幸手市歴史散策 #2

今日の散策も終盤となってきました。
幸手市には日光街道や日光御成道が走っていて、文化財や史跡などはこれを中心としているので、散策範囲はそう広範囲ではありません。
次の目的地は「聖福寺」で、「正福寺」から僅か1分ほどのまさに隣り合わせの寺院です。

聖福寺の勅使門

山門は旧日光街道に面していて間口の狭い参道となっています。
聖福寺
それにしても隣りあわせで漢字が一字違いますが、読みは同じ「しょうふくじ」で地元の方はどのように聞き分けているのでしょうかね。

聖福寺
所在地:幸手市北1丁目9番27号
聖福寺は、寺号を菩提山東皐院聖福寺と称する浄土宗の寺で、本尊は阿弥陀如来であり観音像は運慶作と伝えられている。
徳川三代将軍家光が日光社参の時、御殿所(将軍の休憩所)として使用したのを始めとし、天皇の例幣使や歴代将軍が18回にわたり休憩した。将軍の間、例幣使の間、菊の紋章の入った勅使門(唐門)があり、左甚五郎作といわれる彫刻等も保存されている。また、御朱印状により10石を賜ったことがわかる。
境内の左手に2つの石碑があって、一つには「花づか」と彫られている。江戸文化が華やかであった寛政の頃、幸手宿に秋月庵一松という人がおり、遠州流生花を普及させた。 
その後、日光道中でさかんになり、明治になって遠州流の人達がこの碑を建てたものという。
もう一つは「金子竹香顕彰碑」である。金子竹香は江戸時代の儒者であり、書家としても有名で幸手に住んでいた。この碑の碑文は儒者で折衷学派の亀田綾瀬の撰文と書によるものである。
昭和63年3月 埼玉県・幸手市
(現地案内板より)

こちらは浄土宗だそうで、徳川将軍家との縁の深い寺院といえそうです。
この案内板の横に石碑があります。
句碑
2句刻まれた句碑のようです。

幸手を行ば栗橋の関 芭蕉
松風をはさみ揃ゆる寺の門 曽良
江戸時代、門前の通りの日光街道は、将軍の日光社参をはじめ、さまざまな旅人がゆきかい、その中には奥州へ向う文人、芸術家も多くあったことであろう。
『奥の細道』の旅を終えた俳人松尾芭蕉は4年後の元禄6年9月13日、江戸深川、芭蕉庵で十三夜連句を催した折、奥州の旅を思いおこし、同行した弟子曽良と並んで右の句をよんだ。
時を経て、昭和62年4月10日付の新聞紙上、埼玉の俳人鈴木一郎氏は、右2句を紹介しながら、芭蕉に続いてよまれたこの曽良の句の門を聖福寺の勅使門として間違いなかろうと説を示された。平成13年、日光街道400年を迎え、同14年、山門の改修工事が成り、併せてこの句碑を建立し、往時をしのぶものとする。
平成15年 秋彼岸
聖福寺第二十八世 静誉康隆
石碑の書体は、『芭蕉袖草紙』の原本を拡大複写して刻んだものである
(現地句碑より)

芭蕉の句碑は今までにも各地で見てきましたが、場所が特定されているところを見るのは初めてかもしれません。
実際にここで詠まれたと思うと、何となく感慨深いものがあるものです。

さらにその隣には地図が掲出されています。
日光道中行程記安見絵図
特に説明はないのですが、「日光道中行程記安見絵図」というタイトルがあり、江戸時代安永年間とあるので、その当時に書かれた日光御成道の絵図なのでしょう。左から“栗橋”、“幸手”、“杉戸・和戸”の絵図です。
中央の幸手の絵図では、街道沿いに町並みが描かれていますので、大層賑わっていたのでしょう。
一番左の絵図の下に「上尾」「桶川」「鴻巣」の宿場町が描かれているので、ここが中山道です。確かに上尾市の【佐四良稲荷神社】の庚申塔には「ここからさってみち」と書かれていますから、如何に御成道が重要なルートであったかが伺えます。
参道を進むと正面にあるのが「勅使門」で、その光彩を放っています。
聖福寺勅使門

聖福寺勅使門
幸手市北1-9-27
この唐破風の四脚門は建造後、約350年の歴史を有します。扉には菊の紋様が刻まれており、勅使門と呼ばれています。かつては将軍一行や例幣使(天皇が祭礼に送る使者)が来たときしか、開くことはありませんでした。
ここ聖福寺は、日光東照宮に参詣した歴代将軍の休憩所であり、また東照宮例祭に臨席した例幣使も休憩をとりました。この勅使門は修理の手も加えられていますが、日光道中の宿場として栄えた幸手の隆盛をしのばせるものです。
幸手市教育委員会
(現地案内板より)

勅使門は、以前【萩日吉神社流鏑馬祭】で訪れた「霊山院」にありました。当然、同じ意味合いですが造りはまったく違い、こちらのほうが彫刻なども施されていて贅を極めているようです。おそらくこれが左甚五郎作といわれている由縁なのでしょう。
まあ、将軍や例幣使が来るのですから、当時としては上や下への大騒ぎで準備をし、多くの住民が迎えたのでしょう。
勅使門の前には「4月8日 無縁さまお洗い、百灯供養」と書かれた掲示板が掲出されています。
その意味は境内に入ると判りました。
無縁さまお洗い、百灯供養
境内右手の鐘楼の近くに無縁仏の墓石や石碑が安置されていて、檀家の方たちでしょうかそれらを一つ一つ丁寧に洗われているようです。そして住職の方がマイクで洗い方等を指導しながら進められているようです。
基本的に無縁仏を供養する行事なのでしょう。各地には百八燈、千灯、万橙供養といったように呼び方は違っても供養する気持ちの行事は多くあるようで、こちらもその一つなのでしょう。
この無縁仏の近くに説明のあった「花つか」などがあるのですが、何となく近づきがたいので遠慮しておきました。
花つか
この後、本堂を参詣して聖福寺を後にしますが、本堂には徳川将軍家、初代から13代までの位牌が安置されているそうです。
本堂
「正福寺」とは違った意味で、幸手宿を象徴する寺院といえるでしょう。

将門の首塚

「聖福寺」から一気に東に飛んで、車で15分程度の場所にある「浄誓寺」に向います。わざわざ回り道をしているのも、今日は各地で渋滞があるためなのです。
幸手市内でも郊外なので実に静かな雰囲気の中で、しっとりした佇まいの寺院です。
浄誓寺
落ち着いた雰囲気の山門です。

浄誓寺と将門の首塚
幸手市神明内1469
通光山浄誓寺と称し、浄土真宗の寺で、本尊は阿弥陀如来です。
境内に高さ3m程の塚があり、頂に風化した五輪塔が立っています。ここに、天慶3年(940)の天慶の乱で、平貞盛・藤原秀郷等の連合軍と幸手で最後の一戦を交え、討ち死した平将門の首が埋められたと伝えられており、市指定史跡となっています。
付近にも、将門の血が赤く木を染めたことからつけられた、赤木という地名もあり、将門に関するいわれが多く残っています。
幸手市教育委員会
(現地案内板より)

周知の通り、平将門は平安時代中期の関東の豪族で、平氏の姓を授けられた高望王の三男平良将の子です。下総国、常陸国に広がった平氏一族の抗争が関東諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国衙を襲撃して印鑰を奪い、京都の朝廷に対抗して独自に天皇に即位して「新皇」を自称したことによって将門は朝敵となるのです。しかし僅か2ヶ月で討伐され、さらし首とされ各神社に祀られることとなるのですが、さらし首となった首は空を飛び地上に落ちたという伝説から、各地に首塚伝説が残っているのです。

山門を入って右手に鐘楼があり、正面に本堂があります。
浄誓寺 浄誓寺
シンプルながらも重量感のある本堂を参詣してから将門の首塚に向います。
首塚は本堂の裏手にあり、こんもりとした一画が首塚のようです。
将門の首塚 将門の首塚
頂にあるのがその首塚です。
将門の首塚
説明にもあるとおりかなり風化した様子が、将門の首塚でありそうな雰囲気を漂わせています。
周辺に建物がないので、首塚からは四方の風景がよく見えます。
将門の首塚
将門の壮絶な生き方とは違い、郊外ののんびりした日曜日の昼下がり風景でした。

ハッピーハンド

「浄誓寺」から再び幸手駅方面に向かう途中「幸手市役所」に立ち寄ります。
正門を入って左手にこれが…。
幸手市役所
なるほど、幸せを手にする街…、幸手、ですね、確かに。
程よい大きさの庁舎の横には、幸手市のシンボルモニュメント、ですね。
幸手市役所 幸手市役所モニュメント
微妙な手の平の傾きに意味があるのかも知れません。
その隣にあるのが「ハッピーハンド」です。
幸手市役所ハッピーハンド
幸手市は「幸せの手」と表記することから「ハッピーハンド(幸せの手)」を街づくりのキーワードとした事業が行われています。

ハッピーハンド事業
「幸手という素晴らしい地名を全国にアピールしよう」「幸手を誇れる街にしよう」と(社)幸手青年会議所が、その年の日本一幸せな男女の手形を取得し、活用していこうという試みで、1988年にスタートした事業であります。
(現地案内板より)

1988年の最初に選出されたのが鈴木大地(水泳)、小谷実可子(シンクロ) です。
ハッピーハンド:鈴木大地と小谷実可子
そのほかには、原田雅彦、高橋尚子などがあります。
原田雅彦 高橋尚子
特に最初の2名を初め幾人かの方は、実際に幸手市に来訪してくれたそうで、幸手らしいユニークな事業です。
最後に市役所をでる際に正門の横に「道路元標」があります。
道路元標

道路元標
幸手市東4-6-8
この道路元標は、中3丁目の県道久喜・幸手線と岩槻・幸手線の交差点の角のあったもので、幸手・岩槻線工事のとき、この場所に移転されました。
道路元標とは、市町村の道路の起点となるもので、幸手から何キロ、また、幸手まで何キロ、と距離を測定したものです。
この元標は、いつごろ建てられたかわかりませんが、大正8年(1919)に法律の定めにより、各市町村に1ヶ所ずつ建てられることになった、という記録が残っています。
幸手市教育委員会
(現地案内板より)

ハッピーハンドの幸手市で、少しはハッピーになれたかも知れません。

岸本家住宅主屋

「幸手市役所」から再び旧日光街道に戻って、文化財のカフェである「上庄かふぇ」に向かいます。
広い間口に白壁という江戸時代の商家そのものといえる佇まいを、上手く利用したカフェです。
岸本家住宅主屋 岸本家住宅主屋 岸本家住宅主屋
カフェそのものについては美味是好日【上庄かふぇ】を参照いただくとして、ここでは建物について少し調べてみました。
カフェの横の石柱のプレートを見れば一目瞭然の“国登録有形文化財”なのです。
岸本家住宅主屋
登録の経緯・内容を“県政ニュース”から引用します。

岸本家住宅主屋(幸手市)が国の登録有形文化財(建造物)に登録
国の文化審議会(会長:西原鈴子)は、平成21年9月25日(金)に開催された同審議会文化財分科会の審議議決を経て、本県に所在する「岸本家住宅主屋」(幸手市)の建造物1件を登録有形文化財(建造物)に登録するよう文部科学大臣に答申しました。
今回、国全体では新たに129件が登録され、累計は、7,747件となりました。なおこれにより、埼玉県における登録有形文化財の建造物は、126件になりました。

岸本家住宅主屋
(1)員数:1棟、(2)所在の場所:幸手市中2-6249-1他、(3)構造・形式:土蔵造2階建一部木造平屋建、瓦葺、建築面積129m2、(4)年代:江戸末期/昭和後期改修、(5)登録基準:「一 国土の歴史的景観に寄与しているもの」

●岸本家住宅主屋の主な特徴
1.岸本家住宅主屋のあらまし
岸本家住宅は、五街道の一つ日光街道第6番目の宿場である旧幸手宿に所在します。旧街道には西を向いて面しています。
同家は、かつて醤油醸造業を営んだ旧家です。この建物は、その歴史を物語るとともに、江戸時代の宿場町の面影を今に伝える歴史的景観上貴重な建造物です。また特徴ある外観により多くの市民に親しまれる存在となっています。
2.建物の特徴
建物の主体部は土蔵造りで、特に正面は建築当時の面影を残しています。特徴的なのは屋根の構造で、正面が切妻造であるのに対し背面が寄棟造となっている点です。寄棟造の屋根を桁行方向(ここでは正面向かって左右方向)で半分に切断したような形になります。
手前店舗部分は、寄棟造の屋根を梁間方向(ここでは主体部の場合と直角方向)に切断した形で、屋根が手前と左右の三方向に傾斜しています。正面には、さらに前庇が取り付けられています。
3.年代
詳しい建設年代を示す資料はありませんが、お宅に伝わる話や和釘の使用が認められることから、江戸時代末期に建設されたと推定されます。
(県政ニュースより)

ということで、やはり江戸時代の景観を留めているというところが大きなポイントでしょう。
しかしながらここに現存するのは主屋だけで、実際の醤油醸造業としての規模はかなり大きかったようです。
岸本家住宅主屋 《案内板写真より》

当岸本家は、旧日光街道幸手宿として栄えたこの街で醤油醸造と販売をおこない、パリ万博にて銅メダルを受賞いたしましたが、関東大震災にて、この主屋を遺し建物が倒壊し、以降廃業し現在に至っております。
会では、この建物を活用し、まちなか活性化の拠点作りにしたいと考え、国の登録有形文化財に登録し、平成22年度の「地域木造住宅市場活性化推進事業」に応募し採択されました。
協力:NPO日本民家再生協会・埼玉建築士会・埼玉建築士会杉戸支部
(現地案内板より)

このようにして大正時代までの名家が甦ったということなのです。
そして、この「上庄かふぇ」の前の通りが旧日光街道で、ここから北上すると左側に聖福寺、正面に正福寺に突き当たるのです。
そしてここから少し南下したところで日光御成道が合流していることから、ここから正福寺までの間が幸手宿として大変賑わった場所なのです。
天保14(1843)年の当時の幸手宿は南北に9町45間(約1Km)、人口3,937人、家数962軒、本陣1、脇本陣1、旅籠27軒と、両隣の杉戸宿や栗橋宿と比較すると約2倍以上の規模があったそうです。
日光街道沿いに栄えた町、幸手市の散策はこれで終了ですが、最後に少し興味深いレポートを掲載しておきます。

武蔵野銀行のぶぎんレポートNo.128「わが町の観光資源」では、四季を通じた観光づくりとして「権現堂堤」に注力をしているそうです。
春の「桜まつり」をはじめ、6~7月の「あじさいまつり」、9~10月の「曼珠沙華祭り」と3シーズンの花まつりが定着しつつあり、残る冬のシーズンを「水仙まつり」により四季を通じた花祭りを準備中だそうです(最もこの資料が2009年のものなので、既に始まっているかもしれませんが)。
そして更に地域の行事としての“祭り”や“ハッピーハンド事業”、更にアニメの“ラキスタ”等の新たな観光資源を生かす工夫もされているようです。
その一方で、歴史的建造物や文化資産も数多くありながら観光資源としては貢献していないのが文化財のようで、集客のための資源としてはインパクトは無く、現状は保護・保全だけに終っているとのことのようです。
幸手宿として栄えた町も現在では単なる古としての存在感しかないのもある意味では致し方ないのでしょうが、少しでも興味を持っていただく人が増えるように願ってやみません。

2012.04.17記

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