高麗神社 #1

「高麗郷民俗資料館」を出て県道15号線沿いを高麗駅方面に戻る方向に進むと、右側にあの「新井家住宅」がありその反対側の右手にシャトルバス乗り場があります。
シャトルバス乗り場
実にありがたいことにシルバーウィーク期間中の21日・22日・23日の3日間のみ無料のシャトルバスが運行されています。そもそもは、おなじみの日高市役所駐車場からのパークアンドライドの為のシャトルバスですが、観光用にも使用可とのことなので重宝に使わせてもらいます。
このシャトルバスのコースは、巾着田、高麗神社、長澤酒造、日高市役所、醤遊王国、加藤牧場、サイボクハムを往復するコースで、ある意味、日高観光のメインルートといっても良いでしょう。
今回は巾着田から高麗神社の僅か1区間約5分程度の距離ですが、歩けば25~30分はかかる距離で、車でないものにとっては実にありがたいバスです。
シャトル乗り場には結構大勢の方が待っていますが、20分置きに出るので比較的待ち時間も少なくてすみ、とってもコンビニエンスです。

シャトルバスにゆられて僅か5.6分、「高麗神社」に到着しました。
正面ではないので、神社の横から入る恰好となります。ちょうど「神楽殿」の前にでて、左側には通常は”お札やお守り”を販売しているところでしょうが、今日はそこが展示室となっていました。
ここでは「高麗郡建都1300年記念事業」の一環として9月12日~27日まで「高麗郷文化フェスティバル」が行われているようです。

『(前略) 平成28(2016)は、高麗郡建都より1300年となります。その記念事業として高麗神社では多くの皆様が”渡来文化”や”郷土の歴史”に親しむ機会になればと、「高麗郡建都記念神恩感謝祭」(5月16日) 「高麗郷地場産チャリティバザール」(5月16日後の土・日) 「渡来人の里講演会」(6月) 《高麗郷文化フェスティバル》「高麗神社に伝わる文化財展」「雅楽奉納演奏会」(9月)などを開催いたしております。
これらの記念事業は、当地高麗郷の文化・福祉・産業の発展を祈念する多くの企業や氏子、団体の協力を得ております。
1300年前、この土地を開墾し、産業を興し、高麗郷を”第二の故郷”として豊かな「まほろば」を造ろうと苦労した古人たちの願いを想うからです。
皆様のご参加を心よりお待ちしております。
高麗神社宮司 高麗文康』(高麗神社パンフレットより)

ということは、この《高麗郷文化フェスティバル》が今年の最後の特別イベントなのですね。ちょっと得した気分です。
ここでは「高句麗文化展」として様々な民族衣装などが展示されていました。
高句麗文化展
特に目をひいたのが「高句麗古墳壁画」の”玄武”と呼ばれる壁画の実物大模写です。
高句麗古墳壁画
初めて知ったのですがこの「高句麗古墳壁画」とは世界的にもそうとう貴重な遺物のようです。

高句麗古墳群が世界文化遺産に 古代朝鮮の息吹伝える壁画の数々
4~7世紀アジア最高の遺物 北朝鮮、初の登録
北朝鮮の高句麗古墳群が1日、中国蘇州市で開かれていた国連教育科学文化機関(ユネスコ)の第28回世界遺産委員会で、世界文化遺産に登録された。
計21カ国の委員が全会一致の形で拍手をし登録が決まった。北朝鮮での登録は今回が初めて。同古墳群の「本家」争いをしていた中国からの申請も登録され、北朝鮮、中国が高句麗古墳で個別に世界遺産に登録される形となった。
高句麗古墳群は、4世紀から7世紀にかけて築かれた壁画古墳が中心。古代国家・高句麗の支配階層が埋葬された古墳に壁画が描かれており、5世紀に都を北朝鮮の平壌に置き、中国東北部から朝鮮半島にかけた支配した高句麗の文化を特徴付けているといわれる。当時、中国は戦乱の時代だったため現存する遺物は少なく、同時代の日本の高松塚古墳もサイズが小さいことなどから、高句麗壁画はその大きさと力強さ、芸術的な面でこの時代のアジア最高峰の遺物といわれる。 』(統一日報  - 2004年07月07日付より抜粋)

古墳は全部で63基もあるので壁画も多くあるようですが、その中でも特にこの”玄武”は、後期高句麗の壁画を代表する玄武図といわれているくらい貴重なもののようです。
また、先の民族衣装もこの壁画に描かれていた衣装を再現したもののようで、滅多に見られないものを見させてもらいました。

隣の神楽殿では狂言が行なわれるようです。今回は”高澤祐介”サンという狂言師が出演なさるようです。例の和泉流狂言師だそうです。
狂言解説
よほど好きでない限りは狂言を見ることは恐らく一生ないでしょう。何となくフラッと見に行くというものでもないですから、こんな機会は滅多にないと思います。一方演じる方もこのような形で披露できる機会も少ないと見えて、懇切丁寧に狂言のイロハをまず説明していました。

大変ありがたいのですが、20分ほど経っても説明が終わらないので、時間の余裕もない私としては先に境内の散策をはじめ、まずは参道に出ました。

古代高麗郡と高麗神社
日高市に中心を置いたと考えられる高麗郡の始まりについて、続日本紀に「霊亀2年(716)5月、甲斐、駿河、相模、上総、下総、常陸、下野7ヶ国から高句麗人1,799人を武蔵国に移し、高麗郡を創建した」と記されています。このとき、高麗郡の長となったと考えられているのが高麗神社の祭神で、高句麗からの渡来人であった高麗王若光でした。その後裔で、代々高麗神社の宮司を務める高麗氏系図には「若光が没すると郡民はその威徳を讃え、御殿の後山に霊廟を立て神霊を祀り高麗神社と称した」と当社の創建を伝えています。
日高市内には8世紀前半の集落跡や女影廃寺、大寺廃寺、聖天院の前身と考えられている高岡廃寺などの古代寺院跡や須恵器の窯跡といった高麗郡建都以降の遺跡が数多く所在し、古代高麗郡の栄華を窺い知る事ができます。
高麗神社には12世紀(鎌倉時代)の「大般若波羅密多経」(国指定重要文化財)をはじめ、高麗神社本殿(県指定文化財)、徳川将軍家社領寄進状(市指定文化財)といった有形文化財のほか、10月19日の例大祭に氏子によって奉納される獅子舞(市指定文化財)も伝えられています。また、高麗氏所蔵の文化財として17世紀の建築といわれる高麗家住宅(国指定重要文化財)、高麗氏系図(市指定文化財)があります。
平成14年5月 日高市』(境内案内板より)

この当時の高麗郡は現在の日高市と飯能市の一部だったそうで、「倭名類聚抄」には高麗郷(現在の日高市高麗本郷付近)・上総郷(現在の飯能市北東部)の二郷の名が記されていることから、高麗郷には旧高句麗の遺民が、上総郷には上総国からの移民が配置されたものと考えられているそうです。
中世以降郡域が拡大し、江戸時代には鶴ヶ島市・日高市全域および川越市・飯能市・狭山市・入間市を含む地域となりました。
廃藩置県後、入間県→熊谷県という遍歴で所属を換え、1878年(明治11年)、埼玉県に属する部分としての高麗郡が誕生しましたが、1896年入間郡に編入したことにより高麗郡は消滅しました。このことから高麗郡は約1200年続いていたということで、実に歴史ある町なのですね。

また、ここの境内にはかつて学校があったようです。

温知学校跡
ここは明治19年2月から同20年10月まで、温知学校々舎及び高麗発育尋常小学校仮本校舎があった場所である。明治初期から当地方の学校教育の変遷は次の通りである。
明治05年 学制頒布
明治06年 新堀学校(聖天院本堂) 台学校(円福寺本堂)開校
明治16年 新堀学校を温知学校、台学校を明徳学校に改称。新たに開進学校が栗坪村新井儀七宅に開校。
明治18年 5月、温知学校新校舎建前(当地) 7月、近郷十ヶ村連合して梅原連合村発足 10月、政府より連合村に小学校1校とする通達
明治19年 2月、温知学校(四教室) 新校舎に移転(当地) 4月、梅原連合村は、梅原村内に新校舎を建設し、校名を高麗発育尋常小学校とすることに決定。温知学校を仮本校舎、他二校を分教室とする。 5月、高麗発育尋常小学校開業式(当地 修業年数4年)
明治20年 9月、梅原村に発育尋常小学校新校舎落成移転(現高麗小学校校地) 10月、仮本校舎及び分教室閉校。旧温知学校々舎は高萩小学校々舎として移築 12月、高麗発育尋常小学校新校舎が開校

高麗神社祀職高麗大記(高麗家五十六代当主)は父明純の後を継ぎ居宅(現重要文化財高麗家住宅)で近隣子弟の教育に当たっていた。学制頒布以降学区取締役井上順造の依頼により新堀学校、台学校の開設から発育尋常小学校の開校まで、門弟らと共に当地方の学校教育普及に力を尽くし、発育尋常小学校の初代校長となったが、開校から1年を経た明治21年12月に職を辞した。』(境内案内板より)

この高麗大記氏は高麗小学校のサイトによると、1872(明治6)年1月、仮小学校句講師(現在の職では校長)となっていますので、約15年間教育に携わり、高麗の教育のまさに基礎を作ったということでしょうね。

その近くに「李王垠殿下御手植」「李王妃方子女王殿下御手植」という標柱の建っている木があります。
李王垠殿下御手植
この「李王垠」氏も満州国の溥儀と同じように時代に翻弄された人でしょう。

「李垠」(イ・ウン)は最後の朝鮮国(戦後、朝鮮と韓国に分断される前)であった”大韓帝国”時代の皇太子でした。当時、日韓併合による統治を考えていた日本の戦略により、「李垠」は日本政府の招きで訪日し、学習院、陸軍中央幼年学校を経て、陸軍士官学校で教育を受けたそうです。
1910(明治43)年の日韓併合により王公族として日本の公族に準じる待遇となり、”殿下”の敬称を受け「李王垠殿下」となり、その後、1920(大正9)年日本の公族の梨本宮守正王の長女・方子女王と結婚しました。
このとき日韓併合の条約に調印したのが「李王垠」の異母兄弟の長男の「純宗」で、日韓併合により大韓帝国が消滅してからは、ソウルの昌徳宮に住み、李王として王族に封じられ日本の王公族昌徳宮李王?となり、1926年に死去した際には国葬が行われ、この後を継いだのが「李王垠」ということです。
そして陸軍士官学校卒業後は大日本帝国陸軍に入り1940年(昭和15年)には陸軍中将となり、1942(昭和17)年11月21日、この高麗神社を参拝し、先の記念樹を手植されたということです。この時の参拝の記が境内の案内板に記載されていましたが、この時は「昌徳宮李王垠殿下」「昌徳宮李王妃方子女王殿下」、そして「昌徳宮王世子李玖殿下」と親子で参拝したことがわかります。

第二次世界大戦(太平洋戦争)の日本の敗戦後、王公族制度廃止により李王の資格を失い、更に大韓民国との国交が無いことや、李承晩大統領の妨害などがあり帰国できずに在日韓国人として日本に留まっていたそうです。
1963年に日韓国交正常化交渉が始まると朴正煕大統領の協力により大韓民国の国籍を得て夫婦ともに韓国へ渡り、その地で死去したそうです。
ちなみに1930(昭和5)年に「李垠」の邸宅として造営された木造二階建ての洋館が、赤坂プリンスホテル(現・グランドプリンスホテル赤坂)の旧館です。そして奇しくも息子の「李玖」は2005年、その赤坂プリンスホテルで死去しています。
李王垠と李王妃方子は2006年フジテレビでドラマ化されたようなので、それなりに歴史上は知られた存在なのでしょうね、私は知りませんでしたが。
高麗神社と朝鮮最後の皇太子の取り合わせはまさに歴史ですね。ホンのちょっと感動。

一旦参道を社殿とは反対方向に向かいます。参道の左右にはたくさんの献木が植えられています。政治家などが多いようですが、中には尾崎紅葉なども見受けられます。
参道の献木
途中に「高麗神社」の由来書があります。

高麗神社
所在地 日高市大字新堀
高麗神社は、高句麗国の王族高麗王若光を祀る社である。
高句麗人は中国大陸の松花江流域に住んだ騎馬民族で、朝鮮半島に進出して中国大陸東北部から朝鮮半島の北部を領有し、約700年君臨していた。その後、唐と新羅の連合軍の攻撃に合い668年に滅亡した。この時の乱を逃れた高句麗国の貴族や僧侶などが多数日本に渡り、主に東国に住んだが霊亀2年(716)そのうちの1799人が武蔵国にうつされ、新しく高麗郡が設置された。
高麗王若光は、高麗郡の郡司に任命され、武蔵野の開発に尽くし、再び故国の土を踏むことなくこの地で没した。郡民はその遺徳をしのび、霊を祀って高麗明神とあがめ、以来現在に至るまで高麗王若光の直系によって社が護られており、今でも大勢の参拝客が訪れている。
昭和57年3月 日高市』(境内案内板より)

5世紀頃、遼東半島、朝鮮半島の半ば、満州と、最大領土を支配した高句麗でしたが、5世紀末になると盟下にいた新羅勢力が強くなり百済と新羅の連合勢力により領土を大幅に削られるようになり、危機感を覚えた高句麗は百済に接近し新羅との対立を深めていきます。
そうこうしているうちに中国の隋が遠征してきますが、4回の遠征を何とか跳ね除けました。
隋のあと、唐が興ると今度は唐からの遠征を受けながらも、百済と結んで新羅を攻めたのでした。新羅と同盟関係にあった唐は660年百済を滅ぼし、さらに663年百済残存勢力を滅ぼしたあの「白村江の戦い」によって高句麗は孤立したのです。
そして高句麗の内紛に乗じて唐・新羅連合軍は668年高句麗を滅ぼしたのです。
こういったところでも、当時の倭国(日本)の勢力が朝鮮半島に及んでいたのが窺え、こういった関係もあって高句麗人の日本への移民があったということでしょう。遣隋使、遣唐使の時代ですから。
いづれにしてもまるで歴史の勉強をしているみたいで、実に楽しく懐かしいですね。

参道を逆に辿っていくと大きな鳥居があります。
鳥居
鳥居自体は割と古そうな感じですが、扁額はかなり新しそうでくっきりとした社号が刻まれています。
鳥居をくぐった先に案内板があります。

『日高市指定民俗文化財(無形民俗文化財) 高麗神社の獅子舞
所在地 日高市大字新堀833
昭和57年12月8日  指定
高麗神社は奈良時代に創建された由緒ある古社で、当社に伝承される獅子舞は古記録を失い、何時の頃よりはじめられたのか定かでないが、享保12年(1727)獅子頭再興の寄進連名板が保存されている。
獅子は三頭だてで、宮参り、雌獅子がくし、竿がかりの三場と氏子崇敬者の祈願をこめた願獅子の場からなり、毎年10月19日の例大祭当日氏子により奉納されてきた。
哀調をおびた笛の音、素朴な獅子の舞は、古代へのロマンをかきたてる。坂口安吾の著書「高麗神社の祭りの笛」のほか、釈迢空も「山かげに獅子笛おこるしし笛は高麗の昔を思えとぞひびく」の歌を残し、また、加倉井秋をの「引獅子や 昏れをうながす 笛と風」の句碑も建っている。
この神事祭礼の民俗行事を知るうえ、貴重な無形民俗文化財である。
昭和58年3月 日高市教育委員会』(境内案内板より)

参考:【高麗神社の獅子舞】 http://www.okumusashi.net/sasara/

歴史のある神社にはやはり伝統行事が残っているものですね。

そしてその先に大きなチャンスンが立っています。
高麗神社のチャンスン
これも王道の散策で、これを見落とすと何しに行ったと言われるとか、言われないとか。

深い深い歴史の息吹を感じる「高麗神社」ですが、これで散策も終了・・・な、訳はなく、時間をつぶしている間に狂言が始まっていたようです。
一旦神楽殿へ戻ります。

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