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真観寺と小見真観寺古墳

天州寺を後にして行田市街に向かいます。
前回見れなかった忍城址を訪ねることにしました。車で戻ると小見真観寺古墳と看板があったので立ち寄ってみました。
特に塀や生け垣などの境内を仕切るものはなく、かなり広い境内のお寺です。 とりあえず左手に山門が見えるのでそちらに向かいました。
その途中に案内板がありました。

『県指定彫刻 真観寺聖観音像  行田市大字小見一一二四 昭和二十九年三月四日指定
この像高一〇三センチメートル、檜材、寄木造の聖観音像は、藤原時代末期の典型的な美しさを持つ立像である。
本像は、元来三尊仏の中の脇侍として造立されたものと思われるが、典雅に整った正統な定朝様を伝えている。その洗練された彫技から推すと中央仏師の手になるものと思われ十二世紀前半から中葉頃の造立と考えられる。
本像に続く作品として、南埼玉郡宮代町西光院の本尊阿弥陀三尊があり、その脇侍像と本像は酷似している。
江戸時代、昭和三十三年の補修は受けているものの、よくその豊麗な姿を保っており、市内でも数少ない藤原仏の一つといえよう。
行田市教育委員会』

初めて耳(目)にした聖観音とは一体どんな観音様なのでしょうか。
そもそも「聖観音」とは仏教における信仰対象である菩薩の一尊です。一尊というくらいですから他にもあるのでしょう、事実、六観音の一尊で「正観音」とも言うそうです。
真言宗系では聖観音、十一面観音、千手観音、馬頭観音、如意輪観音、准胝観音を六観音というそうで、六観音は六道輪廻=あらゆる生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする=の思想に基づき、六種の観音が六道に迷う衆生を救うという考えから生まれたもので、地獄道=聖観音、餓鬼道=千手観音、畜生道=馬頭観音、修羅道=十一面観音、人道=准胝観音、天道=如意輪観音という組み合わせになっているそうです。以前栗橋にあった六地蔵も似たような意味合いだったような気がしますが。
そして、基本的に多面多臂などの超人間的な姿ではない1面2臂(一つの顔と二つの腕という意味)の像をさして聖観音というそうです。
しかし聖観音の定義はこれだけではありません。つまり、1面2臂の観音像がすべて「聖観音」と呼称されているわけではなく、阿弥陀三尊のうちの左脇侍像として安置される観音像については単に「観音菩薩像」と言うのが普通で、「聖観音」と称するのは、独尊像として祀られる場合にほぼ限られているそうです。
ここにある観音像は解説板にもあるとおり、元々は三尊仏の中の脇侍として造立されたものであるらしいのですが、現在は独尊像として祀られるので「聖観音」といわれているのでしょう。
それにしてもそんなに美しい観音像、是非見てみたいものです。

参道を通って山門に向かいます。結構歴史のありそうなどっしりとした山門です。
聖徳太子立像と例大祭 【真観寺山門】
ここでも特に由来書などがないので少し調べてみました。

真言宗智山派 慈雲山 真観寺
真観寺の歴史はかなり古いので開基には諸説あるそうです。
聖徳太子の時代、鞍作止利がこの地を不足の霊場と感じ、自ら観音像を彫刻し寺を建立したという説。
また、平安時代の初期、坂上田村麻呂公遠征の際、当地に立ち寄り開山したという説等など、歴史が長い分多くの縁起が生れているようです。
ただ、これ等に共通しているのは、
1.鎌倉時代の健保年間に瀧憲鏡阿闍梨が再興された。(瀧憲鏡阿闍梨が何かは不明)
2.南北朝時代には足利氏の軍勢に焼かれた。
3.戦国時代の忍城水攻めの際には石田方の兵火に遭い諸堂を焼失した。
ということだそうです。
さらに江戸時代、真観寺は忍城にとって日光脇街道の北の要衝にあたるので藩主の保護も厚く、徳川家より御朱印十石を賜り、江戸城参内の際は大広間総禮席の寺格を賜ったそうです。
また、本堂は寛永11年、忍藩主より拝領した忍城の仏間で、忍城の数少ない遺構の中で郡を抜いて大きな建造物で、そのため、藩主と住職が対面する「対面座敷」が有るそうです。
ということで、由緒と力を持っていた寺院だったことが伺え、それ故、広大な敷地や重厚間感のある建物があるのですね。

山門をくぐるとその先にはお堂らしきものが見えます。まずはそこに向かって進みだすと、左手に「塞神」と書かれた石柱がぽつんとあります。
聖徳太子立像と例大祭 【「塞神」塔】
「塞神」とは”サエノカミ”と読み、どうやら道祖神の一種らしいです。”サエノカミ”は他に「幸神・障神・妻神・歳神・才神・性神」などの書き方があって、それぞれ意味が違うそうです。
「塞神、障神」は、村や地域の境界、道の辻にあり、文字通り、禍の侵入を防ぐ神です。「幸神・妻神・性神」は、性病治癒、夫婦和合、子宝の神とされていて、「歳神、才神」となると、年々の収穫を祈念する神だそうです。100%この通りでは無いらしいのですが。
したがって、真観寺の「塞神」は(後に知ったことですが、)この寺院の前の道が旧日光街道であったことから、この場所に「塞神」が置かれたのかもしれませんね。たった一つの石柱が結構意味を持っているんですね。
更に、この「塞神」のところに無造作に石のカケラらしきものが置かれていて、そのカケラにはどうも梵字のようなものが描かれているのですが、これについては(意味の有る無しも含めて)全く判りませんでした。
ですが、何かこの寺院も見所満載の予感がしてきます。

先に進むと今度は右手に「如来像」が並んでいます。これはどうやら干支によって守り本尊があることを意味しているようです。つまり、十二の方位にはそこを護る八体の守護仏がいるとされており、その方位と同じ生まれ(干支)の守護仏になるといわれているそうなんです。
聖徳太子立像と例大祭 【干支お守り本尊】
この守護仏は左から、
千手観世音(ねずみ)、虚空蔵菩薩(うし・とら)、文殊菩薩(うさぎ)、普賢菩薩(たつ・へび)、勢至菩薩(うま)、大日如来(ひつじ・さる)、不動明王(とり)、阿弥陀如来(いぬ・いのしし)となっています。
今まで結構寺社を巡りましたが、これは初めてですね。
因みに干支での性格と運気を占っているサイトがありましたので、まずは自分自身から。

『申年:性格と運気
研究心が旺盛で、先取の気性に富み、若くして異色の才能を発揮する人がいます。世話好きなので味方も多いのですが、口が災いして敵をつくることもありそうです。軽率に他人を信用して失敗することも多いので、慎重に行動することも必要です。軽挙妄動を慎めば、もともと才気煥発なので、中年期以降は成功をつかみ、安定した晩年をすごすことができます。』

かなりあたっています。しかも中々良い運気ではないですか、ハハハ。ですが・・・
『申年の八白土星:晩年は運気が衰えるので、中年期の良運を生かしたい。』って中年期もう終わってしまうで。
ていうことで、良いのやら、悪いのやら、ですね。

参考:【あなたの生まれ年の干支は?】 http://blog.engido.net/etoq/20070404/

さてさて今度は左手に石碑があります。
「秩父・坂東・西国 日本百観音霊場参拝記念」と刻まれています。こちらの住職が百観音を参拝されたのでしょうかねえ。一度調べて見ましたが百箇所は結構大変そうです。
栗橋の羅漢寺にあったような”お砂踏み”とは訳が違うの出すから、すごいことですよね、これは。

さていよいよ「聖観音」のある観音堂です。かなり年代を感じさせる建物です。 お堂の額には「正観音」とあります。どちらも同じ意味なので問題ないのでしょう。
聖徳太子立像と例大祭 【「正観音」堂】
参拝を済ませ上を見ると様々な絵が天井に描かれています。内容的にはよくわかりませんが色々と意味があるのでしょう。
聖徳太子立像と例大祭 【正観音絵画】
お賽銭箱の横に「聖観音」の写真が掲出されていました。 どうやら簡単には見ることは出来無いようで、とりあえず写真でも見てくださいということでしょうか。まあ、どれほど美しいかという基準が良くわかりませんが、ゴツゴツしていおらず、綺麗な曲線を描いているなどというところが美しいのでしょうか。
聖徳太子立像と例大祭 【聖観音写真】
これは後で聞いたのですが、こちらの真観寺は干支で言うところの”午”に関する(具体的に何を、かはわかりませんが)お祀りをしているそうで、この「聖観音像」は午年に開帳されるということで、つまり12年に一度見られるということです。
ですから次に見ることの出来るのは5年後!ということになるわけですね。辛抱強く待つしかないでしょう。

ちょうどこの観音堂の裏手にこんもりした丘があります。これが小見真観寺古墳でしょう。
観音堂をおりて古墳に向かいました。
観音堂の右手に古墳標柱と解説板があります。
聖徳太子立像と例大祭 【小見真観寺古墳碑】


『国指定史跡  小見真観寺古墳  昭和六年三月三十日指定
この古墳は、小見古墳群に属す前方後円墳で、星川の右岸の低台地上に立地している。
現存の墳丘の大きさは、全長百十二メートルである。埋葬施設は後円部と鞍部付近に緑泥片岩の一枚石を組み合わせた二ヶ所の横穴式石室がある。後円部の石室は寛永十一年(一六四三)に発見され、前・後室よりなっている。
鞍部の石室は、後室のみが現存するが、前室については明らかではない。この石室は明治十三年に発掘調査され、衝角付冑、桂甲小札、鉄鏃、金環、頭稚太刀、圭頭太刀、刀子、蓋付有脚銅鋺等の副葬品が出土している。出土品は、東京国立博物館に収蔵・展示されている。
これらの副葬品から、この古墳は七世紀前半に築造されたと考えられるが、鞍部石室はやや遅れて造られた可能性がある。
前方後円墳としては最も新しいものであり、埼玉古墳群に後続する首長墓として重要である。
平成二年三月 埼玉県教育委員会・行田市教育委員会』

ここにある小見古墳群とは、小見真観寺古墳を含めて4基の古墳を言います。
虚空蔵山古墳は、小見真観寺古墳の道を挟んだ反対側にある前方後円墳。しかし県道建設時に前方部が削られ後円部しか残っていません。石室の天井材とされる岩は、真観寺の境内にあるそうですが見過ごしました。
その他は、籠山古墳と天神山古墳でそれぞれ円墳です。
埼玉古墳に代表されるようにこの行田は実に古墳の多い町ですので、研究者やマニアにはたまらないのでしょうね。

階段がありますのでまずは鞍部へ登ります。鞍部に着くとすぐ下に階段が見え、その前まで行くと石室が鉄扉で閉じられています。特に鍵がかかっているわけではないので、勝手に開けてしまいました。(良いのかなあ)
幅は2mくらいでしょうか。高さは1mきるくらいでしょうかね、小さい石室です。案内板にあったように副葬品などが結構あったのですね。どこかに書いてありましたが、狐が逃げ込んだので調べたらこの石室があったという話です。
聖徳太子立像と例大祭 聖徳太子立像と例大祭 【小見真観寺古墳鞍部石室】
天井の石は剥き出しでしたが、かつては埋まっていたのでしょうか。前部そして後部と多少歩いてみると、公園として整備されていた綺麗な”さきたま古墳”とは対照的にちょっとスピリチュアル的なイメージの古墳です。幻想的なといっても良いかもしれません。
一旦、下に降りて後円部に廻りますと、2つめの石室があります。 こちらも鉄扉で閉められていましたが、勝手ながら開けさせていただきました。
聖徳太子立像と例大祭 聖徳太子立像と例大祭 【小見真観寺古墳後部石室】
確かに前室と後室があります。ちょっとかがめば入れるので比較的大きな石室です。前と後の境に仕切りとなる石があるのですが、妙な形に割られています。こちらは江戸時代に見つけられたそうなので、盗掘にあったのでしょうか、埋葬品は無かったようです。
因みにこの石室が発見されたのが寛永11年とあるのですが、本堂建立(再建?)が同じく寛永11年であるので、工事中か何かの際に発見されたのでしょうか。とすると埋葬品は盗掘ではなく忍城に没収とかされたりして・・・なんてコトは無いでしょうね。
それにしても比較的当時としては名のある人の墓ではないかという貴重な墓のようですが、”鍵”かけなくてもよいのでしょうかね。まあ、盗むものもありませんがね。(勝手に開けたモノが何を勝手なコトをとのご批判は甘んじて受けます)
境内の(実際何処までがこの寺の敷地かは知りませんが)裏に古墳があるとは、少なくとも歴史のわかっている鎌倉時代に開基されたときに古墳だとわかっていたのでしょうかね。仮に当時古墳と判っていても古墳の歴史的価値というものを考えることがあったかどうかもわかりませんが・・・
聖徳太子立像と例大祭 【古墳上から見た境内】


一通り古墳を見て境内に戻ります。
鐘楼は比較的新ししそうですが、立派な綺麗な鐘楼です。最近再建された感じです。
そこから左手に本堂があります。
この本堂が件の忍藩主より拝領した忍城の仏間なんでしょうかね。中は判りませんが屋根などを見るとそれなりに重々しい雰囲気はありますね。「対面座敷」は今でもあるのでしょうか。市指定にはなっていないのでそれほど文化財としては価値がないのでしょうかね。忍城が無い今となっては貴重なのではないのでしょうか、などと余計な事を考えてしまいました。
聖徳太子立像と例大祭 【真観寺本堂】
これで真観寺は一通り巡りましたので帰ることにしましたが、帰りしな本堂と駐車場の間に小さい山門があります。こちらは新しい感じです。
額には「真観密寺」と書かれてありましたが、何か別な意味があるのでしょうか。
聖徳太子立像と例大祭 【真観寺新山門?】
こうして結構何も判らぬまま、真観寺を後にしました。

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