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根金・稲荷神社から綾瀬貝塚へ

始めに目指したのは蓮田市の郷土資料館です。
事前に調べたところ、市内で発掘された土器や・石器などの展示がされていて、以外や貝塚が多い街だそうなんです。 ということで、詳しい情報を入手するためには郷土資料館などは非常に手っ取り早い施設です。
県道87号線、通称:上尾久喜線と国道122号線の交差する少し手前に郷土資料館があり、この辺りまで来るのにあっという間の20分程度到着いたしました。しかし、実際には判りにくい場所で、例によって”感”ナビのせいもあってすっかり通り過ぎてしまい、挙句の果てには122号線も通り過ぎてしまったのでした。地図上で122号線がもっと先だと勘違いしていたのが原因だったようです。 雰囲気で行き過ぎたような気がしていたのですが、そのまましばらく走り続けました。

「これは間違えたなあ」と確信し始めたとき、ラッキーなことに小さいながら《芥川龍之介撰文碑》の道標を発見いたしました。これは2番目の目標地点でしたので、急遽予定を変更して芥川龍之介撰文碑のある根金・稲荷神社を目指しました。
黒浜沼 【偶然見つけた撰文碑道標】
小さな神社ですが、神社の裏手には整備された農業者運動広場というものがあり、近辺の農業従事者の憩いの広場にでもなっているのでしょうか。
鳥居の脇にめざす碑があり、その隣に案内板が立っています。
黒浜沼 【稲荷神社の撰文碑】


芥川龍之介撰文碑
この石碑は、芥川龍之介による自撰自筆のものといわれている。全国の龍之介の碑文中で最も古いものとされ、さらに唯一の自撰自筆の碑ということで、たいへん貴重な研究資料となっている。
刻まれた碑文は、龍之介と親交のあった蓮田市出身の関口平太郎の善行をたたえたもので、「正直の頭に神宿るとはかう云う人」と、平太郎に最大級の賛辞を贈っている。
平太郎は、明治三十八年に東北地方が大飢饉に襲われたとき子どもたちに学用品を贈ったり、大正五年、出身地である平野村などに就学奨励金を寄付したりした。
碑文が書かれたのは、大正六年、平太郎三十三歳、龍之介二十五歳の時であった。
当時、龍之介は作家として名声が高まってきていた頃で、平太郎は現在の東京都新宿区で按摩業を営んでいた。近所に住んでいた龍之介が平太郎の治療を受けたことによって、二人は知り合ったといわれている。以来、二人の親交は龍之介が三十五歳で亡くなるまで続いた。
平成十五年七月
蓮田市・蓮田市教育委員会

この碑にある関口平太郎のことは、龍之介が自殺した1927(昭和2)年7月の直前に『晩春売文日記』という6日間の日記が発表され、その中の4月30日付に「関口廣庵老に療治をして貰ふ」という一言に書かれています。ですが、この関口廣庵老なる人物を特定することがずっと出来なかったそうです。 しかし、それから65年後の1992年、蓮田市在住の文芸評論家・中田雅敏氏の地道な調査によって、地元では知られていた廣庵も碑の芥川とのつながりを解き明かし、碑文も芥川の直筆で、書かれている内容も本当だった、などを資料によって実証したということで、当時は「発見」と言われて話題になりました。
因みに碑の文末には《文学士芥川龍之介撰并書》と記されています。
黒浜沼 黒浜沼 【左:撰文碑、右:拓本の署名(c)蓮田市HP】
この碑は、当時の神社の氏子達が芥川を訪ねて頼んだそうです。その頃の芥川は名声が高まっていた頃とあるように、東京帝大を卒業した翌年で、第一短編集『羅生門』を刊行した頃でした。
そして、二人の親交は龍之介が三十五歳で亡くなるまで続き、廣庵はその後も順調に家業を続けたそうですが、戦時中に脳卒中で倒れて故郷に帰り、1947年、63歳でに亡くなりました。
この碑が建てられた時、芥川も除幕式に出席したという言い伝えもあるそうですが、確証はないそうです。
このように様々な意味があるからこそ貴重な研究資料と言われているのでしょうね。

文学的素養の一端に触れ(・・・かどうか?)、稲荷神社を後にしました。
上尾久喜線(87号)を戻り、再度、資料館をめざします。おおよその場所は見当が付いていますので、それほど迷うことは無いと思っていたのですが、それ程甘くありませんでした。この辺りの区画と判っていても道が狭く、うっかり入り込むと戻れ無そうな道ばかり。仕方なく付近のパチンコ店に車を止め歩いて探しました。
うろうろと10分位探してやっと道標を発見し、目指す郷土資料館へ向かいました。郷土資料館は住宅地の真っ只中にあり、幹線道路(といっても県道程度)からは全く見えないところにあります。歩いていても本当にあるのだろうかと思うような場所ですが、何とかたどり着いた挙句、泣きっ面に蜂とばかりに休館日でした。

確かサイトで調べた時には月曜・祝日・月末日が休みと書いてあったはずですが(・・・後に調べたらサイトによってまちまちでした。オフィシャルでは月曜・土曜・日曜・祝日・月末日が休みとあったので最初からオフィシャルサイトを調べればよかったですが)。残念でしたが記念の写真を撮って次の目的地に向かいました。
黒浜沼 【結局閉館していた郷土資料館】
それにしても、結局開館日は火曜から金曜までということで、一般人(特にサラリーマン)は見る必要がないとでも言うのでしょうか。それとも開館しても殆ど来館する人が居ないからなのでしょうか、どちらにしても月曜が休みなのだから土曜日くらいオープンしていてもよさそうなものですがねえ・・・負け犬の遠吠えでした。

郷土資料館から南へ綾瀬貝塚を目指します。今、思い出しても、どうしてたどり着けたのか思い出せないくらい偶然です。
”感”ナビで当たりをつけて行くと地番表示が”貝塚”とあったので、この辺りかと車を適当に走らせたら偶然、綾瀬貝塚に着いたという具合でした。

最も石碑と案内板が立っているだけで特に何があるわけではないのですが、鳥居があり貝塚神社だそうです。貝塚立てた神社だから貝塚神社とは実に安直感は否めないですが、判りやすくてよろしいのかも知れません。
黒浜沼 【貝塚神社と石碑】


埼玉県指定史跡 綾瀬貝塚
蓮田市貝塚八-六-一ほか 大正十一年三月二十九日指定
綾瀬貝塚は、大宮台地、岩槻支丘の上にあり、元荒川に面している。標高約十三メートルで、水田との比高は約四メートルあるが、元荒川右岸において現在しられるかぎり最も奥に位置する貝塚である。縄文時代前期(約5500年前)の貝塚としては規模は比較的大きく、三箇所からなっている。貝類はヤマトシジミを主体とし、若干の海水産の具を含んでいる。このことは、縄文時代前期に現在の元荒川流域の低地帯に海が奥深く入り込んでおり、貝塚付近が干潟であったことを示している。市内にある黒浜貝塚などとともに、縄文時代前期の海進を研究する上で極めて重要な遺跡である。
なお昭和三年大山史前学研究所によって小発掘が行われている。
平成元年三月
埼玉県教育委員会・蓮田市教育委員会

この貝塚に関しては土器などが出土したわけではないので、黒浜貝塚などと比べると若干インパクトが弱いのですが、それなりの重要性はあるようです。(インパクトで決めるのもどうかと思いますが・・・)
神社の境内にちらほら貝殻が落ちているのですが、これって云うのは・・・なんですかねえ? それとも・・・!?
黒浜沼 【綾瀬貝塚石碑と案内板】
因みに、蓮田市の地名として、どこにもない”綾瀬”の名称は、綾瀬川からの由来だそうです。
綾瀬川は埼玉県桶川市を源として、北足立郡伊奈町と蓮田市の境となり、右岸が上尾市に変わるところで原市沼川と合流します。その後、草加市、越谷市を抜け東京都足立区と埼玉県八潮市の境に入り伝右川、毛長川と合流し葛飾区で荒川の左に沿って流れ、葛飾区東四つ木で中川に合流する河川です。
この綾瀬川を由来に1889(明治22)年、当時の蓮田村・閏戸村・貝塚村が合併して「綾瀬村」が発足したのでしたが、1934(昭和9)年町制を施行し、「蓮田町」と改称されたため”綾瀬”という地名がなくなったのです。
同じ時期に綾瀬川からの由来の綾瀬村はこのほかに”東京府南足立郡綾瀬村”と”東京府南葛飾郡南綾瀬村”の2ケ所ありました。”東京府南葛飾郡南綾瀬村”は葛飾区の一部となり、”東京府南足立郡綾瀬村”は足立区の一部となり現在の”綾瀬”です。

中々見所が鮮明でない場合、どのようなリアクションが必要なのか良くわからないのですが、一つ言えることは昔、学校で習った貝塚なるものが至極身近にあったと言うことで、更にそれが学術的に重要であるが、観光資源としてはそれ程の輝きが無いという事を理解したことです。
特に落胆するほど思い入れもなく、サプライズ的に感動もないと言ったところです。 とは言いながらも、綾瀬貝塚の後は、貝塚二連発の黒浜貝塚へ向かいます。
黒浜貝塚もやはり同じような貝塚なんでしょうかねえ。

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