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寶幢寺

一旦駐車場に戻ってから次は「寶幢寺」に向かいます。「寶幢寺」は志木市でも名刹の一つとして歴史ある寺院のようです。
車で向かうと5.6分の場所です。どんな名刹なのか楽しみです。

巨木とカッパ

駐車場のすぐ前には長屋門があります。
寶幢寺長屋門
かなり綺麗な門ですので、かなり最近建てられたものではないでしょうか。
ここから入ってもよいのですが、一応山門に廻って正面から入ります。
寶幢寺山門
寺号標に山門、そして趣のある松の木がなんとも名刹らしい優雅で落ち着いた雰囲気を醸し出しています。

寶幢寺
正式には地王山地蔵院寶幢寺と称し、江戸期には醍醐三宝院を本山としていましたが、明治27年から京都智積院を本山とする新義真言宗智山派となりました。
その創建年代については、建武元年(1334)4月に祐円上人が開山したという説や、現在の寺の門外の西方にあった墓場の中の地蔵堂を基に天正年中(1573~92)に新寺として開山したという説、もともと現在の敷島神社付近にあったものが、柏の城が落城した後、中世末期から近世初頭頃、柏の城の城主大石信濃守の子息大石四郎の屋敷跡といわれる現在の地へ移転してきたという説などあり、未だ定説はありません。しかし、いすれの説をとるにせよ柏の城落城後に現在の地に建立または移転されたのではないかと推測されています。
「新編武蔵国風土記稿」によれば、三代将軍家光が鷹狩りの際休憩したのが機縁となって、慶安元年(1648)に御朱印地十石を賜り、また、境内が狭いと言って門前に一町歩加増してくれたとの記述がみえます。
更に「此辺ニテ大寺ニテ、末寺モ三ヶアリ」とあり、当時よりこの辺でも大きな寺院であったということがわかります。
なお、この寺には「お地蔵さんとカッパ」という伝説や、「ほっぺたの黒いお地蔵さん」という伝説などが伝わっています。
平成7年10月20日 志木市教育委員会』(現地案内板説明文より)

創建ははっきりしていないようですが、いずれにしても名刹、古刹というべき寺院であることには変らないようです。
それはともかくここに記載されている伝説が志木市のオフィシャルサイトに掲載されているので引用します。

お地蔵さんとカッパ
ある時、宝幢寺のお地蔵さんは、風雨の中からかすかに聞えてくる馬の鳴声を頼りに柳瀬川のふちにに来てみると、一頭の馬が目前の流れにおびえたように四つ脚をふんばって鳴いていた。お地蔵さんは、馬がてっきり泥にはまったものと思って近寄ると、葦の茂みに子どもの4・5才位のカッパがおり、馬を川に引き込もうとしていた。お地蔵さまから厳しく諫められた末に、改心することを約束してカッパは許されたのであるが、その後、宝幢寺の台所の流し台にはだれが届けるのか時々、川からとりたての鯉や鮒が置いてあった。寺の人達は不思議なことだと話していたが、そのうちだれいうともなく、改心したカッパがお礼に届けるのだというようになった。(柏町1丁目付近の伝説)』(志木市オフィシャルサイトより)

ツルの恩返しならぬカッパの恩返しですか。なかなかユニークな伝説です。

ほっぺたの黒いお地蔵さん
宮戸村(現在、朝霞市)にきれいなお嫁さんが嫁いで来たと、噂に聞いた宝幢寺のお地蔵さんは、ある日、お嫁さんを見に出かけた。家の中ではそのお嫁さんが、お歯黒をぬっていたので、いたずら好きのお地蔵さんは、家にあがりこんでお嫁さんをちょっとこづいて、からかってみた。びっくりしたお嫁さんは、とっさに握っていた房楊子で相手の手をはらったが、それが丁度お地蔵さんのほっぺに当たった。痛む頬を押えながら寺に逃げ帰ったお地蔵さんの右頬には、その時のお歯黒の墨のあとが残ってしまい、この日以来お地蔵さんは恥かしさのあまり、厨子の中に閉じこもって人々の前にお姿を見せなくなったという。(柏町1丁目付近の伝説)』(志木市オフィシャルサイトより)

いづれもお地蔵さんの絡んだ伝説ですが、内容はともかくとして、そもそも”伝説とは何ぞや”という伝説の定義を理解しておきます。
伝説というものは大きな括りでは口承文芸といわれていて、一般的に口承文芸とは民話、諺、謎、民謡、語り物などに分類されます。 そしてその民話の中には「昔話」「伝説」「世間話」という3つの形態があるそうです。
このうち「昔話」には発端句(「むかし」を含むものが多い)と結句(「めでたしめでたし」など)に代表される決まり文句があり、固有名詞を示さず、描写も最小限度にとどめ、話の信憑性に関する責任を回避した形で語られるものです。つまり時代や場所をはっきり示さず、登場人物の名前も「爺」「婆」や、出生・身体の特徴をもとにした普通名詞的で曖昧な話しとしたものです。
一方、「伝説」は同じ昔の話であっても、一定の土地の地名や年代など、その所在や時代背景が具体的に示され、登場人物も歴史上の有名な人物やその土地の何と言う人物など、好んで詳細に示そうとするところが、定義において昔話との大きな相違点とされています。
したがって「昔話」はフィクションとして語られ、「伝説」は伝記風の態度と要素があるものです。
そして最後の「世間話」は体験談や実話として語られる民話という定義になっているようです。これをまとめると以下のようになります。
「昔話」:≪語られる人物≫不特定、≪語られる内容≫事実かどうかわからない(おそらく事実ではない)
「伝説」:≪語られる人物≫特定、≪語られる内容≫少しは事実かもしれない(少しは信じてほしい)
「世間話」:≪語られる人物≫特定、≪語られる内容≫事実である(信じてほしい)
ということになり、カッパ伝説はカッパやお地蔵さんの生存はともかくとして、似たような事象は在ったのですよ、的な意味で話しを面白く、興味を持ってもらうために主人公をカッパやお地蔵さんにしたということでしょう。

興味深い縁起の隣には更に案内板があります。「寶幢寺 古木あんない」という案内板です。
特に説明がある訳ではないのですが、境内には古木が多いようで、それらの種と大きさなどが番付として記載されています。

1.イチョウ:東横綱、5.67m(太さ)、29.0m(高さ)
2.ケヤキ:東大関、4.82m、37.5m
3.ケヤキ:東関脇、3.88m、27.5m
4.ケヤキ:東小結、3.73m、21.1m
5.ケヤキ:東前頭5枚目、3.41m、24.5m
6.タラヨウ:東前頭7枚目、3.30m、15.0m
7.ヒマラヤスギ:東前頭8枚目、3.28m、30.0m
8.ケヤキ:東前頭12枚目、3.17m、27.0m
9.ムクノキ:東前頭14枚目、3.16m、20.5m
10.ムクロジ:東前頭19枚目、2.92m、20.5m
11.コウヤマキ:古木、2.91m、20.0m
12.ボダイジュ:古木、1.67m、14.5m
13.チョウショウインハタザクラ:市天然記念物の接ぎ木(平成10年3月移植)
*巨木番付=志木地区を「東」、宗岡地区を「西」としています。

あくまで志木地区ですが、横綱から三役まで「寶幢寺」の境内に存在しているのですから、「寶幢寺」の歴史がそれなりに窺えるということです。
さらにここにも「ハタザクラ」の接ぎ木があるのも、もっともなことでしょうね。後で見るのが楽しみです。
といっている間に、山門の後ろの巨木がすでに大関のケヤキと小結のケヤキなのです。手前の松と比べるとその大きさもひとしおです。
大関のケヤキと小結のケヤキ
早速、山門を抜けて境内に入ります。

参道を進むと右側に鐘楼があります。
鐘楼
そしてその鐘楼の後ろにある巨木が堂々東の横綱・イチョウです。
イチョウに下げられたプレートには「志木市指定保存樹木」とあります。
東の横綱・イチョウ
その大きさもさることながら、垂れ下がった枝がなんとも不気味さを現しています。巨木・老木ゆえの造形美といったところでしょうか。
しばし巨木を見てから本堂に向かいますが、蓮池に浮かんだ(実際に浮かんでいるわけではない)灯籠が落ち着きを与えています。
灯籠
それにしても先ほどから境内を歩いて感じるのですが、実に綺麗に整備、清掃されている境内です。 通常これだけ多くの樹木に囲まれていると春とは言えど落ち葉などがかなり落ちているものですが、殆ど見当たりませんし、勿論ゴミ等皆無です。常日頃きちんと清掃されている証なのでしょう。

本堂に向かって参拝を済ませます。比較的新しい本堂のようですが、それなりの重厚感は感じられます。
本堂
それにしても塵一つなし、とはこのことを言うのでしょうか、ここも当然ながら実に綺麗に掃除されています。
ちょうど本堂の右後ろに見えるのが、11の古木コウヤマキです。
古木コウヤマキ
さすがにいたるところに巨木・古木ありの境内です。
本堂から離れて左側の墓地に向かうとそこに「ハタザクラ」があります。
ハタザクラ
ここの「ハタザクラ」は満開前なのか、それとも葉桜になりかけているのか分りませんが、ちょっとさびしい限りです。
特にキャプションがないのでいつ頃挿し木されたものかは分りませんが「ハタザクラ」には相応しい由緒ある場所でしょう。

再び本堂方面に戻ります。
本堂の右手前にある巨木が7.のヒマラヤスギで、志木市指定保存樹木です。
ヒマラヤスギ
まっすぐ伸びた幹に形のよい枝、葉である意味では境内とは似合わない光景とも感じます。
あまりに一直線すぎて侘、寂が感じられないのですね。

その右手方向は日本庭園のような作りになっていて、「シダレザクラ」などが咲いており華麗な彩を添えています。
日本庭園日本庭園日本庭園
やはり春なんですね。

そこから長屋門方向へ進むと「文殊堂」があり、その前に「カッパ」の石像が置かれています。
文殊堂

奉納
この河童の像は、文化6年(1809年に)今から約200年前に刊行されました「寓意草」に最初に紹介され、さらに大正6年には日本民族学の創始者柳田国男氏の「山島民譚集」の中にもその概略が紹介されて全国的に有名になった「中野村宝幢寺」の伝説「河童と和尚」のお話しを永く後世に伝えるために中野の有志が浄財を出し合い河童像を製作して文殊堂前に設立し、文殊菩薩の使者としてこの伝説に基づき、子供の健康と学業に知恵を授け賜る事を願い、参詣者皆様の家内安全・交通安全及びもろもろの願いを賜る事を祈り、伝説の河童の像によって永遠の生命と「願」を保つ事を念願するものである。
平成4年7月17日 中野大門会会員一同 会長 三枝春雄(以下省略)』(現地案内板説明文より)

先の伝説とはまた違う伝説が現れましたが、この「河童と和尚」とは次のような伝説でした。

伝説・和尚に助けられた河童
むかし、柳瀬川にすむ河童が馬や人間をおそうことがよくあった。あるとき、15、6歳になる寺の小僧が馬を水あびさせようと、馬にまたがって川の中に乗り入れた。ところが、馬が急におどろいて川から飛び出したため、小僧は川の近くの田んぼの中にふり落とされてしまった。小僧は田んぼからはい上がると、馬のあとを追いかけて、寺の馬小屋に着くと、馬が異常に興奮しており、不振に思って馬のまわりを見ると、10歳くらいの子どものような格好をしたものがいた。
小僧の手にからんできたのを隅の方に連れて行って捕まえてみると、それは河童だった。
馬にかなり踏まれて弱っている河童を馬小屋の外に引きずり出したところ、近所の人たちも集まってきて、「柳瀬川で悪さをしているのはこいつだろう」「焼き殺せ」といって、大勢で積み上げた薪に火をつけはじめた。河童は自分が焼き殺されることを知って涙を流し、手をあわせてまわりの人たちに許しを乞うた。
騒ぎを聞きつけて庫裡から出てきた寺の和尚は、このようすを見て河童をふびんに思い、人々に命乞いをしたり、弟子にしてやろうと衣を河童の体にかけてやった。
そして、「今後はぜったいに人や馬に危害を加えてはいけないよ」というと、河童は今までの自分の行いを悔い、地面にひれ伏して泣いた。
これを見た人々は河童をかわいそうに思い、川のほとりまで連れて行って川にはなしてやると、河童は泣きながら水の中に帰っていった。
その翌朝、命を助けてもらったお礼のつもりか、和尚の寝ているまくらもとに、鮒が2匹置いてあった。
また、この事件があってから、柳瀬川で人や馬が行方不明になることがなくなった。』(志木市教育委員会「しきふるさと史話」より)

よくよく読めばこれは前述した「お地蔵さんとカッパ」と同じではないですか。
和尚がお地蔵さんに変っただけですが、何故変える必要が在ったのでしょうか。いずれにしても宝幢寺のことであるのは自明なのですから、教育委員会としては政教分離からこのような改変をおこなったのでしょうかね…。
で、河童の持っているものが魚、所謂「フナ」なんでしょう、きっと。
和尚とカッパ像

それにしても志木市には伝説が多いようで、「長勝院」や「宝幢寺」のある柏地区だけでも、先の2つのほかに、「舘氷川神社と椋の木」「汗かき不動尊」「軍伝田」「猫の怪」「首無しと首弁天」「長勝院のチョッピラリン」「在原業平と皐月の前」「戸尻の由来」「おえん淵」「篠崩れの怪」「姥袋」「アチーチーの話」などがあるようです。(内容は志木市オフィシャルサイトに掲載)
これも一つ歴史ある町の証かもしれません。

ここから長屋門に向かい、長屋門を出て駐車場に戻ります。
最初についた時は(当然)分りませんでしたが、長屋門の左手前にあるのが、5.のケヤキでその左側が1.のイチョウ、そして長屋門の先に見えるのが7.のヒマラヤスギです。
長屋門と巨木
古木と伝説にいとどられた由緒ある寺院でしょう。綺麗で静かな「宝幢寺」の散策はかなりお勧めです。

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