くりはし八福神 #1

県道3号さいたま栗橋線を40分程度走るともう栗橋、正式には北葛飾郡栗橋町に入ります。

荷王山寶聚寺

県道3号線と国道125号線の交差点が”高柳”と言い、この交差点の角に【くりはし八福神】の一つである《寶聚寺》があります。
早速車を停めて降りてみました。
境内の入り口付近にジェンガゲームのような山門があるので近づいて見ると山門いついての説明がありました。
くりはし八福神 #1 【寶聚寺の鐘楼門】


寶聚寺の鐘楼門
この鐘楼門は、今から約三百五十年前の慶安二年(西暦一六四九年)、寶聚寺の北方に位置する十王の地にあった建造物を移築して寶聚寺の山門としたものとされおり、二階部分の鐘楼と山門が合体した構造の建築様式は大変珍しいものとなっております。
また、この鐘楼門は、平成十五年四月一八日にテレビ朝日系列で全国にテレビ放映されました「サムズアップ人生開運プロジェクト」(司会、ものもんたさん・アシスタント、優香さん、当寺藤島住職出演)の番組の中で紹介されましたように、長年の風雪や大正の大地震にも耐え、現在においてもその歴史的建造物(一説では室町時代の建造物とも言われる。)の風格を保っておりますが、一方では老朽化により鐘楼門の傾きが進んでおり、直ちに倒壊するおそれはありませんが、万一の備えとして山門の通行及び山門下でのお子様の遊びなどは十分な注意をお願いいたします。』

なるほど古いだけあってジェンガゲームの様でもあったのですね。
さらに、この寺は足利氏にゆかりのある寺だそうで、【全国足利氏ゆかりの会】のサイトによると、

『寶聚寺は、当時、下総国下川辺庄高柳郷と呼ばれ、利根川が西側に流れる武蔵国との境目の要所に両上杉家に備えるための屋形を備えた後、明応2年(1493年)初代古河公方足利成氏の弟尊成により屋形を寺に改造し開山したと伝えられています。現在、鎌倉の円覚寺の末寺として臨済宗円覚寺派に属しています。 』

とあります。

参考:【全国足利氏ゆかりの会】 http://www.ashikagauji.net/index.html

かなり由緒のある社寺なのです。 それ故、かつては「くりはし足利氏」祭りなるものもあったそうですが、現在はどうなんでしょうかね。

鐘楼門のそばにお目当ての「吉祥天」があります。通常”七福神”の場合は吉祥天が無いので非常に珍しいのだそうです。
くりはし八福神 #1 【寶聚寺の吉祥天】
「吉祥天」とは梵名をマハーシリーといい、大吉祥天功徳天と訳されます。
吉祥とは繁栄・幸運を意味し幸福・美・富を顕す神とされ、密教においては功徳天ともいわれていることから、美女の代名詞として尊敬を集め、前科に対する謝罪の念や五穀豊穣でも崇拝されているそうです。
現在、七福神で唯一の女神は弁才天ですが、当初の紅一点は吉祥天であったとも言われています。しかし同じ金運等の福徳の女神としては、主に貴族から崇拝されていた吉祥天よりも、庶民を主とする万人から崇拝されていた弁才天が一般的であったため、いつの間にか吉祥天とチェンジさせられたようです。
八福神の場合”女の争い”は起きないのでしょうか。ちょいと心配にはなりますが、まあ、美しい女性は何人いてもありがたいものですので良しとしておきましょうか。

反対側の本堂をと見ると鐘楼門と比べて本堂は建て直しされたのでしょうか、かなり新しく綺麗な建物です。本堂を参拝してから最初の朱印をゲットいたしました。後々良く見るとこの朱印だけ上下逆のような気がするのですが・・・
とにかく寶聚寺と「吉祥天」はこれにて終了です。
くりはし八福神 #1 くりはし八福神 #1 【寶聚寺本堂と吉祥天朱印】


観光協会の駅を起点としたお勧めルートによると、JR栗橋駅(西口)→迎盛院(弁才天)→寶聚寺(吉祥天)→定福院(布袋尊)→常薫寺(大黒天)→顕正寺(毘沙門天)→浄信寺(寿老人)→深廣寺(恵比寿天)→福寿院(福禄寿)→JR栗橋駅(東口)、となるのですが今回は車なので北上しながら回るルートなので、次は国道125号線沿いの定福院となります。

八幡山定福院

寶聚寺から定福院までは車でホンの10分程度です。国道125号線の次の信号を右折するとまもなく《定福院》に到着です。
《定福院》はジャンルAの24位に【定福院の羅漢と石仏】としてランクインしていますので、羅漢・石仏に関してはこちらを参照してください。

参照:【定福院の羅漢と石仏

《定福院》は文永二年(1265)高柳幹盛が、高柳に定福密院を創建し子孫、高柳行清が、寛永年中、佐間の地に移した古刹というかなり古い歴史を持った寺院です。
かなり立派な山門をくぐると間もなく「布袋尊」がありました。
くりはし八福神 #1 【定福院の布袋尊】


「布袋尊」は中国の唐代末頃に実在したお坊さんで浙江省の生れ。姓氏は不祥ですが自らは、契此 (かいし )と称していたそうです。生まれた年は不明ですが、916年に亡くなったと伝えられています。
比較的小柄でお腹が出て、破れた衣を着て、いつも大きな袋を持っていました。袋の中には日常生活に必要なものがすべて入っていたそうで、当時の人達からは「布袋和尚」と呼ばれていました。 占いや天候を予知することが上手で、雪の中に寝ても身体が濡れなかったと言う話が残っています。また、弥勒菩薩の化身とも言われ、現在でも中国では布袋さまを弥勒さんと呼んでいるそうです。

日本においては、庶民にとって福の神の一種として信仰を集め、室町時代後期に成立した七福神に組み入れられました。肥満体の布袋は広い度量や円満な人格、また富貴繁栄をつかさどるものと考えられ、所持品である袋は「堪忍袋」と見なされるようになったそうで、自由自在の境界を表す代表的な人物として愛されています。
ま、見るからに温和と言う言葉がぴったりするような容貌ですからね。
とにかくも本堂を参拝してから朱印をいただき、これにて《定福院》と「布袋尊」は終了しました。
くりはし八福神 #1 くりはし八福神 #1 【定福院本堂と布袋尊朱印】


次の寺院に向かうため境内を歩いて山門に向かう途中に、なにやら参道が延びていて鳥居が見えます。
《定福院》の境内から出ている参道に鳥居があるとは摩訶不思議とばかり向かってみました。 鳥居の近くまで来ると「八幡神社」とあります。
《定福院》の正式名称が”真言宗豊山派八幡山定福院”ですから何か関連があるものなのか・・・!?
くりはし八福神 #1 【八幡神社鳥居】
鳥居の先に拝殿らしきものが見えるので行ってみると、案内板がありました。
くりはし八福神 #1 【八幡神社拝殿】


『栗橋町指定文化財
八幡神社の歌舞伎絵馬 昭和五十三年三月二十九日指定
拝殿の中に二十数枚の絵馬がある。
なかでもひときわ目立つ歌舞伎絵馬は、野郎歌舞伎風の踊りが描かれ、杉板八枚から成り縦一五○センチ、横一八〇センチに達する大形横物で、左方に正徳六丙申三月吉日と墨書され、筆者は消えて不明である。
寛永六年(一六二九年)女歌舞伎が禁止、承応元年(一六五二年)には若衆歌舞伎も禁止され、正徳六年(一七一六年)頃は、野郎歌舞伎が盛んに行われていた。
この絵馬は、その当時のようすをよく表し、絵画としても巧みな鉄線描の輪郭に着色の工合もよく舞手の顔や姿をできるだけ変化させて描かれている。
当時の風俗画として、また演劇の画証的資料としても貴重なものである。
栗橋町教育員委会(※委員会の間違いと思われる)』

ほう、ひょんなところにひょんな物があるものだと感心してしまいましたが、残念ながら歌舞伎絵馬は見ることは出来ません。幅4~5mくらいの小さな拝殿ですが、がっちり締まっていて殆ど中をうかがい知ることは出来ませんでした。

写真を撮っていると、ふと拝殿の後ろにもう一つ屋根が見えます。横に回って見ると拝殿の後ろにもう一つ拝殿と同じ大きさの建物があり、拝殿とその建物は更に小さい建物で繋がっています。これが神社建築で言うところの所謂、八幡造なのでしょうか。
八幡造とは、切妻造、平入のの2つの建物前殿(まえどの)・後殿(うしろどの)を前後に連結させ、中間に1間の相の間(あいのま)が付くのだそうで、何となくそんな感じがするのですが、どうなんでしょうか。
くりはし八福神 #1 【八幡造・・・ですか?】


いずれにしても栗橋町指定文化財があるくらいなので、それなりの縁起もあり、小さいながら境内(1分でぐるっと回れる)には、かなりの大木があり、更に境内の斜め左手10mくらい離れた場所には観音堂もあり、きっとそれなりの神社なのでしょう。
後に調べてみるも全く判らずじまいですので、もし何かご存知の方がいらっしゃればお教えいただきたいものです。
まあ、何にしても、ちょっと良いもの見つけた得した気分でした。

不動山迎盛院

ちょっと寄り道の後は《迎盛院》に向かいます。《迎盛院》だけは栗橋駅の西側でぽつんと離れていますので先に回ることにしました。 とは言っても《定福院》からは車で十数分で到着する距離ですが。
第一印象は実に綺麗な寺です。綺麗というよりきちんと整理されている感じ、といったほうが良いかもしれません。
くりはし八福神 #1 【迎盛院本堂】
ちょっと歴史を感じさせる山門です。ここの創建は不明らしいのですが、鎌倉街道沿いということを考え合わせると、開基は鎌倉頃に及ぶことは確実であるそうです。

境内に入りと、まず「六地蔵」が目に映ります。まあ、まあ、ご丁寧に6体もの地蔵さんが・・・などと思っていたら、これにも意味があったのですね。実に自分の無学が恥ずかしい限りです。
くりはし八福神 #1 【迎盛院の六地蔵】
「六地蔵」とは平たく言えば人間の持つ6っの苦しみから救ってくれるお地蔵さんと言うことです。6つの苦しみを一人では大変なので6人で一つずつ救おうということですね。
その6つの苦しみとは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上という六道のことを言うそうです。ですので「六地蔵」の個々の名称は一定していないのですが、一般的に地獄道を化す金剛願、餓鬼道を化す金剛宝、畜生道を化す金剛悲、修羅道を化す金剛幢、人間道を化す放光、天上を化す預天賀地蔵などと呼ばれることが多いそうですが、当寺では以下のように名付けられていました。

1 禅林地蔵尊―地獄道に墜ちたものを教化する
2 無二地蔵尊―餓鬼道に墜ちたものを教化する
3 護讃地蔵尊―畜生道に墜ちたものを教化する
4 諸龍地蔵尊―修羅道に墜ちたものを教化する
5 伏勝地蔵尊―人のための四苦八苦を除く
6 伏息地蔵尊―天人のための苦悩を除く

他にも百観音や水子地蔵、或いは”やすらぎ”と題された彫刻、そして”七福神の石像”など結構見所の多いお寺です。
くりはし八福神 #1 【七福神石像】
そして、ちょうど六地蔵の裏側、樹木の裏側に目指す「弁才天」がおりました。また、その近くにはおじいさんの顔をしてトグロを蒔いている蛇もいます。
「何か本当色々なのがいるなあ」と感心してしまいました。でも、これもまた意味があるのですね。
まあ、意味もなくて置いてある方がある意味怖いけれど・・・

そもそも「弁才天」とは元々インドの古代神話に登場するサラスバティというインダス川の神様です。サラスバティは「水を持つもの」と訳されることから池や川など水のある所にまつられます。そして、水の流れは、音楽やよどみないおしゃべりに結びつき、芸能の神様としても信仰されています。

《迎盛院》の「弁才天」も小さな池の上に立っており、池の中には金魚が泳いでいます。金網が掛かっているのはネコ避けでしょうか。
くりはし八福神 #1 【迎盛院の弁財天】
一方、日本において「弁才天」は「宇賀神(うがじん)」(穀物の神、転じて福の神)の夫婦神として信仰されている民俗もあるようで、この宇賀神の姿が老人の頭を持った白蛇の姿なのだそうです。
それで「弁才天」の近くに妙な格好の宇賀神がいた訳ですね。
くりはし八福神 #1 【全く妙な姿の宇賀神】


視線を「弁才天」に戻すと、こちらの「弁才天」は二臂で琵琶を持っています。通常、二臂の場は琵琶を持つことが多く、八臂の場合は、宝珠・宝棒・宝箭(矢)・宝刀・宝弓などを持ってる事が多いそうです。因みに二臂・八臂とは手の数のことで、仏様の手を数えるときは臂(ひ)といいます。
「弁才天」の姿にいろいろあるのは、宇賀神と混同されたのではないかと言われています。
いずれにしても「弁才天」と宇賀神が一緒くたになって、富の神「弁財天」と言われるようになったのかもしれません。当寺も「弁財天」となっていました。まあ、色々勉強になるなあと感心のしっぱなしですが、所謂・・・ですからねえ。
とにかく《迎盛院》の「弁才天」・・・否「弁財天」、ゲットいたしました。
くりはし八福神 #1 【弁財天朱印】

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