深大寺周辺

「深大寺蕎麦」に舌鼓を打ってから、深大寺周辺を散策します。
亀島弁財天池 「一休庵」の路を挟んだ前には「亀島弁財天池」があり弁財天が祀られています。

先の江戸名所図会にはこう記載されています。

亀島弁財天両
門前左の方の池の中島にあり。縁起にいはゆる福満童子を背負ふて渉せし霊亀をして、後に満功上人、弁天に崇められたりといふ。
(江戸名所図会より)

やはり福満童子を背負った亀にまつわる池だったようです。名前からしてそれらしいですからね。

参道 「亀島弁財天池」から山門前の参道を右手に曲がると江戸名所図会にもあった門前町となり、江戸時代でも現在でもここがメインストリートのようです。

しばらく進むと右手に「鬼太郎茶屋」があります。
調布市の名誉市民である水木しげる氏の「ゲゲゲの女房」で一躍観光地に拍車をかけた調布市のシンボルと言ってもよい店です。
鬼太郎茶屋 壁にはお馴染みの鬼太郎、目玉おやじ、ねずみ男が描かれていています。

鬼太郎茶屋 また、屋根の上には大きなゲタが、そして歩道にはやはり鬼太郎とねずみ男の人形が置かれています。

実にカラフルな茶屋ですが、この茶屋は鳥取県境港市に本社のある“株式会社きさらぎ”という企業が経営しているそうです。
この“きさらぎ”は鳥取県境港市出身の水木しげるとの同郷の関係から物販のライセンシーを得たようです。
意外とゲゲゲと深大寺とは雰囲気が合いますね。

参考:【妖怪舎】http://www.youkai.co.jp/index.php/category/chaya

ここから一度山門に戻り、山門前を右折して「一休庵」とは反対の方向に進みます。
深大寺窯 深大寺窯 すぐ右手に「深大寺窯」という“らく焼”が楽しめる店舗があります。

昭和32年に開業だそうですから50余年の歴史を持つ窯だそうで、女性主人で創業者の馬場信子女史は陶芸に限らず三味線、詠歌、小説執筆などマルチな才能を持たれた91歳のスーパーおばあさんだそうです。
土鈴などが好まれており、20分くらいで焼けるそうなので昼食前後や散策前後に創作するのも一興でしょう。
水生植物園 流石に蕎麦屋が軒を連ねていますが、この参道をそのまま真直ぐ進むと「水生植物園」があります。

水生植物園

水生植物園 この「水生植物園」は正式には都立神代植物公園分園といい、こちらは無料で開放されています。

昭和60(1985)年に開園した広さ約1.33ヘクタールある植物園です。
深大寺の裏山から湧き出た水で作られた湿地を利用した池や水路があり、散策道や木道で一周散策できるようになっているようです。

水生植物園 丁度、この辺りから散策道の始まりです。まさに緑一色といった感じで、確かに東京であることをつかの間忘れることができるかも知れません。

水生植物園 水生植物園 池や水路にはそれぞれ棲んでいる生態系の説明がありますが、今ひとつ興味が…。

5月から7月にかけて花菖蒲やアシ、カキツバタなどの水生植物が見られるそうですが、まだ早かったのでしょうか。
水生植物園 水生植物園 こんな感じでちょっと寂しい園内です。

神代植物公園のように見所満載に比べ何もないと言った方が良さそうな分園ですが、ある意味武蔵野の自然を満喫するには、観光客もそれほど多くない水生植物園も悪くないかもしれません。
地元の方には憩いの場かもしれません。

深大寺城趾

水生植物園 「水生植物園」の散策路を歩いていると、途中こんな階段が表れました。

深大寺城趾 この階段を上がっていくと、行き着いたところに「都旧跡 深大寺城趾」と刻まれた石碑が立っています。

史跡名勝天然記念物:深大寺城跡
深大寺城跡は、関東平野南部に広がる武蔵野台地の南縁辺部の標高約50mを測る舌状台地の一角に所在する、3つの郭からなる戦国時代の城跡である。台地の東側には開析谷によって形成された90m幅に及ぶ湿地帯が広がり、西側にも湧水を集めた支谷があり、南側は比高約15mを測る国分寺崖線によって画され、南方に多摩川とその対岸を望見することができる。城跡の北側の谷を挟んで古刹・深大寺が所在する。
深大寺城跡は、戦国時代、関東の覇権を争う小田原北条氏と扇谷上杉氏の攻防のなかで、扇谷上杉氏方が造営した城跡である。文献に深大寺城の名が見えるのは戦記物『河越記』が初見とされ、『相州兵乱記』『北条記』『北条五代記』『鎌倉九代後記』にも記述がみえる。それらによると、深大寺城は、大永4年(1524)北条氏綱によって重要拠点の江戸城を奪取された扇谷上杉朝興の息子朝定が、家臣の難波田弾正に命じて天文6年(1537)、多摩川を挟んで北条氏方の拠点の一つであった小沢城跡に対抗する位置に所在する「深大寺のふるき郭」を再興したものとされる。しかし北条氏綱は深大寺城を攻めずに同年7月、直接扇谷上杉氏方の河越城を攻め、朝定は松山城跡に敗走した。これによって一気に勢力図は塗り替えられ、深大寺城の軍事的意義は喪失、そのまま廃城となったと考えられる。
深大寺城跡に考古学的調査が入ったのは昭和33年以降であり、昭和44年まで深大寺城跡調査団によって発掘調査・測量調査が断続的に実施され、その後、平成6、7年に東京都教育委員会により、平成17、18年度には調布市教育委員会によって発掘調査が行われた。それらによれば、城の縄張りは南北方向の堀と土塁により遮断された直線連郭式で、舌状台地最東端の土塁に囲まれた第1郭が主郭と考えられ、その西側の郭の2郭、さらに3郭が続く。第1郭は郭のほぼ全周に土塁を廻らし、北東から南東にかけて自然の崖を障壁とし、北西から南西までの第2郭との間に堀を設ける。堀は北端と南端で崖に掘り落としてあり、その深さは7.08mに及ぶ。郭内部の規模は東西約50m、南北約90mを測る。土塁は北西付近で屈曲し、この屈曲部は西側にやや張り出した構造となっており、櫓台とも考えられる。土塁北側中央部に虎口が開く。東側土塁の斜面中腹には細長く延びる腰郭が付く。郭内で掘立柱建物4棟が検出されている。第2郭は、第1郭との間の空堀と約50m西側に掘られている堀との間に位置し、北東から南西まで約120m、東西間は約50mの規模である。土塁・堀を伴い、郭南辺の土塁中央部に虎口が開く。掘立柱建物9棟を検出した。第2郭では2時期の堀跡が確認された。第3郭は、東西幅約100m、南北幅は土地の改変があり不明である。土塁・堀が確認され、南西付近に虎口があったものと考えられる。
城跡から出土遺物は多くはないが、1500年以前、下っても16世紀前半代の青磁碗、瀬戸・美濃系天目茶碗、擂鉢などが出土し、2時期検出した堀跡の存在なども合わせると、第1期堀の構築時期に相当すると考えられる文献に知られる「ふるき郭」が15世紀代に築造され、第2期堀や建物など現存する城郭遺構が構築されたと判断できる16世紀前半期の段階が、扇谷上杉朝定の築造した段階に相当するものと思われる。また、武蔵国内の多くの城館が小田原北条氏の勢力下で改変されている中、深大寺城では改変は認められず、扇谷上杉氏系の築城技術を残すものと考えられよう。
このように、深大寺城跡は、16世紀前半、南関東を舞台に繰り広げられた小田原北条氏・扇谷上杉氏攻防のなか扇谷上杉氏が築造した城跡であり、小田原北条氏による改変を受けず扇谷上杉氏系の築城技術を残す16世紀前半期までの希少な城館と考えられ、関東における戦国大名及び城郭の変遷を知る上で貴重なものであることから、東西約230m、南北約250mの範囲を史跡に指定して保護を図ろうとするものである。
(「文化遺産オンライン」より)

と言うことで隠れた名所と言うのか、歴史のエアポケットというのか、植物園内に突如として現れた城郭跡です。
しかも石碑には“都旧跡”となっていますが、現在は“国指定”に変更されている貴重な城跡です。

ちょうど現在位置が第1郭にあたる場所です。
深大寺城趾 深大寺城趾 当時と現在の位置関係は案内板に地図が描かれているとおりです。

深大寺城趾 この様に土塁跡を見ることができます。

虎口 反対側のこの辺りが“虎口”です。

空掘 土橋 土橋 “虎口”を進むと左右に“空掘”で、“空掘”の間に掛かっているのが“土橋”です。

空掘 そしてこちらが第2郭で土塁が廻らされているのが見て取れます。

第2郭 現在は芝生の広場になっていますが、広場の中にある石のようなものは、ここに掘立柱があったことを示しているものだそうです。

それ程大きな城郭ではありませんが、素人が見ても何となくその姿が想像できるのは、かなり明確な遺構といえるからでしょう。
素人では全く判らない堀とか沢山ありますから・・・。

パンパスグラス 最後に第2郭の片隅にあるススキのような草は、神代植物公園の芝生広場にあるのと同じ“パンパスグラス”でドライフラワーの材料に使われる草だそうです。

まさに江戸と平成が共存する公園と言えるでしょう。

深大寺そば畑

そば畑 そして、第2郭の端には「深大寺城 そば畑」があります。

この“そば畑”は神代植物公園、深大寺そば組合、深大寺小学校の3者で管理されているようです。

ある時、深大寺とその檀家達から名物「深大寺蕎麦」には地元特産のそば畑が無いと言うこと一言から全てが始まりました。
そんな折檀家の一人が偶然にも、僅かながら深大寺南町で“そば畑”を作っているある農家と出会い、昭和61年に深大寺と檀家の代表がそのそば粉を譲り受け、その年の暮れの12月24日、地元産の年越し蕎麦を味わおうと、市長、深大寺、植物公園、檀家代表など10名により深大寺客殿で地元産の年越し蕎麦が振舞われたのです。この時は“そば粉”の量が少なかったので、他の地方からの“そば粉”を足して作ったようです。
このようなことがあって翌年、江戸名所図会の「深大寺蕎麦」の図を完全な地元産の“そば粉”で再現しようと近隣の畑でそばの栽培を始めたとうことです。これを契機として招待客100名規模の「深大寺そばを味わう集い」が発足し、毎年12月24日に開催されるようになったのです。
その一方、深大寺の檀家有志により「深大寺そばを作る会」も発足し、それまでの近隣の畑から神代植物公園の宿根草園の一角に、植物公園の協力のもと“そば畑”を作ったのでした。
植物公園内の“そば畑”という珍しさもありTVで紹介されたことから反響が大きくなり、これをきっかけとして抽選で100名の調布市民に食べていただいたそうです。
そしてこのような活動を10年続けた後、「深大寺そばを作る会」は発展的解消し、深大寺代表の「一味会」が新たに結成され、1999年にはミレニアムイベントとして神代植物公園の一部1000坪を借り受け“そば畑”を作り、調布市の福祉関係団体へ年越しそばとして3000食を届けたということもあったそうです。
このような地道な活動の中で、これらのそば作りに興味を持った深大寺小学校の5年生が地元の伝統産業の学習の一環として、深大寺蕎麦の歴史と実際のそばの栽培からそば打ちまでを学ぶため、地元のそば関係者の協力を得てこの学習体験を毎年行うこととなったことから、“そば畑”も神代植物公園の宿根草園から水生植物園の一角に移り現在に至っているそうです。
このような歴史と活動の背景を持った“そば畑”なのですが、現在では、その学習に参加した小学生が深大寺門前でそば屋を開業している位ですから、いかに地元に根付いた活動かが窺える好例といえるのでしょう。

水車館

「水生植物園」を後にして、植物園の前の“深大寺通り”を西に進みます。
水車館 そば屋の並ぶ通りを進むと右側に大きな水車が見えます。

「水車館」です。

調布市深大寺水車館
むかし、この場所に水車小屋がありました。水車の直径は約4メートルで、5つの搗き臼と1つの挽き臼があり、地元の農家の人たちが穀物を搗いたり、製粉に使ったりしていました。水車はまた、地域の人々のつながりを深め、くらしの伝統を守る役割もはたしていました。
この地域は、かつて雑木林が茂り、豊富な湧き水を水源とする逆川が流れ、水車の回る音が響いていました。逆川では、うなぎがつれ、サワガニがすみ、近くの田んぼにかけてホタルが飛びかっていました。それも今では、懐かしい思い出となっています。
調布で最後まで残っていたこの水車も、電動モーターの普及などによって、昭和30年頃には使われなくなりました。
市では、水車組合を中心とした地元の人々から水車復活の強い願いを受け、市内に残された貴重な湧き水を利用して、「人」と「水」と「緑」を結ぶシンボルとして、調布市深大寺水車館をつくりました。
平成4年5月 調布市教育委員会
(現地案内板説明文より)

水車館 この場所には地元の組合で作られた水車が戦前まで実際に使用されていたそうで、当時は地元の方が順番でこの水車を使用し精米や製粉を行なっていたようです。

この逆川は、同じ市内を流れる野川や多摩川とは逆に東から西へ流れるためについた名前で、当時の逆川の湧水は大変冷たかったので、川底には川海苔が付いたり、ホタルの餌となるカワニワは棲んでいたということです。しかしそのような冷水であったためにこの辺りの田んぼでは米の収穫量が少なかったと伝えられているようです。

水車館 水車館 水車小屋の中はこのように臼や歯車などを見ることができ、予約して玄米や小麦、蕎麦などを持ち込めば誰でも脱穀、製粉が体験できるのだそうです。

子供に見せるには物珍しくてよいかもしれません。

展示回廊 敷地内には「展示回廊」なる展示館があります。

いただいたパンフレットにその説明があります。

■展示回廊について
かつて調布の主な産業であった農業の中で、水車がはたしてきた役割を考えるため、武蔵野の水車の歴史をパネルで紹介し、実物資料では、太平洋戦争以前に市内で使われてきた農具を中心に展示しています。
これらの農具は、穀物の種まきから脱穀までの作業を人と家畜の力でしていた頃のもので、かつては関東地方でも広く使われていました。また、水車で搗いたり、粉にして食生活や商売に用いられてきた穀物をはじめ、手づくりの温もりあるわら細工などもあり、これらの展示資料は自給自足の農村の暮らしぶりを物語っています。

(展示資料の例)
●農  具●        
耕作用具‥………鍬、肇、踏み鍬
除草用具…………除草機
収穫用具‥‥‥……鎌が中心
脱穀調整具‥‥…‥クルリ棒、箕、筋、唐箕など
運搬具(農業用)‥・カンジキ、天秤棒、背負梯子など
●わら細エ●  履き物のいろいろ、飯構入れ、桟俵、しめ飾りなどみ ふるい
(案内パンフレットより)

深大寺水車の主軸 最初に展示されているのが、こちらの「深大寺水車の主軸」です。

昭和30年頃まで実際に使われていたケヤキ材の主軸で、これによって杵を上下させていたものだそうです。

スイコ その隣には「スイコ」と呼ばれるものが展示されています。

これは水位の低い用水路から田んぼに水を引き入れるためのものだそうで、水鉄砲の原理で水を汲み揚げるようです。なかなか良く考えられたものです。

展示物 展示物 これ以外には、先の展示例の器具や細工物が展示されています。

小さいながらも良く考えられた「水車館」でした。

深沙大王堂

「水車館」から神代植物園に戻るために北上した途中に「恵比寿尊・大黒天」像が祀られています。
恵比寿尊・大黒天 かなり立派で彫刻の施された荘厳な社殿ですが、それに比べて「恵比寿尊・大黒天」のかわいらしさがミスマッチ風でユニークです。

竜虎の石碑 また、社殿の右側には“竜虎”が彫られた石造もあり、こちらはかなり手の込んだ石像です。

これらは元々深大寺にあった“旧柏亭”の門前にあったものを平成16年に深沙の杜に社殿を新築し、竜虎碑と共に移設したものだそうです。現在の柏亭は深大寺の住宅街の中にある精進料理のお店だそうです。
調布市にも七福神巡りはあるようで、深大寺に祀られている毘沙門天はその一つですが、恵比寿尊・大黒天はこの社殿ではなく別の寺院だそうです。流石に寺院にないとおまいりする方が拍子抜けするかもしれないですからね。

深沙堂石碑 「恵比寿尊・大黒天」の前の道を更に北上すると交差する道の角に深大寺の縁起である「深沙大王堂」があります。

深沙堂 元々の「深沙堂」は深大寺境内にあり、元三大師堂に匹敵する茅葺の大きさの社殿だったそうですが、明治元(1868)年の神仏分離令によって取り壊され、その後、昭和43(1968)年に現在地に再建されたのでした。

現在の「深沙大王堂」にはお堂の形をした厨子である“宮殿”が安置されているのですが、この“宮殿”は旧深沙堂のもので、この宮殿内に更にスギの白木の箱型厨子が収められていて、この中に秘仏である“深沙大王像”が安置されているのだそうです。

この“深沙大王像”は高さ57cmほどの大きさで、どくろの胸飾りをつけ、像皮の袴をはいて憤怒の形相をした鎌倉時代の作だそうですが、秘仏とされていて住職でさえ在任中に一度拝める程度であると言われています。
深沙大王像 当然、写真はありませんが、一般的なイメージはこのようです。

この深沙大王は、先の深大寺の縁起にもあったように縁結びの神とあがめられていますが、深沙大将とも呼ばれ、仏教の守護神の一人で大般若経の十六善神とともに描かれることが多く、玄奘三蔵がインドへ行く途中、砂の中から現れ玄奘を守護したと伝えられる神なのです。
最後に参拝を済ませて、今日1日の散策を終了しました。

神代植物公園のバラ園で美しいバラに触れ、深大寺では悠久なる歴史に触れられました。
まだまだ見所が沢山ある調布市なので、別の機会にもう一度散策してみたいものです。
そういえば、バラの名前、まだ思い付きませんねえ。

2011.06.09記

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