高麗駅周辺の散策

高麗駅に到着すると既に相当な人で混雑しています。
高麗駅
一つ手前の東飯能駅から西武秩父線に乗り換えたときの西武線が臨時電車で、高麗駅止まりということだったので、ある程度混雑の予想は付いていたのですが、それにしても想像していた以上の人出です。
高麗駅のロータリーには様々な屋台などが立ち並んで既にお祭り状態です。
高麗駅の屋台

その中に燦然と真っ赤な塔が2本立っていてます。
高麗駅のチャンスン
これは「将軍標」というもので朝鮮語ではジャングンビョというそうですが、一般的にはチャンスン(長生)といわれてるそうで、日本で言うところの道祖神の意味合いを持っているようです。まあ、簡単に言えば魔よけとか厄除けとかいう意味でしょうかね。

チャンスンに関する詳しい説明】が朝鮮日報のバックナンバーにありましたの掲載しておきます。

さて、この高麗駅のチャンスンはどうやら2代目のようです。

『西武鉄道(本社:埼玉県所沢市、社長:小柳皓正)では、9月3日(金)、巾着田の曼珠沙華の玄関口としても知られる高麗駅前に「将軍標」を再建し、同日、落成式を行います。
将軍標は、同駅前に昭和初期から設置していることから駅をご利用のお客さまや多くの観光客から長年シンボルとして親しまれております。このため老朽化が進むごとに補修・再建を繰り返し、この度の再建は昨年8月に撤去して以来、約1年ぶりとなり、巾着田の曼珠沙華を観賞で訪れる多くの観光客のシンボルとしても復活します。なお、落成式の詳細は次のとおりです。
1.日 時 平成16年9月3日(金)14時~
2.会 場 西武鉄道高麗駅前
3.参 列 者 ・日高市助役 鈴木 宏行・日高市議会議長 吉本 新司 (予定)・日高市観光協会会長 比留間 文雄・西武鉄道常務取締役 宇留賀 武・西武鉄道西武秩父駅管区長 高橋 堅助
4.式 典 竣工祭として御祓い、落成式としてあいさつ・来賓祝辞・テープカットを行います。

参考資料
◎将軍標について
将軍標とは、元来朝鮮半島で怖い生き物や悪いものが入ってこないように願い、厄除け・魔除けのために各村々の入り口に建てられたものである。同地のことばでは「ジャンスン」「チャンスン」と呼ばれ、各地に残っている。
高麗駅から徒歩約40分ほどの場所には、出世開運の神として名高い“高麗神社”がある。同神社は、高句麗からの渡来人高麗王若光(こまおうじゃっこう)を祀る社で、高句麗は紀元前1世紀ごろ建国され、668年に滅びるまで、主に中国東北部および朝鮮半島北部を領有していた。この由来により、同神社には朝鮮半島と同様に将軍標が建立されている。
高麗神社は周辺の代表的な史跡であるため、最寄駅である高麗駅もこれにならい、シンボルとして将軍標を建立した。
高麗駅前の将軍標は、「男と女」の二本一対で、頭に貴族の帽子をかぶり、恐ろしい表情である。
◎新将軍標の概要
・材質 FRP(内部補強) ・サイズ 地上約7m、直径80 ㎝』(西武鉄道ニュースリリース・20048月31日より)

観光対策・旅客増強・地元施策などなど鉄道会社も結構大変なんですよね。でもこれで観光客が少しでもアップするなら万々歳ですよね。

始めに向かうのは石器時代住居跡です。駅前ロータリーから一旦線路をくぐって駅の反対側にでますが、そこから巾着田へ向かう人はまっすぐ歩きますが、我々は国道299号線沿いに左へ向かいます。
約5分ほどで住居跡入口の案内標があり、国道からちょっと奥まったところに住居跡があります。
国指定史跡 日高町高麗石器時代住居跡
正式には「国指定史跡 日高町高麗石器時代住居跡」です。

『国指定史跡 日高町高麗石器時代住居跡
入間郡日高市大字台79の1 昭和26年12月26日指定
この住居跡は、縄文時代中期のもので、昭和4年に発掘調査された。当時としては、このようなたて穴式住居跡の発掘調査例は全国的にみても数少なく、県内では初めてのものであり、その後の考古学研究の先駆けとなったことで知られている。
この住居跡は、時期の異なる二軒が一部重複しているものである。どちらも円形で、直径が約6メートルほどの大きさである。それぞれ、中央よりやや北に寄ったところに石で囲まれた炉跡があり、南側の石囲い炉の中には縄文土器が一個体埋設されていた。
また、周囲には柱をたてたと考えられる小さな穴が十数個めぐっている。
二軒の住居跡からは多数の縄文土器をはじめ、耳飾などの土製品、打製、磨製石斧、石皿、くぼみ石、石鍬、石錐等の石製品も検出されている。
昭和56年3月春 埼玉県教育委員会・日高市教育委員会』(現地案内板より)

見ると確かに炉跡や柱穴なども判りやすいです。
日高町高麗石器時代住居跡
ただ、考えてみるとこの遺跡自体というより、発掘当初の古さ(歴史)やきっかけ(考古学研究)が貴重だということで国指定となったような気がしますが、いかがなものでしょうかね。
恐らくこの遺跡は、その世界ではメジャーになりすぎているのだと思います。

「・・・住居跡」からは巾着田方面に向かいます。
途中、見るべきものがあるので地図の通りにすすみますが、駅前からの道に戻ると既に人が一杯信号待ちをしています。

最初にあるのが「台の高札場」といわれる江戸時代の掲示板のようなものです。
台の高札場台の高札場

台の高札場
日高市指定文化財 史跡 昭和57年12月8日指定
江戸時代に幕府が定めた法度や覚書などを書き記した板札を、村の中心や主要な街道が交錯する交差点といった人通りが多く、目に触れやすい場所に掲示していました。板札は人々を見下ろすように高く掲げられ、この掲示施設を高札場といいます。台の高札には「キリスト教は禁止されているが、信仰する者を届け出た者には褒美を上げよう。しかし、隠したりした場合は、名主、五人組にも罰を与える。」と切支丹禁制に関わる内容が記されています。
この高札場は、昭和60年に復元したものです。
平成16年2月 日高市』(現地案内板より)

この高札制度の目的としては、
1.新しい法令を民衆に公示する。
2.民衆に法の趣旨の周知徹底を図る。
3.基本法である事を明示する(違反者は「天下の大罪」であるとして、違反者は死罪などの重い刑に処せられることが多かった)。
4.民衆の遵法精神の涵養を図る。
5.民衆からの告訴(謂わば密告)の奨励(特に切支丹札などには高額の賞金が掲げられた)。
6.幕府や大名の存在感の誇示。
などがあるようで、代表的な高札としては、寛文元年(1661年)の5枚の高札(撰銭、切支丹、火事場、駄賃、雑事)、正徳元年(1711年)の5枚の高札(忠孝、切支丹、火付、駄賃、毒薬)、明治維新とともに新政府から出された五榜の掲示などが挙げられるようです。
特にこの「五榜の掲示」とは、一札:五倫道徳遵守、二札:徒党・強訴・逃散禁止、三札:邪宗門厳禁、四札:万国公法履行、五札:郷村脱走禁止 といった江戸時代の政策を継承するような内容になっていましたが、1873(明治6)年高札制度の廃止にともなって、この「五榜の掲示」も事実上廃止されたということです。
メディアのない時代ですから周知徹底するのも大変だったのでしょうね。

道々、観光客目当てに露店が作られていますが、こんなものがありました。
飾りカボチャ花ナス
「福を招く(赤色)飾りカボチャ花ナス」 ~ドライフラワーにもなります。一年間楽しめます~・・・と。

同じような色なので見分けがつきづらいですが、大きいのが飾りカボチャで小さいのが花ナスです。
まず「飾りカボチャ」ですが、正式には「花かぼちゃ」と呼ばれています。かぼちゃには大きく分けて”東洋(日本)かぼちゃ”、”西洋かぼちゃ”、”ペポかぼちゃ”の3種類あります。
日本で一般的に食用とされているのが”西洋かぼちゃ”で、”ペポかぼちゃ”はハロウィンで良く見るオレンジ色のかぼちゃのことです。この花かぼちゃも”ペポかぼちゃ”の一種で、実の色や形が様々なので、主に観賞用とされているようです。
花ナスもまた観賞用のナスで”唐ナス”とも呼ばれています。葉は食用ナスと同じように大きく、実は熟すと橙色から真紅色に変わるそうです。一見ミニトマトと混同される場合もあるようですが、全く違うものです。
まあ、福を招くかどうかは判りませんが、生け花などにも活用されているようですから、飾っておいても笑われることはないのでしょうね。

先に進むと右側にいくつかの石碑が並んでいます。
いくつモノ並んだ石碑

宿老庵貫斎翁 筆塚(勝海舟 筆)
この筆塚は宿老庵貫斎翁を称えて弟子たちが建立したもので、碑文「筆塚」は勝海舟、碑の扁額「宿老庵貫斎翁」は七卿落ちの一人として有名な東久世通禧の筆である。
貫斎翁は文政元年(1818)大澤舎新井家に生まれ名を丈右衛門定季といい新井家11代当主として名主を務めた。
名主を隠居後、嘉永・安政年間に、ここ台村で塾を開き人々に学問を教え多くの子弟の教育に専念した。交友の中には詩人井上淑蔭、加藤小太郎等がいる。 この筆塚の傍らには貫斎翁の孫で幕末三舟の一人、高橋泥舟と俳句を通して親交があり、夜笙庵新江と号した繁五郎定孝の句碑や、貫斎翁の叔父で瀧和亭らと親交があり菊庵等と号した。新井五郎兵衛定儀、後の岡上一斎の墓誌等がある。』(現地案内板より)

宿老庵貫斎翁及び大澤舎新井家は地元では代々名家だったのでしょう。
筆塚
その名家に相応しい碑ということで、勝海舟や東久世通禧に書を頼んだというストーリーで、結婚式の挨拶に本人とは全く関係がないのに市会議員が挨拶するというのと近いものでしょうかね。

勝海舟も高橋泥舟つながりで頼んだものでしょう。もともと江戸城無血開城にあたっての官軍・西郷隆盛との交渉役を高橋泥舟にするつもりだったようですが江戸を離れられない為、泥舟の義弟にあたる山岡鉄舟を起用したことから判るとおり、泥舟の頼みなら、位のことはあったと思います。
そうは言いながらも、このような碑が何気に存在しているところが歴史ある土地のすごさでしょうね。
ちなみに大澤舎新井家についても説明があります。

大澤舎 新井家について
新井家は約400年前この地に居を構えた名主の家柄で、その居宅が大澤舎と称されている。
現在の大澤舎は嘉永5年(1852)、新井家11代丈右衛門定季(宿老庵貫斎)によって建てられた。
昭和45年頃屋根などが改造されているが太い柱や梁、式台の玄関、客間であるデイの間、書院造りの奥の間、欄間、襖、板戸等はほぼ当時のまま残されている。
更に、日常生活用品をはじめ、冠婚葬祭、巡見使の接待、俳句等などに関する漆器類や調度品、書画、古文書なども保存されている。
◎ホームページ 大澤舎 新井家 で検索
大澤舎 新井家』(現地案内板より)

ホームページを見ると確かに様々な貴重な史料があるようです。当然ながら、海舟筆の筆塚碑文の原書や、先ほど見てきた台の高札場に掲げられていた高札(レプリカ)の原本もこの大澤舎新井家で所有しているそうです。
こうなると一度は訪ねてみたくなりますね。

参考:【大澤舎 新井家】 http://www.geocities.jp/oosawasha/

余談ながら、「大澤舎新井家」のサイトのトップページに”※大澤舎新井家は巾着田前の旧新井家住宅とは出自、縁戚等一切関係ありません”というコメントが記載されています。
ちょうど巾着田を散策し終わった時に目立つ建物だったので何かも判らずに写しておいたものが、この何の関係もない「新井家住宅」のようでした。
新井家住宅

気になって調べてみたら、この「新井家」もまた江戸時代の古民家で歴史的・景観的に価値があるものとして、日高市が買い取ることを検討しているそうです。
ちょうど巾着田をはさんで南北に由緒ある全く関連のない「新井家」があるとは実に面白い取り合わせです。
ちなみに「旧新井家」は買い取られてから一般公開も考えられているようですから、そうなったら合わせて「両新井家」を見たいものですね。
「旧新井家住宅」購入等に関する記事

さて筆塚から先に進むとちょうど曲がり道の角に「水天の碑」があります。
水天の碑

水天の碑
所在地 日高市大字台
水天の碑は、天保年代(1830~1844)に繰り返された旱魃・大洪水などの天災や水難事故を鎮めるために、台村の人々が建立したものである。この碑は、高麗川を利用した西川材運送のための筏流しとも深い関連がある。
筏流しは江戸時代初期から始まったと伝えられている。天明年代(1781~1789)には、更に災いが度重なり、記録によると、この地方を飢饉が襲うなど、災難が続いて起こったので、この「水天の碑」の建立の際には、五日五夜の大念仏の行事が催されたと伝えられている。このようにして建てられた水天の碑も、明治になって、車馬の発達と共に筏流しが衰退したこともあって、今では忘れられた存在となっている。
昭和57年3月 日高市』(現地案内板より)

「西川材」については昨年、飯能市の飯能まつりに行った際に【飯能まつり-3・飯能市郷土館】で展示・解説がされていて、飯能(飯能市の名栗地区)の木材は消費地である江戸から見ると「西の川筋から流されてくる木材」なので『西川材』と呼ばれていた、と解説されていました。

いづれにしても古の川はどこの土地であっても災いを起こすのは必須ともいえるのですが、それ以上の恩恵があるということです。
それだけ川は政治・経済に影響を及ぼすってことですかね。どこかの国のダムみたいに。
ここまでは日高市散策の黄金ルートとでも言うべき王道で、ここからメインの巾着田に入ります。

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