が旧中仙道沿いにあるには至極当然ということでしょう。

更にその隣には「こうのとり伝説」なる伝説が説明されています。

『その昔、この地に「木の神」といわれる大樹があって、人々は供え物をして木の神の難を避けていました。ある時、こうのとりがやって来てこの樹の枝に巣を作りました。すると大蛇が現れてその卵を飲み込もうとしたので、こうのとりは大蛇と戦い、これを退散させました。それ以後、木の神は、人々を害することがなくなったので人々はこの木のそばに社を造り、この社を鴻の宮と呼び、この地を鴻巣というようになりました。』(境内案内板より)

よく出来た伝説で、常に伝説は由来か戒めのどちらかのために活用されていますので、もっともな事でしょう。
但し、オフィシャルサイトによれば、古代の武蔵国造である笠原直使主(当時の豪族)が現在の鴻巣市笠原付近に居住し、一時この地域が武蔵の国の国府となったことから「国府の洲」(こくふのす)が「こうのす」となり、後に「こうのとり伝説」から「鴻巣」の字を当てるようになったと記載されています。国府の宮を「国府宮」と呼ぶのは比較的全国でも多く、ここから鴻の宮は「国府の宮」であったのではないかと考えられているようです。こう説明されると何となく説得力があるものです。
現在、コウノトリは国の特別天然記念物の指定されていて、絶滅が危惧されている世界的に希少な鳥なのだそうです。現代の環境問題という大蛇とどのように戦っていくかが課題なのでしょうね。

参道を進むと正面に拝殿があり、その左手前に先ほどの「こうのとり伝説」の鴻の宮があります。
鴻神社境内

大きな木は「こうのとり伝説」の「木の神」でしょうか、ご神木になっているようです。
鴻の宮 朱の小さな鳥居に鴻の宮の提灯があり、奥に小さな祠が鎮座しています。

御神木 龍 先ほどの「木の神」はイチョウのようで、鴻巣市の保護樹木第1号となっていますが、近づいてよく見るとまさに大蛇が現れて襲いかかろうとしているような枝を見ることができます。

偶然なのでしょうが、なかなか面白い形状です。

拝殿で参拝します。
拝殿

拝殿内のコウノトリ置物 拝殿内のコウノトリ置物 拝殿の中には、一対のコウノトリの彫刻があります。
さすがに「こうのとり伝説」の神社ゆえでしょう。

この鴻神社は、当然子授け・安産によい神社のようです。
歴史と伝説に彩られた鴻巣市の鎮守は、こじんまりとしていながらも、何か華やかさと落ち着きを感じる神社でした。

花久の里

花をメインとした散策ですので、最後もやはり花で締めたいものです。
そこで最後の散策は、吹上町同様、合併で鴻巣市となった旧・北埼玉郡川里町にある「花久の里」です。 「鴻神社」からは20分ほど掛るでしょうか、長閑な風景の見える地域です。
「花久の里」は2代に亘って衆議院議員を輩出した地元の青木家から寄贈された家屋を活用し、花・食・音楽をコンセプトとした施設です。
旧家の佇まいと庭園のバラ、サロンでのコンサートや部屋での会議・講座、そして離れでの会食など、多目的施設としてNPO法人花と文化のふるさと委員会という組織が運営しているそうです。

花久の里前庭 前庭には綺麗な鉢植えが並べられていて、「花久の里」のイメージに相応しい光景を見ることができます。

花久の里長屋門 そして入口は立派な長屋門です。

長屋門を抜けると正面に母屋があります。
花久の里母屋 長屋門・母屋ともに寄贈された家屋ですが、かなり立派な造りですので、かなりの名家なのでしょう。家屋もそうですが、敷地もきちんと整備されていて、実に気持ちのよい施設です。

母屋の右側が庭園です。
花久の里庭園 花久の里庭園 花久の里庭園 翌24日がバラまつりとあったので、秋バラが見られると思っていたのですが、時期的にあわなかったのでしょうか、バラはホンのわずかしかありませんでした。

やはりバラは春でないと本来の美しさを堪能することは出来ませんね。
それでも綺麗に整備されている庭園なので、春はきっと美しい花々を見ることができるのでしょう。

コンサートとか、会合とか、会食とかの目的もなくふらっと散策には、まだ向いていない施設ですが、あと2、3年すると更に庭園も見事になって、散策しがいのある施設になっているかもしれませんが、コンサートなど近くの方なら十分楽しめる施設でしょう。

最後に鴻巣市の花の歴史を調べて終わりにします。

■昭和23年:鴻巣市寺谷地区の故・竹内武之助氏がパンジーを導入、数軒の農家が花生産へ転換
■昭和26年:ワラ編み床でシネラリア生産が始まる
■昭和28年:ハボタン・矢車草・5色トウガラシ等の生産が始まる(当時17軒)
■昭和37年:サルビア・マリーゴールド・マツバボタン・コリウス生産開始
■昭和39年:パンジー生産全盛期 【東京オリンピック開催】
■昭和42年:鴻巣市で初の花市場「埼玉綜合園芸」が国道17号沿い(八幡田地区)に開設
■昭和47年:鴻巣に2つ目の花市場「鴻巣園芸センター」(寺谷地区)に開設
■昭和48年:花の生産者組織「鴻巣花卉園芸組合」(当時74名)で発足 【鴻巣市の花を「パンジー」に制定】
■昭和63年:花き市場に隣接した花の直売所「パンジーハウス」が営業開始
■平成2年:大阪花の万博にて鴻巣花卉園芸組合が鴻巣フラワーテリアを出展し、「花のまちこうのす」の名を全国にアピールする。
■平成4年:オランダフロリアード92(国際園芸博覧会)において埼玉県とともに参加した6色のパンジー1200株の展示が花のコンテストで銅賞に輝く。初めての鴻巣市フラワーフェスティバルが開催
■平成13年:花の産地にある花の公園として「花のオアシス」が開園
■平成14年:埼玉綜合園芸・鴻巣園芸センターが合併。鴻巣市との共同出資による第3セクターとして新市場「鴻巣フラワーセンター」(鴻巣花き)が開設。東日本最大級の花市場として営業開始。「パンジーハウス」が農産物直売所としてリニューアルオープン
■平成17年:鴻巣花卉園芸組合・川里花組合が合併し、鴻巣市花組合が発足。【鴻巣市・川里町・吹上町が合併、新「鴻巣市」誕生】
■平成19年:ジャパンフラワーフェスティバルさいたま2007に出展。フラワーディスプレイ部門にて「花かおる雛の街鴻巣」が農林水産大臣生産局長賞を受賞。鴻巣市はサテライト会場となる
■平成20年:荒川馬室河川敷のポピー畑が栽培面積日本一として登録される

ということで、7つ目の日本一がこの「ポピー畑が栽培面積日本一」なのです。
7つの日本一を持つ鴻巣市、花の町・鴻巣市は非常に楽しい町でした。そういえば人形はどうしてしまったのでしょうかね・・・。

2010.11.5記

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