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箭弓稲荷神社

最初に到着したのが「箭弓稲荷神社」で、これで「やきゅういなりじんじゃ」と呼びます。
さすがにGWで出足が早いのかそれほど大きくはない神社の駐車場もAM9:00過ぎでほぼ満杯になりつつある状況です。
それでも境内の駐車場になんとか車は止められ、境内の散策を始めました。

箭弓稲荷神社社殿

駐車場から一旦境内の外を廻って参道に向かいます。
石造りの鳥居と高札場があり、大きな幟が二本立っている参道の入口です。
箭弓稲荷神社
ここに神社の由緒書きがあります。

箭弓稲荷神社
長元元年(1028年)下総国(千葉県)の城主、前上総介平忠常は、下総に乱をおこし安房・上総・下総を手中に収め、大軍を率いて破竹の勢いで武蔵国へ押し寄せた。
長元3年秋、忠常追討を命ぜられた冷泉院の判官代甲斐守源頼信(多田満仲の子、頼光の弟)は、武蔵国比企郡松山野久ヶ原に本陣を張り、一泊した際に当社にもうで、敵退治の願書を呈し、太刀一振り、馬一匹を奉納して一夜祈願した。その晩、白羽の矢のような形をした白雲が起こって敵陣の方へ飛んだ(一説に白狐に乗った神が弓矢を授けた夢を見た)のを見て神様のお告げと感じ、ただちに兵を起こして敵陣に攻めこんだ。忠常の兵は不意の攻撃になすすべもなく敗れ、三日三晩の戦いで潰滅した。頼信はこれを喜び、凱旋の際、立派な社殿を再建し「箭弓稲荷大明神」と称えたと伝えられている。
現在の社殿は享保3年(1718年)領主島田弾正が社地4町7反余を免除し、四方の信徒と図って建造したといわれている。
明治29年に郷社と定められ、大正12年には県社に昇格し、衣食住はもとより、商売繁盛、開運の神として広く知られている。
また、境内にはボタン園があり、関東随一の名園といわれている。
平成10年3月 東松山市・埼玉県
(現地案内板説明文より)

同社のオフィシャルサイトによれば創建は和銅5(712)年ということですから、まさに平城京が誕生した2年後で、ほぼ平城京遷都1300年と同じような歴史を持つ大変古い社と言えます。
勿論、当時は小さな祠で野久ヶ原にあった稲荷社なので「野久稲荷」といわれていたらしく、偶々松山城の近くだったことから源頼信がこれを見つけ、野久はすなわち箭弓(矢弓)の意味で、武門の守護神であると信心した結果、記述にある白羽の矢の話となったようです。
そして凱旋の際にこの「野久稲荷」を「箭弓稲荷」と呼ばせ社殿を再建したことが現在につながっているのです。
仮に社殿再建の長元3(1030)年を開創としても、1000年近くの歴史を誇ることになり、いずれにしても由緒在る神社であろうことは明白です。

もう一つの案内板には文化財が説明されています。

箭弓神社の本殿と絵馬 市指定文化財
箭弓神社の本殿は、正面5.43m、奥行は5.15mあり、屋根は切妻単層三重垂木の銅葺きでできています。
本殿の正面、妻梁上の両破風面は、竜・獅子・獏等の彫刻をあしらったものが多くを占めています。本殿裏には、仙人が烏鷺(囲碁)を戦わせて遊び楽しんでいる彫刻もあり、竜・獅子・獏など力強い彫刻の多い中で興味あるものです。
本殿内部の各桝組は、極彩色の花卉模様が散りばめられており、正面の扉、柱及び欄間には、極彩色の花鳥の彫刻があります。床面は朱塗りで、全体が日光廟の模様を小さくした感じです。
絵馬は、神社に馬を奉納するかわりに、板に馬を描いて奉納したのがはじまりで、近世になりと馬以外の題材も扱うようになります。「呉服店」「馬上の中国武人」「関羽と張飛」「俵藤太秀郷」「牛若丸と弁慶」「予譲の仇討」「文人机に寄り」「武人と騎馬武者」の題名で8点の絵馬が指定されています。いずれも1~4mの大型の絵馬で、数多くある箭弓神社の絵馬でも、作風保存状況等の優れたものです。
箭弓神社の社記によれば、祭神は宇迦御魂命(保食神)で、平安時代(長元元年~1028年)の草創とされています。現在の本殿などは江戸時代(天保年間~1836年頃)に建立され、その後数回改築されています。
昭和58年3月 東松山教育委員会
(現地案内板説明文より)

歴史ある神社故の文化財ということです。
因みに本殿は正徳5(1715)年、先の記述にもあった島田弾正により建造され、幣殿は文化8(1811)年の建造といわれています。そして拝殿は天保6(1835)年に領主の松平大和守によって造営されたそうです。
参道を進み境内に入ると左手に手水舎があり、見たところ極々一般的な手水舎で比較的新しいもののようです。
箭弓稲荷神社手水舎
お清めをして拝殿に向かいます。
二の鳥居でしょうか朱の鳥居があり、ここからが神域ということでしょう。
箭弓稲荷神社二の鳥居

正面に重厚な社殿があります。所謂権現造の社殿で、特に屋根の形が美しい曲線を描いているのが印象的です。
箭弓稲荷神社拝殿箭弓稲荷神社拝殿
その拝殿でまずは参拝です。
先の案内板によると拝殿に絵馬が掲げられているとのことなので、注意深く見てみると何とか見ることができました。
箭弓稲荷神社絵馬
これは「予譲の仇討」というものらしいです。
予譲とは、司馬遷「史記」の刺客列伝に登場する中国春秋期の士で、敗死した主君の仇を単身討とうと試みたが、遂に果たせなかった悲運の刺客のことのようです。
絵馬というので所謂、あの絵馬を想像していたのですが、イメージは大きな額という感じです。それ以外の絵馬は残念ながら見えませんでしたが、なかなか力強いタッチで描かれているようで、遠目でもその迫力を感じ取ることができます。

箭弓稲荷神社境内

参拝を終えて社殿の周りを散策します。
拝殿の前の緑色の桶のようなものは昭和31年に埼玉県川口市の鋳物組合から奉納されたもののようで、記載されている名前の何人かは聞き覚えのある川口市の著名人で、ちょっと懐かしさがこみ上げてきます。
箭弓稲荷神社川口市の鋳物組合から奉納
拝殿に向かって左手には絵馬掛がありますが、一般的な絵馬でない興味深い絵馬が掛けられています。
野球で使用するバットの形をした絵馬です。
箭弓稲荷神社バット絵馬掛け
ここでは「箭弓」の「やきゅう」の音との縁で、プロ野球をはじめとする野球関係の絵馬が作られるようになり、何事にも打ち勝つといった意味で勝負の神さまとしても信仰されているそうなのです。
その隣には所謂一般的な絵馬…、と思いきや、こちらもちょっと形が微妙に違う絵馬が掛けられています。
箭弓稲荷神社ホームベース型絵馬
一般的な絵馬は上の部分が三角にとんがっていますが、この絵馬は下側がとんがっている、いわゆるホームベース型絵馬なのです。
箭弓稲荷神社ホームベース型絵馬
印刷されているものも「必勝」とバッターやボールで、何処までも勝負にこだわった絵馬であることが理解できます。
願意も「甲子園」とか「全国大会出場」とかやはり野球についても願意が書かれています。
なかなか愉快な絵馬です。
そこから更に左手に進むと「奉納 池坊 新井美風社中」と書かれた看板とともに幾つかの生け花が展示されています。
箭弓稲荷神社生け花展示
これもこの時期ならではのものなのでしょう。
社殿の左側に廻るとその先に「神楽殿」があります。
箭弓稲荷神社神楽殿
この「神楽殿」も比較的新しいようです。
ここにも「南京たますだれ」と書かれた看板が立てかけられていますので、昼からのイベントが行われるようです。

そしてその右側に本殿を見て取ることができます。
箭弓稲荷神社本殿箭弓稲荷神社本殿
確かに細かい彫刻で本殿は覆われているかのようで、さらなる重厚さを醸し出しています。さも歴史が違うよ、とでも言っているような風格ある本殿です。
本殿の裏側には説明にもあった「烏鷺の図」が見えます。
箭弓稲荷神社本殿烏鷺の図
若干、面子の足らない雀卓を囲んでいるように見えないこともないのですが、いづれにしても確かに穏やかでユーモラスな彫刻です。
ここでちょっと興味を惹かれたのが「烏鷺の図」の下に置かれた小さなキツネの像です。
箭弓稲荷神社本殿
一体誰が置いたのでしょうかね、この本殿に簡単に入れるとは思えませんし…。
何となく薄気味の悪そうでもあり、ユーモラスでもありますね。

本殿の真後ろに小さな社がありますが、これは元もとの社で「元宮」だそうで、ここから現在の社に発展して行った証となるものです。
箭弓稲荷神社元宮
ちょっと面白いのがこの「元宮」の前にある狛犬ならぬ狛キツネです。
箭弓稲荷神社狛キツネ箭弓稲荷神社狛キツネ
左側は何か玉のような(家内曰くかぼちゃ…)ものに乗っており、右側はカギのような、得体の知れないものを銜えているという不可思議な狛キツネなのです。
一体、何を意味しているのか興味を惹かれます。

ここからは社殿の右側をグルッと廻って拝殿にもどります。
箭弓稲荷神社社務所
ちょうど社殿の右側に社務所があり、様々なお札、お守りなどが並んでいる中に、先ほどの絵馬掛にあったバットとホームベースの絵馬のほか、バットやミットの形のお守りもあります。
箭弓稲荷神社お守り「何事にも打ち勝つ」ということで、今年、娘が国家試験を受けることもあり金のバットのお守りをいただきました。

これで何とかなるでしょう、きっと。
更にその隣に「牡丹吉兆」なる牡丹の造花にお守りの付いた何となく煌びやかなお守りもいただきました。
箭弓稲荷神社牡丹吉兆
「ボタンとリボン」ならぬ「ボタンとバット」…、何か最強の強運が付いてくるような気がしてきます(!?)。
社務所の前には鉄パイプで囲われた岩の上にキツネの像があります。
箭弓稲荷神社キツネの像箭弓稲荷神社キツネの像
どういったものなのか、あるいはかなり由緒のあるものなのか、などなど不明ですが、何となく非常に古い感じを受けますので、それなりに歴史と謂われのある狛キツネかもしれません。

社務所の右側には更に摂社があります。
宇迦之魂社
その社の参道にはたくさんの鳥居がつながっており「宇迦之魂社」というようです。

宇迦之魂社御由緒 通称 穴宮稲荷・団十郎稲荷
御祭神 宇迦之魂神
社記に依れば「穴宮は当社眷属の穴居なるを以て俗に称す」とあります。
団十郎稲荷は、文政3年(1820)の秋七代目市川団十郎が特に当社を信仰し芸道精進の大願成就の心願を御祈願し、その当時の江戸の柳盛座の新春歌舞伎興行において、「葛の葉」「狐忠信」などの段が素晴らしく演じられ毎日札止めの大盛況で目出度く終演したことは、一重に大神様のご加護のお蔭であるとして、御礼に文政4年(1821)仲秋に石造りの御神祠を建立されました。
それ以来、役者衆の参拝や花柳界・水商売・一般の方々の信仰厚く、芸能向上・商売繁昌の守護神として広く崇敬されています。
平成2年4月1日 箭弓稲荷神社社務所
(現地案内板説明文より)

社号標には「芸道向上の神様」と記されています。
宇迦之魂社拝殿宇迦之魂社本殿
この「宇迦之魂社」の本殿は独立していて幣殿が無い造りのようです。
ここでは毎年春と秋に團十郎稲荷祭として、各芸能関係の方たちが集まり祭りを行い雅楽演奏や舞踊等を奉納する行事が行われているそうです。
さて、この団十郎について、以前【2010年、初春風情】で訪れた浅草浅草寺の境内に九代目団十郎の銅像がありました。九代目は演劇革新を起こしたといわれましたが、七代目は一体どんな役者だったのでしょうか。

五代目団十郎の孫として生まれ、寛政11(1799)年に六代目団十郎が急死したため、10歳で七代目団十郎を襲名することになります。その後、文化3(1806)年には祖父の五代目もなくなり、演壇の孤児となりながらも実力を蓄えていったそうです。
最大の功績は、天保3(1832)年、息子の海老蔵に八代目団十郎を継がせ、自分は五代目海老蔵となり、歌舞伎十八番を制定したことのようです。また、天保11(1840)年には初代団十郎没後190周年追善興行として「勧進帳」を初演し、市川宗家の権威を高め、市川宗家=荒事の本家=江戸歌舞伎の権威とという図式を完成したこともあるようです。
その後、天保の改革のあおりで江戸追放になるなど、とかく波瀾に富んだ生涯を送った役者だったそうです。やはりさすがに江戸での市川家の存在感は他を圧倒するものがあるようですね。
箭弓稲荷の境内には歴史とともに興味深い事柄がたくさんありました。

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