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引又河岸

「上の水車」から市役所に戻るのですが、折角ですので引又河岸といわれた新河岸川沿いを通って市役所方面に戻ることにしました。
今日は比較的穏やかな温かい天候なので散策するのも実に気持ちの良い日です。

敷島神社

県道36号線、所謂「いろは商店会」を半分戻り、本町1丁目交差点を右折して進むと「敷島神社」があります。
細田学園という学校や住宅地の中に埋没したようなエリアにあり、若干判りにくい場所にあり道行く地元の方に場所を聞いてたどり着きました。
住宅地の中に忽然と現れた、といった風情でしょうか無機質な石造りの鳥居が見えました。
敷島神社

敷島神社
引又地区(現本町)の住民が、江戸後期から地区独自の鎮守として信仰していた村山稲荷(祭神 倉稲魂命)のほか、星野稲荷(祭神 倉稲魂命)と水神社(祭神 罔象女命)を元来この地にあった浅間社(祭神木花開耶姫命)に合祀し、新しい鎮守として明治41年に創建された神社です。
5月の例大祭と11月の勤労感謝祭には、浦安の舞の奉納が、6月の大祓いには、人形流しと茅の輪くぐり(夏の悪疫除け)などの神事がそれぞれ行われていますが、特に7月の夏祭りは天王様のお祭りとして近隣の地町村にも知られた大祭です。
又、8月の火祭りは、お焚き上げとも言い、祭神 木花開耶姫命が夫の瓊瓊杵尊に解任を怪しまれ、その証をたてるため八尋殿に火を放ち火の中で火照命・火闌降命・火折命を生んだ神話にちなむ火祭りで安産・火難・災難除けとされ、この時の薪の燃え残りを戸口につるして置くと盗難除けになるといわれています。
平成6年3月30日 志木市教育委員会』(現地案内板説明文より)

恐らく村山稲荷、星野稲荷は、江戸時代それぞれ村山、星野各家が勧請したのではないかと推測します。そしてそのほかに水神社や浅間社がそれぞれ存在していたのが引又地区の信仰状況だったのでしょう。
しかし明治期22年の町村制施行により引又宿が志木宿となりそして「舘」地区(現柏町周辺)と「引又」地区が一緒になって志木町となったのですが、農耕主体の「舘」地区と商業主体の「引又」地区では何につけても水と油だったようです。当時の鎮守社は「舘」地区にあった「舘ノ氷川神社」であったため、当然祭りの執行についても双方が協調するのはかなり難しかったようです。
このような背景の中、明治新政府による神社合併勧奨の通達を機に、旧「引又」地区は「舘ノ氷川神社」から分離し、浅間神社を主神とし上記の合祀を行い新鎮守社の創建となったのです。
しかし、その新鎮守社の社号でも一悶着あったようです。
候補はいくつもあったようで、従来からの「浅間神社」、地形に基づく「旭日神社」、大和民族精神に基ずく「大和神社」、日本国別称に基づく「敷島神社」などの社号が主張されたそうです。
意見のまとまりがつかないある時、ある智者が本居宣長の「敷しまの倭こころを人とはは朝日ににほふ山さくら花(敷島の大和心を人問わば 朝日匂う山桜花)」の和歌を引き合いに出し、この和歌には「敷島」「大和」「朝日」「桜花」が含まれ、主神が木花開耶姫神であることから桜花にふさわしく、その他候補名の「大和」「朝日」などが含まれていることから、そべての候補名が含まれていると説き納得させ、この和歌の枕詞の「敷島」を取って「敷島神社」となったそうで、なかなか面白いエピソードです。

境内に入ると住宅地の中にある神社とは思えないかなり広い境内で、左側のソメイヨシノは満開のようです。
敷島神社
ちょうど正面に小高い丘がありますが、これが「田子の富士」と呼ばれる富士塚のようです。
敷島神社田子山富士塚

田子山富士塚
この富士塚は、古墳と言われてきた「田子山塚」の上に盛土をして築造されてものです。
富士塚とは、富士山を模して築かれた人造の小山で、主に江戸時代から明治時代にかけて築造され、県内だけでも約百基の富士塚が現存し、市内では、この他に一基羽根倉の浅間神社にあります。
田子山富士築造の発起人は、後に富士講の先達となった高須庄吉で、富士山を大変崇敬していました。
庄吉は、この地を散策中に富士山に入定したといわれる十瀧房承海の暦応3年(1338)の逆修板碑を発見し、大いに感激して同志をつのって築造に着手しました。
工事は、明治2年(1869)10月から5年6月にかけて行われました。
塚は、高さ12メートル、樹木や岩石の配置に工夫が施されており、富士山に模して登山道・人穴・胎内・烏帽子岩・釈迦割石や富士山から運んだ溶岩などが置かれ頂上の祠の中には木花咲耶姫命が祀られています。また塚のふもとには、浅間神社の祠があり承海の逆修板碑が祀られています。
平成2年3月30日 志木市教育委員会』(現地案内板説明文より)

富士塚は文字通り富士信仰に基ずき、富士山に模して造営された山や塚で頂上には浅間神社を祀ります。特に富士講が盛んになった江戸時代に造られ関東地方を中心に各地に分布しています。
富士山の山開きの日に富士講が富士塚に登山する習慣から、基本的に富士塚の上から富士山をのぞむことができるように築造されているのですが、当然ながら近代の高層化に伴い直接富士山を視認できるものはほとんどないようです。
この「田子山富士塚」は富士塚としては県指定第1号で、さらに市内における県指定文化財としても第1号だそうです。
因みに所謂、国指定の重要有形民俗文化財として指定されている富士塚は、江古田(東京都練馬区)、豊島長崎(東京都豊島区高松)、下谷坂本(東京都台東区)、木曽呂(埼玉県川口市)の4基だそうです。
いずれにしても貴重な文化財であることには違いないようです。

「田子山富士塚」の隣(麓?)には確かに浅間神社の祠があります。
浅間神社
江戸時代の香りの残る摂社のひとつが、この浅間社ということでしょう。
浅間神社の隣には「琴比羅神社」があります。
琴比羅神社
いつごろ勧請されたものかわかりませんが、社は比較的新しいようです。
そもそも金毘羅宮は海上交通の守り神ですから、やはり水運の関連で勧請されたものかもしれませんが、「水神社」と何か関係があるのでしょうか。
同じ水つながりということで…。

その隣にあるのが「敷島神社」拝殿です。
敷島神社
境内の広さの割には比較的小さく質素な造りです。大きく華美ならよいというわけでもありませんが意外でした。
参拝を済ませて本殿に廻ると、本殿もまた質素でコンパクトです。
敷島神社
控えめな拝殿と本殿の割には幣殿が意外と大きかったりして、実にユニークな社殿です。

社殿の隣には「敷島稲荷神社」と「護国神社」が並んでいます。
敷島稲荷神社護国神社
この稲荷社がかつての2つの稲荷社なのでしょうか。
最後に再び境内をグルッと見渡すと開花しているサクラと境内一杯に散っているサクラで、敷島神社はまさにサクラ尽くしです。
敷島神社
ユニークな歴史と見事なサクラを見て敷島神社を後にしました。

新河岸川と引又河岸

「敷島神社」から新河岸川へ向って歩いていきます。 新河岸川沿岸の土手沿いは公園となっていて件の「いろは親水公園」のゾーンの一角でしょう。
ちょうど「富士下橋」と呼ばれる近くです。
いろは親水公園
ここから新河岸川沿いを上流に向って歩きます。

しばらく歩いて土手沿いに下りると「富士下橋」の少し上流に出ることができます。
いろは親水公園
このあたりもサクラが実に綺麗です。

沿岸沿いを更に進むと何という種類の木だかわかりませんが、ピンクと紅の花が一緒に咲いている綺麗な樹木が目を惹きます。
新河岸河沿岸

そしてその隣に観音堂らしきものが立っています。
引又観音堂

引又観音堂
この引又観音堂そのものは、ごく新しく昭和42年に建立されたもので、当時、この付近の畑などにあった馬頭観音二体と聖観音を統合して安置したものです。
以前は、この場所の道路の向かい側の左手の一角に建っていましたが、平成8年6月に新河岸川の河川改修事業に伴って、この場所に移設されました。
この付近は、その昔、新河岸川舟運の引又河岸があったところで、新河岸川で水難に遭った人の霊を供養するために観音様を祀ったものと思われます。
聖観音は「元禄十丁丑正月吉日 引又村」とあり、約300年前から新河岸川の流れを静かに見守ってきたかのようです。一体の馬頭観音は年代不詳ですが、もう一体の馬頭観音は「明和己丑九月廿三日 施主 星野○右衛門」とあり、星野家の先祖が祀ったものと思われます。
平成9年3月10日 志木市教育委員会』(現地案内板説明文より)
※○は七が三つある漢字

星野家とは引又宿絵図で見た当時名主だった星野家のことでしょう。当時の有力者達が町を発展させ、そして町を守ってきた証といえます。
観音堂の更に先には石碑が二つ立っています。
新河岸川舟運と引又河岸石碑

新河岸川舟運と引又河岸
九十九曲がりといわれるほど蛇行していた新河岸川は、洪水になりやすい反面、水量を豊かに保つことができたので、江戸時代初期から明治にかけて、交通の重要な動脈であった。
新河岸川沿岸の河岸場のうち、現川越市新河岸と並んで、特に広大な取引地域を背後に持っていた引又河岸は、所沢・八王子・青梅などのほか、遠く甲府まで荷主が分布していた。
これは、奥州街道等各方面からの道が集中する交通の要衝であり、また、江戸初期から六歳市が立ったことによるのであろう。
引又河岸には、古くは、三上回漕問屋と井下田回漕問屋があり、三上問屋が明治10年代に廃業したのちには、井下田問屋と高須問屋が活躍していた。当時の船は、大体、米穀にして、80石から100石ぐらいの積載量で、速力によって飛切・早船・並船に分かれており、江戸からの上りは、肥料・鮮魚・塩・雑貨・石材など。下りは、穀類・材木・燃料・醤油などを運んでいた。また、物資の他に早船では人も運んだ。
しかし、こうした舟運も、鉄道の普及と河川改修により、昭和の初めころから急速に衰えた。
昭和58年12月1日 志木市教育委員会』(現地案内板説明文より)

江戸時代の町の発展のパターンはほぼ(当たり前だが)決まっていて、私の住んでいる上尾市でも舟運で栄えた平方河岸、宿場で栄えた上尾宿、そして市の立っていた原市とその土地の環境で発展の仕方が決まっていたようです。
しかし、明治期以降は基本的に鉄道駅周辺を中心とした発展の仕方が基本となってしまっているので、ある意味ではその土地土地の特色が無くなってしまっているといっても過言ではないかもしれませんが、ここではまだそんな歴史を偲ぶことができる町だということを実感しました。

最後にこの引又河岸跡から対岸を見ると、そこには最初に訪れた「いろは親水公園」の中州ゾーンを見ることができます。
「いろは親水公園」の中州ゾーン
かつて賑わった河岸周辺が現代人に癒しや安らぎといった形で貢献しているといったところでしょうかね。

花見で一杯も結構ですが、そんな歴史を思いながらの花見もまた格別でした。

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