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聖徳太子立像と例大祭

今回はストレートに聖徳太子立像に向かいます。
本書の説明にもある通り、目指すは行田市荒木の「天州寺」です。天州寺に到着すると、境内には幟と屋台で埋め尽くされていました。 さすがに例大祭とあってかなり賑やかです。まだ時間も10時半くらいでしたので参拝客よりも関係者の方が多かったようです。
聖徳太子立像と例大祭 【屋台で賑う参道】
天州寺について、特に由来書が無かったので調べてみました

正式には、曹洞宗 聖徳山 天洲寺。
慶長12(1607)年、荒木長善の遺子八左衛門の開基で清善寺五世天洲全尭和尚の開山。荒木氏の先祖は、戦国時代に関東一円に覇を唱えた後北条氏の先祖、伊勢新九郎(北条早雲)と共に関東に下った7人の中の一人といわれ、代々荒木に移住して、荒木越前と称し、忍城主成田氏に属していたそうです。やはりそれなりの由緒を持ったお寺なんですね。
早速境内に向かいますと、境内入口横には3~4mくらいの大きな石柱があり「国寶・聖徳太子」と刻まれています。
その横に「聖徳太子立像」に関する案内板が屋台の陰に隠れていました。
聖徳太子立像と例大祭 【国宝・聖徳太子石柱】


『国指定重要文化財   木造聖徳太子立像   昭和十二年五月二十五日指定
天州寺の木造聖徳太子立像は、用明天皇の病気平癒を願う太子十六才の姿を写した孝養像で、髪をみずらに結い、香炉を持つ姿をしています。寄木造、玉眼、彩色からなり、胎内の墨書銘から、寛元五年(一二四七)関東評定衆毛利四郎季光(法名 西阿弥陀仏)の発願により、大仏師法橋慶禅が鎌倉の地において造像したことがわかっています。
季光は、鎌倉幕府確立に功績のあった大江広元の四男で、この像の作成目的は、仁治三年(一二四三)に没した執権北条泰時の往生極楽を願うことにありました。
制作年代のわかるものでは最も古く、作は雄渾無比の鎌倉初期の様式が明確に表れています。運慶様の作風が忍ばれると共に、宋風も表れた優れた孝養像です。
聖徳太子の命日にあたる二月二十二日に、毎年例大祭がおこなわれ、この日は太子像を拝見することが出来ます。
平成七年十二月 行田市教育委員会』

ここで素朴な疑問です。
国指定重要文化財とあるのですが、石柱には”国寶(宝)”と刻まれています。調べて見ると理由が判りました。
そもそも”重要文化財”とは、日本に所在する建造物や美術工芸品等の有形文化財のうち、文化史的・学術的に特に重要なものとして文化財保護法に基づき日本国政府(文部科学大臣)が指定した文化財を指すそうです。
一方、”国宝”とは重要文化財のうち製作が特に優れたものや、歴史上特に意義の深いものなど学術的に価値の特に高いものが国宝に指定されるものだそうで、法律的には国宝も重要文化財の一種なのですが、明らかに指定されない限り”国宝”とはいえないそうです。ですが、ここでは堂々と刻まれています。これは問題じゃないのかと思いますが、そうではない理由もあるようです。
つまり、1950年(昭和25年)の文化財保護法施行以前の旧制度下では、現在の「重要文化財」に相当するものがすべて「国宝」と称されていたそうなので、はっきりとした建立時期は見てこなかったのですが、”昭和12年”に指定されていますので、旧制度下での石柱建立と考えれば正論なんですね。まあ、「修正しろ」などと野暮なことをいう人はいないでしょうし、それ位価値のあるものと考えれば、それはそれとして・・・あると思います。

”天州寺”と刻まれた石柱から参道を歩きます。それ程長くはない参道ですが、ところどころに紅梅や白梅が咲き出していました。そろそろ春も近くなっているのかなあと、柄にも無いことを思ってみたりしていますと、山門にたどり着きます。
聖徳太子立像と例大祭 【天州寺石柱と紅梅】
赤と白の”NIPPON”カラーの山門には、同じく赤白のボーダー柄の大きな提灯が下がっていて、大きく「聖徳太子」と書かれていました。 浅草・浅草寺ほどではないにしろ結構大きな提灯です。この日のための特別なのでしょうか。
聖徳太子立像と例大祭 【天州寺山門】
ちょうど、山門の前後左右の柱部分に4体の像があります。これは四天王だそうです。
四天王とは仏教に於いては帝釈天・梵天と共に須弥山に在り仏法の偉大な護法神として登場します。四方を守る守護神とされていて、持国天は東を守護し、増長天は 南を守護し、広目天は西を守護し、多聞天は北を守護する4守護神だそうです。全く知らなかったのですが、日本に於いて四天王信仰は飛鳥時代からあり、実は聖徳太子と四天王とはとっても所縁があるのです。
聖徳太子立像と例大祭 【堤燈と四天王】


四天王を祀る寺として有名なのが、文字通り大阪市の”四天王寺”です。 かつて仏教の是非をめぐって物部氏と蘇我氏が争った時に、時の勢力者・物部氏に対して劣勢に立たされていた蘇我氏の一員に16歳の聖徳太子が居たそうです。
太子は四天王の像を彫り「私たちを勝たせてくれたら必ず四天王のために寺塔を建ててお祀りします」と言い、士気を高めて劣勢の蘇我氏が勝利しました。
この勝利により約束を守った聖徳太子は、この地(摂津)に四天王を祭る寺を建立したそうです。これが現在の四天王寺だそうです。
因みに、この四天王寺は日本で現存する最古の寺で、当然のように四天王寺の西門にある石の鳥居は日本最古の鳥居だそうです。
これで聖徳太子に四天王が居る理由なのですね。

山門を抜けると「太子堂」があります。柱や壁は朱色で大変綺麗に保たれているようです。
聖徳太子立像と例大祭 【いつもとは違う…と思う太子堂概観】
横から靴を脱いで堂内に入ります。堂内の入口には関係者の方がいらしており、是非見てくださいと、声をかけられました。
堂内には「太子堂」と書かれた額や太子の絵など多くの関係する資料が掲げられています。 その中には「100選選定」の額も飾られていました。
聖徳太子立像と例大祭 【太子堂内部】
堂内の一番奥に「太子立像」が祀られているようです。何組かの方が順番待ちをしていましたが、私のすぐ前の3人の女性の方たちのお一人が太子や像に纏わる話などを、他の2人の方に説明されていて、なかなか詳しく判りやすい説明だったので、ついつい耳ダンボ状態で聞き入ってしまいました。
聖徳太子立像と例大祭 【聖徳太子立像 (c)行田セレモニー・天州寺】


一般的に理解している聖徳太子とは、593年に叔母である推古天皇の皇太子となり,摂政として内外の政治の整備に携わった人物です。その主な事績は,603年に冠位十二階を定め、翌年には憲法十七条を制定しました。607年には遣隋使として小野妹子を隋へ派遣して国交を開き大陸文化の導入につとめました。さらに620年には国史の編纂を行うと共に、仏教興隆に尽力し法隆寺・四天王寺を建立するなど多くの事績を残した人物です。
一遍に5人とか10人とかの話を聞ける、などという逸話も聞いていますね。
しかし、現在では憲法十七条制定や法隆寺の建立などにおいて聖徳太子が行ったという確証が無いという論や、昨年2008年2月に掲載された”東京新聞”の「TOKYO Web」では、聖徳太子自体の存在を否定する研究が発表されたともあります。
現代から見れば明治や江戸時代は凡そどの程度前のことか把握できるのですが、平安時代や奈良時代、或いは飛鳥・古墳・弥生・縄文となると学者やオタクは別として、一般的には単に”古い”や”昔”なのです。
つまり、仮に冠位十二階を制定した604年を聖徳太子の活躍した年とすると、日本における伝存最古の正史といわれる「日本書紀」が完成したのが奈良時代の720年です。 この間凡そ100年以上の時が経過しているわけですね。
現在から見ればおおよそ明治時代です。明治の時代にはもう写真もあり、文献もありかなりの精度で正しい歴史を描けるでしょうが、それにしても曖昧な部分は多いものです。
そう考えると、聖徳太子の功績や人となりをつたえる「日本書記」が本当に全て真実なのかがまず浮かびます。更に歴史書とは時の権力者によっていくらでも書き換えや脚色がされるものです。「日本書記」にそういったことは無いのか。などなど・・・ まあ、とっくに偉い先生方によって議論されていることではしょうが。
そうして考えれば聖徳太子捏造もあながち無理な話ではないのでしょうね。
しかし、それはそれとして”古代ロマン”という意味でそのままにしておくのもまた悪いことでは無いと思いますが。

と言っているうちにいよいよ「太子立像」を参拝します。
「太子立像」は暗い祭壇の中、灯明の光に映し出されて黒光りのする像です。きちんと光を当てれば写真のようになるのでしょうが、この中では漆黒の像の感じです。
聖徳太子立像と例大祭 聖徳太子立像と例大祭 【聖徳太子立像と玉眼】
結構大きな像ですね。高さは140cmとありますので、小学生くらいはあるのでしょう。
よく見てみると目が青く光っています。これは何、とばかり考えましたが良くわかりません。スピリチュアル的な何か、それとも演出、みたいな罰当りな考えをしていましたが後で思えば説明板にもあったとおり、”玉眼”即ち目は水晶でできていたそうで、それが光って青い光を放っていたんですね。って、ことは演出!?
しばらく見入っていましたが、此れが重要文化財の重みですかね、かなり圧倒される何かが・・・あったかどうかは感じませんでしたが、十分見る価値はあるものですね。

この「聖徳太子立像」は結構全国にあるのですね。ホンの少し調べてだけでも以下の通り出現します。
国指定:《藤井寺市・道明寺》《石川県能登町・松岡寺》《尾道市・浄土寺宝物館》
県指定:《津市・松原寺》《常陸大宮市・常弘寺》《愛知県稲沢市・青宮寺》
市・町指定:《佐渡市・牛尾神社》《白井市・西輪寺》《静岡県志太郡・光泰寺》

これは、「聖徳太子は観音菩薩の生まれ変わりである」という太子自身を信仰対象にした”太子信仰”によるものの様ですが、古くは平安時代に成立したようで、その後、鎌倉時代になり”太子信仰”=”救世観音信仰”は西方浄土信仰と同一視されるくらい長い間続くようになったそうです。
そして、これが室町時代の終わり頃から、太子の忌日と言われる2月22日を「太子講」の日と定め、大工や木工職人の間で講が行なわれるようになったそうです。これは四天王寺や法隆寺などの巨大建築に太子が関わり諸職を定めたたという説から、建築、木工の守護神として崇拝されたことが発端で、江戸時代には大工らの他に左官や桶職人、鍛冶職人など、様々な職種の職人集団により太子講は盛んに営まれるようになったのです。
こういった信仰対象として数多くの聖徳太子像が作られたと考えれば納得できますし、逆に、これだけ多くの太子像がある中で制作年代の判る像のうちで最古のものですから、尚のこと天州寺の太子像の価値は十二分にあるといえますね。

ひとしきり堂内を見させていただき太子堂をでました。出る時には係りの方から「聖徳太子」のお守りをいただきました。
大層ありがたい配慮と共に、大変良い記念となりました。罰当りな私もさすがに信心深くなりそうな気配ですが、結局私はモノに弱いという煩悩をさらけ出した罰当り参拝者でした。
聖徳太子立像と例大祭 【大変ありがたい太子のお守り】
順序が後先になってしまいましたが本堂を参拝しました。立派な本堂で、これから太子堂でおこなわれる例大祭儀礼、祈とう修行のためか、恐らく近在の?あるいは関連の?お寺の僧侶の方たちが集まってきているようです。
聖徳太子立像と例大祭 【天州寺本堂】
ちょうど本堂と太子堂の間にステージトラックが横付けされ奉納舞踊やカラオケが行われるようですが、現在はまだ始まっておりませんでした。
また、境内には整備された庭園と東屋がありしっとり和風風情(お寺だから当たり前ですね)がちょっと癒し風です。
聖徳太子立像と例大祭 聖徳太子立像と例大祭 【イベントトラックと東屋のある境内】
参道に戻ると小さいながらも小奇麗な庭園が秩父鉄道線路脇にあります。 標柱には「太子公園」と記載されています。
ここにも祭壇がしつらえてありますので、恐らく祈祷か何かをさせるのではないかと思います。 こういうときツクヅク”聞いてくればよかったのに”と必ず後悔するのですが・・・
恐らく境内の一部を公園として整備されたのでしょうか。ここも季節のよい日は花や木が美しいのでしょうね。
聖徳太子立像と例大祭 【太子公園】
小一時間くらいでしょうか参拝し、天州寺を後にしました。
「聖徳太子像」と「例大祭」、貴重な経験をさせていただきました。1年に1回ですので、是非行かれることをお勧めします。

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