柏の城遺構

このあたりはもともと田面郡司藤原長勝の居城、柏城であったらしいということは、先の案内板にもありました。そしてこの地には清滝山薬王寺長勝院があったのですが、昭和61年に解体されたということでした。
となるとこの辺りにはその遺構となるようなものがあるのかも知れません。
「ハタザクラ」鑑賞を終えて周辺を散策します。

柏の城

「ハタザクラ」のあるこの地には「ハタザクラ」に他にも巨木などが多くあるようです。
長らく長勝院があったことから限りなく成長できた所以でしょう。
長勝院址の巨木
更にこの一角に何やら石像などがたくさん置かれており、近づいてみると案内板が設置されています。

柏の城西の曲輪跡
柏の城は、関東管領山内上杉家の重臣大石氏一族の戦国初期からの居館といわれていますがその築城年代などは一切不明です。
江戸時代の享保12年(1727)から同14年にかけて舘村(現在の志木市柏町・幸町・館地区付近)の名主宮ヶ原仲右衛門仲恒により執筆された「舘村旧記」によると、志木第三小学校地に本城が、その東側に二の曲輪、市道をはさんだ南側に三の曲輪が、そしてこのあたりには西の曲輪があったとされています。
このあたりはかつて「亭の台」ともよばれ、在原業平の座所として設けられた館の跡であるという伝説も伝わっており、古来よりこの地域を統括するような有力な人物と関係するなんらかの施設があったらしいことが推測できます。
また、館村八景の1つに「亭の下の夕照」とあるように、この付近は、秩父連山から富士山まで眺望できる景勝の地としても有名な所でした。
平成6年2月25日 志木市教育委員会』(現地案内板説明文より)

「亭の台」というなんとも風情あふれる場所だったようですが、先の皐月前との悲恋話もそうですが、妙に在原業平が簡単に出没している気がします。
在原業平とは説明するまでもない有名人で、平安時代初期の貴族であり、歌人、六歌仙とか三十六歌仙の一人です。
その業平が関東まで来るということは全くない話ではないでしょうが、どうも根拠(といっても殆どこの頃のことは根拠のあるほうが貴重)が希薄のような気がします。
そこで業平と関東地方の関連を調べてみると、意外と地名などに残っているようです。
まず代表的なのが東京都墨田区にあるそのものズバリの業平という地名。業平1丁目から5丁目まであり、その隣接地が押上一丁目で現在東京スカイツリーを建設している場所といえば全国的に分りやすいかもしれません。そしてその近くの隅田川にかかる吾妻橋の別称が業平橋といわれています。
この由来は在原業平の歌〝名にしおはばいざ言問はむ都鳥我がおもふ人はありやなしやと〟が隅田川と吾妻橋付近を詠んでいることから橋の名と地域名を「業平」と呼ぶ由来となっているとのことで、業平がここを訪れたというわけではないようです。
一方他の地域を見ると僅かに埼玉県春日部市にも業平橋があるようですが、これの由来については分りませんでした。
このように在原業平がこの地を訪れたというのは当然ながら伝承としても、悲恋物語まで作る創作意欲に頭が下がる思いですが、これも古での地域活性化だったのでしょうかね。

それにしてもこのおびただしい石仏はどうでしょう。やはり長勝院の名残を留めているのでしょうか。
長勝院址の石仏
その奥には石碑があり湯殿山と刻まれているようですが、いずれにしても鎌倉時代には建立されていた歴史ある寺院だったのでしょう。
湯殿山石碑
その歴史をずっと見つめてきたのが「ハタザクラ」とこれらの石仏なのかもしれません。
ちょっとロマン溢れ過ぎかもしれませんが…。

ここから駐車場に戻るため来た川沿いではなく、住宅街(学校の周辺)を抜けて歩いていきます。
志木第三小学校沿いに歩いていくと、小学校の正門横に案内板があります。
史跡 柏の城跡

『史跡 柏の城跡
この辺一帯を遺跡とする柏の城は、木曽義仲の子孫で武蔵屈指の豪族大石氏が室町中期に造った居館である。そして京都聖護院の門跡道興准后が文明18年(1486)から翌年にかけて関東各地を巡歴した際の紀行歌文集「回国雑記」に見える「大石信濃守といへる武士の館」とされている。ここで言う大石信濃守とは大石顕重のことで、本城は現八王子市の高月城であった。
顕重以後の城主は定かではないが、大永年中(1521~1525)に修築が行なわれ、本丸(運動場のほぼ中央)、西の丸(長勝院境域)、二の丸(わき道に沿った校地の一角)、三の丸(前の市道を背にする一帯の宅地)を備えるに至ったと伝えられる。
その後、大石氏は北条氏康に服属したが、天正のころは、大石越後守直久が城主であった。直久は顕重の曽孫大石定仲の長男で、天正9年(1581)から北条氏の指令に基づき、駿河国獅子浜城の城代となっていた。柏の城が豊臣勢に攻められて落城したのは、武蔵国のほかの諸城と同じ時期の天正18年(1590)。徳川家康が江戸へ入府すると、家臣福山月斎が新しい地頭として、この城地に居住した。
昭和54年10月1日 志木市教育委員会』(現地案内板説明文より)

この学校の校庭が古の本丸だったとは…。
史跡 柏の城跡
この大石氏の本城は八王子とあるのですが、支城としてこの柏の城以外に所沢市の滝の城もあったようで、勢力もいかばかりかと思われる豪族だったようです。
柏の城を調べてみたら城の遺構をCGで作成しているサイトがありました。一目瞭然でしょう、このサイトを見ると城の遺構が理解できます。

参考:【武州の城】http://hya34.sakura.ne.jp/iruma/kasiwazyou/kasiwazyou.html

個人的には意外なところに意外な歴史があるものだと、一つ賢くなった気がします。

城山貝塚

更に志木第三小学校沿いを歩いていくと、第三小学校から志木中学校の境あたりに「城山貝塚」と書かれた標柱と案内板がありました。
城山貝塚

城山貝塚
この貝塚は、柳瀬川低地を臨む台地の突端に位置し、標高約10メートル、柳瀬川低地との比高差は約4メートルあります。周辺からは、縄文時代前期(約6000年前)の諸磯式期の住居跡が発見されており、この貝塚も、同時代のものと推定されます。
縄文時代前期頃は、気候が大変温暖な時代で、現在に比べ平均気温が二度程高く、これにより極地の氷がとけ海水面が平均3メートル程上昇していました。
そのため海は内陸深くに侵入しており、今よりもずっと近くにせまっていたようです。
貝塚は、縄文人たちが貝殻などを捨てたいわばゴミ捨て場のようなものですが、当時の食文化等を知ることができる大変貴重な資料でもあります。
城山貝塚から採集された自然遺物は今のところヤマトシジミ・マガキ・ハマグリなどの合わせて●1種の貝類が確認されています。なお「城山」とは、この辺一帯の字名です。
平成2年3月30日 志木市教育委員会』(現地案内板説明文より)

別な意味で興味深い説明です。現在、温暖化が叫ばれている地球にとっては、まさにこの縄文期に戻りつつあることを意味しているのでしょうか。
平均気温が2度上がると海水が約3メートル上昇するのですから水没地域もかなりあるでしょう。現実問題として100年後の地球の平均気温は1.8度~4度上がるのではないかと予測されています。
1.8度でも約3メートル、4度上がれば6メートルとなるわけで、海抜0メートル地帯では殆どの家屋は水没または浸水ということになるのです。実に憂慮すべき問題ですが、個人的には当然存在しているわけもなく…、って人事でよいのか! とお叱りも承知の上で残り少ない人生を謳歌したほうが…、などというジレンマと戦い、日夜何事もなかったように平和に寝ているのです。
妙に考えされられる案内板になってしまいましたが、要するに地球温暖化によってハマグリがいっぱい取れる…、といことではなく子孫に対して我々がなすことは何かを一人ひとりが考える必要があるということを言っている、ということを理解しておきましょう。

この貝塚は本当に住宅街の真ん中にあって、貝塚と隣の住宅との境界の塀がなんとも言われぬアーティスティックなつくりをしています。
城山貝塚
根本的に隣の住宅建築が目を見張る様式なので、古の貝塚との対比がなんともインパクトのある風景を作っており、街としての景観もある意味面白みのあるものだと感じます。そんなところも面白さの一つです。
最終的に貝塚のことには一切触れずにこの場を後にしましたが、よかったでしょうかね。

ここからは志木中学校沿いに駐車場に進みますが、この志木中学校の正門の横にあるサクラも「ハタザクラ」の挿し木のサクラだそうです。
ハタザクラ
老木とは比べ物にはなりませんが、元気一杯咲き誇っているようで、ここでもまた市民の目を楽しませてくれているのでしょう。

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