鉢形城跡と寄居北條まつり #2

舗装されたメインストリートを正喜橋に向かって歩きます。
道沿いにはまつりを盛り上げるのかぼんぼり提灯がズラッとならんでいます。見る限る綺麗な光景ですが、よくよく見れば協賛広告という悲しい職業病が襲ってきます。
しかしこの歩いているところも堀切であったらしく、何処までもロマンあふれる公園です。
鉢形城跡と寄居北條まつり #2 【元、堀切の舗装道路。祭り気分を盛り上げます】


正喜橋を渡ると荒川と玉淀が良く見えます。公園から見た感じとはまた違った綺麗さです。
鉢形城跡と寄居北條まつり #2 【正喜橋から見た荒川】


今日の昼食に目指すは日本料理の「喜楽」です。本来は日本料理屋ですがめっぽう蕎麦が美味いと評判の店です。
正喜橋からはホンの5分程度です。店の前に何やら張り紙があり、本日は貸切・・・な、なんと貸切とは。さすがにそこまでの情報は掴んでいませんでした。おまつりの日ですから仕方ありませんね。

そこからとぼとぼととりあえず駅に向かって歩いたのですが、とにかくお店が無い。「これはまずい・・・」と思いはじめた途端一軒の食事どころが目に留まりました。
「山崎屋」といところでどうも旅館らしいです。旅館が食事だけでもやっているような感じです。
入ってみると満員ではありましたが、食べ終わっている客がちらほらいたので5分ほど待ちました。 本来は鮎料理が売りのようですが、あまり鮎が好きではないことと今日はかなり食欲が湧いているので、私はエビフライ定食、家内はホタテフライ定食を頼みました。
普段はこんなに込むことは無いのでしょうが、おまつりとあって忙しいようで後5分遅ければ岩槻の二の舞になるところでした。
定食と言えども玉子焼き・煮物・漬物が付き、エビフライ(海老3匹)・サラダ・スパゲティが添え、ご飯は2人分でお櫃と味噌汁が付いて、な、なんと750円!!!
これびっくり仰天ではないですか。東京なら1000~1500円取られても可笑しくはないし、恐らくこんなランチ無いでしょう。
味も悪くはありませんし、意外な掘り出し物のランチです。
残念ながらすっかり写真をとり忘れましたので、こちらのサイトを掲載しておきます。寄居に行くことがあれば是非話のネタに寄っても損は無いでしょうね。

参考:【山崎屋】 http://www4.ocn.ne.jp/~yamazaki/index.html.htm

食事を済ませて外に出ると太鼓の音が聞こえます。通りの少し先で太鼓の演奏をしています。
”三品石尊太鼓”と言うそうです。こちらのパフォーマンスもアトラクションと同じように毎年参加しているようです。
時刻はPM1:20頃でぼちぼち玉淀に向かおうかと、ここでもブラブラ通りを歩いていました。
しばらくすると、後ろから武士軍団のパレードがやってきました。
鉢形城跡と寄居北條まつり #2 【祭りを盛り上げる”三品石尊太鼓”】


先頭には得体の判らない箱型の荷車のようなものを引いています。街宣車のようなBGMをかけつつ歩いてきます。
鉢形城跡と寄居北條まつり #2 【パレードの先頭。良く分からない荷車のようなものを引いている】


その後ろからはやはり赤だの青だの黄色などの甲冑を着けた武士たちがパレードしてきます。 凡そパレードとは程遠い、後一歩でカオスのようなグダグダとした歩きです。やる気のありそうな無さそうな、そんな無気力気な雰囲気って結構好きですね。 列を乱さず粛々と歩いてこられたら「皆さん自衛隊?」と問いかけたくなります。
鉢形城跡と寄居北條まつり #2 鉢形城跡と寄居北條まつり #2 【そこそこ適当なパレード】


そんな様子で、武士たちの明るい笑顔と、子供の姿が無ければ、どこから見てもすでに敗残兵です。この人たちが何百人も続くと成ると見ているだけでうんざりしますので、この列の後をついて玉淀に向かうことにしました。
鉢形城跡と寄居北條まつり #2 【子供と動物には勝てません】


細い路地を大勢で向かっていると途中路地から玉淀に出る道を曲がる角に「名勝 玉淀 埼玉県」と刻まれた石柱が立っています。更にそのすぐ隣にはやはり「県立自然公園 玉淀」と刻まれた石碑があります。
鉢形城跡と寄居北條まつり #2 鉢形城跡と寄居北條まつり #2 【玉淀石柱と石碑】


玉淀については寄居町のサイトに説明があります。

玉淀
秩父山地から関東平野に流れ出る荒川が作り出した特徴的な地形で、奇岩・絶景の景勝地として昭和10年に県指定の名勝となりました。 現在は、荒川の水位が変動したことからその姿を大きく変えていますが、その名は、水のゆるやかに流れる様を玉 の色に見立て、「玉のように美しい水の淀み」だということから命名されたということです。その美しさに魅かれて、古くから多くの文化人がこの地を訪れています。特に、明治の文豪田山花袋は、その紀行文「秩父の山裾」の中で東京付近においてこれほど雄大な眺めを持つ峡谷はないと激賞しています。 荒川の清流に沿った道路に桜並木があり、桜の名所となっています。また、季節により、鮎、ウグイ、ハヤ、鯉などの釣り場として人気があります。』

勿論、奇岩・絶景は感動的ですらあるのですが、やはり忘れてならないのが水の綺麗さでしょう。
かつて私が川口市に住んでいた時、自宅の近くに荒川が流れていました。寄居から見ればずっと下流ですが、それはもう汚い川でした。
現在はどうか知りませんが、父や祖父の時代には泳げたそうですが、30年以上前でも泳ぐのは自殺行為に等しいくらいです。荒川とは常にそのようなイメージでしたから、荒川でさえ綺麗な寄居では、他の河川なども本当に綺麗なんでしょうね。少しこの寄居の水について調べてみました。これに関しても寄居町のサイトに説明がありました。

『昭和60年、「風布川・日本水」が環境庁(現在の環境省)の「名水百選」に認定されました。百畳敷岩から枯れることなく湧き出る日本水と、この水を源流の一つとして夫婦岩(めおといわ)や夫婦滝(めおとだき)、狼渕(おおかみぶち)、姥宮神社(うばみやじんじゃ)の胎内くぐりなど、多くの名勝をもつ風布川は、正に名水の町を象徴しています。
さらに、平成7年には、町全域が国土庁(現在の国土交通 省)の「水の郷」に、「日本水の森」が林野庁の「水源の森百選」に認定され、全国でも数少ない『水の三冠王』認定の町となりました。
(中略)町のシンボル “水と緑”を最大限に活用し、魅力あふれる生活文化を創造するための施策を展開して、水の郷としての寄居の価値を高めていきます。(サイトより抜粋) 』

と言うように、この三冠王がどれほどの価値があるのかは良くわかりませんが、基本的には水質の検査なども行われるはずですので、主観的に選定される多くの賞と違って、客観的な選定ですから(恐らそうだと思う)価値は高いのでしょうね。
それを維持管理していくのも、【神川町の三波石峡】でも大変だったようですので、苦労と努力がしのばれます。
ある意味、それがあるからこそ大里郡唯一の町政自治体で継続していける理由の一つかもしれませんね。

もうそろそろ攻防戦開始のPM2:00に近くなっています。

玉淀河原には階段で10~15メートルほど階段で降りたところですが、観衆も結構詰め掛けており、ぎりぎりに着いた私たちは見学によさそうな場所がないので、下まで降りずに中段のちょっと広いスペースで上から眺める構図で見学することにしました。
本日の観衆は3~4、000人位でしょうか。公式発表ではきっと10,000人位になるのでしょうね。川越まつりでも水増ししているのですが、水の綺麗な寄居も水増しするんでしょうかねえ。
鉢形城跡と寄居北條まつり #2 【思っていた以上の観客の数】


さてMCの案内とともに攻防戦の開始です。まずは選手・・・武士団入場。 大きな井桁門からVIPを先頭に各武士団の入場行進が始まりました。VIPの次には当然ながら主役の”氏邦”氏が続きます。
鉢形城跡と寄居北條まつり #2 鉢形城跡と寄居北條まつり #2 【武士団の入場と主役の登場】


配置は、荒川をはさんで鉢形城公園側(向こう側)の河原が北条氏邦軍・本丸の設定。そして玉淀側(手前側)の河原が豊臣連合軍という設定です。ただし攻防戦は玉淀側(手前側)の河原で行われ、河原の左右に北条軍と秀吉連合軍が分かれて中央で戦うという構図です。 入場が終り、まずは手前の河原で左右に別れ、”氏邦”側近達が舟で対岸に渡ると準備完了です。
鉢形城跡と寄居北條まつり #2 【氏邦渡河で準備完了】


そういえば手前の河原の左側で待機している軍団の旗は見覚えのある判りやすい旗です。そう、寄居郵便局の軍団ですね。こんな大勢の中でも、あの郵便マークは実に目立ちますね。
鉢形城跡と寄居北條まつり #2 【見覚えのあるマーク!】


などといっている間、女性MCが合戦のアウトラインを説明しています。ここで、少しこの合戦までの経緯を調べてみます。
そもそもこの鉢形城の戦いは「小田原合戦」の一つとして位置付けられます。
小田原を中心として関東一体をおさえていたのが時の北条家です。そのとき全国統一を目指した秀吉の戦いが関東・奥羽でした。
そこで当時秀吉は、徳川家康を通じて北条氏政(四代)、北条氏直(五代)に上洛を求めていました。当時の上洛は基本的に「上洛すれば部下になりますよ」という意思表示ですから、北条氏は無視していました。
何度もの催促があり、そう頬って置くわけにもいかないため、天正16年(1588)に北条氏規(氏政の弟)が上洛し秀吉の謁見をうけ、懸案の上野沼田領問題が解決すれば兄・氏政も上京すると主張したのです。
沼田領問題とは、徳川・北条の合戦の際、両氏の和議により沼田領は北条氏の所領にすると決まったにもかかわらず、家康家臣の信濃上田城を本拠とする真田昌幸が、沼田城の対岸には先祖代々の墓があるという理由で、この地から手を引かず、両者の間でもめていた問題です。
この当時は天正15年12月に関東・奥羽地方に向けて制定された「惣無事令」という大名間の私闘を禁じた法令で領土間の争いは豊臣政権が裁定するという法律が施行されており、それに従い秀吉は、この沼田領の三分の二を北条氏の領地とし、名胡桃(なぐるみ)の地は真田氏のものとすると裁定したそうです。つまり北条氏に有利な裁定を行い、一刻も早い上洛を求めたのです。
それにもかかわらず天正17年10月、沼田城の北条勢は真田領の名胡桃城を攻略してしまい、「惣無事令」に背いたという大義名分によって小田原討伐=北条征伐となるのです。
当時の有利な裁定に従っていれば北条家の運命も変わっていたのでしょうね。
因みに名胡桃城を攻略した当事者は氏邦の部下だったらしく、そうなると氏邦の指示あるいは了解を得ていたことと考えられるのです。

そして、これからの北条征伐の過程は以下の通りです。
天正17年(1589)11月24日に秀吉が北条征伐の軍令を発して、自らは翌天正18年(1590)3月1日に京都を出立すると発表したそうです。
この時の秀吉軍は3つに分かれていました。

1.徳川勢・東海道北上軍(170,000)
主な武将:徳川家康・蒲生氏郷・豊臣秀次・細川忠興・浅野長政・石田三成・宇喜多秀家など
2.北国勢(35,000)
主な武将:前田利家・上杉景勝・真田昌幸など
3.水軍(14,000)
主な武将:九鬼嘉隆・加藤嘉明・脇坂安治・長宗我部元親など
以上総勢22万の軍団。

それに対する北条軍。
北条氏政・北条氏直(小田原城) 北条氏照(八王寺城主)・佐野氏忠(佐野・足柄城主)・北条氏房(岩付城主)・北条氏堯(小机・戸倉城主)・松田憲秀(重臣)・上田朝広(松山城主)・内藤綱秀(津久井城主)・小幡信定(国峰城主)・長尾顕長(足利城主)・北条直重(佐倉城主)・成田氏長(忍野城主)、そして氏邦(鉢形城主)の総勢56,000でした。

そして戦いが開始され次々と北条軍が敗退していきました。
天正18年(1590)3月29日・山中城落城(徳川勢・東海道北上軍)
天正18年(1590)4月19日・厩橋城落城(北国勢)
天正18年(1590)4月20日・松井田城落城(北国勢)
天正18年(1590)4月22日・玉縄城降伏開城、江戸城降伏開城(徳川勢・東海道北上軍)
天正18年(1590)4月23日・下田城降伏開城(水軍)
天正18年(1590)5月03日・河越城落城(北国勢)
天正18年(1590)5月20日・岩付城落城(徳川勢・東海道北上軍)
そして、いよいよ北国勢によって鉢形城が攻撃されるのです。
唯一この間、現・行田市の忍城だけは三成の攻撃にあっても落ちることはなく、小田原城落城をまって開城されたのは【聖徳太子立像】で見聞した忍城歴史館で衆知でした。

現実に戻るとします。
女性MCの開始の合図で攻防戦が始まります。
始まりの第一声はエセ利家(前田)の「降伏せよ!」から始まりました。この降伏勧告に対してエセ氏邦が「降伏しないよ」の回答によって火蓋が切られました。
この後、この二人のエセ武将によって、いかにも素人っぽいマイクパフォーマンスが繰り広げられます。嫌いじゃないですが・・・

そして利家軍の、飾りじゃないのよ・・・大砲が一斉に火を噴きます。それに大して川向こうの氏邦軍の、飾りじゃないのよ・・・大砲もまた火を噴きます。 空砲とはいえ結構な迫力です。これは「嘗めたらあんぜよ」の世界かもしれません。一面大砲の煙に包まれています。
鉢形城跡と寄居北條まつり #2 【大砲の迫力で合戦開始】


第1回戦は手前の河原で左右に分かれた北条・豊臣軍が中央に走り寄ってきて、槍や刀で戦います。
どのようなルールがあるのか、或いはルールなど無いのかわかりませんが、きっとアトラクションで行われたスポーツチャンバラなどのルールで行っているのかもしれませんね。
何れにせよ何らかのルールで勝ち負けがある限り、ここは史実を再現というより、合戦を再現と考えればよいのでしょう。
しばらく見ていたのですが、丁度木が邪魔になって細かいところがよく見えませんので、河原に下りてみることにしました。
鉢形城跡と寄居北條まつり #2 【攻防戦】


河原に下りてみると、河原とは言いながらも砂地のため戦いごとに物凄い砂埃が舞い上がります。また、正面あたりは(当然ながら)観客が一杯で殆ど見ることが難しい状況です。
知れでも観客の隙間から垣間見る合戦は遠くで見るより多少は迫力があるものの所詮お遊び、そこまでいうと失礼ですので儀式的なものですから感動を得ることは無いでしょう。
この後殆ど見ることが出来なかったので、上流の方に場所を移しました。

川向こうの北条軍の河原が一番近くに見えるあたりです。しかし丁度風下のため砂埃は先ほどにまして激しいようです。
ですが、川面に近づいてみると改めて水の綺麗さを感じます。正に玉淀ですね。
鉢形城跡と寄居北條まつり #2 【砂埃で目も開けていられない・・・】


合戦も何回戦か行われたようですが、良く判らない内に終わっていたようです。
このあたりの経過は色々なサイトできっと紹介されるでしょうね。私もそれらを見ることにします。
さて、史実ではないにしても、そのイメージを伝承するこのまつりですが、史実は一体どうだったのでしょうか。

鉢形城を攻撃したのは先にもあるとおり秀吉軍の中の北国勢と呼ばれる軍団です。
武将は、前田利家、上杉景勝、真田昌幸らで、兵力は35,000です。一方の鉢形城の北条氏邦は僅か約3,000の兵であったといわれています。
そもそも秀吉の小田原征伐にあたって、氏邦は小田原城に籠もることに反対して大規模な野戦を主張したそうですが、受け入れられず居城の鉢形城で籠城によって抗戦することになったのです。 攻める北国勢の前田軍は大手門前に布陣し、上杉軍は搦め手に布陣、真田軍は城周辺の砦を攻略したそうです。
圧倒的な兵力の違いを持ってすれば、真田軍の周辺砦の攻略によって鉢形城を包囲していれば、簡単に氏邦は降伏すると考えていたようですが、 流石に自然の要害を上手く利用した鉢形城の構造が、力攻めの北国勢を近づかせることすら阻んだようです。
包囲が長引くにつれて秀吉は苛立ち、浅野長政率いる兵2万を援軍として派遣しました。この援軍に本多忠勝軍も同行したようで、ここ鉢形城にオールキャストが揃った訳です。
援軍が到着して55,000に膨れ上がった北国勢は、更なる兵力の差を持って力攻めを行うが、籠城軍のモチベーションは高くビクともしなかったようです。
しかし、本多忠勝が大砲(大筒)で攻撃すると籠城軍は震え上がってしまい、それにつけ込んだ平岩親吉が曲輪の一つを攻略し総崩れとなったそうです。
これをもって天正18年(1590)6月14日、北条氏邦は降伏を表明し開城したそうです。
ということは北条軍に大砲は無かった、ということでしょうか。
時代考証が良くわかりませんが、一説には小田原征伐に対して氏邦は各寺社から鐘などを供出させ大砲を製造していたという説もあるのですが。
史実としては、この大砲が鍵を握っていたということになりますね。そこでまつりにおいてこの大砲が象徴的に扱われているのでしょうか。
いずれにしても現在から400年も前に、寄居のこの地に煌びやかな戦国スター武将がいたのですから、現在ならサインや握手攻めでしょうね。

場面はまつりに戻ります。
攻防戦もクライマックスを向かえ、豊臣軍の勝利に一斉に勝ち鬨を上げています。
鉢形城跡と寄居北條まつり #2 【タイミングが悪く勝どきの後にシャッターを切ってしまった写真】


それを合図のように向こう岸の氏邦達が小船にのって渡河してきます。
鉢形城前の河原にいる氏邦を始め、使者として降伏を伝えた僧(確か、MCが説明していたのですが誰だったか忘れました)など数名が乗った小船で川を渡ってくる演出にはちょっとした感動を感じましたが、「かわせみ丸1号」と書かれた船名を見て思わず家内共々笑ってしまいました。
鉢形城跡と寄居北條まつり #2 鉢形城跡と寄居北條まつり #2 【降伏の為の使節団の渡河と”かわせみ丸1号】


別に細かいことはいいけれど、ちょっと隠せば済むことかなともおもいますが、いかがなものでしょうか。まあ、最もこの舟に氏邦が乗っていること自体可笑しいのですが、あくまでイメージとデフォルメですからね。
そして形だけの和議が1分程でおわったようですね。
鉢形城跡と寄居北條まつり #2 【開城を条件に城兵たちの助命を請う交渉が形どおりに・・・】


和議が叶って戻ってくる折衝団、って戻ってくる? そして降伏して何を思う氏邦って・・・ロマン?
鉢形城跡と寄居北條まつり #2 鉢形城跡と寄居北條まつり #2 【大役を終えた使節団と氏邦と僧正】


それはともかくとしても、これにて鉢形城開城までの歴史絵巻が終了しました。 ここからは記念撮影やら片づけやらですが、お疲れ様でした。突っ込みどころ満載のまつりですが、単純に考えれば実に楽しめるまつりです。良くストーリーを把握して、見やすいところで見れば楽しさは更に倍増するのではないでしょうか。

折角なので少し河原を散策しました。
当然あっという間に片付けられる訳でもなく、また参加者はそれぞれのグループや親しい人と歓声を上げたり話し込んだりと思い思いに名残を惜しんでいるかのようにも見えます。
鉢形城跡と寄居北條まつり #2 鉢形城跡と寄居北條まつり #2 【元本丸のあった崖と川原から見た正喜橋】


ある意味の主役でもある大砲も、役目を終えて一息と言うところでしょうか。来年まで仕舞われるのか、それとも別な使い道があるのか知りませんが、今日の大役は無事に勤め上げたようです。
鉢形城跡と寄居北條まつり #2 【一方の主役の大砲】


会場の中央では名残惜しいのか、はたまた暴れ足りなかったのか合戦が始まっています。
よくよく見れば本日最初に出会ったあのスキンヘッドの武将です。そういえば本番中には「三好清海入道」と紹介されていて、大声で暴れまくり元気な大将だったような気がしますが、確かにイメージは「入道」そんな感じです。
鉢形城跡と寄居北條まつり #2 【三好清海入道は元気ですね】
「三好清海入道」と言えば真田十勇士の一人であくまで物語ですが、モデルとなったのが大坂の陣にも87歳の高齢ながら参加し、あえなく戦死した三好政康なので人物・時代的には合うのでしょうが、実際関東までは来なかったでしょうね。
でもかなり受けるキャラらしいので、是非まつりのイメージキャラクター・・・の一人として使ったりすると面白いと思うのですが。
何処の方なんでしょうかね。

これにて「寄居北條まつり」は終了です。
考えてみれば今年で第48回ってことは48年続いているのですね。そうゆう意味ではまつり自体にも歴史の重みがあるのでしょう。
是非、第50回の記念大会の時には(勝手に記念にしているが)更に感動を呼び起こすような仕掛けをお願いしたいですね。ただし、適度な素人っぽさは残して欲しいですが。・・・入道はキャラに使いましょう、是非。
鉢形城跡と寄居北條まつり #2 【勝手に作った50回記念ポスター】
若干寂しさの残る(それだけ印象的だった)河原をあとにして、ここからは駐車してある鉢形城公園に一旦戻って帰宅することにします。

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