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くりはし八福神 #3

《顕正寺》からはそのまま南下して《常薫寺》へ向かいます。
《常薫寺》へは60号を南下し、途中左折して60号と平行している国道4号線をくぐった利根川堤防のそばです。
4号線をくぐって来ると境内の裏手から入ることになります。一瞬民家かと思いましたが、常薫寺との明記があったので建物をぐるっと廻って境内へ入りました。

高林山常薫寺

境内に入るとすぐ「大黒天」がありました。
くりはし八福神 #3 【常薫寺の大黒天】
七福神の大黒天は、福徳や財宝を与える福の神ですが、原形は闇の神様だそうです。
大黒はサンスクリット語の摩訶迦羅 (マハー・カーラ )の訳で、マハーが大で、カーラが黒です。ヒンズー教ではシヴァ神の化身で、シヴァ神が世界を灰にする時、悪魔か妖怪のような姿になるとされています。
この点、七福神の大黒天は、狩衣のような服を着て頭巾をかぶり、右手に打出の小槌、左手に大きな袋を背負い、米俵の上に立っているのが一般的な姿なので、非常に対照的な姿と言えますね。
因みに大黒天が俵に乗っている由緒は「毎日ご飯を供えてお参りすれば、一生、食に不自由はさせない」というお告げあった話が残されており、米俵と結びついたようで食堂や台所にまつられることが多く、そこから転じて寺の婦人(僧侶の妻)を大黒さまと呼ぶこともあるそうです。また、建物の中心となる太い柱を大黒柱と呼ぶは、大黒さまが天・地・人を守る事から屋台骨を支えるものをこのように呼ぶことから始まったようです。
なお、神道では大国主命 (おおくにぬしのみこと) と大黒天を結び付け、大国天とすることもあり、 神社にまつられる七福神では大国天が多いようです。
《常薫寺》の大黒天はよりキャラっぽく、シヴァ神の化身とは到底思えない、愛嬌のある大黒天です。

ちょうどこの大黒天の反対側に《常薫寺》の説明板がありました。
くりはし八福神 #3 【常薫寺本堂】


常薫寺
所在地 栗橋町大字栗橋三二八一~一
常薫寺は、高林山梅香院常薫寺と称する日蓮宗の寺で、本尊は一塔両尊四師像、日蓮聖人像である。
開山は、千葉県市川市正中山法華経寺二祖常修院日常聖人という。今から約七百年前当地に小庵を建立し、現在の常薫寺の基礎を築いたと伝えられている。
江戸時代には、茨城県猿島郡五霞村(元栗橋)の住人であった池田鴨之介が、徳川幕府の命をうけ、この小庵を拠点として栗橋町の開発を行っている。鴨之介は法名を常薫院大徳と称し真宗檀徒であったが、日蓮宗門に帰依あつく、のちに寺では鴨之介の法名である常薫を寺号にしたという。元和八年(一六二二)諸堂を建立し、元禄九年(一六九六)四月酒井河内守の検地縄入れにより、二反一畝三歩を境内屋敷と定められた。
現代の本堂は、嘉永六年(一八五三)に再建されたもので、明治二十二年、昭和四十四年の二回にわたって改修されている。
庫裡は大正十二年関東大震災により倒壊したため、大正十四年に再建されているが、老朽化したため現在は客殿庫裡に改築されている。
昭和六十三年三月
埼玉県・ 栗橋町』

ここでも鴨之介氏の名前が挙がっていますが、”常薫”は同じでも《顕正寺》では法名を「光明院釈常薫」と言っていますが、《常薫寺》では「常薫院大徳」と言っているのですが、どちらかが間違っている、それとも両方とも正しい、とか・・・
正確なことはわかりませんが、いずれにせよ宗派を超えてまで名が残っているとは益々侮れません、鴨之介って、気安い・・・(反省)
兎にも角にも大黒天の朱印を戴き《常薫寺》「大黒天」も終了しました。
くりはし八福神 #3 【大黒天朱印】


《常薫寺》を出ると先ほどの堤防(通常、土手って言うけど)にでたので、折角だからと”坂東太郎”を一目と堤防の上に登ってみました。本日の天気は晴れですが、北日本は大荒れとの予報。考えてみれば、ここは茨城との県境。
恐ろしいほどの強風と寒さ。5分といられない環境で一目散に退散しました。
写真を撮りましたが、手ブレ補正などなんのその、体ごと動いてしまう始末でした。
帰りは、一旦南下してから60号線にもどりました。今度は60号線の一番南から北上し、最後の八福神《深廣寺》へ向かいます。
くりはし八福神 #3 【坂東太郎、利根川】


途中、右手に「焙烙地蔵」がありました。案内板の説明です。
くりはし八福神 #3 【焙烙地蔵】


『栗橋町指定有形文化財 焙烙地蔵
昭和五十三年三月二十九日指定
むかし、現在の利根川に関所が設けられ、人の通行をきびしく取締っていた時代、関所を通らないで渡った者、あるいは、渡ろうとくわだて事前に発見された者は、関所破りの重罪人として火あぶりの刑に処せられたと伝えられている。処刑場も地蔵尊のある現在の場所であったという。
こうした多数の処刑者を憐れみ、火あぶりになぞらえて、その後土地の人が供養のため焙烙地蔵として祭ったものである。今も焙烙に名前を書き入れ奉納されているのが見うけられる。
また、エボ地蔵ともいわれ、あげた線香の灰をエボにつけると治る、といい伝えられている。
栗橋町教育委員会』

それにしても車だったら通り過ぎていただろうなと思うほど、小さな、そしてひっそりと佇んでいました。
勿論当時としては重罪人だったのだろうけれど、止むにやまれぬ理由の人たちもいたのかもしれないですね。情状酌量の余地のある人々もいたのでしょうが、そういった意味では憐れむ気持ちも理解できますね。 河川沿いの宿場町ならではの光景なんでしょう。

更に北上すると電柱になにやら付いています。良く見ると「昭和22年カスリーン台風・実績浸水深(青テープ)」と記されています。
くりはし八福神 #3 【浸水深2.4m】
2.4mとあるので、この辺(栗橋小学校付近)は2.4m浸水したのですかね。それにしてもすごい深さです。昭和22年ですから、恐らく木造平屋の家屋などが多かったのでは無いでしょうかね。とすれば床上浸水などというレベルではなくまるで家屋埋没ですね。
私の生まれ育った埼玉県川口市も昔はすぐ台風で水がでたものですが、私の覚えている範囲の記憶では床上浸水したのは1回だけで、それ以外はすべて床下浸水でした。ですから、学校は休みになって、浸水したトンでもな汚水の中を喜んで遊んでいたことを思い出します。
2.4mの浸水ならまあ、そんなレベルではなかったのでしょうね。当時の方の苦労が偲ばれます。
それにしても”青テープ”とは何の意味なんでしょうか。

無涯山深廣寺

こんなプチ歴史をしながら《深廣寺》に到着しました。ちょうど車も隣の《浄信寺》に置きっぱなしなので、帰りは実に好都合です。
境内に入ると大きく立派な寺院です。参道の右側に「恵比須」がいます。

「恵比寿」は、右手に釣竿、左手に鯛を抱えています。はじめはその姿から想像できるように漁の神でした。海のかなたから渡って来た豊漁をもたらす神として、また航海安全の神として港の近くに多くまつられました。
港は船の出入りによって商売が繁昌するので、航海安全は商売繁昌につながり、恵比寿は商売繁昌の神様としても有名になったのです。
神道では恵比寿はイザナギノミコトとイザナミノミコトの第三子と言われ、夷の字が多く使われます。このほか戎、恵比須、恵美酒、蛭子、胡、などの文字も使われるそうです。
くりはし八福神 #3 【深廣寺の恵比寿】


この「恵比寿」神の反対側に六角形の塔が沢山並んでいます。
くりはし八福神 #3 【六角名号塔】
案内板の説明です。

六角名号塔
栗橋町指定有形文化財 昭和五十三年三月二十九日指定
六角名号塔(ろっかくみょうごうとう)は、総高約三六〇センチ、一面の幅約五〇センチ、六面からなる石塔で「南無阿弥陀仏」の名号が刻まれています。
この塔は、当山二代住職単信上人が伊豆大島より大石を船で持ち帰り、承応三年~明暦二年(一六五四~一六五七)の間に千人供養塔を二十基建立、その後明和三年(一七六六)に九代住職法信上人が三千人供養塔を一基建立したものです。
配置は左の図のとおりです。〔1〕~〔20〕千人供養塔、〔21〕が三千人供養塔です。なお、基礎部右側面の地名の表記が、承応三年七月までが「新栗橋」(〔1〕~〔8〕)、同年八月からは「栗橋」となっています。
(※配置図省略)
平成十八年三月 栗橋町教育委員会』

古くは350年以上前からあるということですね。如何に船とは言えども伊豆大島からですから結構大変だと思いますね。ただ、何故、伊豆大島なのかが理解できません。現代ならたまたま行った旅行先で気に入ったものがあったので購入して、送ってもらうことになっている的な方法はありえるのですが。
更に千人と三千人の違い(大きさは確かに違うようですが)とか、何故L字の配置なのか(当時はもっと広かったのではなかったかと思うので)とか、栗橋より新栗橋の方がなぜ古いのか、とか結構突っ込みどころ満載かもしれません。
そんなことを考えながら墓地を徒然に歩いてみると、また案内板がありました。

並木五郎兵衛の墓
栗橋町指定史跡 昭和五十三年三月二十九日指定
並木五郎兵衛(五郎平)は、新編武蔵風土記稿によれば、池田鴨之介と共に、幕府に願い出て、慶長年間(一五九六~一六一四)に、下総国栗橋村(現茨城県五霞町元栗橋)より、村民を引連れ、後の栗橋宿となる上河辺新田を開墾しました。
また、深廣寺の開基となり、山内の「六角名号塔」の建立に協力し、明暦元年(一六五五)十一月十八日に没しました。法名を「梅香院光盛」といいます。
並木家の初代五郎兵衛は、幸手城が関谷城の小笠原氏に攻め落とされた時、身を隠していた幸手城主一色直朝の子輝季(てるすえ)を当地「萬屋(並木家)」にて捕まえたという逸話があります。
また、その後子孫は、宿な名主を務めましたが、あるとき大洪水による飢えから人々を救おうとして、御用米を村民に分け与え、その罰により所払いをうけて小右衛門に移りすんだといわれています。
平成十八年三月
栗橋町教育委員会』

小右衛門を調べてみると、南栗橋駅に近いところのようですが、実際には車で行けば10~15分程度でいけるのではないでしょうか。歩いてもそれ程遠いところでは無いようですが、当時としては近くても遠くても故郷或いは居住地を追い出されることに屈辱があったのかもしれませんね。
まあ、之を読むと伊豆大島からの運搬も多少理解できそうではありますが・・・
それにしても良くまあ、これだけ史跡があると感心しながら本堂に向かうと、また案内板があります。
くりはし八福神 #3 【深廣寺本堂】


単信上人像
栗橋町指定有形文化財 昭和五十三年三月二十九日指定
単信上人像は、無涯山単信院深廣寺住職自作の像と伝えられています。
この像は、彩色寄木造で江戸期の作、像高七五・八センチ、円頂、玉眼、胸前で合掌し、椅子に座した姿で厨子に納められています。
単信上人は、乗蓮社性誉上人単信演説大和尚と称し、上野国(群馬県)の農家に生まれ、菩提寺の大蓮寺(前橋市)で、仏門に入りました。 その後、芝増上寺にて学び、深廣寺の二代住職となり、多くの信者に慕われ、明暦三年(一六五七)十一月三日入寂しました。
本像は、毎年十二月二日「単信様」の祭礼時に御開帳されます。
平成十八年三月
栗橋町教育委員会』

と言うことで、これは普段見ることが出来ないのですね。いろいろ寺の都合って言うものもありますからね。
ただ、観光客にとってはモチュベーションダウンですね、せめて写真を見せるとか、今後考えていただきたいですね、教育委員会の方に。折角、これだけ整備しながら詰めの部分でガッカリは無いと思うのですけれども。

まあ、気を取り直していよいよ最後の朱印をいただきます。
くりはし八福神 #3 【恵比須朱印】
これにて「くりはし八福神」完了いたしました。完了の朱印がこれです。

「バーーーーン」(拍手)
くりはし八福神 #3 【朱印満願】


時刻を見ると12時半くらいです。凡そ2時間半で八福神を廻りました。
ちょうどお腹もすいてきたので昼食をとることにし、とりあえず、栗橋駅方面に向かうことにしました。

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