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西城沼公園・黒浜貝塚

綾瀬貝塚から一旦白岡駅方面に向かいそこから南下し蓮田市役所方面へ向かいます。私の感ではおおよそ20分くらいではないかなと思っています。白岡駅方面から南下して蓮田市役所を左折するところに西城沼公園があったのでトイレタイムをかねて寄ることにしました。
黒浜沼 【西城沼公園エントランス】
入ってみると結構広くて西城沼公園内には池(沼?)やアスレチック、広場などなどきちんと整備されていて、「市民の憩いの場として親しまれている」などと言うコピーが浮かびそうな公園です。
ぶらぶらと園内を一周してみました。12月の割には暖かく散歩には良い天気です。沼には釣り人が結構いました。風もなく穏やかな天気だったので、のんびり釣が出来そうです。
黒浜沼 【穏やかな公園内沼】
沼をまたぐ橋の先には蓮が浮かんでいます。当然枯れた後ですが、蓮田の蓮ですから思いもひとしおかもしれません。まあ、蓮に関しては煩い方ので ・・・【行田・古代蓮の里参照
黒浜沼 【これぞ蓮田の蓮】
西城沼公園の奥に向かうとアスレチックやメイズがあり、夏には子供たちが喜びそうな親水池があります。看板には”ジャブジャブ池”とあり、8/1~8/31までの天気の良い日に水を流しますという張り紙が貼ってありました。 ちょっと寒々とした広場を見ていると、冬場の海水浴場と同じように、夏の喧騒が聞こえるような気がしてきます。「短かったね・・・夏」みたいに、稲村ジェーンの一場面を思い出してしまいますが、”ジャブジャブ池”から”稲村ジェーン”への連想とは我ながらトンでもな発想かも知れません。いずれにせよまた、子ども達の歓声とともに夏のあの暑い日が再び巡ってくるのでしょう。
そんな感傷に浸りながら、園内を一周しました。
黒浜沼 【夏の喧騒を思い浮かべるジャブジャブ池の貼り紙】


のんびりとした一時を過ごしていざ黒浜貝塚へ向かうために西城沼公園を出発したのはかれこれPM1:00ころでした。 若干の空腹感を伴いながらも一路黒浜貝塚へ向かったのでした。
黒浜貝塚ですが、ここは事前に調べてみたところ東北自動車道の側道にある中華店のそばにあるらしいとのことで、その中華飯店を目印に向かいます。 西城沼公園からは10分程度で目指す中華飯店にすんなり到着しました。ちょうど市役所の裏手になります。
中華飯店に車を停めるとそこに見学のご案内という看板があり、黒浜貝塚のエリアは現在一部民間地になっているため、定められた遊歩道のみ散策できるとのこと。よくよく見ればその遊歩道は市役所の駐車場がスタート地点になっているようです。
急遽、市役所に向かいますが、裏手が市役所なのでものの5分と立たないうちに到着しました。

駐車場から遊歩道に向かいますが、これがまた案内板などなく、おそらくここだろうと思われるところから藪の中へ入っていきました。いきなり左右に道は分かれますが、地図によれば周回しているらしいのでどちらでもよいということでしょう。左手を行くとかなりうっそうとした竹林を通ります。落ち葉が相当な厚さで積もっているので自然のクッション状態です。
黒浜沼 【黒浜貝塚遊歩道】


5~6分歩くと黒浜貝塚の案内板がありました。

国指定史跡 黒浜貝塚  蓮田市大字黒浜字宿浦一八八六番ほか   平成十八年七月二十八日 指定

黒浜貝塚は現在までの確認調査により、中心となる炭釜屋敷貝塚(南側集落)では、集落中央部分に北側谷部に向かって開口する東西約五十m、南北約四十mの「くぼ地」状の広場があり、それを取り囲むように住居跡三一軒、土抗四〇数期、生活面廃棄貝層五ケ所が存在しています。
集落の規模は東西一五○m、南北九五mの範囲に広がることが確認され、関東地方を中心とした縄文時代前期中葉「黒浜式土器」の標式遺跡として、また縄文時代の生業や自然環境を考える上で極めて重要な縄文時代前期の貝塚を伴う集落跡として国指定史跡に指定されました。
黒浜式土器は、今から約五千五百年前(縄文時代前期中頃)に関東地方を中心に広く分布した土器で、「黒浜貝塚」を中心に黒浜地区内十ケ所以上の貝塚遺跡から出土した土器の特徴から名付けられたものです。
指定地は、標高約十六mの大宮台地上の谷の南側にある炭釜屋敷貝塚と市役所側の椿山遺跡の集落部分と標高約八mの湧水地(低地部)で構成され、約四万八千㎡となっています。
黒浜貝塚の特徴は、意図的な「くぼ地」状広場の造成、生活基盤の一つであるカキ採集のための硬砂層の利用等が挙げられます。それにより当時の蓮田市周辺の自然環境を熟知し、調和を図った生活組織構造と人々の具体的な行動様式が垣間見えます。また、ほぼ同時期の遺跡が谷を挟んで形成されていますが、対岸の椿山遺跡では貝塚が形成されず、炭釜屋敷貝塚では貝層が形成されるという対照的な集落が形成されている点も特筆されます。
貝塚は、主にハイガイ、マガキ、ハマグリ、アサリ、アカニシ、ヤマトシジミなどの貝類で構成され、また、貝塚から発見されたイノシシ、ガザミと呼ばれる甲殻類、貝製装飾品等により当時の特徴的な生活をうかがい知ることができます。
蓮田市教育委員会

市役所では黒浜貝塚のパンフレットをいただけるようなのですが、残念なことに本日は土曜日の休館日なのでパンフレットを入手することは出来ませんでした。また、黒浜式土器については郷土資料館にあるのですが、重ね重ね見れないのが残念です。
と言うことで、どうもこの案内板だけでは良く理解できないので、少し黒浜貝塚について調べてみました。
黒浜沼 【黒浜貝塚案内板】


もともと黒浜貝塚は、関東地方を中心とした縄文時代前期中葉「黒浜式土器」の標式遺跡・貝塚として、昭和50年3月31日に県指定史跡に指定されていたそうです。
ここでのポイントは”標式遺跡”と言う名称です。ウィキペディアではこう説明されています。

標式遺跡とは、考古学上の、遺構、遺物又はその一連となる関連性の集合として定義される特定の型式、形式、様式、あるいは、年代、文化期、文化層の命名、簡単に言えば時期区分名命名の契機を与えた遺跡、あるいはその基準となる遺構、遺物が検出された遺跡自身のことをいう。

判ったような判らないようなで、例を挙げると理解しやすいです。
関東地方の縄文期の標式遺跡
●草創期-橋立岩陰遺跡(埼玉県秩父市)→橋立I式、橋立II式
●早期-子母口貝塚(川崎市高津区)→子母口式
●前期-黒浜貝塚(埼玉県蓮田市)→黒浜式
●中期-五領ヶ台貝塚(神奈川県平塚市)→五領ヶ台式
●後期-称名寺貝塚(横浜市金沢区)→称名寺式
●晩期-安行猿貝貝塚(埼玉県川口市)→安行式
以上は一例ですが、要するに他の遺跡から土器が出土した場合、例えば黒浜式と似たような土器の場合、この遺跡或いは土器は縄文前期に当たるという推論が成り立つための基準と考えれば良いのではないかなと思います。 (あくまで素人の理解ですから・・・でも、ちょっとは頭良くなったかも)

ですが、その後この黒浜貝塚を蓮田市教育委員会が詳細確認調査を実施した結果、標式遺跡として重要であるばかりではなく、意図的な凹地(広場)の造成、生活基盤の一つである貝殻採集のための硬砂層の利用等、当時の蓮田市周辺の自然環境を熟知し、調和を図った生活組織構造と人々の具体的な行動様式が垣間見える成果を窺い知ることができる遺跡として考えられるとしました。
黒浜沼 【くぼ地復元図(c)蓮田市HP】
所謂、「縄文人はアホではありません。ただ貝があったから取って食べると云う生活ではなく、貝を採るのにも一工夫していますよ」と言うことが判ったので、ここはスーーーッごく重要だから国指定史跡にしましょう、ということです。

そんなこんなで、国指定史跡に格上げされたから急遽蓮田市では”黒浜貝塚保存管理計画策定委員会”なるものを組織して、”国指定史跡黒浜貝塚保存管理計画”を立案し始めたのです。 つまり、今後黒浜貝塚をどうして行くんだい、と検討を始めたわけですね。ポイントは”保存””管理””公開活用”です。
このようにして平成18年から様々な検討や行動がなされたのですね。
現在、どのような経過なのかわかりませんが、まずは黒浜貝塚の一部分が民有地になっているところから、始めないと埒が明かないのではないでしょうかね。素人ながら心配ではあります。

古代ロマンや考古学も結構ですが、現実問題この遊歩道、倒木があって進みづらいのですが、目の前のことから直しましょうよ。せめて道標くらいも建てていただいて。
将来、世界に誇る貝塚になるのかも知れないのですから。目指せ・・・世界遺産!(・・・うんざり)
黒浜沼 【もう少し整備してもよろしいのではないかと思える遊歩道の倒木】


ということで、これ以上進んでも何があるわけでもないし、何本か倒木があり家内も行きたくないというので、駐車場に戻りました。そして、駐車場から次の主となる目的地の黒浜沼に向かおうと思った矢先、市役所の敷地の中に妙なものが見えたので、再び車を降りて見てみました。
黒浜沼 【市役所内に竪穴式住居モニュメント】
説明板にはこのように書かれています。

縄文時代前期(約5,500年前)の復元住居
今から約8.000年前(縄文時代早期)、気候の温暖化により始まる海面の上昇は、縄文時代の前期中頃にピークに達し、ここ蓮田の地にも「海の幸」をもたらすようになり、市内各所に「貝塚」として今もこの痕跡を残しています。
そして、その頃の特徴を示す土器が市内の「関山」や「黒浜」から数多く出土し、縄文時代前期の標式土器として「関山式土器(約6,000年前)」、「黒浜式土器(約5,500年前)」という全国的にも有名な名前となっています。
この復元住居は、「黒浜式土器」が数多く発見された大字黒浜地内にある、「天神前遺跡5号住居跡」をモデルとして推定復元したものです。
当時の住居は「竪穴式住居」と呼ばれ、生活部分の床を地表から掘り込んで作られていました。復元住居の規模は当時の一般的な大きさ(5.5mX4.5m)と形(長方形)をしています。上屋の構造は私達の推測により復元したものですが、基本的な構造は大差ないと考えられます。当時の文化水準の高さは住居だけでなく、生活道具や装身具など、生活全般にわたり高度な文化を形成していたことが発掘調査によりわかるようになってきました。
私達はこの誇るべき先人達の文化遺産が数多く眠る「蓮田の歴史と文化」を未来のために護り、受け継いでいかなければなりません。皆さんもこの住居を蓮田のモニュメントとして大切にしてください。 1993年3月
蓮田市制施行20周年記念事業
たて穴式住居建設事業実行委員会

実に懐かしい名称です、「たて穴式住居」。何十年前に聞いて以来、まるで使うスチュエーションのない単語でしょう。それでいて多くのヒトが聞いたことのある(忘れられない)言葉だと思うのです。
そして連想ゲームの様に、「たて穴式住居」=「登呂遺跡」とオーム返しとなること請け合いです。
その「たて穴式住居」が市役所の敷地内にモニュメントとして存在していることが、奇妙ながら面白い光景です。
少し「たて穴式住居」を思い出しましょう。ウィキペディアからの抜粋です。

竪穴住居は、縄文時代から盛んに造られ、のちの弥生時代に伝わり、日本の農家や民家のもととなっていった。
日本においては、地面を掘り窪めた穴の平面形状は、時代と地域によって異なっている。
●縄文時代前期:概ね方形、台形、楕円形。
●中期:円形および楕円形が多い。
●後期:地域によっては「柄鏡型」とよばれる入り口部分を外側に張り出した住居が出現する。円形のものも続き、方形に近い住居跡も復活する。
●晩期:柄鏡部分がつぶれて短くなる構造に変化する。
●弥生時代:円形のものが主流。

したがって、我々の良く知っている登呂遺跡の竪穴式住居は弥生時代のものなので円形だが、この蓮田のモニュメントは縄文前期なので方形なのです。
黒浜式土器、黒浜貝塚、そして竪穴式住居の古代三大セットみたいで良いかもしれません。
因みに写真では判り難いのですが、モニュメントの前の白っぽい地面は貝が蒔かれていました。細かい演出でポイント高いかもしれませんね。
さあ、古代ロマンを堪能した後は、いよいよメインイベントの黒浜沼へ向かいます。

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