くりはし八福神 #4

栗橋駅前に到着し、駅前のパーキングに駐車しました。やはり茨城県との県境の町だからでしょうか、駐車している3~40台の20%位が土浦ナンバーでした。まあ、どうでも良いことですけれど。
栗橋駅前を歩いて通ると栗橋駅の何と綺麗なことか。青空にマッチした建物と、メタリックなモニュメントが中々近代的な駅を思わせます。
くりはし八福神 #4 【一応モダン風な栗橋駅】
昼食は駅前の蕎麦屋で、私は”鴨汁付き十割そば”(栗橋にきたら”鴨”しかないです!)、家内は”静”セットを頼みました。そういえば栗橋は「静御前」の町でもあるのですねえ。
比較的美味しかった昼食をおえて、早速「静御前」の墓所を訪ねました。駅からはホンの2~3分のところです。
結構大型の案内板があります。イラストつきですからかなり気合が入っています。
くりはし八福神 #4 【静御前墓所】


『栗橋町指定文化財 静御前の墓 昭和53年3月29日指定
静御前は、磯の禅師の一人娘として仁安3年(1168)に生まれたといわれ、白拍子と呼ばれる美しい舞姫に成長いたしました。
干ばつが3年も続き、加えてその年も長い日照りで農民が大変困っておりました。そこで、後鳥羽上皇が寿永元年(1182)、京都神泉苑に舞姫100人を選び、「雨乞いの舞」を命ぜられました。最後に静が舞い始めると空がにわかに曇り、激しく雨が降り出し3日3晩も降り続いたといいます。後鳥羽上皇は、静が15才でありながら類稀な才能を賞嘆され、褒美に「蝦蟇龍」の錦の舞衣を賜りました。この衣は現在、古河市中田町の光了寺に保存されております。
平氏追討に功績のあった義経の寵愛を受けた静が初めて義経に出会ったのもその頃のことでした。その後、義経は兄頼朝の不興を蒙り、奥州平泉の藤原氏を頼って京都を落ちのびました。静は義経を慕って京都を発ち、平泉に向かいましたが、途中の下総国下辺見付近で「義経討死」の報を耳にして悲しみにくれ、仏門に入り義経の菩提を弔いたいと再び京都へ戻ろうとしました。しかし、重なる悲しみと馴れぬ長旅の疲れから病気となり、文治5年(1189)9月15日、この地で死去したと伝えられています。
侍女琴柱がこの地にあった高柳寺に遺骸を葬りましたが、墓のしるしの無いのを哀れみ、享和3年(1803)5月、関東郡代中田飛騨守忠英が「静女之墳」の墓碑を建立したものと考えられています。また、境内にある「舞ふ蝶の 果てや夢みる 塚の蔭」という歌碑は、江戸の歌人坐泉の作をを村人が文化3年(1806)3月に建立したものであります。
(注)公式には、静御前の生没年は、はっきりしていません。ここに記されている内容は当地の伝承をもとにしています。
栗橋町教育委員会
静御前遺跡保存会

静桜(しずかざくら)
静桜は、静御前ゆかりの花であり、数の希少さとともに、学術的にもきわめて貴重な桜です。里桜の一種といわれていますが、ソメイヨシノのような一般の桜にくらべ、花期の訪れが遅く、4月中旬に開花します。花は、5枚の花弁の中に、旗弁といって、おしべが花びらのように変化したものが混じる特殊な咲きかたをします。
このことから、開花した様子は、一見、八重と一重が混じったように見え、ほかの桜とは趣を異にした風情を見せています。この桜の原木は宇都宮市野沢にあります。地元の伝承では、奥州へ向かった静が、義経の討死を知り、野沢の地に1本の桜を植え菩提を弔ったのがその名のおこりといわれています。その接ぎ木苗が(財)日本花の会から寄贈され、この墓所に植えられました。
平成5年の静御前墓前祭で、日本花の会により墓所の桜から穂木が採られ、芽接ぎが行われたのをきっかけに、栗橋町では静桜を町のシンボルとして大切に育て、その数を増やすことを目的に「静桜の里くりはし」づくりを進めています。

静御前墓前祭
<主催 静御前遺跡保存会>
毎年静御前の命日にあたる9月15日に行われています。

静御前祭り
<主催 栗橋町駅前商店街事業協同組合>
毎年10月中旬に開催されます。若者たちが静御前と義経に扮し、豪華な時代絵巻きが呼び物。』

歴史的にも興味深いし、キャラクター的にも魅力があるので、町興しなどでは持って来いのテーマではないかなと思います。
そして、そのために官民一体となって町の活性化を図るとい事は非常に結構なことでしょうね。 実際に墓前祭や御前祭りにも自然と興味・関心も沸いてくるというものです。
下手な町興しよりよっぽど気が利いています。
ただ、テーマ的に申し分のない町興しですが、ベースとなる史実が伝承や伝説だと往々にしてこんなことが起こるのですね。

『奥州岩代の国(現・郡山市) 今に伝わる静御前
悲運の名将・源義経に寵愛された静御前は、奥州藤原秀衡のもとに下った義経を慕って、密かに鎌倉幕府の目を逃れ、供の乳母・さいはらと下僕の小六(元北面の武士)を従え、京の都からこの地までやって来ましたが、老いた小六は病に倒れ、義経がいるという平泉はまだ遥か遠いことを思う二人は、この地(花輪の里)で途方に暮れてしまいました。
  静は小六の霊にひとさしの舞を手向けると「ここは義経殿のおはせし陸奥(むつ)の国なれば、ここに心を留めましょう」と、その面影を偲びつつ、ついに池に身を投じたと伝えられています。ときは弥生の花の頃(旧3月28日)、静22歳の春でした。
里人はそのあまりに美しい命を哀れみ、一宇を建て二人の霊を祀りました。今から810年ほど昔、1189年(文治5年)の事です。
現在の御堂は1781年(安永10年)に再建されたものです。近くに身を沈めた池があり、「美女ヶ池」として今も残っております(郡山市大槻町太田地内)。 』

福島県郡山市こそが静御前の終焉の地であるとのアピールです。
更にこんな記事もあります。

『鶴岡八幡宮(鎌倉)に桜植樹
郡山の静御前堂奉賛会
郡山市の静御前堂奉賛会は十六日、鎌倉市の鶴岡八幡宮に桜の苗木を記念植樹した。
郡山商工会議所の創立八十周年記念事業として、花柳流あやめ会主の花柳寿美雄さんが同八幡宮の舞殿で「静の舞」を奉納したのに合わせて実施した。
国分庄司奉賛会長ら役員が境内の一角に桜の苗木を植えた。標柱も立て、静御前終焉(しゅうえん)の地・郡山をアピールした。』
福島民報新聞 (2005.10.17掲載記事より)

と言うことです。

参考:【静御前浪漫紀行】 http://www.shizukagozen.gr.jp/index.html

私としては家内の実家が福島なので、それはそれで又楽しみが増えるなあ程度のことですが、当事者の方たちは結構腸煮えくり返っているかもしれませんね。 でも、ここは冷静に大人の対処をせねばならないでしょう。
ある個人の方のブログからの引用です。

『下の写真は(鶴岡八幡宮内の)流鏑馬が行われる馬場の脇に植えられている静桜です。静御前終焉の地から移植されたものだそうです。
(写真省略)
右側の新しい碑が立っているのは、福島県郡山市から、左奥の古い碑が立っているのは埼玉県栗橋町から移植したと書いてあります。両方でうちの方が正統な終焉の地だと言い合っているのでしょう。
静桜は桜の1種で、春そめいよしのより(以下省略)』

ということで一度確かめに行かねばならないかもしれませんが、結局、埼玉と福島の争いを神奈川が苦笑しているという図式で、自慢にもならない醜態にならないことを祈るばかりです。

参考:【歴史の町 -鎌倉と川越】 http://blog.livedoor.jp/koike631/archives/50431420.html

ここで時間はまだ2時すぎなのでもう一巡りしようと出かけました。
立ち寄ったのは八坂神社です。その昔、関所が置かれていた栗橋宿の鎮守は素戔鳴尊、牛頭天王、豊受姫命を祭神とし、牛頭天王社といわれていたそうですが、明治維新になって八坂神社と改称された、由緒ある神社で栗橋の総鎮守でもあるようです。
くりはし八福神 #4 【八坂神社】
境内を散策すると、ちょっと変わったと言うか、凝った縁起碑にこう説明があります。
くりはし八福神 #4 【八坂神社由来碑】


『慶長年中での利根川洪水時に元栗橋の神興天皇様が流されて来て、その周りを鯉、鮒、泥亀などがいっぱい取りまいてさながらお神興を護っているようであったのでこれを勧請する・・・』(古文体のため勝手に要約)

その故に、通常一般の神社であれば狛犬のある場所に飛躍する鯉の彫刻が置かれていて、それには「除災の鯉」と「招福の鯉」と掲げられています。実に不思議な光景ですが、この辺りが水との縁の深いことの表れなのかもしれません。
くりはし八福神 #4 くりはし八福神 #4 【左:「除災の鯉」、右:「招福の鯉」】
更に境内にはいくつかの境内社や御神木、そして県の「ふるさとの森」指定など見所も多いようですが、半年後の7月には「くりはし夏祭り」(ランクインされているので)を見物に来る予定ですので、詳しくはそのときに掘り下げたいなと思います。

八坂神社に車を置いて周辺を徒歩で散策しました。関所跡碑への道標があったので60号線を外れ利根川堤防へ向かいました。ちょうど堤防が工事中でしたが、徒歩ならOKですと言われ、そのまま進みました。
利根川堤防の中腹に「栗橋関所跡」碑があり、隣に案内板があります。
くりはし八福神 #4 【栗橋関所跡碑】


栗橋関所 跡 『房川渡中田・関所』
埼玉県指定旧跡 昭和三十六年九月一日指定
江戸幕府は、交通統制と治安維持のために、主要な街道が国境の山地や大河川を越す要地に関所を設け、特に「入り鉄砲と出女」を取り締まった。
栗橋関所は、日光街道が利根川を越す要地に「利根川通り乗船場」から発展した関所の一つで『房川渡中田・関所』と呼ばれた。東海道の箱根、中仙道の碓氷と並んで重要な関所であったという。
関所の位置は、現在の堤防の内側で利根川のほとりにあり、寛永年中に関東代官頭の伊奈備前守が番士四人を置いた。以後、番士は明治二年関所廃止まで約二百五十年間、代々世襲で勤めた。
関所跡の記念碑は大正十三年に旧番士三家・本陣・宿名主の発起で町内と近在の有志により、徳川家達の揮毫で、旧堤上に建碑され、数度の堤改修により、建設省利根川上流工事事務所の配慮で、今回ここに移設された。

【房川渡の由来】
往古、奥州街道は、下総台地の五霞町元栗橋(下総国猿島郡・栗橋村)を通っていて、その「幸手=元栗橋」の乗船場を『房川渡・栗橋』と呼んだ。後、利根川の瀬替えなどで、街道が付け替えられ「栗橋=中田」に乗船場が生まれ『房川渡・中田』と呼ばれた。一説に房川とは、元栗橋に宝泉寺という法華坊があり、『坊前の渡し』と呼んだことから、坊前が房川と記され、川と渡しの名になった。』

ちょっと気になる「入り鉄砲と出女」とは、江戸に入ってくる鉄砲を関所で取り締まり、大名の人質として江戸に住んでいる妻が幕府から逃げないように見張る事を言うのです。
つまり、鉄砲は武器として、また大名子女は人質として脅威や価値を持っていて、これらの流入や流出により治世(江戸幕府)が脅かされることになるため、幕府は主要街道に関所を設け、江戸市中に出入りする人及び物資を厳しく制限したのです。
こういった意味で関所は、江戸幕府を守る最前線の要塞として重要な職務を担っていたと考えることができ、それ故厳しい取調べ・追及もあったわけですが、その裏返しが”焙烙地蔵”と言うことになるのですね。
因みに後日談ですが、ここを訪れた翌日、さいたま市の”県立歴史と民俗の博物館”に行きましたが、栗橋の関所復元模型が展示されていて非常に興味深かったです。

一旦60号線に戻り徒歩で南下しました。

すると道路の左側に《顕正寺》周辺で見た”カスリーン台風・実績浸水深(青テープ)”が又、電柱に貼られていました。ただこちらは1.9mとあります。
くりはし八福神 #4 【浸水深1.9m】
《顕正寺》周辺のは確か2.4mだったので、ここから恐らく500mくらい先とは50センチの浸水深の差があるのですね。幾分《顕正寺》周辺より「八坂神社”周辺の方が土地が高いと言うことですが、それが何か。まあ、でもこの60号線、所謂かつての栗橋のメインストリートが2m以上浸水したのですから、やはり後世に残すべき物かも知れませんね。

そして更に南下するとくぼ地の隅に見慣れた案内板が半分木々に隠れてありました。
案内板の説明です。

本陣と池田鴨之介
所在地 栗橋町大字栗橋三四三二~一
池田鴨之介は、下総国葛飾郡小手指の栗橋村(現在の茨城県猿島郡五霞村)に、天正七年(一五七九)八月に生まれている。
慶長十九年(一六一四)鴨之介が三十五歳のとき、徳川幕府の命により並木五良平と共に当地に移り、新田開発を行っている。その時、両名と一緒に下総国栗橋村から移り住んだ民家は四十五戸であったという。
その後、当地は次第に町並みも整い、元和元年(一六一五)には元栗橋に対し新栗橋と称するようになった。池田家は元和八年(一六二二)徳川二代将軍秀忠が家康を祀る日光山東照宮に始めて参社の折、本陣となり以後、明治三年(一八七〇)本陣の制度が廃止されるまで代々本陣を勤めている。
池田家の墓は、鴨之介の古い石碑と共に顕正寺にある。
昭和六十三年三月
埼玉県/栗橋町』

で、出た~・・・鴨ちゃん!(一応親しみを込めていっているつもりです)
やはり栗橋は鴨ちゃんです。もう、栗橋は鴨ちゃん無しでは語れないことが良くわかります。

恐らくここが本陣だったのでしょうと、案内板のある塀続きの門の表札を見ると・・・「池田」。おうおうおう、池田家・・・!?、あの鴨ちゃんの子孫の方のお住まい!?
くりはし八福神 #4 【池田家表札】
どうですか、下手な映画やドラマより感動的でしょう。栗橋町も最後に粋な計らいをするねえ・・・と言うことでそろそろ、今回の散策を終わりにしようと思います。
小さな町・栗橋でしたが、中々見所も・・・おっと、忘れていました。まだ行くところが残っていました。
今回の八福神の〆とも言うべきところです。ホンの5~6分のところですが車で向かいました。
到着したのが「酒井石材店」です。

この八福神の発案者である「酒井石材店」サンです。
くりはし八福神 #4 【酒井石材店】
「酒井石材店」サンは発案者と同時に、ここで1/15までの期間限定で満願達成の『民芸わら宝船』と『満願色紙』がいただける場所でもあります。 そこで、満願達成の朱印用台を持ってここに来たわけです。

奥様でしょうか、応対していただいたのですが、開口一番「宝船、もう無いのです」と・・・。でもって「色紙はあるので¥1000です」と・・・
確かに宝船と色紙の場合は¥2000ですから、良心的とでも言いましょうか。でも期間限定なのに無いってどうよ・・・

新年早々怒ってもしょうがないので、とりあえず『満願色紙』をいただきました。
くりはし八福神 #4 【満願色紙】
そして、ふとテーブルを見ると石を彫った十二支がおいてあります。特に今年の干支の丑は3つありましたが、背中に¥1300と値札が付いていました。 宝船が無かったので。記念に購入しました。八福神を彫った石材店の作った丑ですから、さぞご利益があるのではなかろうかと・・・

それが、これです・・・
エー、戌ではありません、れっきとした丑です。どこからどう見ても”丑”です。
くりはし八福神 #4 【石材の戌ではなく丑!】
今年一年、我が家は八福神と丑の置物で福が来ること間違いないでしょう、などと思いつつ帰路に着くことにしました。
因みに何か”購入”というとちょっとありがたみが薄れる気がするので、満願達成したら『民芸わら宝船』と『満願色紙』はいただけることにして、参加費とかの名目で¥2000支払うとすれば、3倍くらいありがたみが増えるような気がするのですが、いかがなもんでしょうか。と、言いつつ来年は行かなかったりして。いや、そんなことはありません。家内が来年も石の干支買わなきゃ、と早くも鬼の笑いを無視して意気込んでいましたから。

さて最後の最後がもう一つありました。
「酒井石材店」サンからすぐの60号沿いのお店です。お土産を買おうと60号沿いを走ると、”八坂の栗っ子”とあるので栗橋なら栗でしょうとばかりにお店に入りました。「宝来屋」サンとあります。
小奇麗な包のお菓子だったので注文すると、「今日は忙しいので2種類しか無いのよ」って言われた我々はどうすればいいんでしょうか。仕方なく栗まんじゅうを5ケ程買って店をでました。

折角正月で名物をと思っていたのですが。しかし外に出て道の斜め反対側に”静最中”「志ほや」と書かれたお店があり入って見ました。
くりはし八福神 #4 【和菓子・志ほや】
”静最中”とはうってつけなお土産だと店内を見渡すと、いまどきは珍しい全て1ケ売りの和菓子屋さんでした。
特に名の無い和菓子を2ケづつ3種類と、つぶあん・こしあん・ゆずあんの各1ケづつの「静最中」。そして「しのぶ君」って言う”黄身(君)あんが入ったまんじゅう”を2ケ購入し、今度は本当にこれで帰宅しました。因みに帰宅してから食べましたが中々の美味でした。
くりはし八福神 #4 【今回の土産品】


こう改めて記してみると大層長いのですが、実際にはAM10:00ころからPM3:00ころまでの時間ですから、それ程長かったわけではないのです。
それなりに見所が多かったことが最大の原因ですが、栗橋というところは小さい町に比して長い歴史を持つ町でした。
一般的に古い歴史を持つ町並みは、鉄道の開通と共に(鉄道開通時は比較的僻地を通りますので)寂れていく傾向にあるように思えてなりません。 現に私の自宅も元々は戦国時代から集落のあった場所で、近くにはそれこそ関東郡代の陣屋があったくらいですから。それが、明治の鉄道開通と共に発展地域は駅周辺になり、嘗ての繁栄の跡形もありません。
歴史の保存と町の発展を比例させていくことは中々難しい事でしょうけれども、是非、歴史的な良さを残した新しい町作りが出来るといいなあ、などと感じました。
2009年最初の大散歩でしたが、非常に楽しく有意義でした。7月に再度訪れますが、また、新たな一面が見られればうれしいですね。

2009.01.17記

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