聖天院 #1

「高麗神社」から歩いて5.6分のところに「聖天院」があり、参道の入口には石造りのチャンスンが立っています。
聖天院のチャンスン
高麗駅、高麗神社の2つのチャンスンと比べると一番古いようです。

聖天院の由来
続日本紀によれば、今から1300年前高句麗滅亡によって我が国に渡来した高句麗人のうち甲斐、駿河、相模、上総、下総、常陸、下野7ヶ国の高句麗人1,799人を716年(霊亀2年)に武蔵国に移し、高麗郡を置きました。
現在の日高市は、高麗郡の中心をなした地域と考えられ、1889年(明治29年)まで高麗郡でした。
高麗王若光は高麗郡の長として、広野を開き産業を興し民生を安定し大いに治積を治めました。
勝楽寺は若光が亡くなったあと、侍念僧勝楽が若光の菩提を祈る為に751年(天平勝宝3年)に建立しました。若光の三男聖雲と孫の弘仁が勝楽の遺志を継ぎ、若光の守護仏聖天尊(歓喜天)を本尊としました。
その後開山以来の法相宗を真言宗に改め、1580年(天正8年)には本尊を不動明王にしました。当代までに実に1250年間絶えることなく継承されています。
2000年(平成12年)には、山腹に新本堂を建立し、同時期に在日韓民族無縁の慰霊塔を建立されました。
平成14年5月 日高市』(現地案内板より)

高麗郡に勝楽が建立した聖天尊を祀ったことから、正式には「高麗山聖天院勝楽寺」と言います。710年が奈良時代の始まりですから、奈良時代に建立された由緒ある寺です。
真言宗に改めらレたのは開基以来約600年後だそうですが、これ以降、高麗郷一帯の本寺として末寺54寺を擁する寺として隆盛を誇ったそうです。

チャンスンの先の一段高いところに「雷門」と呼ばれる山門がそびえています。
雷門

『市指定文化財 建造物 聖天院山門
入母屋造りの総欅の木造二層の楼門で、間口約8.8メートル、奥行き約5.5メートル、面積48.4平方メートルです。
高欄親柱擬宝珠に天保3年(1832年)の銘が刻まれていることから、172年前の江戸時代後半に建立されたと考えられます。
山門に向かって右手に風神、左手に雷神の木造が祀られています。』(日高市オフィシャルサイトより)

6年の歳月を費やして完成したと言われていて、まさに重厚感がにじみ出ています。

「雷門」を抜けると右手に「高麗王廟」があるようです。
高麗王廟高麗王廟
「高麗王廟」と書かれた額のかかった堂のようなモノがあり、その中に石を積み上げられた、砂岩多重塔という墓が納められています。

『市指定文化財 史跡 高麗王若光の墓
聖天院の境内に立てられている多層塔で、鎌倉時代の造立と伝えられています。
塔の最上部の相輪と各層の庇部が失われています。新編武蔵野風土記に、高麗王塔の記述が見られます。石質は凝灰岩で4段の屋根石からなり、高さは180センチメートルです。』(日高市オフィシャルサイトより)

良くはわかりませんが、これが朝鮮式の霊廟なのでしょうかね。

さらに「高麗王廟」の右横には「史跡 高麗殿池」と書かれた庭園があります。
史跡 高麗殿池
築山もあり山河をイメージさせる綺麗な庭園ですが、ここは特に正式な史跡には指定されてはいないようですので、「高麗王廟」と合わせて史跡と言っているかもしれません。若干強引ながら・・・

ここから本堂へは更に山を上がっていくとこになるのですが、ここが運命の分かれ道、この先は有料となっています。
ちょうど中門と呼ばれる門があり、そこが受付となっていて拝観料の300円を支払って中に入ります。
拝観券
この中門は文化財ではありませんが、もともと寛政年間の建物でしたが、昭和41年の台風で崩壊した為、昭和45年に再建されたものだそうです。
中門

中門をくぐると正面に庭園、書院・庫裡があります。
境内の中の庭園
かなり整備・手入れのされた庭園で、秋の紅葉の季節などはより美しいのでしょうね。飯能の【能仁寺】の庭園を思い出しますね。

左手の奥には木造阿弥陀如来座像を本尊として祀る「阿弥陀堂」があります。
阿弥陀堂阿弥陀堂の木造阿弥陀如来座像

『市指定文化財 建造物 聖天院阿弥陀堂
本堂は昭和59年に修復され、外観は大きく変わっています。修復時に宝永の墨書きが見つかり、およそ300年前に建築されたことがわかりました。堂内は中世の禅宗様式を持ちながら土間ではなく、床が設けられている事が特色です。
須弥檀には阿弥陀如来坐像、勢至菩薩坐像、観音菩薩坐像の三尊が安置されています。

市指定文化財 彫刻 木造阿弥陀如来坐像
聖天院阿弥陀堂の本尊で、来迎印を結び、右足前に結跏趺坐する阿弥陀像です。
檜材の寄木造りで、像高は89.6センチメートルです。像容は穏和な中にも溌剌とした生気が認められ、若々しく張りのある円満な面貌が表現されています。
像の特色や構造などから13世紀前半頃の造立と考えられています。
ただし、江戸時代の宝永元年(1704年)に、阿弥陀堂改修と同じ時期に修理されています。』(日高市オフィシャルサイトより)

この「阿弥陀堂」は宝永年間(1704 - 11)に檀主の金子六左衛門が寄進したと言われているものだそうです。
ここで江戸時代といわれると随分新しい感じがしますが、実際はこれだけでも随分と貴重なものなんですよね。

「阿弥陀堂」の前の急な階段を更に上がります。
不動明王像
途中大きな不動明王像が立っていて、まるで「ろくでもない人間は入れないよ」的な雰囲気に何かしら後ろめたさを感じながら(・・・って、どんな人間)上がりきりました。

上がったところの正面の更に低い階段を上がった所に「鐘楼」があり、右手には大きな本堂を見ることができます。
まずは参拝と本堂にむかいました。

かなり大きくて立派ですが、2000年に再建されたのですから歴史的な重厚感はありませんが、煌びやかさがあります。
本堂
もともと寛永年間に焼失し再建された本堂は茅葺だったそうですが、老朽化が進みこれ以上のメンテナンスが不可能な為7年の歳月をかけて完成したのがこの本堂だそうです。

本堂は新しいのですが、中には貴重な文化財が多いようです。

『県指定文化財 工芸品 聖天院応仁鰐口
中世の鋳物師渋江満五郎の作で、室町時代の応仁2年(1468年)の鋳造です。
両肩には吊金具を懸けるための耳を持ち、直径は21.1㎝をはかります。裏表に銘が彫られています。

久伊豆御宝前鰐口 願主衛門五郎 武州崎西郡鬼窪郷佐那賀谷村

大工渋江満五郎 応仁二年戌子十一月九日。

市指定文化財 書跡・典籍・古文書 徳川将軍寺領寄進状
徳川家康が関東に入府した翌年の天正19年(1592年)11月に聖天院に交付した朱印状で、寺領を寄進することと不入の権を認めることが書かれています。
2代将軍秀忠以降の将軍が交付した朱印状(これは継目安堵状という)11通の計12通が指定されています。』(日高市オフィシャルサイトより)

本尊の「木造不動明王及び両脇侍像」及び、その下に安置されている「木造観音・勢至菩薩両立像」も文化財です。
文化財

『市指定文化財 彫刻 木造不動明王及び両脇侍像
聖天院の本尊として伝来するもので、不動明王の左側に像高45センチメートルの矜羯羅童子、右側には像高45.6センチメートルの制迦童子が配されています。
不動明王は、像高38センチメートルの小型の坐像です。その像内に納入されていた8件11点の銘札等には、天正8年(1580年)に鎌倉仏師の大蔵法眼によって造立し、寛永元年(1624年)に両脇侍像を新造させて三尊一具にしたことが記されていました。
不動明王の腹内に弘法大師の作と伝える二寸五分の不動立像が収められています。

市指定文化財 彫刻 木造観音・勢至菩薩両立像
二躰の菩薩像は、聖天院の本堂に安置されています。ともに頭上に丈の高い宝髻を結い、額のやや上に天冠台をつけている。
像高はともに104.7センチメートルで、格調の高い、整った出来映えを見せ、穏やかな面貌が表現されています。
鎌倉時代初期の特徴が見らます。』(日高市オフィシャルサイトより)

ちょうど節目の年2000年に再建されたそうですが、数々の文化財と共に本堂もいずれ文化財として貴重なものになるのかもしれませんね。私は120%見れませんが・・・

本堂の右手奥には「雪山」と書かれた標識があります。
雪山
この「雪山」とは本堂を新築するため裏山を整地したときに石灰岩が露出した場所で、その形が雪を懐いた山のように美しいことから「雪山」と呼んでいるそうです。
確かにパッと見は美しいですね。

本堂の前あたりは見晴台となっていて実に良い眺めを見ることができます。ちょうど山門から中門、そして庭園、書院など気持ちの良い眺めです。
見晴台からの眺望
山沿いに造られたことからこのような眺望が可能となったのでしょう。

ここから一旦不動明王の所に戻ります。

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