くりはし八福神 #2

《寶聚寺》~《定福院》~《迎盛院》の3ヶ所を廻ると残りの5寺は利根川沿いの県道60号線に集まっているので歩いても十分廻れる範囲です。
東北線線路を渡り八坂神社の北側から県道60号線を南下し《福寿院》を目指しました。
八福神めぐりも四つ目ともなると”くりはし八福神”と書かれた紫色ののぼりと、各八福神名の書かれた赤いのぼりが各寺にあるので、一目瞭然それと判るようになりました。
県道60号線の”駅入口”交差点を右折すると左側にありました。

天王山福寿院

《福寿院》は元和6(1620)年の開山で、栗橋の宿場造成と共に創建されました。
鉄道の開通に伴い、参道の一部が駅通りとなった、とあるので現在の県道60号線の”駅入口”の交差点からが参道ではなかったのかと思われます。ちょうど道路から斜めに短い参道があるだけですから。
くりはし八福神 #2 【福寿院本堂】
境内に入るとちょうど子供連れのご婦人が境内から出てこられたところで、「ご苦労さま」と声をかけられたので、このお寺の方だったのかもしれません。 さて八福神はと見ても境内にそれらしきものはありません。少し探していると件の赤い幟が境内の外に見えます。
先ほど車できた道のすぐ脇にありました。墓地なども境内の外にありますので、やはり元々は60号線辺りから境内だったのではないかと思います。

四つ目の「福禄寿」です。
くりはし八福神 #2 【福寿院の福禄寿】
元は中国の道教の神さまです。人の命をつかさどる南極星の神様で、頭が長くほぼ二等身の体形が特徴です。
また○○天とか○○神のように天とか神とかが付かないのも特徴で、これは道教のモットーとするところの幸福と俸禄寿命とから生まれた名前といわれます。
鶴と亀を愛した老人の神様で、年令は数千才といわれ、長寿と人望に御利益があります。また福禄寿の福は幸福、禄は高給、寿は長寿につながるといわれます。
一説には中国の五山のひとつ、泰山(山東省)の王ともいわれていますが定かではありません。

残念なことに(と言う言葉が適当かどうかは別として)、これ以外に見所は無いようです。
いずれにしても一旦本堂に戻って朱印をいただき《福寿院》「福禄寿」は終了です。
くりはし八福神 #2 【福禄寿朱印】


ここから各寺は近いので徒歩でと思ったのですが、ここには駐車場がないのでとりあえず車で移動しました。当然60号線沿いの《深廣寺》です。
後に気づいたのですが、この《深廣寺》は60号からほんの少し道を入ったところにあり、うっかり見過ごした後で、すぐ件の紫色の幟が道路沿いに見えたのでてっきり《深廣寺》かと思い入ったところ、そこは《浄信寺》でしたので、先に参拝することにしました。

無量山浄信寺

《浄信寺》は、永正二年(1505年)以前に開山した寺で、その後1569年頃日譽源貞上人が再興されたそうです。
毎年4月には”呑龍上人祭礼”が行われているそうです。これは、貧しい子供を手厚く保護したことから、「子育て呑龍」と呼ばれ民衆から尊敬された”呑龍上人”を《浄信寺》で大正時代から祀っていることから始まったそうです。
くりはし八福神 #2 【浄信寺本堂】
境内に入ると」すぐ右側に「寿老人」が祀られていました。
くりはし八福神 #2 【浄信寺の寿老人】


「寿老人」の姿は長い白髪、長い頭の仙人姿で、福禄寿と同体異名という説もあるそうです。
福禄寿の鶴亀に対して寿老神は鹿を伴っている姿が多いようです。この鹿は1000年以上生きている鹿で、その肉を食べると2000才の長寿を得るという話も伝わっています。
また桃を持っているのも特徴で、桃は中国では長寿福徳のシンボルなのです。 寿老神と書くところもあるそうです。
ここでは参拝の前に朱印を頂戴し、本堂の方へ向かうと左側に説明板があります。
くりはし八福神 #2 【寿老人朱印】


『栗橋町指定文化財
梅沢太郎右衛門の墓 昭和五十六年六月十二日指定
梅沢氏の祖先は菅原氏である。その後、北条氏の客臣となり、塚原氏と改め太郎則武と名のった。
小田原城没落後、相模国梅沢村に住み、姓を梅沢氏と改めた。その子太郎右衛門の時、慶長五年(一六〇〇年)に栗橋(栗餅下)に移住し開墾に従事した。
元和八年(一六二二年)四月、徳川二代将軍秀忠公日光東照宮社参の折、暴風雨のため利根川が満水となり、将軍の渡る船橋が危なくなった。太郎右衛門は人夫を率いて水中に入り、いのちがけでこの橋の安全を守り、災難を救った。将軍はこれを賞して、関東郡代伊奈半十郎忠治を通じて貞宗の名刀・金字に日の丸の軍扇及びお墨付をくだされた。この折梅澤氏は、名字、帯刀を許されたという。
栗橋町教育委員会』

埼玉県を巡れば、関東郡代は結構様々なところで直接、間接的に関連してきますね。やはり一度は自宅のすぐ近くの陣屋跡と歴史は確認しておいたほうがよいでしょうね。 と、ちょっと脱線しましたが、これにて《浄信寺》と「寿老人」終了です。

次に向かうには余りに近いため《浄信寺》に引き続き車を停めさせていただき徒歩で向かいました。 すぐ向かいの《顕正寺》です。

幡谷山顕正寺

本堂の前に説明板と栗橋町指定文化財・標柱がありました。
くりはし八福神 #2 【顕正寺本堂】
案内板にはこう記されています。

『栗橋町指定文化財
阿弥陀如来像 昭和五十三年三月二十九日指定
幡谷次郎左衛門尉信勝は水戸城より三十キロの地に城郭を構えて居住していたが、出家して親鸞聖人の弟子となり唯信と名を改め同所に光念寺を建立し、十字の名号を本尊としていたが、同寺はやがて兵火にかかり焼失してしまった。
その後下総国古河領中田新田村藤の森に聖徳太子作と伝えられる阿弥陀如来の木像を安置したお堂があったので、ここに引き移り、これを本尊として寺号を幡谷山破邪院顕正寺と称した。十六代善了の時栗橋町の開発者池田鴨之介の招請によって慶長十九年(一六一四年)寺基と阿弥陀如来像とをこの地に移した。
その尊像は現在の中央本尊とは別に厨子に安置してある。立派な作で、仏像研究家も優作であるとの賛辞をおくっている。
栗橋町教育委員会』

像自体は見ることは出来ませんが、梅沢太郎右衛門に続きまた有力者が現れましたね。
確かに隣の標柱には「栗橋町指定文化財 池田鴨之介の墓」と記されていますから。とりあえず墓地内を歩いてみました。
くりはし八福神 #2 【池田鴨之介の墓、標柱】
まずは、一番手前の墓地が歴代の住職の墓になっているようで、《顕正寺》の由来書が記されていました。

真宗大谷派 顕正寺由来
開基は常陸の国(現・茨城県小美玉市)幡谷城の城主、幡谷次郎信勝である。信勝は亡妻を弔うため天台宗の僧となり光念寺を建立した。
時は一二一四年(鎌倉期)宗祖親鸞聖人越後より稲田に移りて念仏の教えを説き広めるに出会い、聞法を重ね随喜して弟子となり法名を唯信「ゆいしん」と賜り、光念寺を念仏の道場として布教に努めた。
下って天正十八年(一五九〇)戦国大名佐竹氏の急襲を受け幡谷城は落城、光念寺も兵火により焼失してしまった。 難を逃れ、下総国中田(現・古河市中田)の阿弥陀堂に引き移り、ここを幡谷山破邪院顕正寺と改めた。
十六代善了のとき、栗橋町の開発者である池田鴨之介の「菩提寺に」との招請により、寺基を慶長十四年(一六一四)この地に移し法義を継承して今日に至っている。』

ここでも如何に池田鴨之介の功績の一端がうかがい知れるようです。それにしてもこの顕正寺を含めて実に歴史のある寺院が多いです。栗橋宿として発展しその後余り開発がされなかったのが良かったのでしょうか。だが一方では逆の問題もあり難しいところでしょうが・・・
そして池田鴨之介の墓と案内板があります。

池田鴨之介の墓
栗橋町指定史跡 平成三年五月十四日指定
池田鴨之介(鴨之助)は、新編武蔵風土記稿によれば、並木五郎兵衛と共に、幕府に願い出て、慶長年間(一五九六~一六一四)に、下総国栗橋村(現茨城県五霞町元栗橋)より、村民を引連れ、後の栗橋宿となる上河辺新田を開墾しました。 また、下総国中田新宿村藤の森(現茨城県古河市中田)より顕正寺を移したといわれています。
慶安元年(一六四八)十二月九日に没し、法名を「光明院釈常薫」といいます。
池田家は、江戸時代初代鴨之介の子、興四右衛門よりその名を世襲し、代々栗橋宿の本陣役を務めました。
子孫、鴨平は明治二十二年に私立淑徳女学館を創立し早くから女子教育に力を入れ、その子義郎は、旧栗橋町の第三代町長として町政のためにつくしました。
平成十九年三月
栗橋町教育委員会』

やはり栗橋町にとっては絶大な功績があるのでしょう。また、初代だけでなく代々社会に尽くしてきているところは、なかなか出来ることではないのでしょうね。
因みに調べたところ現在の”淑徳”とは直接関連はなさそうですが(明治25年に前身が設立されている)、何か間接的にも関係があるのでしょうか。娘の母校でもあるので、ちょっと気になりましたが。

何か歴史三昧の寺社でワクワクしてきますが、ここはしばしこらえて肝心の「毘沙門天」を探します。
くりはし八福神 #2【顕正寺の毘沙門天】
毘沙門天は、四天王および十二天の一人でもあり、鎧を着ているところに特徴があります。
というのは、四天王とは須弥山の中腹に住み、帝釈天たいしゃくてんに仕える四人の武将の姿をした神様を表すからです。また、十二天は12種類の神様で、八方位など自然的要素を神格化した 環境的な神様です。
”毘沙門”はサンスクリット語の音写で、意味は多聞とか普聞と訳される事から、すべてのことを一切聞きもらさない知恵者という意味になります。
単独の場合は毘沙門天、四天王や十二天の一人として呼ぶ時は多聞天と呼ばれるのが一般的だそうです。
四天王ではいろいろな夜叉や使者を統率して、仏法を守護し福徳を授ける神で、七福神の中では戦い・勝運の神です。
このように毘沙門天は姿は厳めしい鎧姿ですが、住んでいる城は経典によると七重欄楯、七重羅網、七重行樹とあり、蓮の華の香りがする絢爛豪華な城だそうです。
脇仏として吉祥天、善膩師童子(ぜんにしどうじ)が祀られたり、毘沙門天の妃といわれる吉祥天と一対で祀られます。

なかなか勇壮で忙しそうな神ですが、常に脇仏や妃と一緒でいられるのも地位的に上位にある神ゆえの役得でしょうかねえ。
ま、とにかく本堂に戻り朱印をいただき、《顕正寺》の「毘沙門天」が終了しました。
くりはし八福神 #2 【毘沙門天朱印】
さて、いよいよ八福神も残すは2神。終盤に向かってラストスパートです。

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