深大寺

神代植物公園を後にして、向ったのが「深大寺」です。 向ったといっても、文字通り“深大寺門”から歩いて5分もかからないところです。
バラの次は歴史に触れることにします。

深大寺

参道 山門 「深大寺」界隈の賑わう参道のお店を眺めながら歩くと、山号標と境内への石段の下に到着します。

山門 そして石段の上には茅葺の渋い山門が深大寺の歴史を物語っているかのように鎮座しています。

市重宝(建造物) 深大寺山門 指定 平成10年12月25日
桁行:3.55メートル、梁間:2.32メートル
建物は一間薬医門、切妻造、茅葺である。主柱、控柱ともに丸柱、上下粽付、下に礎盤を履き、薬医門特有の前寄り屋根を構成する。
この門は和様を主調とするが、禅宗様(唐様)を併用し、一部に大仏様(天竺様)も巧みに取り入れた意匠的にも優れた建物である。
深大寺は、慶応元年(1865)の大火によって建物の大半を失った。この山門はその時の災禍を免れた建物の一つであって、寺で保管する元禄8年(1695)の棟札によって建立年代が明らかである。
平成13年12月12日建之 調布市教育委員会
(現地案内板説明文より)

大火を逃れた山門なので、当然深大寺の中では一番古い建物となります。この元禄8年の棟札には1000人の寄進者、人足によって、この周辺の地形と山門の普請が行われたと記載されているそうです。
また、当時の深大寺の伽藍の建物はすべて茅葺だったようですが、現在は旧庫裏、茶室、そしてこの山門が残るのみとなり、歴史だけでなく建造物としても非常に貴重な建造物なのです。
また、柱、梁、組み物などの建材はケヤキで、ケヤキは昔、武蔵野では屋敷林として植えられ、建築用材として好んで使用されていた木材だったようです。

鐘楼 山門を抜けると右側に「鐘楼」があります。

もともとの鐘楼は文政12(1829)年に現在の大師堂の裏にあったそうですが、慶応元年の大火で焼失し、その後の明治3(1870)年に現在地に再建されたのだそうです。再建された当時は茅葺の屋根だったそうですが、昭和29(1954)年に銅板葺きに改修されたのです。
それでも江戸時代の建築方法で歴史を十分感じさせてくれるのですが、茅葺ならば更に武蔵野の風情が醸し出されたでしょう。
梵鐘には南北朝期の永和2(1376)年、山城守光作の銘が刻まれており、東京都内では阿弥陀寺の銅鍾、真福寺の銅鍾につぐ古鍾で昭和38(1963)年に重要文化財に指定されたそうです。
太平洋戦争中には約75000個の鐘が徴収されたそうですが、この梵鐘は昭和天皇が深大寺を訪れた時に「古いものは大切にするが良い」と言ったことから戦時中の徴収を免れたと言われているそうで、このエピソードだけでも貴重な梵鐘といえそうです。
後に知ったのですが、この旧梵鐘は現在は釈迦堂に安置されていて、この鐘楼にある梵鐘は平成13年に新造されたものなのだそうです。

本堂 参道の正面には立派な本堂が鎮座しています。

この本堂も江戸末期の大火で焼失したのですが、大正8年に現在の本堂が再建されたそうです。その割には綺麗です。
先の説明にもあった通り旧本堂は茅葺だったのですが、再建された本堂は瓦葺でした。そして平成15年の大屋根改修工事で銅板葺本瓦棒葺きとなったものだそうです。
“銅板葺本瓦棒葺き”は詳しくは判りませんが、古から使用された銅の耐久性を活かした現代の工法のようで、社寺の荘厳さを損なうことなく丈夫で耐久性に優れた屋根なのだそうです。
大正時代の再建ながら、梁間の彫刻などと相まって平成の屋根も満更でもありませんね。

本堂での参拝を済ませて、深大寺の由緒に触れてみます。

深大寺の由来<縁結びの寺>
深大寺という寺名は、水神の深沙大王に由来しており、奈良時代、天平5年(733)に満功上人が開山したといわれている。満功上人の父は福満という渡来人で、この地の豪族右近長者の美しい娘と恋に落ちたが、娘の両親の反対にあい二人の仲はさかれ、娘は湖の小島に隔離されてしまった。
そこで、福満はあの三蔵法師玄奘がインドに赴いた時、流沙河で救われたという故事を思い起こし、深沙大王に祈願したところ大きな霊亀が現れ、彼を娘がかくまわれている島へ連れて行ってくれた。この事を知って娘の両親も二人の仲を許し、そして産まれたのが満功上人である。上人は父福満の深沙大王を祀って欲しいという願いを承知して出家し、唐へわたって法相宗を学んで帰国し、故郷である武蔵野へ帰ってきて深大寺を建立した。時に天平5年(733)聖武天皇の御代である。ついで、父の誓いを果たすべく湖の辺りに深沙大王を祀ったという。これが、『深大寺縁起』の伝えるところである。この恋物語により、深大寺は縁結びの寺としても有名である。 (参考『深大寺物語』)

その後 深大寺が開かれて100年以上の後、清和天皇の御代、武蔵国の国司蔵宗の乱が起こった。この乱を鎮めるため、朝廷から天台宗の高僧恵亮和尚が派遣された。和尚はこの深大寺を道場とし、修法を行い、その降伏祈願により乱は治まった。その功により近隣七ヶ村を寺領として、深大寺に賜り天台宗に改められた。江戸時代家康から50石を寄進され、幕末まで継承された。
現在は、別格本山として多くの末寺を擁している。(参考『深大寺』)
(調布市観光協会「深大寺散策マップ」パンフレットより)

勿論、由緒ははじめて知ったのですが、深大寺が縁結びの寺であることは意外でした。現代は店舗でもなんでも女性が気に入らなければ流行らない時代ですから、あたかも時代にのっていると言えるのでしょう。
この「深大寺」の名称はこの説明にもある通り、元々深沙大王の寺「深沙大王寺」という名で、それが縮まり「深大寺」という名になったのですが、正式には「天台宗別格本山浮岳山昌楽院深大寺」という実に長い名称が付いているのです。

wikiによると、この「別格本山」というのは寺の格式の1つなのだそうです。
天台宗(山門派)の場合、トップは“総本山”の比叡山延暦寺(滋賀県大津市)です。
それに次ぐ格式の寺院が“門跡寺院”で、これは皇族・貴族が住職を務める特定の寺院のことで、滋賀院(大津市)、妙法院(京都市東山区)、魚山三千院(京都市左京区)、青蓮院(京都市東山区)、曼殊院(京都市左京区)、毘沙門堂(京都市山科区)の6院だそうです。
“門跡寺院”の次が“大本山”で、関山中尊寺(岩手県西磐井郡平泉町)、日光山輪王寺(栃木県日光市)、東叡山寛永寺(東京都台東区)、定額山善光寺大勧進(長野県長野市)の4寺院があるようです。
そして、その次が“別格本山”で、現在は毛越寺(岩手県西磐井郡平泉町)、瑞国海岸山観音寺(宮城県気仙沼市)、正覚山蓮前院安楽寺(茨城県常総市)、狭山山不動寺(埼玉県所沢市)、浮岳山昌楽院深大寺(東京都調布市)、北向山常楽寺(長野県上田市)、宝積山光前寺(長野県駒ヶ根市)、龍谷山水間寺(大阪府貝塚市)、書写山圓教寺(兵庫県姫路市)、六郷満山両子寺(大分県国東市)となるようです。
何を根拠にして“別格本山”となったのかは不明ですが、関東では3寺しかありませんし、奈良時代の開山と言う由緒からも古刹と言わざるを得ないでしょう。

五大尊池 本堂の左となりには「五大尊池」なる放生の池があります。

いわゆる殺生をしてはいけない池ということで、釣りなんて神をも恐れぬ仕業です。
この五大尊とは宗派によって組み合わせが違うそうです、ここ深大寺では、不動明王(中央の明王の代表仏)、隆三世明王(東に位置する煩悩を降伏する明王)、軍荼利明王(南に位置する障害を取り除く明王)、大威徳明王(西に位置する戦勝祈願の本尊)、金剛夜叉明王(北に位置する頭を打ち砕く明王)だそうで、何かものすごく強烈なチームの雰囲気です。

なんじゃもんじゃの木 五大尊池の手前には、もう既に一般的にも有名な「なんじゃもんじゃ」の木があります。

和名:ヒトツバタゴ【キンモクセイ科】
英語名:snow flower(スノーフラワー)
通称:ナンジャモンジャ
「なんじゃもんじゃ」とは、諸説ありますが明治の終わり頃「名前もわからない不思議な木」「あれはなんじゃ?」などと本当の名前が分からないということでそう呼ばれるようになったと言われています。
限られた地域(岐阜県東南部及び隣接する愛知県の一部)でしか自生しないと言われる珍しい貴重な植物で、4月下旬から5月上旬にかけて雪をかぶったような白い花を咲かせ、その姿は実に見事なものがあります。
深大寺では花が満開になるころ東京消防庁音楽隊をはじめ様々なコンサートが開催されます。
(現地案内板説明文より)

ということで、今更語るべき言葉もありませんので先に進みます。

高濱虚子の胸像と句碑 隣にあるのは高濱虚子の胸像と句碑です。

「遠山に 日の当りたる 枯野かな」と詠まれています。これは明治33年11月25日 虚子庵例会での作品で当時虚子26歳の作品だそうです。

ここからは「大師堂」を参詣します。
大師堂 大師堂 かなり重厚感のある堂宇です。

文字通り元三大師像を安置している「大師堂」で、江戸時代の大師堂は幕末の大火で類焼したのですが、被災直後の慶応3(1867)年には復興されたそうです。
本堂を差し置いていち早く再建されたのは、何よりも当時の厄除元三大師が多くの信者を集めていたということを物語っていたことを表し、これにより「大師堂」が深大寺の中心的役割を担っていたことを窺うことが出来るのです。
更に特筆すべきことは、明治時代が西暦1868年1月25日から始まっていますので、厳密に言えばその前年の1867年に再建されたこの大師堂は江戸時代の建造物だという、「それがどうした?」的な歴史を持っているのです。再建が早かったことから、当時の屋根は茅葺で昭和40年代まで茅葺が続いていたようです。
ここに安置されている“元三大師像”は秘仏で25年に一度ご開帳があるそうです。
直近では2009年にご開帳があったので、次回は2034年になるそうです。
見られるのでしょうかね・・・。

釈迦堂 「大師堂」の参拝を終えて、最後に向ったのが「釈迦堂」です。

この「釈迦堂」は文字通り重要文化財の「銅造釈迦如来倚像」を安置する堂宇として昭和51年に新築されたもので、火災、湿気などを防ぐために高床式の鉄筋コンクリートで造られています。

釈迦堂 その「銅造釈迦如来倚像」は残念ながら現在、“手塚治虫のブッダ展”に7月まで展示されているので、ここの安置されているのはレプリカだそうです。

銅造釈迦如来倚像 「銅造釈迦如来倚像」は、台座に腰をかけ、全高83.9cm、座高59.3cmある大型の金銅仏です。

この像は元三大師堂の檀下にあったものが、明治42(1909)年に発見されて注目を浴びるようになったそうです。
深大寺の天保12(1841)年の記録にこの銅仏の記載があるそうですが、それ以前の謂れは不明のようです。しかし、専門家の調査により7世紀末の制作と考えられ、その時代が白鳳時代であることから白鳳仏とも呼ばれているのです。
そして大正時代に当時の国宝(現在では重要文化財)の指定となり、それに相応しい厨子をということで制作されたものが現在の厨子なのだそうです。

旧梵鐘 そして前述したとおり、この時には気がつかなかった鐘楼の重文である“旧梵鐘”が僅かながら写っていました。

現在は“ひび”が入っているためにこちらに保存されているのだそうです。

更にこの「釈迦堂」にはもう一つ文化財が安置されています。

市指定有形文化財(彫刻) 深大寺 毘沙門天立像
所在:調布市深大寺元町5-15-1 指定:平成7年2月23日
本像は、明治31年の「深大寺明細帳」によれば、寺中の多聞院にあったが、明治初年同院廃寺ののち大師堂に安置されたとある。
現在は釈迦堂にあり、市内七福神の一つとして尊崇されている。材質・構造は木造・一木造、玉眼、仕上は素地、像高は42.3cm、面部の割剥及び玉眼、両肩先、両足半ばより先、光背、邪鬼、兜、持物などは後補。
毘沙門天は、インド古代神話中の護法神の一つで、四天王ないしは十二天のうち、北方守護神であるが、福徳富貴の神としても尊崇され、後世七福神の一つとなる。仏法守護の役割を表わすため、武装忿怒形をとることが多い。本寺にゆかりの深い深沙大王は、毘沙門天の化身である。
本像は、素朴な造りの小像であるが、平安時代後期の作風がみられる。市内では数少ない平安彫刻として重要なものである。
平成7年3月30日 調布市教育委員会
(現地案内板説明文より)

この毘沙門天立像も全く気付くことなく深大寺を後にしてしまいました。
昼食を・・・、という焦りが境内散策を駆け足にしてしまいましたが、それでも古刹・深大寺の歴史はしっかり頭に残した気がします。

深大寺そば

「深大寺」の散策を終えるとすでにPM1:00近くなので、昼食にすることにしました。
折角「深大寺」に来ながら、やはり名物の「深大寺そば」を食べなければ片手落ちとばかりに蕎麦屋を訪ねました。
既に「深大寺」は観光地化しているので観光客も多く、当然ながら何処の蕎麦屋も混雑しています。

一休庵 その中で見つけたのが深大寺山門に程近い「深大寺そば 一休庵」でした。

水車のある建物が目を引きつけますが、その様子は美味是好日の【深大寺そば 一休庵】をご参照いただくとして、ここではその美味是好日ではあまり触れなかった江戸名所図会について掘り下げてみます。

一休庵の店内の壁に額に納められた2枚の「江戸名所図会」が掲出されていました。
江戸名所図会「深大寺」 江戸名所図会「深大寺」 1枚はこれで、これは「江戸名所図会」の中の「深大寺」で、江戸名所図会の元絵はこちらです。

山門の手前には湧水や池が多くあり、湧水の地である事が窺えます。
本文には「五大尊池」についての記載があります。

五大尊石
大師堂の北の山際、清泉のうちにあり。この水、早魅にも滅ずることなしといへり。土人、早魅の年はこのところに来り、この水を汲み干さんとす。果たして膏雨ありとなり。
(江戸名所図会より)

いわゆる干ばつの時も水が無くならないという言い伝えから、干ばつの時に人々がこの水を汲み干上がりそうになると豪雨が起こった、といったところでしょう。
また、ここには「要石」なるものがあったようです。

要石
同じ泉水の中島、稲荷の宮の傍らにあり。昔この山崖など崩るることしばしばなりしかば、その頃の寺主祈念してこの石を建てて、要石と号くといふ。
(江戸名所図会より)

山門から続く池の間の参道には門前町ができています。それこそ蕎麦屋や茶屋が並んでいたのでしょうか。
山門をくぐると正面に本堂があり、本堂に対して90度の角度で大師堂があります。大師堂についてもこのような記載があります。

元三大師堂
本堂の前、左に傍ひてあり。寺記にいふ、「応和4年〔964〕慈恵大師〔良源、912から85〕叡山においてみづから彫刻なしたまひし霊像なりしを、慈忍和尚と恵心僧都と心をひとつにし、武蔵国深大寺は代々の帝勅願の地にして、もつとも霊跡たり。永くこの影像を遷し奉りて関東の群生を化益せんとて、正暦2年〔991〕の春ここに安置なす」。
しかりしより霊応いちじるく、月ごとの3日・18日、ことに正・5・9月の18日には別業護摩供を修行あるがゆゑに、近郷の人群参せり。この日門前に市を立てる。
(江戸名所図会より)

霊験あらたかという事で、庶民の信仰が篤く、市が立つほど賑わっていたことが窺われます。まさに文字通りの江戸の名所です。
そして本堂から左斜め上の小高い山の上にあるのが鐘楼です。 丁度この辺りの山が現在の神代植物公園でしょうかね。
勿論、現在は随分と変ってしまっているのですが、何となく名残を見出せるところが、未だに武蔵野の風情を残していると言われる深大寺周辺の所以かもしれません。

江戸名所図会「深大寺蕎麦」 江戸名所図会「深大寺蕎麦」 う1枚の額がこちらの「深大寺蕎麦」で、江戸名所図会の元絵はこちらです。

深大寺の住職が、客に蕎麦を振舞っているのでしょうか。寺の小僧が次の蕎麦を配膳しています。
ススキが見えるので秋、それも晩秋でしょうか。晩秋の季節はなんと言っても新蕎麦の香りのよい季節で、眺めの良い場所で眺望と味と会話を楽しんでいるのかも知れません。
この情景はそもそも深大寺周辺の土地が米の生産に向かなかったため、小作人は蕎麦をつくり、米の代わりに“そば粉”を寺に納め、寺ではこの“そば粉”で蕎麦を打って来客をもてなしたと言う「深大寺蕎麦」の歴史を表しているのです。
江戸名所図会にもある位ですから、江戸時代から“深大寺蕎麦”は有名だったのでしょう。

更に本文にはこのように書かれています。

深大寺蕎麦
当寺の名産とす。これを産する地、裏門の前、少し高き畑にして、わづかに八反一畝ほどのよし、都下に称して佳品とす。しかれども真とするものはなはだ少なし。いま近隣の村里より産するもの、おしなべてこの名を冠らしむるといえども佳ならず。
(江戸名所図会より)

「深大寺蕎麦」は名産品で、大変美味しい蕎麦で有名です。しかしながら、その蕎麦は深大寺の裏門周辺の僅か約8000平方メートルくらいの狭い蕎麦畑で収穫されたものだけで、それ以外の近隣の村でつくられた蕎麦は、深大寺という名前がついた蕎麦でも美味しくないと書かれているのです。
いつの時代でも詐欺まがいの商売はなくならないもののようです。ただ、この時代では商標登録や偽装表示といったリーガルが無かったことから、まあ、皆が儲かればいいじゃないか、といった按配かも知れませんが…。

このように江戸でも有名なブランドとなった「深大寺蕎麦」ですが、有名になった理由については諸説あるようです。一般的には元禄年間、深大寺の総本山であった上野寛永寺の公弁法親王が訪問時に深大寺境内で作った蕎麦を献上したところ賞賛され、その後、公弁法親王によって将軍家や全国の諸大名に広まっていったというのが通説のようです。
この美味しさの秘密は、実の色が白く味も甘みで、一升の実からとれるそば粉の量が多いという品質の上、豊富な深大寺周辺の湧水を使用したからと考えられているようです。
このような評判を博した「深大寺蕎麦」ですが、当初は極一部の上層階級だけのもので、江戸の一般庶民には程遠いものでした。しかし江戸時代後期の文化文政年間に、江戸文化人の一人である太田蜀山人が、幕府の役人として多摩川を巡視した際に、深大寺に宿泊して深大寺蕎麦を広く世に宣伝してからは、江戸の人士とりわけ武蔵野を散策する詩文・書画などの道にたずさわる文人墨客に好まれ、一気に庶民にも広まったのだそうです。

深大寺内で作られた「深大寺蕎麦」が全国に広まり、その後現代にも脈々として継承されているわけですが、現在の深大寺周辺にある多くの蕎麦屋のそば粉は深大寺産では無いことから、あくまでブランドとしての「深大寺蕎麦」が一人歩きをしているのです。
《一休庵の天ざる蕎麦》

「名物に美味いもの無し」とはよく言われますが、「深大寺蕎麦」はずば抜けてが美味しいわけではありませんが、そこそこの美味しさと、江戸の香りをいただくというところが人気の秘密なのかもしれません。

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