鷲宮神社 #1

県道3号線を順調に進んでAM9:30前には鷲宮町に到着しました。
少し時間も早かったので町営図書館の第二駐車場に停めさせていただき少し散策をしてみました。 駐車場前には結構立派な鷲宮町役場が見えます。
また駐車場のすぐ横にある「葛西用水路」に古川橋という名の小さな橋がかかっており、「わしみやコスモスフェスタ」「コスモスふれあいロード」とかかれた幟がたっています。
鷲宮町役場と幟
橋から見ると幟はどうやら「葛西用水路」沿いに立っていて、どうやらこの沿道がコスモスの見られるイベント地、コスモスふれあいロードのようです。
葛西用水路

コスモスふれあいロード

用水路沿いには「わしみやコスモスフェスタ2009」というポスターが掲出されていていますが、どうやら17.18日が開催日のようです。1週間早かったようですね。
それでも水路沿いには結構多くのコスモスが咲いているようです。

ちょうど古川橋から下流にホンの10mくらい行くと「上流より1,000m」とかかれたパネルがあります。
鷲宮町役場と標識
上流からすでに1Km地点で下流への終点は全く見えません。いったいどのくらいの距離があるのでしょうか。
「コスモスふれあいロード」を紐解いてみます。

鷲宮町のオフィシャルサイトによると、町おこしとして取り組んでいる「花と香りのまちづくり」の一環として行われているのが、この「コスモスふれあいロード推進事業」だそうです。
町の中央を縦断する葛西用水路を活用し、町の花である「コスモス」栽培でイメージアップを図り、散策やウォーキングで健康作りをという主旨です。
この「コスモスふれあいロード」は、加須市の川口樋前橋から久喜市境の玉屋橋までの片側6km、両岸で約12kmに亘る距離だそうで、8月には種植えされ草取りなど商工会やボランティアの方々で整備されているようです。

しばらくこの「コスモスふれあいロード」を下流に向かって歩いてみました。
コスモスロード
時にポツリと雨が落ちてきますが、何とか耐えられる程度です。
今年は早いのか遅いのか良くわかりませんが、一面とまではいきませんが、結構きれいに開花しているようです。
ただ、悲しいことに2日前の台風の影響でしょうか、半分位は枝が倒れていたり、斜めに傾いています。
台風で倒れているコスモス
それによって一面のコスモス畑には見えないのでしょうかね。

ところどころには、かわいいコスモスのベンチなどが置かれていました。非常に気持ちの良いコスモスロードです。
オシャレなベンチ

しばらくコスモスの鑑賞と撮影に没頭していました。気がつくと上流から1,500m地点のパネルがありましたので500m歩いてきたのですね。まだまだ4.5kあるのですが、これにて今回のコスモスロードは終わりです。
コスモスロード
最近は手っ取り早い町おこしでコスモスを使用するケースが多いようですが、おそらく台風さえなければもっときれいなコスモスが見られたことでしょう。
ここのコスモスはきっと見事だと思います。

鷲宮神社 参道

この近くに鷲宮町図書館に併設された郷土資料館があるのですが、10:00を少し回りましたので、ここは一旦鷲宮神社に向かいます。
車ですとホンの5.6分で到着です。

途中、「武蔵国 鷲宮神社」と刻まれた大きな社号標が立っていますが、この社号標を書いたのは「中村不折」という人だそうです。
鷲宮神社社号標
「中村不折」とは明治、大正、昭和にかけて活躍した洋画家であり書道家でもあったそうで、正岡子規や夏目漱石などとも交流があったようです。
素人には聞いたことのない名ですが、エピソードとして新宿・中村屋のロゴを描いたことや、森鴎外が自分の墓の文字は不折の書を刻んでほしいと遺言したなどがあるそうです。
”知る人ぞ知る”でしょうかね。

参考:【新宿 中村屋】 http://www.nakamuraya.co.jp/index.html

おそらくここからが参道だったのかもしれませんが、現在は県道となっているようです。
ここからまっすぐ進むと大きな古そうな鳥居がありますが、ここからが境内となるようです。
鷲宮神社鳥居と社号標
一旦車を駐車場においてから鳥居のところに戻りました。

この鳥居は、嘗ては「二之鳥居」と呼ばれる二番目の鳥居だったそうで、最初の鳥居、所謂「一之鳥居」は上町と中町の境に存在していたそうです。
現在神社駐車場の近くに「上町農民センター」があることから現在の鳥居周辺が上町、そして鷲宮駅入口交差点の近くの「仲町集会所」あたりが中町だったと思われます。とするとやはりその境は「中村不折」筆の社号標があったところと推測されますね。
まあ、当然といえば当然かもしれませんが。

鳥居の右側には2つ目の大きな社号標が立っています。こちらも「武蔵国 鷲宮神社」と刻まれていますが、こちらは徳富蘇峰の筆によるものだそうです。
2つ目の社号標
「徳富蘇峰」は明治から昭和にかけて活躍したジャーナリストで、歴史家でもあり評論家でもあったそうで、特に記述する必要もないほどの著名人です。
ただ、先ほどの「中村不折」もしかりですが、どのような敬意でこの2人が書くことになったのかはわかりませんが。

さて鳥居をくぐって参道を進むと左側に神社縁起と文化財についての案内板がありましたが、今ひとつ理解しにくいので、社でいただいたパンフレットから引用します。

由緒略記
当神社は出雲族の草創に係わる関東最古の大社である。神代の昔に天穂日宮とその御子武夷鳥宮とが、昌彦・昌武父子外27の部族等を率いて当地に神崎神社(大己貴命)を祀り、さらに天穂日宮の御霊徳を崇め、別宮を建てて奉祀したのに始まる。
崇神天皇の御世には、太田々根子命が司祭し、豊城入彦命、彦キ島命御諸別王が、それぞれ幣帛を奉納した。影行天皇の御世には、日本武尊が当社の御神威を崇め尊み、社殿の造営をし、あわせて相殿に武夷鳥命を奉祀した。桓武天皇の御世には、征夷大将軍坂上田村麿が、武運長久を祈り奥州鷲の巣に当社の御分社を奉祀した。
中世以降には、関東の総社また関東鎮護の神として、武将の尊崇が厚く歴史上有名な武将だけでも藤原秀郷・源義家・源頼朝・源義経・北条時頼・北条貞時・新田義貞・小山義政・足利氏歴代・古河公方・関東官僚上杉氏歴代・武田信玄・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康等があげられ、武運長久を祈る幣帛の奉納や神領の寄進、社殿の造営等がなされた。
江戸時代には、400石の神領を与えられ、歴代将軍の朱印状が残されている。
明治天皇の御世には、神祇官達により准勅祭社に定められ、勅旨参向のもと幣帛の奉納がなされた。そして明治天皇行幸の際、当社に御小憩され祭祀料として金一封を賜り、昭和天皇の御世にも幣帛を賜った。
終戦の後、神社本庁包括宗教法人として氏子崇敬者の尊信を専らにしてかわることなく今日にいたっている。』(鷲宮神社パンフレットより)

非常に歴史のある神社であることは判るのですが、もう少し時系列に並べてみます。
紀元前97年~同68年:第10代天皇・崇神天皇の御世
71年~60年:第12代天皇・影行天皇の御世
781年~806年:第50代天皇・桓武天皇の御世
建久4年(1193)11月:源頼朝の神馬奉献、社殿造営
建長3年(1251)4月:北条時頼の神楽奉納
正応5年(1292):北条貞時の社殿造営
応安5年(1372):小山義政の社殿修復

このような歴史の流れが記録に残っているということに驚きを感じます。
更に、これだけ歴史あるということもともかく、歴代著名武将の列記も相当な兵ども達です。なんといっても名前変換が一発ですから!

いずれにしても2000年以上の歴史を持つ神社ということになりますが、嘗て訪れた埼玉県の古社といえば【大宮氷川神社】か【金鑚神社】でしょう。
氷川神社の由緒は第五代・孝昭天皇の頃とあるので紀元前475年~紀元前393年ころです。また日本武尊が東征のおり立ち寄って祈願したとも言われています。
一方、金鑚神社は日本武尊が東征の帰途、天照大神と素盞嗚命を祀ったのが始まりといわれていますので、ここは影行天皇の時代71年~60年と考えられますね。

そうなると本来、神崎神社を創建した頃に遡ることになるわけですが、さすがにこれは日本神話の話で、初代神武天皇の在位、紀元前660年?紀元前585年の更に前ということになり、確かに関東最古(埼玉県以外は調べていないが)に限りなく近いのでしょうが、若干無理があるとも思えます。
まあ、あえて言えば関東最古級といっておいたほうが無難でしょうね。

参道を先に進むと狛犬が参道の両側に鎮座していて、その先に竹の柵で囲われた木が植えられています。
参道
これには「八幡太郎・源義家 駒つなぎのさくら」と立て札が立てられていました。
駒つなぎのさくら
おそらく前九年か後三年か東征の行きか帰りか立ち寄って馬をつないだのでしょうね、きっと。

源義家については東京北区の【平塚神社(ミステリーウォーク2009)】や【勿来の関(いわき里帰り旅行)】でも義家が関連していますので、もうずいぶんとお馴染みです。

隣にはやはり囲いのついた古そうですが、華麗な形状の燈篭があります。
金燈篭
文政12年(1829)年に奉納されたものだそうで、江戸末期の香りです。銅製のようですが、正式には「金燈篭」というそうです。

参道をはさんでその反対側になにやらの石碑があります。「鷲宮堀内遺跡」と刻まれた碑です。
鷲宮堀内遺跡碑
そもそも鷲宮は太古の昔は海沿いであったことから神社の土地から約12000~10000年前の土器が出土し、加えて6000年前頃の縄文時代の住居跡も見つかったことから複合遺跡と呼ばれているそうです。

石碑の先には小さな池と鳥居と石碑があります。
みひかりの池みひかりの池

みひかりの池
古来よりこの池には、龍神様がお住まいになられていると言い伝えられてきました。しかし、永い年月の間に風雨等により土砂が流れ込み、池が埋もれておりました。
境内整備事業の一環として、平成11年より、古来の御神池に復元すべく土砂の搬出をしておりますと、池から湧き水が溢れ出て、龍のような雲が空を覆いました。その時に
「天まで光り輝くような池」
というご神託を受け、池の名を光天之池と名付けました。
こちらの鳥居よりご参拝ください。 社務所
光天之池石碑 針谷重威謹書』(現地案内板より)

昨今流行の都市伝説とでもいうのでしょうか。池から湧き出る水は当然あるでしょうし、龍のような雲もありがちです。2つを組み合わせて都市伝説とは若干苦しいものがあると思えるのですが。しかし、5,60年後には霊験あらたかな「光天之池」になっているのでしょうね、きっと。

この先の木々に囲まれてちょっと判りにくいところに「明治天皇御用水之井」石碑があります。
明治天皇御用水之井の石碑
”明治天皇行幸の際、当社に御小憩され祭祀料として金一封を賜り…”の件の時に飲まれた水の井戸ということでしょうか。
ちなみにこの石碑を書いたのは「菅原正敬」とありますが、これは徳富蘇峰のペンネームだそうで、ほかに大江 逸、大江 逸郎、山王草主人、頑蘇老人、蘇峰学人などのペンネームを持っているそうです。

社務所前を過ぎると一際立派な石塔がありますが、これが「寛保治水の碑」だそうです。
寛保治水の碑

寛保治水碑  県指定史跡
所在地:鷲宮1-6-1 鷲宮神社
指定日:昭和3年3月31日
鷲宮神社の拝殿前にある灯籠型の記念碑。高さ2.6mの石灯籠に「刀禰上流以南修治告成り碑」と記し、長文の文字が刻まれている。
寛保2年(1742)8月、利根川が氾濫し、江戸市内にも達し、幕府は諸大名に堤防等の修築を命じた、その中で、羽生、騎西領を含めた上利根川南側の地域を担当した毛利家の工事は、特に困難を極め、人足100万人以上を要した。その完工記念にたてられた碑で、当時の難工事の様子が詳しく記されている。
なお、文章は江戸時代中頃の代表的儒学者である服部南郭の撰文である。』(鷲宮神社オフィシャルサイトより)

意外ときれいな状態で驚きました。
きれいといえば、少し前から随分と天気が良くなってきました。このまま好天気が続いてくれると良いのですが。

そして石碑の先には「力石」なるものが置いてあります。
力石
この「力石」とは文字通り力試しに用いられる大きな石で、日本では鍛錬と娯楽として、江戸時代から明治時代まで力石を使った力試しが行われていたそうです。
「力石」にも大雑把ではあるけれど規定があるらしく、石の形は表面が滑らかな楕円形が多く、滑らかな石は持ち上げにくいが体に傷をつけずにすむからだそうです。
ほとんどの力石は60キログラムより重いといわれているのは、米俵より軽くてはわざわざ石を用意する意味がないという事であるらしく、上限は様々で、中には300キロに達するものもあるそうです。
この「力石」は山や川原で手ごろな大きさの石を見つけて村に持ち帰ったもので、重さが異なる石を複数用意することが多かったようです。置き場所は神社や寺社、空き地、道端、民家の庭など様々であったが、若者が集まるのに都合が良い場所であったのは当然でしょうね。
また、石に文字を刻むことも盛んに行われたようで、石の固有名や持ち上げた人の名前などの記念を刻んだものなどあるそうですが、大半は無銘のため慣習と記憶が薄れるとただの大きな石と区別がつかなくなるという悲しい結末を持っている石なのです。
この神社の「力石」はそれとして明記されているのでまだ、幸せなのでしょうね。

実に様々なものがあるなあ、と感心しきりでしたがまだありました。なんと源頼朝御手植の「もっこく」です。
源頼朝御手植の「もっこく」
治承4年12月10日と書かれていますから、1180年ということで鎌倉幕府成立前のことで、約830年前ということです。
当然ながら、約830年前の「もっこく」の残骸とでもいうのでしょうかね。でもここまではっきり日付がつけられていると何か根拠があるのでしょうね。
これ結構”目が点”状態です。

いろいろ驚くやら、感心するやら、一応これにて参道がおわります。
目の前には社殿がありますので、まずは参拝に向かいました。

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