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蓮華院弥陀堂

黒浜沼の散策も終わり最後の目的地、蓮華院弥陀堂を目指して車を走らせましたが、堤上ではUターンできないので、少し先の十字路まで出てUターンをおこないました。 ちょうどそこに鳥居があったので、一旦降りると諏訪神社とありました。
黒浜沼 【諏訪神社鳥居と境内】


立派な由緒碑がありました。

御由緒  諏訪神社竣工記念
當社は寛永四年七月二十六日当地増田善右衛門直吉氏信州諏訪大社より勧請す建御名方命を祭神として祀り篤く崇敬されて来ましたが昭和四十九年十二月八日災禍により焼失し同月二十日仮宮建立同月二十二日長野県諏訪大社より再勧請今般氏子中の奉賛により昭和五十年十二月二十七日當社遷宮す
ここに記念として永遠に御神徳を讃えるものであります
昭和五十一年四月四日

寛永時代からあった由緒ある諏訪神社が昭和49年に燃えてしまい、昭和50年に再建したのを記念したものでしょう。そのほかにもいくつかの石碑がありますが、良くわかりませんでしたが、この土地では歴史ある由緒正しい神社ということでしょう。ちょうど往還の大道の元に位置しているので、何か関連があるのでしょうか。

諏訪神社を出たのがかれこれPM2:30過ぎで、とにかく県道154号で蓮田駅方面に向かいます。さすがに空腹感には勝てず途中の蕎麦屋で味噌煮込みうどんを所望しました。
空腹もあってか非常に美味、満足の一品でしたが、ちょっと休みすぎてPM3:30を回っていました。それでもおっとり刀で慶福寺を目指しました。事前の調べでは、蓮華院弥陀堂は慶福寺の境内にあり、寅子石はその付近にあるとか。
まずは慶福寺の境内を散策です。

慶福寺の横の駐車場に車を停めたので、車から降りるといきなり圧倒するような建物に遭遇します。
「まにわ塔」と言うそうで、サンスクリット語で清浄を意味する「まに」という言葉に、円環的連続性を象徴する「輪」を加えたもので、そこには「清浄なる繋がりを育む塔」という願いが込められいるそうです。所謂、祈願塔だそうで、中は納骨堂になっているそうです。こんな意味もあって蓮の花の絵や、実際に蓮の咲く池に囲まれています。
黒浜沼 【ちょっとキッチュな「まにわの塔」】


境内を奥に進むとそこには「将軍桜」と言う名の桜の大木が立っています。
黒浜沼 【枝だけの将軍桜】


「将軍櫻」由来 天台宗蓮台院 慶福寺
徳川家三代将軍家光公は徳川家三世に亘る知恵袋であり、川越・喜多院(天台宗)の貫主であった天海大僧正に深く帰依していたので川越・寛永の大火の後に将軍ご自身の誕生の間を「紅葉山御殿」(今の皇居)から喜多院に移築された。その折に、同時に移植された「江戸彼岸桜」とよばれる枝垂桜は当寺の桜の親木に当たるもので未だ肌寒い春の彼岸の頃、優美な花姿を見せてくれる。徳川家ゆかりのこの将軍桜は当寺の第十六世亮謙師が加行遂業の記念に古谷村・灌頂院櫛笥亮徳師を通じて頂戴した。大正十四年秋植樹
平成十二年七月吉日
第十七世住職 関口亮弘』

勿論この時期花は言うに及ばず、葉っぱすらありませんがかなりの大木です。慶福寺のオフィシャルサイトに写真があり、かなり綺麗そうです。開花時期にはライトアップされるそうですが、ライトアップ時間が面白いです。
黒浜沼 【開花した将軍桜(c)慶福寺】
平成20年のサイト内での告知です。
■期 間/平成20年3月22日~月末頃まで
■会 場/慶福寺境内
■入場無料
■内 容/期間中夜間、住職が休むまでの間、ライトアップされたしだれ桜をご鑑賞いただけます。
※消灯時間は一定でありませんのでご注意ください。
「今日は体の具合が悪いので早寝するか・・・」と夜7時頃住職が寝てしまうと、ライトアップも7時で終わってしまうのですかね。
そんなことは無いか・・・

更にもっと興味深いものがありました。 「五百羅漢」です、しかも”河童”の。
黒浜沼 【結構衝撃的な河童五百羅漢全景】


河童五百羅漢
「羅漢」とは通常釈迦の高弟を指し「五百羅漢」はインドに於いて最初に行われた経典編纂に参加した五百人の弟子のことを言う。
河童をこよなく愛する作者が故郷新潟県・中越地震物故者の慰霊及び復興祈願に併せて世の人々全てが平和に暮らしそれぞれの夢を叶えられるよう願いを込めて制作し奉納されたものである。
平成十六年十二月吉日
慶福寺 住職』

このようなところで中越地震に間接的に感じさせられるとは思いも寄りませんでした。
よくよく見れば一部違った形の河童もいて、滅多に見られない珍しいものではないでしょうか。
黒浜沼 【河童五百羅漢アップ】


江戸年間から続く慶福寺ですが、”平安初期の創建”と推測されたり、”建武五年”には存在したと言われるような手がかりがあるそうですが、残念ながら資料不足で断定は出来ないのですが、調査次第によっては新たな展開があるのかもしれません。
このように一方では歴史や伝統を、一方では現代的な発展と、一言で言えば実に「キッチュな寺」と言えるでしょう。
檀家でなくても一度訪ねて見る価値はありそうです。

参考:【慶福寺オフィシャルサイト】http://www.keifukuji.org/

さて、ここからが肝心の《蓮華院弥陀堂》です。
《蓮華院弥陀堂》は「蓮田」の地名発祥由来となるお堂です。 743(天平15)年、奈良朝廷第3代目の聖武天皇は諸国の様子をつぶさに巡察させようと、東国に「義澄」という僧を派遣しました。こう地を訪れた「義澄」は、この「弥陀堂」を一夜の宿としました。翌朝、目覚めとともにお堂の扉を開けた「義澄」の目を驚かせたのは、前方の沼田一面に美しく咲き誇る蓮の花々で、その光景に大変心を打たれた「義澄」は、その弥陀堂に「蓮華院」という院号を名付けたそうです。それ以来この地が「蓮田」と呼ばれるようになったと言う伝説の元となったところなのです。
現在は慶福寺の管理する「蓮華院墓地」の中央に位置しているとあるので、墓地に行くとそれらしきものがありません。境内をくまなく探して、さらに寺の周りまでぐるぐると探したのですがどうしても見つからないのです。
そうこうしている内に冬の陽は短く、もう日も暮れようとする時間でした。寒さもあり今回はこれで終了としました。
残念ですが又の機会にと言うことで家路に着きましたが、帰りは慶福寺からたったの15分で自宅に到着しました。

翌7日の日曜日、どうも居心地がよくありません。やはり何か途中で投げ出した感が残り、後悔の念がいっぱいです。
まあ、逆に言えば近いという理由もあるでしょう。遠いところならスッパリ諦めもつくのでしょうが。 ・・・と言うことで、いざ、リスタート。
昨日よりも天気が良く、昼食を済ましてからPM1:30頃自宅を出ました。
行く前に場所だけは確認しておきました。慶福寺の管理する「蓮華院墓地」とはどうやら、慶福寺の道路を隔てた反対側に墓地だけがある場所が地図にありました。残念ながら寅子石はいまだにわかりませんが。

とにかく慶福寺に到着し車を置いて歩いていくと確かに墓地がありました。その墓地の中央に、これも確かにお堂らしきものがありました。近づいてよくよく見れば、申し訳ないのですが”物置”程度しか見えません。現状屋根だけが立派なので、由緒あるお堂と言われれば、そう思えないこともありませんが。 お堂にはサッシがはめ込まれ、回りには資材やらゴミやら判らないものが置かれていて、ちょっと悲しい気分ですね。まあ、文化財に指定されているわけでもなく、最近では殆ど訪れる人もいないようなので、当然の帰結なんでしょうね。話のネタくらいにはなるかもしれませんが。
黒浜沼 【やっと見つけた蓮華院弥陀堂】


ちょっと残念な気持ちを引きずりつつ寅子石といわれるものを探しに出かけます。馬込とか辻谷とか言われるところらしいのですが、どうしてもわかりません。今回はちょうど車を洗車されていた方がいたのでお聞きすると、どうやら慶福寺からは割と遠いらしい。だが、おおよそ場所がわかったので行ってみると確かに田んぼの真ん中にありました。
黒浜沼 【確かにわかり難い板石塔婆(寅子石)】


案内板があります。

『埼玉県指定有形文化財 考古資料 板石塔婆(寅子石)
昭和四十年三月十六日指定

板石塔婆は死者の供養や生前の功徳を得るために建てられた中世の石造物で、板碑、青石塔婆などとも呼ばれます。この板石塔婆は高さ約四m、埼玉県で二番目の大きさです。塔身いっぱいに深く掘り込まれた「南無阿弥陀仏」の名号や、裏面の「銭巳上佰五十貫」という銘文などが特徴的です。
表面の銘文からは浄土真宗の僧である真仏への報恩供養のために、延慶四(一三一一)年に唯願が建立したことがわかります。常陸国(現在の茨城県)の出身といわれる真仏は、親鸞(浄土真宗の開祖)の真弟子で、真宗の関東布教の中心となった人です。
また、この塔婆には長者の娘・寅子にまつわる悲恋伝説があり、寅子石、虎御石などとも呼ばれており、地元では今でも三月に寅子の供養を行っています。
平成十五年三月
埼玉県教育委員会・蓮田市教育委員会』

現実的には、唯願と言う僧が報恩供養のために立てた碑(塔婆)だと言うことです。それが何故、寅子石伝説に繋がって行くのかを解き明かすコトは出来ませんが、それが所謂、伝説なんでしょう。
色々なサイトで寅子石伝説が説明されていますので極簡単に。

『・・・昔、この付近の長者の寅子というたいへん器量よしの一人娘がいた。近在の若者からの縁談がひきもきらず、胸を痛めるようになってしまった。そして、自らの命を絶ってしまった。若者たちは大いに悔い悩み、寅子の供養塔を建てた」という伝承があり、地元では「寅子石」と呼ばれるようになりました。(蓮田市オフィシャルサイトより 』

この自殺の仕方がショッキングで、若者達に振舞った《なます》が、自分自身を切り刻んだものだったという伝説です。
この辺りから考えると、塔婆を傷つけたりされないように怖い話を作り上げたのではないかとも言われています。

調べてみるとこの伝説の別バージョンのような言い伝えが、さいたま市見沼区にあるそうです。
美人の寅子はひきもきらぬ縁談に悩み自ら命を絶ってしまうのは蓮田の寅子石と同じなのですが、実は寅子の体を切り刻んだのは自分ではなく両親だったという伝説です。
つまり、死んでしまった寅子の姿に両親は嘆き悲しんでおりところに、寅子の死を聞きつけた求婚者をはじめ沢山の人々が弔問に訪れます。貧しい両親はその人々にふるまうものさえありませんでしたので思い悩んだあげく両親は決心し、涙のうちに寅子の亡き骸を切り刻み《なます》にして訪問者にご馳走してしまうのです。後で寅子を食べてしまった事に気づいた人々は、ここに寅子の霊を慰めるために子膾(こなます)明神社という祠をたてたという伝説です。このようにさいたま市にもこの伝説が活きていたそうです。

これをもって蓮田の大散歩を終了します。郷土資料館も見てみたいのですが、さすがに平日となると厳しいですから。
まあ、またチャンスが(・・・と言うより、その気があれば)また訪れるかも知れませんが。

2008.12.12記

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