聖天院 #2

不動明王像の上に「鐘楼」があります。
鐘楼

『国指定文化財 工芸品 銅鐘
聖天院に伝わる梵鐘で、鎌倉時代に関東で活躍した鋳物師物部季重に手によるものです。
鎌倉時代中葉の文応2年(1261年)の鋳造で、総高81.2センチメートル、口径45センチメートルをはかります。
胴部には「武州高麗勝楽寺 奉鋳長二尺七寸 諸行無常 是生滅法 生滅滅己寂滅為楽 文応二年歳次二月日 辛酉 大檀那比丘尼信阿弥陀仏 平定澄朝臣 大工物部 季重」と陽鋳銘があります。』(日高市オフィシャルサイトより)

ということで実に貴重な「銅鐘」ですが、残念というか当然というか、ここにあるのはレプリカで原物は本堂の方にありそうです。
「鐘楼」の柱に”文化財梵鐘 一鐘100円奉納”と記載されていたのが実に何と言うか、微笑ましいです。
鐘撞き1回100円
まあ、原物なら鐘を撞いてもいいかなと思いますが(この辺りが打算的な性格が表れる)。
しかし、あとで調べると実に興味深いことが判りました。

『市指定文化財 工芸品 聖天院元禄四年銅鐘
勝楽寺第三十三代法印賢海上人が、江戸神田の鋳工小沼播磨守藤原正永に造らせました。
元禄4年(1691年)の鋳造で、総高101.5センチメートル、口径77.5センチメートルです。
胴部には
「武州高麗勝楽寺第三十三代 法印賢海上人 奉鋳造銅鐘一口長四尺七寸三分横弐尺五寸五分 諸行無常 是生滅法 生滅滅己 寂滅為楽 槌一打三千衆雲如集 霜鐘三振四生苦冰如消 長眠聞之而驚覚永夜 因之而忽暁一切衆生 殊門末旦越施入之輩 聞鐘速脱罪苦件之衆 一打鐘声当抜苦成仏乎 于時元禄二年歳次十月日 二 辛未 同州豊嶋郡江戸神田鋳物大工小沼播磨守藤原正永」
と陽鋳銘があります。』(日高市オフィシャルサイトより)

レプリカといえども市指定の文化財なんて、いままでこういったケースは一度もなかったですね。
レプリカのレプリカ!?
新しくても江戸時代なんですから、どこまでも人を驚かす寺です。こんなことなら鐘を撞いてくればよかったです(って、更に打算的)。
でも、まさかレプリカのレプリカってことは無いですよね・・・

「鐘楼」の隣には主の「高麗王若光」の石像が立っています。
「高麗王若光」の石像
高麗神社、聖天院と「高麗王若光」について意外と詳細を知ることができなかったので、「高麗王若光」について調べてみました。

日本書紀によると、元々は666(天智5)年、高句麗の使者玄武若光として来日したと言われており、668(天智7)年、高句麗が滅ぼされたため若光は帰国の機会を失ったいうことです。
推測によると相模国大磯(現在の神奈川県大磯町)に居住し朝廷より、従五位下に叙されたと考えられているようで、さらに「続日本紀」によると703(大宝3)年に文武天皇により高麗王の氏姓を賜わられたとあるようです。
この大磯は朝廷の定めた朝鮮半島からの渡来人の上陸拠点だったようです。現在は高來神社というのですが、大磯に高麗神社があったそうです。
そして件の「続日本紀」の高句麗人移動と高麗郡設置となり、その際、郡の大領(郡司)に任命されて大磯を去り、高麗郡に下って当時荒野であった高麗郡内を開拓して民生を安定させたという記述につながっていくのです。
つまり渡来人(高句麗人)の町ができたから、同じ高句麗人の若光が渡来人を束ねるにはうってつけであるから、神奈川県から埼玉県へ人事異動(肩書きは上がったが都落ち的な・・・)されたという訳です。
いままで「高麗王若光」はてっきり移民の人々の中の代表者だと思っていたのですが、ちょっと驚きです。
ただ、別な説もありやはり高句麗が滅びてから「高麗王若光」は一族を引き連れて日本に亡命し、各地に散らばった高句麗人の集団として大磯に住み着いたという説です。
「甲斐、駿河、相模、上総、下総、常陸、下野7ヶ国から・・・」という記述から大磯は十分ありえることから、なかなか判断に苦しむところですが、前者のの方が渡来人を纏め上げるという点では無理が無いかなと思いますが・・・、そもそも高句麗の王ないしは王子位の人なら後者もありえますしね。
いずれにしても「高麗王若光」の治績によって渡来人文化が面々と続いたということでしょうかね。

この先に慰霊塔がありますので行ってみます。
慰霊塔

慰霊塔・聖天院開基の歴史
続日本記に霊亀2年(西暦716年)高麗人1,799人を武蔵国に移して高麗郡を設置したと記されています。初代の群長若光(高句麗末期の王子、高麗王)は、大いに治績をおさめ郡民敬慕のうちにその波瀾に満ちた生涯を終えました。
高麗王の侍念僧勝楽は、王の冥福を祈らんが為、王の念持仏(聖天尊)を本尊としてこの寺を創建し、王の霊を祀りました。日本では古来より、故人の為に寺を建立することは最良にして最高の供養とされています。これが当山開基の歴史であり、天平勝宝3年(西暦751年)のことでした。以来、聖天院は高麗郡の本寺として、高麗王はじめ郡民の菩提所として今日に至っており、王招来の聖天尊は人々の厚い信仰を集めて来ました。

この由緒ある聖天の山腹にそびえ立つ慰霊塔は、第二次大戦の不幸な歴史の中で亡くなられた沢山の無縁の同胞達に、昔渡来した高句麗の同胞達と共に永遠の安眠を与え供養したいと願う、在日同胞篤信者の真心により建立されました。塔は日本との関係36年間を象徴する36段階で高さ16m、石塔としては日本最大、下部に納骨堂が備わっています。
その周囲には無縁仏が生前白衣民族であったことを忘れぬよう、壇君をはじめ、広開土大王・太宗武烈王・鄭夢周・王仁博士・申師任堂等祖国の自尊心を高めた偉人達の石像が配されています。慰霊塔左手に建つ八角亭は3・1独立宣言書を初めて朗読したソウルパゴダ公園内の八角亭を縮小建築したもので、祖国同胞により祖国の建材を使用して施工されたものです。
2000年1月吉日』(現地案内板より)

慰霊塔を正面に見て右側の丘に石像が5体並んでいます。
石像
右から高句麗時代の広開土大王、新羅時代の太宗武烈王、百済時代の王仁博士、高麗時代の鄭夢周、李朝時代の申師任堂だそうですが、檀君は気が付きませんでした。

そして慰霊塔の左側に「八角亭」があります。
八角亭
かなり極彩色で彩られた、いわゆる日本で言うところの四阿です。

在日白衣民族の聖地
ここは日本国土の中心地で、今からおよそ1300年前、若光王一行が風水学(現韓国風水学)上、最高の地と定めた。
山林を切り開きここを居住地と定め、巾着田(埼玉県重要文化財)を造成し武蔵野一帯に稲作を普及した。
壇紀4332年10月3日』(現地案内板より)

これ等の案内を読み解くには「白衣民族」「檀君・壇紀」「八角亭」などの、いくつかのキーワードを理解しなければならないでしょう。
そもそも朝鮮民族と”白”の関わりは民族の起源とされている檀君神話から始まったといわれています。檀君とは鮮神話、檀君神話に出てくる宗教的、政治的な最高統帥権者の称号で、実在していないと言われている伝説の存在者で、簡単にいってしまえば「神の子」といっても良いのかもしれません。
神話の中で神が降臨したのが「太白山山脈」という場所で、その「神の子」として生まれた檀君は、白くて清らかで明るい存在である太陽信仰に由来して国号を「朝鮮」と定めたくらいだそうですから(ハングルの朝鮮という文字の一部が太陽という意味を表している)。
そして、檀君神話以外の代々朝鮮半島で栄えた国の国王の神話では、白色(太陽)に伴われてこの世に登場する者は天の意を受けて王になるべき人物であると言われ、必ず”白”が登場するのです。

この檀君の即位年が紀元前2333年であることから、例えば西暦2000年は壇紀4333年ということになり、いわゆる日本の元号に近いものです。最も現在の韓国では公式(国内でも)には使用されていないようです。
しかし、現在でも壇君神話は生きつづけており、檀君の子孫として”白”を民族のシンボルカラーとして捉えているのだそうです。
それは、「朝に白馬を見るとその日は金銭が手に入ったり、運がいい」といわれるジンクスなどの言語や、李朝白磁が好まれた芸術、そして一番代表的なのが、白衣を好んで着ていたという事実です。3世紀末の記述に”白”や”白衣”を好む記述が表れてから、白色は神聖であることから、清廉、潔白、忠節の心に通じるものとして時代を通じて”白衣”が表れているのです。これが「白衣民族」といわれる所以です。

このようにして朝鮮民族は「檀君と白衣」を朝鮮のシンボルとして歴史を築いたのでした。
檀君朝鮮といわれる「古朝鮮」からはじまり、高句麗の現れた「原三国」、高句麗・新羅・百済の「三国」時代、更に新羅統一後の「南北国」「後三国」時代、そして高麗、李氏朝鮮、大韓帝国と国は代わりながらも、いずれも朝鮮民族の起こした国でした。しかし1910年からの大日本帝国による韓国併合は他民族による侵略であった。
そのような時代背景だからこそ、”白”に戻したい、戻りたいという気持ちから「3.1独立運動」が起こったのだと考えられます。結果として「3.1独立運動」は失敗におわり、1945年日本敗戦まで独立は叶わなかったのですが、このような気概も「檀君の子孫」「白衣民族」としての誇りの表れかもしれません。

ここを「白衣民族の聖地」と考えたのはここが聖地であれば、朝鮮人も韓国人も区別無く、いろんな人が好きなときに来て線香を手向けられると、まさに何色でもない”白”であることが基調となっていて、更に南北統一の平和への願いがこめられているそうです。

すっかり渡来人文化に魅了されましたが、これにて高麗郷散策は終了です。
チャンスンのモニュメントのある高麗川駅
ここからは歩いて「高麗川駅」に向かいます。
高麗川駅前のロータリーにはチャンスンのモニュメントがあります。どこまでも渡来人文化なのですね。

現在「せんと君」で全国的に物議を醸した、平城遷都1300年祭が間近に迫ってきています。
しかし平城遷都710年に遅れることわずが6年の716年に建都された高麗郡もあと6年で1300年です。全国的に知名度は明らかに低いですが、渡来人の文化の歴史として誇るべき郷です。
このような歴史ある地を訪れることができ、今回も大変貴重な経験をしました。 渡来人ロマン・・・とでもいえるのでしょうか、今回のコースは超お勧めです。

2009.10.06記

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