鉢形城跡と寄居北條まつり #1

最初に到着したのが「鉢形城公園」です。
すでに「鉢形城公園」の駐車場は満杯で、今日は特別でしょう駐車スペース以外の場所に誘導されました。 やはり今日は人出が多いのでしょうね。
駐車してからまずは「鉢形城歴史館 」に向かいます。
パンフレットの説明によると、
『国指定史跡鉢形城跡の歴史を中心に地域の文化や歴史を学習・体感することができる施設です。常設展示室では、鉢形城の歴史や構造を映像などを交えわかりやすく紹介しています』という施設です。

歴史館の前にはすでに赤い鎧に身を包んだ甲冑武士が大勢います。「おおっ」とプチ感動したものの、武士がチラシ配っているところを見ると何か現実に引き戻されます。
今日のイベントの案内チラシでした。チラシによるとこの公園内ではアトラクションと出陣式が行われ、その後パレードから攻防戦とあります。出陣式はAM11:30頃からのようなので「鉢形城歴史館」を見学し、公園内を散策しながら出陣式に向かいたいと考えました。
鉢形城跡と寄居北條まつり #1 【妙な感じの武士達のチラシ配布】


武士の一団を抜けると戦国時代の砦にある門のある「鉢形城歴史館」があります。
200円の入館料を支払って入館すると、先に入館されていた女性2人が机の上でスタンプを押されていました。傍らには”日本100名城”だったと思いますが本が置かれていました。
鉢形城跡と寄居北條まつり #1 鉢形城跡と寄居北條まつり #1 【それらしい雰囲気の歴史館入口】
昨今は城ブームらしく結構マニアも多いそうですが、比較的若い女性もいらっしゃるということで単なる一過性のブームでは無いのかもしれませんね。調べてみると埼玉県ではこの「鉢形城」と「川越城」が100名城に選定されています。
そういわれてみると、過日図書館で読んだ”歴史読本”2009.5月号にもこんな記事がありました。

日本の名城都道府県別ベスト10 《埼玉県》
鉢形城は荒川の合流点にのぞむ要害堅固そのものの城で、戦国期には北条氏邦の居城として名を馳せた。
規模雄大にして縄張りも巧緻、何より遺構が比較的良いこと、近年史跡としての整備活用が進んでいることが評価ポイントとなり川越、岩槻の両城をおさえて文句なく一位。(記事抜粋)』

岩槻には3月に行きましたが、やはり岩槻城址公園として保存活用されていましたね。
獲得ポイントで見ると以下の通りです。
◆歴史的知名度:9◆遺構の残存度:7◆縄張りの完成度:8◆地域のシンボル度:10◆交通アクセス:9◆登城難易度:2(難易度が高いほど10)で、合計45ポイント(満点は60ポイント)です。
こう言われると埼玉県民としては一度は見ておいても良かろう名城であるということでしょうか。
因みに2位以下は次の通りです。
2位 杉山城(嵐山町) 3位 松山城(吉見町) 4位 菅谷城(嵐山町) 5位 花園城(寄居町) 6位 岩槻城(さいたま市岩槻区) 6位 川越城(川越市) 8位 千馬山城(皆野町) 9位 小倉城(ときがわ町) 10位 滝の城(所沢市)

さて順路を進むと何やら城門らしきものがあります。ふと見上げればそこには私を弓で狙っている兵が一人・・・
「ホウホウ、凝った演出だね」などと感心しきり。でも単なる演出ではなく史実に基づくものらしいです。
鉢形城跡と寄居北條まつり #1 【復元された櫓門】


櫓門再現
この門は、二階に屋根を持たない櫓門として復元したもので、胸壁までの高さ4.3m、門の幅は5.2mほどの、櫓門としては比較的小さなものです。
この形式の櫓や櫓門は、現存例はありませんが、毛利家に伝わった小田原陣仕寄陣取図には小田原城の櫓としていくつも描かれています。また、「一遍聖絵」の武家屋敷を描いた部分にも同様の櫓門が認められます。
冠木・桁・腕木の木組みは花巻城(岩手県)の櫓門の構成を基本とし、門柱や冠木は、近江長浜城の搦め手門と伝えられる長浜知善院(滋賀県)の表門の寸法を参考に復元しました。また、門扉は知善院の透かし扉形式を踏襲し、開閉構造は蝶番ではなく真壁城門と伝える伝証寺山門(茨城県)の藁座・唐居敷きを参考としました。片方の扉だけで重さが200Kg以上あります。
天正年間の後北条氏の各城は、豊臣秀吉の来襲に備えて改修を進めており、このような実戦的な櫓門が数多く造られた可能性が高く、おそらく鉢形城にも同様の門が備えられていたと思われます。
(歴史館内説明)』

櫓門を通ると右側に幟をイメージした(と勝手に思っている)鉢形城の説明パネルがあります。
鉢形城跡と寄居北條まつり #1 【幟風説明パネル】


そしてその奥には鉢形城の模型とビデオで鉢形城の説明が見られます。
若干の出土品も展示されていますが、それ程広くはありません。展示というよりデータベース検索を主とした歴史館のようです。時間があれば半日は過ごせるのではないかなという感じです。
鉢形城跡と寄居北條まつり #1 【鉢形城の模型とビデオ】


先には”出土品から見た寄居町の歴史”というテーマの企画展が併催されていました。
若干駆け足でしたが、一通りの概要を掴み、歴史館をでて公園内を散策します。
鉢形城跡と寄居北條まつり #1 【出土品から見た寄居町の歴史企画展】


歴史館で戴いたパンフレットが公園内の散策ルートマップになっているので、それを頼りに進みます。
丁度歴史館の裏側から進むことになりますが、歴史館を出て一旦右回りで裏手に向かう途中に「外曲輪」と書かれた道標があります。今日は来訪者が多いので駐車スペースに解放されています。
鉢形城跡と寄居北條まつり #1 【今日は駐車場として開放されている外曲輪】


そして歴史館の裏側に着くとアップダウンの階段と橋があり、その下を深沢川が流れています。
寄居には名水があるようですが、この川も綺麗な水です。この先には四十八釜という川が織り成す奇景があるらしいのですが、よくよく考えてみればこの深沢川はこの公園の中を流れているということになりますね。ということはかつて城の中に川が流れていたということになり、鉢形城が如何に広大なのかが窺えます。
鉢形城跡と寄居北條まつり #1 【かなり水位が減っている深沢川】


橋を渡って上り階段を上がると右側に土塁があり、 そして反対側にはエドヒガンの大木があります。案内板の説明です。
鉢形城跡と寄居北條まつり #1 【すっかり葉桜となったエドヒガン】


『町指定天然記念物 鉢形城の桜・エドヒガン
指定 平成16年3月1日 所在 寄居町大字鉢形字諏訪2738
エドヒガンは、バラ科の落葉高木種で、花期が早く、関東地方で彼岸の頃に咲くことから、この名前がついた。
このエドヒガンは、二本の幹が一旦伐採され、その株元から十二本の芽が成長したもので、樹高18メートル、枝張りは、東西23.5メートル、南北21.8メートル、全体の根回りは6.5メートルほどある。
枝は笠鉾状に広がり、見事な樹形を呈している。 なお、受精や聞き取り調査から、樹齢は150年ほどと推定される。
平成21年3月 寄居町教育委員会』

残念ながら花は全て散ってしまいましたが、大きさと言い形と言い立派な桜です。ちょうど先週北本のエドヒガンを見たばかりですので、ちょっと感動を新たにしました。

ここから進むとこの公園内の舗装されたメインストリートにでます。
メインストリートを横断すると鳥居があります。「城山稲荷神社」と書かれています。
特に由緒・縁起などは判りませんが、三の鳥居までありますのでかつては城内の稲荷社として崇敬されていたのでしょう。
鉢形城跡と寄居北條まつり #1 【城山稲荷神社の鳥居】


このあたりが二の曲輪となり、武士がウジャウジャと出没します。
丁度、スキンヘッドの体格の良い武将でしょうか、軍団を率いてます。中々迫力のある方ですね。
鉢形城跡と寄居北條まつり #1 【スキンヘッドの武将?発見、様になっています。】


「城山稲荷神社」の参道を歩いていくと、武士や山伏の一団がおります。
ここでもしっかりチラシを配布しています。「入り口で貰いましたよ」と言うと、「入り口で誰か配ってるんだ」と不思議な事言っていました。今写真を見ると確かに入り口の軍団と同じ箕輪城の幟です。で、よく考えれば箕輪城は群馬の高崎にある城だそうで、それで高崎の「みさと柴桜公園」のチラシを配っていたのですね。地元のPRのためにわざわざ参加されているのでしょうかねえ。
鉢形城跡と寄居北條まつり #1 【仕事熱心な軍団?】


そんな光景を見ながら「城山稲荷神社」の小さな社殿でプチ参拝し、先に進みますと二の曲輪の案内板があります。
鉢形城跡と寄居北條まつり #1 鉢形城跡と寄居北條まつり #1 【城山稲荷神社社殿と大勢の人で賑う二の曲輪】


二の曲輪の調査と堀と土塁
二の曲輪は、平成9年度の発掘調査を実施しました。その結果、堀立柱建物跡・工房跡・土坑・溝などが検出されました。柱穴は位置の確認だけ行い、工房跡や土坑の一部、溝などを調査しました。
工房跡は3軒確認されましたが、埋まっていた土の中の炭や鉄滓(鉄のカス)、さらに鞴の羽口(鍛治炉の通風口)が出土していることから、鍛治工房と判断しました。
調査によって、現在城山稲荷神社の参道になっている土塁の他に、二の曲輪と三の曲輪を区画する堀に沿って、土塁の基礎の部分が確認されました。前者は地山を掘り残したもので、後者は盛土でつくられた土塁です。また、堀と土塁の間には、広く長い空間が確認されており、敵に攻められた際に城兵が守備につく空間と思われます。鉢形城には多くの土塁が良く残っていますが、中でも三の曲輪の土塁は、石積土塁として注目されます。
二の曲輪と三の曲輪を隔てる堀の発掘調査は、平成9年度と11年度の2回にわたって実施されました。その結果、最大上幅24m、深さ約12mの大規模な堀であることが判明しました。また、堀の底には、「畝」と呼ばれる高まりが発見されました。この「畝」は、敵兵が堀底で動き回るのを防ぐためのものであるという説と、堀底の水を一定に保つためのものという説があります。このような、畝を持つ堀を「障子堀」と言い、小田原城、岩槻城や深谷城などの後北条氏系城郭の特徴とされてきましたが、近年の発掘調査例では、後北条氏の時代より前から「障子堀」が用いられていたようです。
二の曲輪の土塁は、高さが不明であることから、位置を示すことを目的に低く復元しています。また,堀は,遺構面の保護と安全対策から堀底を高くしています。』

土塁や堀で確かに眺めとしては壮観です。また、障子堀は岩槻城で見ましたので数少ない理解できる単語でした。
先ほど武士や山伏が一団がいたところが土塁だったのですね。当時もそのように休憩でもしていたんでしょうかね。
鉢形城跡と寄居北條まつり #1 【土塁とか堀とか・・・】


二の曲輪で見かけた外国人の武士・・・ってラストサムライとかの影響?
しかも女性だったり、更にツアーできている人で、どうやら”ジャパンなんたら・・・いうツアーらしく、このイベント参加がオプションになっているのかもしれません。この祭りは申し込めば誰でも参加できるようなので。
鉢形城跡と寄居北條まつり #1 【海外では意外と根強い人気のサムライ?】


また、ここで非常に重要な方を見つけました。
この祭の主役とも言うべき”北条氏邦”氏です。さすがに”氏邦”氏には御付の方が常にいて、一人で寝そべって休んでいるなどという光景は見せられないでしょうね。
鉢形城跡と寄居北條まつり #1 【主役の”氏邦”氏】


この祭は先も述べたように申し込めば誰でも参加できるようで(基本的に)、グループや企業などが参加しているようです。
その中でも一目で何処のグループだかわかる武士軍団がいました。そう、単純明快に”寄居町郵便局”です。実に判りやすいいマークですね。女性も参加しているようです。PR効果も高いのでしょうか。それとも・・・
鉢形城跡と寄居北條まつり #1 【ひと目でわかるおなじみのこのマーク】


二の曲輪はかなり武士軍団が大勢いるので、史跡を見るのが誠に難しい状態です。
堀に沿って進むと、二の曲輪と道を挟んだ反対側に聞きなれない「馬出」という道標がありました。
なんだ「馬出」とは、と考えること10秒。家内が「馬出すところでしょうよ。だから馬小屋みたいなところでしょう」なるほど、と納得して先に進みました。
鉢形城跡と寄居北條まつり #1 【二の曲輪の南側の馬出】


ここから先に進むと三の曲輪です。
鉢形城跡と寄居北條まつり #1 【三の曲輪】


この先の土塁で囲まれた場所が今回の出陣式が行われるところのようです。 太鼓や大砲(どんな取り合わせ!)がセッティングされています。後で演出されるのでしょうか。
鉢形城跡と寄居北條まつり #1 鉢形城跡と寄居北條まつり #1 【太鼓と大砲・・・戦国っぽい?】


そして、ここがメインスペースのステージ前です。左側のテント内には町長などのVIPが列席しています。
鉢形城跡と寄居北條まつり #1 【出陣式会場】


丁度、アトラクションの最中でした。
”甲冑仕舞”という演技で、わざわざ小田原からいらしたそうです。内容は・・・MCが解説していましたがすっかり忘れました。
大変失礼ながら途中から三の曲輪を散策しました。
鉢形城跡と寄居北條まつり #1 【甲冑仕舞】


ステージに向かって右手の方に四阿(これで”あずまや”と読むのですね)があり、多くの人が休憩していたので行ってみました。 途中に案内板がありました。

庭園と石積土塁
この場所は、鉢形城跡の三の曲輪の中でも最も高いところで、平成10~13年度に発掘調査しました。伝承では、北條氏邦の重臣である秩父孫次郎が守った秩父曲輪といわれています。
この曲輪は、門と土塀、土塁・堀によって区画され、その内部は大きく二つに分かれます。
その一つは庭園が発見された区域で、池を囲むように建物が配置されていました。発掘調査では掘立柱建物跡が数棟確認されましたが、礎石建物も建てられていたと思われます。天目や茶入れなどの茶道具や、後北条氏の中核的な支城でしか発見されていないカワラケなどが出土していることから、宴会や歌会などを行う特別な空間であったと思われます。
それに対し、庭園の区域よりも一段低い南側の空間では、囲炉裏の存在を示す自在鉤や鍋などの生活用品が出土しており、日常生活の空間と思われます。
この曲輪の土塁は、全長約100m、高さは約4.2mで、馬踏(上幅)約6m、敷(下幅)約12mの規模をもち、鉢形城内でも最も良く残っていました。調査の結果、内側には河原石を3~4段の階段状に積み上げていることが確認され、雁木と呼ばれる階段もつくられていました。
裏込石が無く、高さも一段が1m程度で、所謂江戸時代の城の石垣とはその規模・技法などにおいて見劣りしますが、関東地方の石積技術の有様や石積を専門とする技術者の存在を示す重要な発見となりました。
整備事業では、鉢形城が廃城になる直前の時期を基準に、庭園と石積土塁、井戸・石組溝を復元し、2棟の掘立柱建物跡をそれぞれ四阿と丸太で表示しています。』

土塁は壮観です。長く高く、所謂石積土塁が復元されていています。
鉢形城跡と寄居北條まつり #1 【人の大きさと比べると理解できる石積土塁の高さ、大きさ】


庭園ということで優雅な舞等も舞われたのかもしれませんが、どうだったのでしょうか。
また、この四阿はそうゆう意味があったのですね。2棟は予算的に無理なので1棟は丸太だけって、丸太で休憩している方もいますね。一応腰掛けても良い様につくられているのでしょう。中々考えられて造られていますね。
鉢形城跡と寄居北條まつり #1 鉢形城跡と寄居北條まつり #1 【復元された四阿と建物跡の印の丸太】


そしてかつては池も・・・って今もあるではないですか。復元池が。でも半分干上がっているのは猛暑!?
鉢形城跡と寄居北條まつり #1 【今にも干上がりそうな池】


井戸は見当たらなかったですね、残念ながら。
そして崖の方に向かうと絶景ですね。
攻防戦の会場である玉淀河原が見え、荒川の流が良くわかります。なるほどこちら側からは攻められない、これが所謂自然の要害ということですね。
鉢形城跡と寄居北條まつり #1 鉢形城跡と寄居北條まつり #1 【桜も見える準備の整った玉淀川原】


そして秩父曲輪に戻ると案内板がありました。

馬出
「馬出」とは、虎口(出入り口)を守るとともに、内部の城兵の動きを悟られないようにすることで、出入りを安全かつ円滑に行うことを目的に造られた施設です。鉢形城跡には馬出と考えられる遺構が多く残っています。
この遺構は、伝承では「御金蔵」と呼ばれていましたが、その形状や調査の結果から、「馬出」と判明したものです。西・南・東の三方を薬研堀で掘りきり、北側は荒川の崖になっています。堀の深さは、西側で約7.4m、内部の広さは、間口6.5m、奥行12mで、門の礎石や雨落ちの石列、石敷き排水溝などが確認されています。
石積土塁は、北・西・南側に築かれ、西側が最も長く、全長約17.5m、高さ約2.3m、馬踏(上幅)約2.3m、敷(下幅)約6.9mで、5段の石積が施されています。北側は3段になっていますが、発掘調査によって、当初は5段の石積であったことが判明しました。これほど遺構の状態が良好に残っているのは、大変貴重で数少ない例です。
この馬出は、平面形が四角い形をしていることから「角馬出」と呼ばれ、後北条氏系城郭の特徴といわれています。』

解説板を見ただけでは「馬出」が何なのか、そしてどれが「馬出」なのか良くわかりません。でも馬小屋の跡ではないことは良くわかりました!。
とりあえずフムフムと判った振りして写真撮りましたが、写真と説明があっているかどうかも、現在は良くわかりません。
とりあえず雰囲気で感じるとベストですね。ファジーが何よりです。(・・・これで良いのか?)
鉢形城跡と寄居北條まつり #1 【秩父曲輪の馬出・・・なんだろうな?】


そしてまた、メイン会場に戻りますと”甲冑仕舞”がそろそろ終わりそうで、次の演目に移るところです。
次なるアトラクションは”出陣の舞 風雲鉢形城”で、決して”たけし城”ではありません。 女性1名でキリリとした舞です。
この日のアトラクションは結構あったようでプログラムにはこう書かれていました。
●YOSAKOI楽・音演技●北條陣太鼓●重忠太鼓●甲冑仕舞●武蔵流東松山太鼓●スポーツチャンバラ(埼玉県スポーツチャンバラ協会)●出陣の舞 風雲鉢形城●ゴーゴーキッズ●楊名時太極拳

そしていよいよ出陣式となります。MCからの武士団の紹介などがあり、後方から各武士団が入場してきます。
今回はスタッフ・参加者等合わせて凡そ1、000人が参加しているようです。大河ドラマでもこんなに集まらないでしょう。
鉢形城跡と寄居北條まつり #1 鉢形城跡と寄居北條まつり #1 【出陣式でのステージと勢ぞろいした武士団】
太鼓の演奏をBGMに赤・黄・青・黒などなど色とりどりの甲冑を着けた武士たちが写真撮りながら(・・・ってキミ達主役でしょう)入場しています。 各グループごとに入場し、各グループの武将と旗持ちがステージに登壇します。全武士が入場し終わるといよいよ出陣式のセレモニーです。
当然ながらこういった場合は、ステージ上のVIP方による挨拶やお祝いが始まるのでしょう。多くの方がそれをご存知なようで、”蜘蛛の子を散らす”とはこのことで、1分と立たないうちに一斉に観客が帰り始めました。
まあ、ここは祭のイントロダクションでもあるし、挨拶やお祝いなどは相場的に長くなることですしね。
そう言う私もご多分に漏れず曲輪内をぶらぶらし始めましたが。

グルッと曲輪をまわって復元された四脚門の辺りにやってきました。
鉢形城跡と寄居北條まつり #1 【復元四脚門】


ここにも案内板があります。

虎口
「虎口」とは、出入り口のことで、「小口」とも書きます。江戸時代塙保己一によって編纂された武家故実の書である「武家名目抄」では、「城郭陣容の尤も要会(要害)なる処を、猛虎の歯牙にたとへて虎口というなり」と説明しています。
三の曲輪では、伝秩父曲輪から、諏訪神社(馬出)へ至る虎口の空間を全面発掘調査しました。伝秩父曲輪は、一段高くなっており、幅2間半(約5m)で6段の階段が確認されました。階段の最上段には、門が確認され、東側は壊されていましたが、礎石の一部と雨だれによってできた溝が確認されましたので、間口は1間半(約3m)と想定しました。
階段の最下段の西側には石列が一列確認され、階段を隠す「蔀」の一部と思われます。
また、この空間は、畑になっていましたが、発掘調査の結果、畑として耕されたために、上部が削られた石積土塁が検出されました。この土塁が北向きに折れる部分は、最上位面が広くなることから、ここに「櫓(矢倉)」が建てられていた可能性があります。この「櫓」と「蔀」に挟まれた空間は、城兵が一時待機する場所である「武者溜り」と思われます。
ここから土塁の間を通り諏訪神社(馬出)に向かう部分が虎口です。ここには、門のあった可能性が極めて高いのですが、発掘調査では確認できませんでした。柱穴が確認されなかったため礎石建ちの門であった可能性があると思われます。
「虎口」は、防御の要であり、出撃しやすくすることで、攻撃性を高めることができるため、城郭の発達段階を良く表す部分です。後北条氏系城郭の場合には、虎口の前に更に「角馬出」を設けることが特徴です。鉢形城内には、さまざまな形態の虎口があります。』

また聞きなれない「虎口」という単語が出てきました。「小口」と言われれば何となくイメージはできます。
伝秩父曲輪が先ほどの出陣式会場となったところで、そこに上がるのに6段の階段と四脚門を復元させたわけですね。そして土塁と土塁の狭い間が「虎口」と言うことですね。
鉢形城跡と寄居北條まつり #1 【右隅の土塁が斜めに切れているところが虎口、って判りにくい写真しか撮れなかった】
3Dで表現してくれると物凄いわかりやすいのですが。もしかしたら歴史館のデータベースにあったりして。
若干理解不明な部分があるとは言え、全体像としては良く理解できるようになっていますね。恐らくもう少し時間をかけて見ると更に理解が深まるでしょう。 などと言いながらも、出陣式は置いといて、とりあえず昼食に寄居駅方面に向かいました。
今回も昼食だけはきっちり下調べはしてありますので。

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