鉢形城跡と寄居北條まつり #3

大層盛り上がった「寄居北條まつり」会場の玉淀を後にして帰宅します。
来る時は参加者や観衆が大勢いた路地ですが、帰りはまばらなのでそう混雑はしていません。ぶらぶらと歩いていると五線譜が書かれた「紅筆歌曲碑」と刻まれた石碑がありました。石碑の説明板の内容です。
鉢形城跡と寄居北條まつり #2 【紅筆歌曲碑】


『佐々紅筆先生は、明治十九年東京根岸に生まれ、蔵前高等工業専門学校を卒業商業美術に携わる。
大正二年「東京れこおど」のプロデューサーとなり、洋楽の大衆化を意図、お伽歌劇「茶目子の一日」などのヒット作を生む。
大正六年「東京歌劇座」を結成。浅草の日本館でミュージカル「カフエーの夜」を上演、これが浅草オペラ隆盛の基となる。
昭和三年以降流行歌の作曲に力をそそぎ「君恋し」「祇園小唄」「浪速小唄」「唐人お吉」など多くの名曲を発表。
昭和七年ここ寄居町玉淀に居を定め、以降「新民謡」舞踊小唄の作曲を手がける。
「寄居小唄」はこの年名勝玉淀の観光宣伝のための歌詞公募に当選した当町鳥羽虹氏の詩に曲をつけたものである。なお当町ゆかりの「玉淀音頭」「じねんじょ節」などがある。
昭和三十六年一月死去されたが、奇しくもこの年「君恋し」が第三回日本レコード大賞を受賞した。
茲に永く先生をしのび町の文化の発展を祈り之を建つ。
昭和六十三年三月 寄居町文学碑建設委員会』

「君恋し」はたしかフランク永井が歌ってヒットした曲と記憶しています。
ですがこの曲は昭和3年につくられた曲のようで、どうも私の知っている「君恋し」とは時期的に合わないような気がするので調べてみると、もともとこの曲は1929年(昭和4年)二村定一という歌手によってヒットした曲だそうです。
同じ年に「浪花小唄」とか「神田小唄」などがヒットしたようなので一連の作品を作曲したのかも知れません。
この二村定一と言う歌手は榎本健一等とともに浅草で人気を得、レコード歌手としては佐藤千夜子とともに、日本の流行歌手のパイオニアであったそうです。 戦後は不遇な時期を送りエノケンなどの援助があったのですが、過ぎた飲酒により吐血し48歳でなくなりました。
二村と親交のあった清川虹子の後日談では二村はゲイであったため、終生家庭を持たず、葬儀は二村のファンである慶應の男子学生たち(※清川の談では彼らは二村と肉体関係を結んでおり、毎晩、代わる代わる彼の相手をしていたという)が執り行なった、と言われています。
先の話に戻ると、この二村の歌った「君恋し」をジャズ風にアレンジしてヒットさせたのが、フランク永井の「君恋し」であったそうなのです。ですから所謂リバイバルヒット(今で言うところのカヴァー曲)と言うものですね。

更に碑にある、人をオチョクッたような「茶目子の一日」って言うのは、結構マジでヒットしたようですね。
「茶目子の一日」とは、大正時代の小学生の女の子、茶目子ちやんが朝起きて朝食を食べ、学校に行つて授業を受け、晩に活動写眞を見に行くという一日の樣子を、歌とセリフで綴った歌だそうです。
これだけを聞くとコミックソング的なイメージですが、一過性で終わっていないのですね。次のリリースを見ると判りますが、最近になっても未だに音源がリリースされているのですから、実に驚きです。
底知れない力と根強い人気があるのでしょうかね。あるいは歴史的な価値とか・・・
なお、佐々紅筆の写真や音源の聞けるサイトがありましたので参考に掲載しておきます。

「茶目子の一日」リリース一覧
1、SP 日蓄(ニッポノホン)大正8年 木村時子 天野喜久代 加藤 清
2、SP 同上  大正?年 木村時子 高井ルビー 柳田貞一
3、SP ビクター 昭和4年 平井英子 高井ルビー 二村定一
4、SP コロムビア 昭和8年 飯島綾子 三好久子 中野忠晴
5、EP キング 昭和40年 楠トシエ 友竹正則
6、カセットテープ 平成7年 3の音源
7、CD 同上
8、CD 東芝EMI 平成8年 高橋クミコの3役
9、CD ビクター 平成8年 3の音源

参考:【昔のレコードを聴こう!】http://www.sound78rpm.jp/index.html

そういえば「寄居小唄」「玉淀音頭」「じねんじょ節」などはヒットしたのでしょうかね。

先に進むと石屋でしょうか、店の前に似つかわしくない・・・これは失礼、「真実の口」があるではないですか。
とりあえず手でも入れないと失礼に当たるでしょうから、家内が手を入れてみましたが残念ながら手が切られたり、手が抜けなくなることはありませんでした。
「抜け無くなったら笑えるのになあ・・・」などと考えつつ正喜橋のたもとに戻ってきました。
多くの方は左手方向の寄居駅方面に歩かれていましたが、こちらは正喜橋を渡って再度鉢形城公園に入ります。
鉢形城跡と寄居北條まつり #3 【真実の口に手を・・・】


丁度、公園の入口に当たる所に史跡 鉢形城址と彫られた石柱が立っています。
鉢形城跡と寄居北條まつり #3 【鉢形城址碑】


その近くに”笹曲輪”と書かれた道標があります。
この”笹曲輪”とは笹の葉のように小さい曲輪という意味で、本曲輪の外側に設けられ、本曲輪が直接外側に露呈することを防ぐ役割を果たしているそうです。一つ一つ意味があるんですね。
鉢形城跡と寄居北條まつり #3 【笹曲輪の四阿】
そういえば公園を出るときには元堀切の道路を通ってきたので気がつきませんでしたが、この二の曲輪~笹曲輪の間は何も見ていなかったので、折角なので見学がてら帰ることにしました。
この笹曲輪のあたりは広いスペースがあり、奥には四阿が設置されています。解説板がありました。

史跡 鉢形城跡
指定 昭和7年4月19日 所在 寄居町大字鉢形地内
鉢形城跡は、戦国時代の代表的な城郭跡として、昭和7年に国指定史跡となりました。指定面積は約24万㎡です。
城の中心部は、荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に築かれていて、天然の要害をなしています。この地は、交通の要所に当り、上州や信州方面を望む重要な地点でした。
鉢形城は、文明8年(1476)関東管領であった山内上杉氏の家宰長尾景春が築城したと伝えられています。後に、この地域の豪族藤田康邦に入婿した、小田原の北条氏康の四男氏邦が整備拡充し、現在の大きさとなりました。関東地方において有数の規模を誇る鉢形城は、北関東支配の拠点として、さらに甲斐・信濃からの侵攻への備えとして重要な役割を担いました。
また、鉢形城跡の周辺には、殿原小路や鍛治小路などの小路名が伝わっており、小規模ながら初期的な城下町が形成されていたことが窺えます。
天正8年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、後北条氏の重要な支城として、前田利家・上杉景勝などの北国軍に包囲され、激しい攻防戦を展開しました。1ケ月余りにおよぶ籠城の後、北條氏邦は、6月14日に至り、城兵の助命を条件に開城しました。
開城後は、徳川氏の関東入国に伴い、家康配下の成瀬正一・日下部定好が代官となり、この地を統治しました。』

鉢形城の歴史を若干紐解くと、はじめは源経基によって築城され、のちに畠山重忠が在城したと『新編武蔵風土記稿』では言われているのですが確証は内容です。
現実的に確証のある史実としては、文明8年の長尾景春が築城が最初のようです。
この築城の経緯が、文明五(1473)年六月、関東管領山内上杉氏の家宰・長尾景信が死去した際に、上杉顕定は景信の弟・忠景に家宰職を嗣がせ、景信の子、景春はこれを不服として上杉氏に反発し、鉢形城を築城して立て籠もり上杉氏と対立したそうです。所謂世継ぎ騒動という当時何処にでもあるはなしです。
最初から立て籠もるためにつくられた因縁の城とでもいうのでしょうか。

-以下、経過-
○文明9年正月、景春は五十子の上杉氏本陣を襲撃し本陣を奪い取る。
○扇谷上杉氏の家宰・太田道灌が景春を攻撃し、景春は敗れて鉢形城に戻って立て籠もった。
○これを契機に上杉氏は鉢形城を包囲するが、古河城の足利成氏に支援を要請したため上杉顕定は包囲を解きいたのを見計らって景春は上杉氏を攻撃。
○文明10年正月、上杉氏と足利成氏の間で停戦が成立、景春も成氏の説得で鉢形城に帰還した。
○文明10年七月十八日、太田道灌は鉢形城を攻め、景春を秩父へ追放し、鉢形城は上杉顕定の居城となった。

その後、上杉顕定が戦死すると、古河公方足利政氏の子で顕定の養子となった顕実が居住したのですが、永正9年六月、別の養子・憲房との内紛で破れ、憲房方の長尾景長に鉢形城を奪われましたた。
そして、天文15年の河越夜戦で上杉氏が北条氏に大敗すると、武蔵の土豪は次々に北条氏に帰順しました。
天神山城主・藤田重利(康邦)は北条氏康の四男・氏邦を養子に迎え、自らは用土城に隠居し、氏邦は永禄3年前後に本拠を鉢形城に移したそうです。
これが北条氏邦入城までの鉢形城の歴史です。 多くの城がそうですが、常に奪ったり奪われたりの因果を背負っているのですね。そう考えると現代でも残存している(建造物として)城はそれだけ貴重なものであることを改めて知らされます。

笹曲輪の中央には「鉢形城復元地形模型」が設置されています。
大勢の子供達が模型の上で遊んでいるので良く見えません。子供は仕方が無いにしても、その親はと見れば模型に座って食事しているではないですか。こちらが見ようとしているのに、子供に注意もせず自分は知らん振りで(子供が話しかけているので間違いなく親です)、しかも模型の台でのうのうと食事をしている。一体全体どんな親なんでしょうかねえ。すぐ近くには四阿もあるのに。
鉢形城跡と寄居北條まつり #3 【子供がウザイ鉢形城復元地形模型】
折角の気分も台無しですが、とりあえず解説板です。

鉢形城の位置
寄居町は、埼玉県の中央部やや北寄りで、荒川が秩父山地から関東平野に流れ出るところに形成された扇状地形の頂点付近に位置しています。
鉢形城は、北緯36度08分09秒、統計139度11分54秒付近に位置し、標高は最高点(三の曲輪)で122mです。荒川南岸の河岸段丘上に立地し、荒川の断崖と荒川に流れ込む深沢川の渓谷に挟まれた天然の要害を巧みに利用して築城されています。
城の東方には鎌倉街道の赤浜の渡しがあり、また秩父方面への街道である秩父往還の釜伏峠を下ると鉢形城の正面に当たるように、交通の要衝に占拠しています。
城の三方を外秩父山地と上武山地の丘陵が取り囲み、城からの視界は良くありませんが,周囲の丘陵の主要な高台には物見台や狼煙台が置かれて、監視や防衛に当てられていました。

鉢形城の構造
鉢形城は、深沢川が荒川に合流する地点に立地しているため、地形上、東南北側は堅固ですが、西側は開けており防衛上の弱点となっています。そのため、城主の居館や上級武士の館のあった本曲輪から西側に何重にも深い掘り切りを行い、二の曲輪・三の曲輪などの曲輪をいくつも造成しました。さらにその外側には寺院を密集させて寺町とし防備を厚くしました。
大手の位置は、城の西側で、城の拡張とともに移動しましたが、最終的には現在の諏訪神社の南側付近にあったと考えられています。
各曲輪は、堀と土塁で囲まれるほか、主要な出入口には方形の馬出を備えており、局輪ごとに武将が定められ管理をまかされていました。また、城の外側は周囲の小河川を上手く取り込み、水堀としていました。
深沢川の南側には、後に城を拡張して外曲輪を造成し、下級武士の住まいなどにしたほか、さらにその南側に城下町を形成し、城の守りを兼ねさせていました。
鉢形城地形模型 縮尺:250分の1』

これ等の内容については「そうなんですか」としか言いようが無いので、あえてスルーしておきますが、『さいたま川の博物館紀要』第6号の「北条氏邦の鉢形城入城をめぐって」という抜粋記事がサイトにありましたので参考に記載しておきます。

参考:【北条氏邦の鉢形城入城をめぐって】 http://www.water.sannet.ne.jp/u-takuo/kawahakukiyou6.htm

250分の1ではありながら結構大きな模型です。
子供が邪魔でゆっくりと見れませんでしたが、堀の高低差が良くわかりますね。

先に進むと”石垣”と言うそのものズバリの道標がありました。「多分これのことだよな」と家内と話しながらその場を離れかけると、行き違いに来た夫婦のかたも「これがそうだよね」と言ってましたので、あまりにそのままなので半信半疑になるのでしょうね。
鉢形城跡と寄居北條まつり #3 【石垣・・・ですよね。】


そこからもっとも川に近い細い路を行くと、赤い戦国旗が立ててあります。これは北条まつりの際の演出として、鉢形城の北条軍をいみするものですね。まだ片付けられてはいないようで、静かになった玉淀を眺めているのでしょうか。
鉢形城跡と寄居北條まつり #3 【演出の幟】


先に進むと”伝御殿曲輪”という道標があります。
鉢形城跡の本曲輪は、崖の上に造られ伝御殿曲輪と伝御殿下曲輪に分かれていて、伝御殿曲輪には城主の館があったと伝えられているそうです。そうするとこの辺がもう本曲輪、所謂、本丸ですね。
鉢形城跡と寄居北條まつり #3 【伝御殿曲輪の土塁】


ここにも鉢形城についての案内板があります。

鉢形城跡
鉢形城は、荒川に臨んだ絶崖上に位置し、南には深沢川があって自然の要害をなしています。
文明8年(1476年)に長尾景春が築城し、その後上杉家の持城として栄えました。室町末期に至り、上杉家の家老で、この地方の豪族であった藤田康邦が、北条氏康の三男氏邦を鉢形城主に迎え入れ、小田原北条氏と提携して北武蔵から上野にかけての拠点としました。
城跡は、西南旧折原村を大手口とし、東の旧鉢形村を搦手としています。本丸、二の丸、三の丸、秩父曲輪、諏訪曲輪等があり、西南部には侍屋敷や城下町の名前が伝えられており、寺院、神社があり、土塁、空掘が残っています。
天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原攻めの際、前田利家、上杉景勝、本田忠勝、真田安房守らに四方から攻撃され、三ヶ月の戦いの後、落城しました。
寄居町・埼玉県』

特に日付が入っていないのではっきりとは言えませんが、笹曲輪にあった解説板よりは古いものでしょう。恐らく公園として整備される前か、或いは整備中かに建てられたものではないのでしょうか。
それにしても、先の案内板には氏邦は四男となっていましたが、ここでは三男になっていますね。そういえば本書の解説でも三男になっていましたが、どちらが正しいのでしょうか。
氏邦の父は北条氏康で母は瑞渓院といい今川氏親の娘だそうです。そして子供は、新九郎、氏政、氏照、氏邦、氏規、浄光院(足利義氏妻)の6人が同腹の兄弟で、以下、氏忠、氏光(氏尭)、三郎(上杉景虎)、新光院(北条氏繁妻)・・・と兄弟がいたそうです。
そこで件の三男か四男かですが、生理的には四男です。1.新九郎、2.氏政、3.氏照、4.氏邦の順ですから。
ただし、長男の新九郎は名前の通り幼名のままであるので、早世しています。したがって、元服を済ませ諱のついている世俗的な兄弟と考えると三男になります。
これが三男と四男の混在する理由なのではないでしょうか。
もし単なる誤字・感違いならば・・・苦笑モノですね。

ここからすぐ先に”鉢形城本丸址”と刻まれた石碑があります。現在のように整備される前にこの辺りが本曲輪であったことを示す唯一のものだったのでしょう。
ここがこの城の全ての中心であったとこの地と古を偲んで・・・などと言う感傷は残念ながら湧いてはきませんね。
あくまで史実の一つなんですね、これが。
鉢形城跡と寄居北條まつり #3 【何かを感じる鉢形城本丸址碑】


この碑の先にはもう一つ碑があります。
「花袋詩碑」と言われる碑で、田山花袋が大正7年に鉢形城跡を訪れた際に詠んだ漢詩を刻んだもので、刻まれた文字は武者小路実篤によるものだそうです。
鉢形城跡と寄居北條まつり #3 【花袋詩碑】


『襟帯山河好 雄視関八州 古城跡空在 一水尚東流』と刻まれていますが、関八州がどうのこうの位しか判りません(って、結局何も判っていない)ので、とりあえず引用だけ。
これは、大正7年に子供連れで飯能--越生--小川--寄居--長瀞を旅行した時に、鉢形城址に立ち寄り、その雄大な眺めに胸を打たれ読んだものだそうです。ですからそんな気持ちの表れた漢詩なんでしょう(とスルーしている)。
田山花袋といえば【妻沼の聖天堂】の”残雪”でも出てきたように、「蒲団」や「田舎教師」などの小説が有名ですが、こうした旅行を基にした紀行文もかなり評価されているのです。
この大正7年に訪れた体験は「東京近郊 一日の行楽」(大正12年博文館・刊)という紀行文に記載されているそうです。

このまま先に進むと二の曲輪に再度でます。殆ど人のいなくなった二の曲輪の幟をみていると、まさしく芭蕉の世界です。
鉢形城跡と寄居北條まつり #3 【二の曲輪の感傷】
「夏草や兵どもが夢の跡」
決して夏草ではないけれど、北条まつりの武士達で埋まっていた城跡に、誰もいなくなってしまった情景が、利家・景勝・忠勝、そして氏邦など実際に兵どもが駆け回っていたのだな、と思うと流石にここは感傷にふけることができますねえ。
まあ、まつりのあとの寂しさといのもあれでしょうが。
こういった感傷を私たちの友人の間では「散らかったおもちゃを片付ける」と言っていました。友達が大勢遊びに来て散々遊んで帰ったあとにはオモチャが散らかっている。それを一人で片付ける体験は多くの人が経験したことと思います。そして何ともいわれぬ寂しさを感じながら・・・
そんな感傷が二の曲輪や三の曲輪からひしひしと伝わってくる気分です。
「何故、芭蕉がオモチャのチャチャチャなんだ!」とは・・・誰も言っていない、か。幻聴?
鉢形城跡と寄居北條まつり #3 【三の曲輪の感傷】


感傷に浸りながらブラブラと歩いていると、見ていなかった井戸がありますね。
これが説明板にあった井戸ですね。何で気がつかなかったかと写真を見れば、太鼓に囲まれていてとけ込んでいたようですね。ちょっと戻ってきてプチハッピーでした。
鉢形城跡と寄居北條まつり #3 鉢形城跡と寄居北條まつり #1 【見つかった井戸と太鼓に同化して気がつかなかった写真】


そして、恐らく一番見晴らしがいいかもしれない伝秩父曲輪の石積土塁から公園を遠望してみました。
四脚門の上から見た公園遠景ですが、実に広いですね。四季折々の風景が楽しめるのでしょう。
鉢形城跡と寄居北條まつり #3 鉢形城跡と寄居北條まつり #3 【左:本曲輪方面遠景 右:伝逸見曲輪方面遠景】


遠景を堪能したあとは四脚門の右手にある虎口から諏訪神社に向かいます。
諏訪神社とある道標の辺りが馬出だそうです。
鉢形城跡と寄居北條まつり #3 【諏訪神社馬出】


進入禁止のようになっていて、入るのを躊躇い、グルッと左回りに90度廻ってみると、こちらが正式な参道のようです。後で聞きましたら単に車の乗り入れ禁止の為だったようです。
解説板によれば、ここも元々は諏訪曲輪として防御の一つとして造園されたものです。
鉢形城跡と寄居北條まつり #3 鉢形城跡と寄居北條まつり #3 【諏訪神社門柱と参道】


深い堀のようなものがあり、かなりの大木に覆われています。やはり御神木なんでしょうか。
鉢形城跡と寄居北條まつり #3 【御神木?】


境内に入ると右手に境内社の「大黒天」があります。その先には案内板がありました。
これは本曲輪にあった解説板と同じデザイン・構造の看板ですので同時期のものでしょう。内容もほぼ一緒のものでした。

本殿で参拝を済ませると、横に諏訪神社の説明板があります。
鉢形城跡と寄居北條まつり #3 【諏訪神社本殿】


諏訪神社 諏訪神社は、武州日尾城主(小鹿野町)諏訪部遠江守が鉢形城の家老となって出仕したとき、信州にある諏訪神社を守護氏神として分祀奉斎しました。 やがて天正18年(1590年)鉢形城の落城により、この近辺から北条氏の家臣たちが落ちていき、人々も少なくなりました。しかし城下の立原の人たちは鎮守様と崇敬し、館の跡を社地として今日の神社を造営したものです。 本殿は宝暦年間、その他の建造物は天保年間に造営されていて、年に三度の大祭を中心に、人々の心のよりところとなっています。 なんどかの台風にあいましたが、空堀御手洗池に深く面影を落としている欅の大木は、400年にわたる歴史の重みを静かに語りかけているようでもあります。 祭神は建御名方命、相殿に誉田別命が祀られています。これは明治42年は荻和田の八幡神社が合祀されたものです。 寄居町・埼玉県』

この説明板の更に右手に「遥拝所」と刻まれてある社がありますが、これが相殿なのかもしれませんね。
因みに”遥拝”とは、遠く離れた所から神仏などをはるかにおがむことだそうです。
鉢形城跡と寄居北條まつり #3 【遥拝所】


この説明を見る限り、当初は曲輪の一角に社殿というか祠程度のものがあったのではないかと想像されます。宝暦年間と言いますから1751~63の間ですから、約150年後に現在の本殿が建立されたのですね。したがって当時は諏訪神社ではなく諏訪曲輪だったのですか。
それにしても何気に400年の大木(正式な樹齢は判らないが)が生きているとは、何気に貴重な神社ですね。
まだまだ全てを見たわけではないですが、そろそろPM4:00頃となり体力も大分落ちていることから、これにて終了することにしました。諏訪神社から外曲輪を抜ける泉水坂から連雀小路を通って、駐車場に戻りました。

岩槻を訪れた際も岩槻城址公園に寄りましたが、規模・史跡としては確かに鉢形城の方が勝っていますね。ただし唯一建造物(黒門)が現存しているのは岩槻城に分があるかもしれません。
特に比較することも無いのですが、ここは少なくても城ビギナー(と言ってもマニアのビギナーではなく歴史ビギナー)には、一度は訪ねることをお勧めします。
ほとんど知識の無い私でも、城の構造とか、意味とかおぼろげながらに理解できます(特にボケッと廻っただけでも)ので、他の所に行くとその辺の経験が生かせるのかなあ、などと思います。勿論、史跡としてもそうですが、景観などにおいても楽しめるのは、数々の受賞しているところからも窺えます。

「21世紀に残したい埼玉ふるさと自慢100選」(平成12年、埼玉ふるさと自慢100選選定委員会・埼玉新聞社認定)
「日本100名城」(平成18年、日本城郭協会認定)
「日本の歴史公園100選」(平成19年、都市公園法施行50周年等記念事業実行委員会選定)
「日本の史跡101選」(平成19年、日本経済新聞社広告局選定)

まつりも中々楽しかったですし、空気も水も(って、寄居の水を飲んでいなかった)美味しい寄居は、史跡めぐりやハイキング、そして祭りが一年中楽しめるようです。是非、違う季節にゆっくり訪れたいところですね。

2009.4.17記

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