いろは親水公園

「宝幢寺」の散策を終えて、これからは志木市の中心ともいえる本町~宗岡地区へ向かいます。 といっても車ではホンの5.6分です。
本町~宗岡地区の中心は、当然ながら志木市役所です。駐車場が開放されていたので(と勝手に思っていた?)駐車させていただきました。
ここからは徒歩で志木の町を散策します。

旧村山快哉堂

志木市役所は実に面白い立地にあって、庁舎に向かって右側に「新河岸川」、左に「柳瀬川」に挟まれたデルタ地帯に建てられています。
志木市役所
この「柳瀬川」を遡ると朝歩いた桜並木になり、「新河岸川」は下流に向かって赤羽の岩淵水門で隅田川と合流する河川です。
そしてこの「柳瀬川」と「新河岸川」が合流するところに市役所があるのです。
立派な庁舎のまん前に駐車場があり、片隅に「空相」と題された市庁舎建設記念のモニュメントが立っています。
空相
「東洋の根源的思想の空を顕す相」という説明がありましたが…。いつのときもモニュメントって言うのは良くわかりませんが、判らないところがモニュメントたる所以でしょう。
駐車場からその「新河岸川」サイドにむかいます。
駐車場の前に県道40号線が左右に走っていており、その県道に出る横に「ハタザクラ」が植えられていました。
志木市役所のハタザクラ
市民の木ですから市役所にあるのは極々当然、無いほうがおかしいくらいでしょう。ここの「ハタザクラ」はかなり開花していて見頃です。こちらは薄いピンクに染まっていて風情がありますね。

県道に出ると「新河岸川」には「いろは橋」が架かっています。
いろは橋
後に分るのですが、ずばりこのあたりは〝いろは〟なのです。
「新河岸川」沿いの桜並木も実に綺麗で、誠に花見日和です
「新河岸川」沿いの桜並木
市役所の前の「柳瀬川」と「新河岸川」と県道40号線に囲まれた更に小さなデルタ地帯が公園になっているようなので向かってみました。
「いろは親水公園」の〝中州ゾーン〟
ここは「いろは親水公園」の〝中州ゾーン〟と呼ばれる区域のようで、そこには「旧村山快哉堂」という建物があります。

伝統的建造物旧村山快哉堂
旧村山快哉堂は、明治10年(1877)に建築された。
木造二階建て土蔵造りの店蔵で、本町通り(本町3丁目)に面して屋敷を構え、「中風根切薬」「分利膏」「正斎湯」などの各種家傳薬を製造、販売する薬店でした。
村山家は、創業以来、平成5年(1993)まで7代にわたって薬屋業を営んでいました。
平成6年に村山家が建物を取り壊すことになったため、市教育委員会では、所有者(当主村山源博氏)から寄贈を受け、平成7年(1995)に解体後、4年の保存期間を経て、いろは親水公園中州ゾーンに約2年間の歳月をかけ、移築復元したものです。
この店蔵の建築年代は、欅の通し柱に墨書されていた「明治10年丑11月12日建之」という文字の発見により確認されました。
当初は、白漆喰の壁でしたが、明治後期ごろ黒漆喰仕上げに改修されています。建造物としては、店蔵が座売り形式の商形態を残している点や1階部分の中央に吹き抜けがあること、また、鉢巻の二段構成やムシコ窓及び開口部の枠回りなど、川越の店蔵とは異なる特有の意匠構成が見られることからも貴重な文化財といえます。
平成13年3月27日 志木市教育委員会』(現地案内板説明文より)

外観では2階部分にそのムシコ窓とその開口部の枠回りが見て取れます。
旧村山快哉堂旧村山快哉堂
以前【蔵造りの町並と時の鐘】で川越を訪れたときの蔵とは確かに違った作りのようです。
また中央には当時の看板がなんともいえぬ歴史感をかもし出しています。

中に入ると店蔵とあって柱や壁、戸など重厚感というよりは頑丈そうなつくりが目を引きます。
手前に記述のあった漆喰の構造模型が置かれています。
旧村山快哉堂
何層にも重ねられた構造がより災害対策を意識させる造りです。
スタッフの方の説明によると、基本的に漆喰は白い壁が主流だそうですが、灰墨を混ぜた黒漆喰や赤い顔料を混ぜた赤漆喰などが昔からあったそうなので、あくまでデザイン感覚で変えられたものと考えて良さそうです。
奥に置かれている看板が実際に明治から使われていた看板で、現在屋根に掲げられている看板はレプリカだそうです。
旧村山快哉堂
説明では本町通りとありますが、江戸時代は「引又宿」といい、その中にこの快哉堂があったのです。
引又宿の絵図引又宿の絵図
スタッフの方からいただいた当時の引又宿の絵図コピーに赤色でマークされた場所が、快哉堂が実際に建っていた場所だそうです。
当時の宿場の賑わいや快哉堂の繁盛振りなどに思いを馳せることのできる絵図です。

一旦表に出て今度は快哉堂の裏に廻ってみます。
快哉堂の左手には「ハタザクラ」があるとスタッフの方から教えていただきました。
ハタザクラ
それほど大きな木ではありませんが、年月が経てから再び訪れるとびっくりするくらい変っているのでしょうね。
こちらが旧村山快哉堂の裏側です。
旧村山快哉堂の裏側
白い部分の扉や戸が特徴的だそうですが、裏手から見ると更に白漆喰の店蔵がよく理解できます。
蔵独特の重厚感を持ちながらも、人を威圧しない、ただただ厳重堅固な蔵とは違うようで、そのようなところが店蔵としての特徴を良く表しているのではないでしょうか。

快哉堂の裏手には公園があります。
右側には四阿があり、グループがちょうど集まって早い昼食を取っているようです。
左側にはおかしな河童の彫刻があります。
河童の彫刻
2頭?、2匹?、それとも2体、ともかくも2つの河童が宙を飛んでいる!?、それとも泳いでいるの彫刻です。
「ユーユー」と「スイスイくん」と言う親子の彫刻だそうです。

今までにも「長勝院」にそれらしき「さくら子ちゃん」が、そして「宝幢寺」にある「和尚と河童」像(あとで調べてみると「大門」というらしい)、そしてこの公園と、志木市内にはどうやら河童の像がたくさんあるらしいので、これについて調べてみると、もともと本町で石材店を営む内田榮信さんという方が、第二回志木市「いろは文学賞」大賞受賞作品『いろはがっぱ』を読んだことをきっかけとして、カッパを石像で表現し、河童伝説の数多く伝わる志木市に広めたいと考えて製作しだしたものなのだそうです。
現在市内に17体のカッパ像があり、このうち16体を内田さんが作られたようです。残りの13体は以下の場所に設置されています。

●宗岡第四小学校校庭脇:1.「番太郎」2.「愛ちゃん」
●せせらぎの小径:3.「待太郎」4.「遊花子」5.「足跡」
●村山快哉堂広場:6.「宙太郎」
●いろは保育園:7.「育ちゃん」
●クラブ中野付近の柳瀬川:8.「流ちゃん」
●志木駅東口駅前広場:9.「引又おやじ」10.「お迎え母さん」11.「おすましくん」
●いろは親水公園こもれびのこみち:12.「三十五郎」
●市場通り(川口信用金庫前):13.「カッピー」

ということで、この近くにもう1体あったのですね。それにしてもなんともユーモラスな企画ですが、意外と市内の方は知らない人が多かったりして…、得てしてそういったものです、志木市に限らず地域住民というものは(偉そうなこといえた義理ではありませんが)。

この先には「野鳥観察壁」というものがあり、どうやら水辺のバードウォッチングができる仕掛けになっているようです。
野鳥観察壁
その壁から覗いた風景がこれです。
新河岸川
川沿いにサクラ並木が実にきれいです。
そしてまさにここが「柳瀬川」(左側)と「新河岸川」(右側)の合流する地点で、ここから先は「新河岸川」となります。
それにしてもこう言ったロケーションは中々お目にかかれない貴重な場所だと思います。

いろは樋

いろは親水公園中州ゾーンを後にして、いろは橋とは反対方向に進みます。
「柳瀬川」に架かる橋は「栄橋」といいます。
栄橋
この「栄橋」を渡りきった先の交差点が「市場坂上」で、この交差点の右側の角に「いろは樋のポケットパーク」があります。
これは志木市のシンボルとも言うべき「いろは樋」の模型(といっても実物大)を展示している公園です。
ここで「いろは樋」の内容を知りことができる仕組みのようです。

いろは樋
水の便が悪かった野火止台地の飲料水・灌漑用水として明暦元年(1655)に開通した野火止用水は、玉川上水の取り入れ口の小川村(現小平市)から新座郡引又村(現志木市)までの約24キロメートルを流れ、最後は新河岸川に落ちていました。
対岸の宗岡地区の大半を知行していた旗本岡部氏の家臣白井武左衛門は、低地でありながら感慨水に乏しい宗岡地区に、それまで新河岸川にむなしく落ちていた野火止用水の末水を引いて生産力を増大しようと考え、宗岡地区の一部を領有していた川越藩主松平信綱の了解を得て、実行に移すことになりました。舟運が盛んだった当時の新河岸川を越えて水を通すには、舟の運航を妨げないことが絶対条件でしたので、当時としては最高の土木技術を駆使した大規模な掛樋の築設による通水の方法を考案したのです。
寛文2年(1662)新河岸川の上に長さ約260メートル、水面からの高さ約4.4メートル、樋の幅と深さ約42センチメートルの巨大な木樋が架設されました。掛樋は48個の樋をつなぎ、長さが百間以上もあることから「いろは樋」とも「百間樋」とも呼ばれ、当時の「江戸名所図会」にもその姿が描かれています。
完成した掛樋は、宗岡地区の水田を潤して収穫量を大幅に増大させ、地域に大きな恩恵をもたらしてくれました。いろは樋はまさに地域発展の礎だったのです。
※いろは樋の架設年代には、万治2年(1659)という説もあります。
※展示ケース内のジオラマ模型は、天保15年(1844)の「いろは樋絵図」(内田太郎家所蔵)に基づいて周辺の引又河岸の様子などを含めていろは樋の全長を縮尺約75分の1で再現したものです。

いろは樋の仕組み
いろは樋の構造は、市場坂上に木箱「小桝」を設け、その「小桝」に一度溜めた野火止用水を地下に埋めた木製の樋(埋樋)によって引又河岸そばの木箱「大桝」に送っていました。
埋桶から送られた水は、坂を落下する水勢によって「大桝」の底部の口から流れ込み、「大桝」を満たすと、満たされた水が「大桝」の反対側上部の口につながれていた掛樋(水道専用橋)を流れて、川の上を渡り、対岸の宗岡側の精進場(現いろは橋交番付近)に送られていました。
このような掛樋は、近隣では神田上水を神田川の上に通すために設けられていた掛樋(現東京都文京区本郷周辺にあった水道橋の語源となった掛樋)などがありましたが、水を掛樋で渡すという土木技術は、江戸時代に地域の発展を導いた先人の偉業として注目されています。
なお、当時のいろは樋の様子は、天保15年(1844)に作成された「いろは樋絵図」(市指定文化財)などにより窺い知ることができます。

小桝と大桝
いろは樋は、寛文2年(1662)(一説に万治2年(1659))の完成当初、桝も含めてすべてが杉材を主体とした木製のもので造られました。現在新河岸川の両岸にレンガと切石で残されている大桝は、明治31年から36年にかけて鉄管埋設による伏せ越し工法により河川が改修された際に築造されたものです。
(※現在本町側の大桝が、市指定文化財に指定されています。)
完成当初の木製の「小桝」は3尺5寸四方(約105センチメートル四方)、高さ7尺(約210センチメートル)と記されており、地上部の高さは約1メートル余りと推測されています。また「大桝」の大きさは一辺が5尺四方(約150センチメートル四方)、高さ1丈3尺(約390センチメートル)と記されており、広場の模型はほぼ原寸で作られています。
※模型は縦組ですが実際には横組であったと推定されます。
※埋樋については本来地中に埋設される形であったと推測されますが、模型では桝との関係や通水の情景を想像できるよう天端部分を露出させています。』(現地説明パネルより)

それぞれ「大桝」「小桝」「埋桝」「掛樋」がこのように模型で復元されています。
ポケットパークポケットパーク
そしてジオラマで表現された模型がこちらです
いろは樋の大桝
これらの説明と模型を見て思うのは、「掛樋」とは簡単に言ってしまえば、川同士の立体交差ということです。
この川同士の立体交差の方法は2通りあるそうで、川(もともと在る本流)の上を通す「掛樋」と川の下を通す「伏越」があります。
「掛樋」はこの説明にもあるとおり、川の上に樋を架け両側に桝を置いて落下する水の勢いで水を通す原理です。 一方、「伏越」は出水孔の水位が入水孔と同じ高さになるというサイフォンの原理によって水を流すものだそうですが、いずれにしても江戸時代としての幾何学、力学的学問の水準の高さと、技術力の高さがあってこその建造物であると考えられるところに驚嘆します。
因みに居住している上尾市の自宅から僅か車で10分程度のところに「瓦葺掛樋」という掛樋の遺構が残っているようで、折角なのですから一度見ていくべきまもしれません。また、同じように車で30~40分の隣接町の白岡町には「伏越」が残っているようなので、あわせてこちらも一度見ておきたいと思います。
普段、何気なく生活している地域にも先人の偉大なる知識や行動力が、まさに現在の私たちの暮らしに生かされていると思わせる遺構の一つでしょう。

ちょうどこのポケットパークの交差点の反対側の道を少し進んだ先にレンガで造られた明治期の大桝が残されています。
いろは樋の大桝

いろは樋の大桝 志木市指定文化財
いろは樋とは、野火止用水(伊豆殿堀)を引又(現志木市本町)から宗岡へ引くために考案された筧であった。
徳川三代将軍家光の時代、宗岡が川越城主松平伊豆守信綱の領地、上、下宗岡が旗本岡部忠直の知行地であった頃、岡部氏の代官白井武左衛門は、宗岡が灌漑用水に乏しいのを見、空しく新河岸川へ落ちていた伊豆殿堀の水を、新河岸川の上に木樋をかけて宗岡に引く案を立て、信綱に乞うてその許しを得、これを実現した。その樋が、48継ぎであったので「いろは樋」と称された。大桝は堀の水を湛え、その落下する勢いをもって、水を高きに揚げる仕組みであった。
明治31年、木桶を鉄管にかえ、大桝も煉瓦積みとし、鉄管は川底に埋設した。昭和41年志木市市場地内の伊豆殿堀は下水路となり、いろは樋はその機能を失ったが、この大桝は長期に亘って郷土に多大の恩恵を及ぼした貴重な文化財である。
昭和53年4月1日 志木市教育委員会』(現地案内板説明文より)

貴重な遺構なのでしようが、木製の大桝が残存していればもっと貴重なのでしょうが、現在の遺構においても志木市の歴史や文化を知るうえで切り離せない重要なものであることを認識させられました。

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