幸手市歴史散策 #1

午前中は権現堂桜堤で花見と散策をしてから、午後は幸手市の史跡などの散策に向います。
権現堂堤の駐車場を出たのがちょうど12:00ころでしたが、周辺の道路は大渋滞です。

熊野神社の修復絵馬

最初に訪れたのが「熊野神社」です。
権現堂堤から歩いて10分、車なら2、3分の距離ながら、車で30分近くも掛ってしまったのは、花見のシーズンに車で移動しようということが土台無理な話だったかもしれません。
それでもとにかく到着した「熊野神社」です。
熊野神社 熊野神社
このように境内は細長い境内ですが、それにしては立派な鳥居を持った神社です。

熊野権現社
所在地:幸手市北3丁目10番19号
熊野権現社は、紀州(和歌山県)の熊野権現社の分社で、権現堂村や権現堂川の名の起りでもある。もとは、熊野権現、若宮権現、白山権現の三柱の神を合祀した神社でもあったという。
この付近は、江戸時代から大正時代にかけて権現堂河岸の船着場として栄えたところで、神社には、船主や、船頭、江戸の商人等からの奉納品が数多く保存されている。明治28年に奉納された権現堂堤修復絵馬は、幸手の絵馬師鈴木国信の作で、内務省の役人の監督のもとに、地形築きや土端打ちの女人足が揃って作業を行っているところを描いている。当時の治水技術を知る上で貴重な資料となっている。
また、境内にある庚申塚は自然石に刻まれたもので、このあたりでは珍しいものである。
昭和63年3月 埼玉県・幸手市
(現地案内板より)

鳥居を抜けて参道を進むと妙な建物があります。
熊野神社
まさに屋根だけの建物で、扁額には「熊野三社大権現」と記載されています。これが熊野・若宮・白山の三柱のことでしょう。
この屋根の裏には沢山の絵馬や扁額などが掲げられています。
絵馬など 絵馬など 絵馬など
絵馬堂のような役割を持った建物だったのかも知れません。現在で言えば展示室…、とも違いますね。
その中に記載のあった「権現堂堤修復絵馬」がありましたが、これはレプリカで本物は本堂内に展示されていると書かれています。
権現堂堤修復絵馬レプリカ
写真では反射して見づらいのですが、確かに作業に様子が伺えます。再三にわたる洪水・決壊で権現堂堤の改修も大変だったのでしょう。
それにしてもこれらの絵馬や扁額などを見ていると、如何に当時からこの熊野神社への信仰が厚かったかが窺えるのですが、それはこの熊野神社が権現堂村や権現堂川の由来となったということによるものでしょう。

熊野神社
熊野神社と権現堂という地名の由来
当社の創建は天正年間(1573~92)と伝えられ、古くは熊野権現社と号した。順礼伝説の起こりである享和2年(1802)の大洪水により古記録等も流失し、現在の社殿は文政8年(1825)に再興されたものである。
江戸時代後期に編纂された「新編武蔵風土記稿」権現堂村の項に「村内に熊野・若宮・白山の権現を合祀せし旧社あれば、この村名起れりと云う」とあり、村内の権現三社を合祀した古い神社から「権現堂村」という名になったことが記されている。
柳の会主宰 柳田恭三 撰文
(現地石碑より)

現在の社殿が1825年の再興で、新編武蔵風土記稿が1804年~1829年に編纂されたのですから、少なくとも1800年位までには若宮・白山神社が分かれたということになると考えられます。とすると、先ほどの絵馬の掲げられていた建物の扁額がその当時のものなのかもしれません。いずれにしてもここ幸手においては由緒ある神社であることは間違いないことです。
その由緒ある神社に参拝です。
熊野神社拝殿 熊野神社拝殿
それ程は大きくない社殿ですが、屋根の形に趣があり、社殿というよりは本堂といった寺院の風情です。
本殿も凝った造りではないのですが、そこはかとない荘厳さを醸し出しています。
熊野神社本殿

権現堂堤修復絵馬
幸手市北3-10-19
権現堂堤は、江戸時代から治水政策に大きな役割を果たしていました。「権現堂堤が切れると東京中が水浸しになる」と言われ、明治26年(1893)年に大規模な修理が行われています。
熊野神社に納められている権現堂堤修復絵馬には、そのときの工事や、当時の河岸場(舟運の荷上げ場)の様子が色鮮やかに描かれています。明治28年の奉納で、願主は「公示仕立人 武内大次郎」となっており、工事の無事完了を感謝したものと思われます。
幸手市教育委員会
(現地案内板より)

実際にそこまでの被害は無いのでしょうが、それだけ重要な堤防であったと言うことでしょう。
社殿の中はこのようになっています。
熊野神社拝殿内 熊野神社拝殿内 熊野神社拝殿内
よくよく見れば拝殿の左手にあるのが、修復絵馬の本物のようです。
権現堂堤修復絵馬
実物はかなり大きなもので、迫力を感じます。由緒ある神社に相応しい文化財と言えるものです。

マリア地蔵

「熊野神社」からは一気に進んで車で10分程で目指す「マリア地蔵」のある“権現堂集落農業センター”に到着しました。
権現堂集落農業センター
道路の脇に庚申塔と記念碑の隣に案内板があります。

マリア地蔵
幸手市権現堂
文政3年(1820)に作られた子胎延命地蔵で、キリストを抱いたマリアに見立てられています。
錫杖の上に十字架が刻んであること、キリスト教の仮託礼拝物のヘビや魚が刻んであること、イメス(イエスをカモフラージュしたもの)と刻んであること、などから江戸時代の隠れ切支丹の信仰の対象であったと考えられます。
一般にマリア地蔵と呼ばれ、市指定有形民族文化財になっています。
幸手市教育委員会
(現地案内板より)

案内板の左手のほうに地蔵などが沢山並んでいます。
マリア地蔵 マリア地蔵
その中央にあるのが「マリア地蔵」です。
マリア地蔵
説明にある部分をクローズアップしてみますが、最初の錫杖の十字架はこれでしょう。
マリア地蔵
確かに十字架らしきものが刻まれています。
そしてヘビや魚は、子供のあたりに刻まれた、このあたりの模様ではないでしょうか。
マリア地蔵
はっきりとは判明しませんが。
最後の「イメス」に関しては文字が刻まれているのは判るのですが、“イメス”までは判読できませんでした。
まあ、あくまで推定ではあるのですが、全国にもこのような隠れキリシタンを意味するものは多く残っているようです。
マリア地蔵としては、長野県塩尻市の首の無い“マリア地蔵”と言うのが有名なようです。
長野県塩尻市の首の無い“マリア地蔵”
また、隠れキリシタンの宝庫である天草にも、このような信仰礼拝物が残っているようです。

参考:【九州大図鑑】http://daizukan9.blog63.fc2.com/blog-entry-913.html

キリシタンへの弾圧は秀吉亡き後の安土桃山末期から江戸時代を通じて明治初期まで続いたのです。特に江戸時代には踏み絵などと言うキリシタン狩も行われ、当然キリシタンは重罪として拷問や死刑を科せられたのです。
そういったことから隠れキリシタンとして様々な信仰が行われていたのは歴史の授業で習ったことで、そのような歴史を身近なところで触れられると言うのも実に貴重な経験と言えるかもしれません。

この後は国道4号線沿いの【レストラン プロローグ】で昼食をとり、午後からの散策に向います。
プロローグ外観

正福寺の義賑窮餓之碑

昼食後は国道4号線から並行する県道65号線を幸手駅方面に南下し、クランクの中間にある「正福寺」が午後の最初の散策です。
正福寺
非常に大きい灯篭で参道がすぐわかります。

正福寺
所在地:幸手市北1丁目10番3号
正福寺は、香水山楊池院正福寺と称する真言宗智山派の寺で、本尊は不動明王である。
当山は、江戸時代学問の研究や子弟を養成する常法談林であり、当時この寺は、49ヶ寺の末寺をもっていた。また、将軍家光の代、御朱印13石を賜っている。
境内には、県指定史跡の義賑窮餓之碑がある。天明3年(1783)に浅間山が大噴火したため関東一円に灰が降り、冷害も重なって大飢饉となった。この時、幸手町の有志21名が金品を出しあって、難民の救済にあたった。この善行が時の関東郡代伊奈忠尊の知るところとなり、顕彰碑を建てさせたという。
また、樹齢450年、根まわり5メートルもある槇の大木があり、県の天然記念物に指定されていたが、惜しくも枯れてしまった。
寺には、多くの古文書や仏像・書画が保存されており、境内には日光道中の道しるべもあり有名である。
昭和63年3月 埼玉県・幸手市
(現地案内板より)

談林というと浄土宗の“関東十八檀林”が名高いようですが、真言宗の場合は「関東十一談林」といわれています。“談”と“檀”の字が違いますが、広義においては僧侶の養成機関というように、ほぼ同じものと考えて差し支えないようです。
談林には常法談琳と談林格があり、常法談林とは永代談林で、談林格とは一代談林をいうのだそうです。さら談林は古談林と新談林に分けられ、古談林は中世以来の談林で、新談林は智積院・小池坊両能化より免許を受けた談林を言うのだそうです。したがってあえて格的にいえば、古談林の常法談林が格が高いといえるのでしょう。
江戸時代までの格式で言うところでの関東十一談林は、明治36年の資料では、薬王院(高尾山)・金剛寺(高幡不動)・宝生寺・三宝寺(以上東京都)、三学院、錫杖寺、報恩寺、明星院、龍華院、長久寺、一乗院(以上埼玉県)となっているそうです。

ここで余談ながら僧侶の育成制度、いわゆる住職になるにはどうすればよいのかを紐解いてみます。当然ながら真言宗智山派の例です。
智山派で寺院の住職になるための資格は、教師資格と呼ばれているそうで、この教師資格を所有している方が住職として智山派から任命されるシステムとなっています。したがってたとえ住職の子で僧侶であっても、この資格がなければ跡を継ぐことは出来ないのだそうです。
では、この資格を得るためにはどうするかというと、現在、基本的に2つの方法があるそうです。
1つは高校を卒業して、総本山智積院内に設置されている智山専修学院または大本山成田山新勝寺内に設置されている成田山勧学院に入学し1年間在山、所定の修行をして卒業する方法で、もう1つは宗派が設立母体の一つとなっている大正大学に入学し、長期休暇期間を利用し総本山智積院にて修行、かつ指定された教学の単位を取得し卒業する方法があるのです。
このほかに大正大学以外の大学生に対する研修もあるそうですが、いずれにしてもこれらの修行を終了し、年齢が20歳以上のものに教師資格が与えられるのです。したがって最低限高卒でなければ教師にはなれないことになります。

これは戦後に定められた現在のシステムですが、江戸時代はどうだったのでしょうか。
当時の住職(教師)は大抵寺子屋を開いており、その中の目ぼしい子供を預かり修行にだすのです。当時の修行は最低20年の修学が必要だったそうですから、気の長くなりそうな話です。
そして、この20年の修行のうち3年以上京都の智積院にて修学しなければならないのです。そしてこの智積院での修行が最低の3年~5年のものは末寺、6年以上修行したものが本寺に就任できるのだそうです。そしてさらに本寺住職は40歳以上となっているので、平均寿命の短い江戸時代に本寺の住職になるのは相当高いハードルであったといえるのです。
そして智積院は京都ですから行くのも大変ですし、暮らしていくのも大変なのです。そこで智積院での修行以外は地方の談林で修行するということになるのです。
先ほどは明治以降の関東十一談林を上げましたが、古い新義十一談林では、江戸4ヶ寺(弥勒寺、根生院、円福寺、真福寺)と関東7ヶ寺(成田一乗院、倉田明星院、蕨三学院、川口錫杖寺、石神井三宝寺、中野宝仙寺、新井総持寺)の代表的な11談林がありましたが、武蔵国にはこれらを含めて69の談林があったそうですから、現在はどの寺が談林だったかが判りにくくなっているようです。いずれにしても江戸時代における住職というのはかなり苦労して就任していたことがわかります。
こういった中の談林の一つがこの正福寺だったということです。

山門の前にも大きな灯篭が置かれています。
正福寺
さらに山門の左右には大きな石も置かれています。 特に大きさに意味があるのでしょうか。
山門を入ると早速、説明にあった「日光道中の道しるべ」があります。
道しるべ
供養塔で寛政十二年庚申歳皐月十九日の日付が刻まれていますので1800年です。
参道の先が旧日光街道ですから参道入口あたりにあったものかもしれません。
その右手には大きな枯れた大木があるので、これがかつて天然記念物であった槇の大木でしょう。
槇の大木
さらにその奥に大きな碑が立っています。
義賑窮餓之碑
これが「義賑窮餓之碑」のようですが、ほぼ人の身長と同じくらいの結構大きな碑です。
以前【草津温泉家族旅行】で行った「鬼押し出し園」の溶岩がまさしく天明3年の大噴火の跡なのです。
この大噴火のよる泥流は大洪水を引き起こし、利根川に入り現在の前橋市あたりまで被害は及んだのです。そして増水した利根川は様々なものを押し流し、利根川支流にも泥流が流入し、権現堂川にも多くの遺体や瓦礫などが打ち上げられたようです。
そして21人の有志は約70日間粥などを施したのだそうです。
ただし、冷害とあるのは天明の大飢饉のことで、一般的な解釈として浅間山噴火による灰で冷害となったと解釈されていたようですが、ここでの記載にもあるとおり、現在では天明の大飢饉は大噴火の前に起っていて、偶然時期が近かったことから関連付けられたと解釈しているようです。

この碑のある辺りは庭園になっていて、ここでも大きな灯篭や庭石がおかれています。
庭園 庭園 庭園
どうやら正福寺では、大きな灯篭と庭石によって景観が造られているようです。
庭園を抜けると鐘楼がありますが、よくよく見ると傾いていませんかね。
傾いた鐘楼
これも地震の影響だったのでしょうか…。
奥にある本堂は、まるでどこかの研究所のような洋風の建物です。
本堂 本堂
恐らくこの建物を単体で見ると、けっして寺院とは思えないでしょう。
洋風の本堂と和風の庭園、そして巨大な灯篭と、何となく不思議とマッチしているのが興味深いところです。
参拝を済ませ、かつての談林の栄華をしのんで次に進みます。

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