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町立郷土資料館 #1

鷲宮神社を後にして次の目的地「鷲宮町立郷土資料館」に到着したのはPM1:00少し前でした。
ここは朝、鷲宮町にきたときのコスモスロード沿いと言っても良いほどの近さです。
コスモスロードコスモスロード
天気もかなり良くなったので、ちょっとコスモスふれあいロードを歩いてみて再びコスモスを堪能してみました。

「鷲宮町立郷土資料館」は「鷲宮町立図書館」内にある資料館です。
鷲宮町立郷土資料館
2階建てのそれほど大きな建物ではありませんが、それなりに立派です。
1階が図書館で2階が資料館になってます。

2階に上がったロビーには「鷲宮神社神楽殿」の神楽演目の模型が置かれています。
さすがに”神楽の里鷲宮”です。
※久喜市立郷土資料館(旧鷲宮町立郷土資料館)からの無断利用抵触ご指摘のため写真削除 2011/1/18

埼玉県内の神楽
現在、埼玉県内では75件の神楽が行われており、そのうち50件が文化財として指定されています。(内訳は国指定2件、県指定4件、各市町村指定44件)。
国指定は鷲宮催馬楽神楽・秩父神社神楽、県指定は坂戸の大宮住吉神楽・貴布祢神社神楽・萩日吉神社神楽・玉敷神社神楽です。国・県指定神楽を初めとした県内の神楽の多くは、出雲流と呼ばれる同じ分類に含まれますが、全く同じような神楽というわけではありません。例えば、催馬楽神楽は舞(踊り)を中心とした神楽ですが、大宮住吉神楽は劇(演劇)の神楽であり、芸風そのものが異なっています。

鷲宮催馬楽神楽と江戸の里神楽
鷲宮催馬楽神楽は、江戸を初めとして関東各地に広まったことから関東神楽の源流と呼ばれています。しかし、形を変えずに伝わったのではなく、江戸において能や歌舞伎などの影響を受け、演劇的で、滑稽な動きのある神楽へ変化していきました。大宮住吉神楽が演劇的なのは、江戸の里神楽の影響を受けているからなのです。

県内各地の神楽の様相
県南部・東部:
県南部・東部に伝承されている神楽は、演劇的な江戸里神楽の系統が多く、「~社中」と呼ばれるいくつかの専業の神楽師団体が各地の神社を廻りながら奏演しています。また、内容は江戸の里神楽と同様ですが、神社の氏子が神楽を覚え、自らの鎮守にのみ奉納している場合もあります。お囃子とセットで行われることも多いようです。
県西部(秩父地方):
秩父地方の神楽は、秩父神社・貴布祢神社・白久(徳丸)・根古屋(里宮)・両神という5つの系統に分かれています。その中で一番数が多いのが秩父神社系の神楽です。秩父神社の神楽は、主に明治時代以降に各神社へ伝わり、現在休止中の神楽も含めて秩父郡域周辺に17件も伝わっています。
県北部:
児玉・大里両郡には金鑚神楽と名乗るいくつかの団体が存在します。かつては3つの系統に分かれる全く別々の団体でしたが、明治15年(1882)、武蔵国二ノ宮である金鑚神社(児玉郡神川町)に伝わる神楽(大宮住吉神楽の系統)を中心として再編・統一され、金鑚神楽として総称するようになりました。全盛期には13団体が金鑚神楽を名乗り、活動していました。』(館内案内パネルより)

白久や金鑚神社にも神楽があったとは知りませんでした。
この様に埼玉県内でも数多い神楽の中でも国指定として存在し、かつ関東神楽の源流とまで言われている鷲宮催馬楽神楽の存在の大きさを改めて知りました。

企画展:鷲宮神社の歴史をさぐる

ロビーを抜けると展示室があり、「鷲宮神社の歴史をさぐる-3」という企画展が開催されていましたので、まずはこちらから観覧することにしました。
※久喜市立郷土資料館(旧鷲宮町立郷土資料館)からの無断利用抵触ご指摘のため写真削除 2011/1/18

開催にあたって
鷲宮町は、鷲宮神社の門前町として古くから発展をしてきました。鷲宮神社の歴史は、鷲宮町の歴史・文化を理解する上で欠かせないものとなっています。
鷲宮町立郷土資料館では、その歴史を紹介するため平成14年度に「鷲宮神社の歴史をさぐる」、平成19年度に「鷲宮神社の歴史を探る2」と題した企画展を行ってきました。
町では今年6月、鷲宮神社と深い係わりのある針谷家と速見家に伝わる古文書群を町の文化財として新たに指定しました。今回の企画展では、指定文化財となった両家の古文書を紹介するとともに、前回までの企画展では紹介できなかった鷲宮神社所蔵資料などを展示することにより、神社の創建から現代に至るまでの歴史や伝承を紹介します。
最後になりますが、展示会の開催にあたりご協力賜りました皆様に厚くお礼申し上げます。
平成21年9月19日 鷲宮教育委員会 教育長 鹿児島金衛』(館内案内パネルより)

貴重な機会を得ることができました。なかなかこう言った文化財などはそう容易く目に入れられるものではありませんから、非常にグッドタイミングでした。
順路は時代ごとの変遷で、まずは鷲宮神社の創建神話の時代からです。

鷲宮神社の創建神話
鷲宮神社の創建神話には、次のようなものがあります。
出雲国から関東に来た天穂日命、武夷鳥命の親子は鷲宮の地を拠点とし、土師部の人々を率いて関東の開拓にあたりました。天穂日命らは鷲宮に大己貴命を祀りましたが、後に人々は天穂日命らも祀ったため、、鷲宮神社の本社には天穂日命と武夷鳥命、神崎社には大己貴命が祀られています。
また、社名の由来は、土師部の人々が創建した神社なので、当初は「土師宮」としていたものを、後に訛って「鷲宮」になったと伝えられています。』(鷲宮神社の歴史をさぐる-3 解説パンフレットより)

ここには天保14(1843)年に鷲宮神社大宮司の大内国政によって記された鷲宮神社の由緒である「鷲宮迦美保賀比」と鷲宮神社領の代官を務めた針谷家に伝わる自家の系図である「サイ(草かんむりに刺)萱氏系図」が展示されていて、江戸時代に刷り物として書かれたものだそうです。
※久喜市立郷土資料館(旧鷲宮町立郷土資料館)からの無断利用抵触ご指摘のため写真削除 2011/1/18

どちらも天穂日命が来た時のことや、祀られたいきさつなど上記の創建神話が書かれているそうですが、特に天穂日命・武夷鳥命が率いてきた昌彦・昌武親子が針谷氏の先祖だったとは興味深い話です。

またもう一つ「宝永4年銘棟札」という1707年に鷲宮神社の本殿や鳥居を再建した際に作成された棟札で、これには神社の祭神についての記述があるそうです。
いづれも江戸時代のものながら、神話時代のことが書かれた貴重な文化財です。
※久喜市立郷土資料館(旧鷲宮町立郷土資料館)からの無断利用抵触ご指摘のため写真削除 2011/1/18

次の時代が実際に鷲宮神社が歴史上に登場した時代です。

歴史上への鷲宮神社の登場
鷲宮神社が歴史上に登場するのは、「吾妻鏡」に記述が見られる鎌倉時代初期からです。「吾妻鏡」の記述により鷲宮神社が鎌倉幕府から崇敬されていたことが窺えます。
しかし鎌倉時代の鷲宮神社について記した文書等は、「吾妻鏡」以外には再建時の棟札しか発見されておらず、神社の詳細な動向などは分かっていません。
近年、鷲宮神社境内で鎌倉~戦国時代の遺物が採集されており、新たな視点からの鷲宮神社の歴史の解明が期待されています。』(鷲宮神社の歴史をさぐる-3 解説パンフレットより)

「吾妻鏡」とは鎌倉幕府の歴史を記した歴史書で、治承4(1180)年の源頼政の挙兵から文永3(1266)年の鎌倉幕府6代将軍宗尊親王の将軍解任・京都への追放までを記していて、寛文8(1668)年に木版刷で出版されたものです。
鷲宮神社の記述は建久4(1193)年の記事を最古として、建仁3(1203)年、承元3(1209)年、建長3(1251)年、建長4(1252)年の5件記載されているそうです。
※久喜市立郷土資料館(旧鷲宮町立郷土資料館)からの無断利用抵触ご指摘のため写真削除 2011/1/18

また、同時に「剣頭文軒平瓦」という瓦の破片がありますが、これが新たな遺物ということですね。
※久喜市立郷土資料館(旧鷲宮町立郷土資料館)からの無断利用抵触ご指摘のため写真削除 2011/1/18

次は鎌倉時代から一気に戦国時代にトリップします。

戦国時代の鷲宮神社
全国的には応仁元年(1467)に起こった応仁の乱からが戦国時代とされていますが、関東地方ではそれより早い享徳3(1455)年に起こった享徳の乱から戦国時代に入ったとされています。
戦国時代の鷲宮神社周辺は、当初は古河公方の勢力下にありましたが、やがて北条氏(後北条氏)の勢力下に入りました。天正8(1590)、豊臣秀吉が北条氏を滅ぼすと、関東地方には徳川家康が入り、戦国時代は終わりを告げました。』(鷲宮神社の歴史をさぐる-3 解説パンフレットより)

ここでは「足利成氏願文」「北条氏印判状」「徳川家康判物」が展示されています。

右の「足利成氏願文」は武運長久祈願と凶徒退治成就のあかつきの寄進約束状で、左の「足利政氏書状」は政氏から頼まれた祈願を行った鷲宮神社に対する返礼です。
※久喜市立郷土資料館(旧鷲宮町立郷土資料館)からの無断利用抵触ご指摘のため写真削除 2011/1/18

「北条氏印判状」は北条氏から武器・兵糧の運搬の命令書です。
※久喜市立郷土資料館(旧鷲宮町立郷土資料館)からの無断利用抵触ご指摘のため写真削除 2011/1/18

また、「徳川家康判物」は400石寄進を約束した文書で、このように時の権力と密接に係わりあっていた様が理解できる貴重な資料なのです。
※久喜市立郷土資料館(旧鷲宮町立郷土資料館)からの無断利用抵触ご指摘のため写真削除 2011/1/18

この時代のエピソードも展示されています。上杉謙信と徳川家康とのエピソードです。

越後上杉氏と鷲宮神社
越後国を本拠地としていた上杉謙信(長尾景虎)は、永禄3年(1560)に小田原を本拠地としていた北条氏を討つために、関東地方に兵を出しました。小田原城を包囲するまでになりましたが、北条氏を討つまでには至りませんでした。このとき、北条氏側に付いていた鷲宮神社の領地の一部が、上杉方に押さえられたようです。
また、徳川家康が上杉景勝を討ちに会津へと向かう途中、利根川を渡ろうとして橋が流れそうになったところを鷲宮神社神主の大内泰秀が引き留め、家康から褒賞されました。』(鷲宮神社の歴史をさぐる-3 解説パンフレットより)

上杉氏との経緯が記載されているのが「文禄4年再興棟札」です。これは文禄4(1595)年に社殿を再興したときの棟札ですが、裏面の記述に、永禄3(1560)年に長尾景虎(謙信)が関東に侵攻して来た際、鷲宮神社領であった本大室と辻(現在の加須市)が景虎側に付いたと記載されています。
鷲宮周辺では羽生や関宿も謙信側に付いたため、北条側の鷲宮周辺は一触即発の状態だったようです。実に緊迫感が伝わってきそうな資料です。
もう一つは家康から褒賞された「銚子と盃」(パネル展示)でした。
※久喜市立郷土資料館(旧鷲宮町立郷土資料館)からの無断利用抵触ご指摘のため写真削除 2011/1/18

また、このコーナーには更なるエピソードとして鷲宮神社の神主であった大内家についても展示・解説がなされています。

大内家
大内家は、江戸時代を中心に鷲宮神社の神主を代々務めていた家です。「大内氏系図」によると、大内家は藤原氏の一族で、平将門を討った藤原秀郷の末裔です。平安時代中期頃の当主、頼定が下野国芳賀郡の大内荘の領主となったために、大内を名乗るようになりました。
大内家がいつから鷲宮神社の神主を務めていたかは不明ですが、戦国時代頃ではないかと考えられています。神主と共に武将も兼ねており、神社領の領主として活躍しました。』(鷲宮神社の歴史をさぐる-3 解説パンフレットより)

ここには「大内氏系図」と「伝・大内家婦人の箱」が展示されています。更に「明暦3年棟札」には鷲宮神社の神主は二條大納言安世の孫が代々継いできたそうですが、この棟札を書いた大内秀勝より6代前から、大内家によって継ぐようになったと書かれているそうです。どのしてそうなったのかは不明ですが。
※久喜市立郷土資料館(旧鷲宮町立郷土資料館)からの無断利用抵触ご指摘のため写真削除 2011/1/18

時代は江戸時代になります。400石の土地を神社領としていた時代です。

江戸時代の鷲宮神社
江戸時代の鷲宮神社は、徳川家康から寄進された400石の土地を神社領としていました。大内家を神主として、家来、社家、神楽役などによって神社祭祀、神社領の支配などを行っていました。
神仏が習合していた江戸時代には、鷲宮神社の境内には大乗院などの仏教寺院がありましたが、唯一神道の立場を採った鷲宮神社は大乗院以下の寺院を一度破却しました。しかし、大乗院は幕府に対して大きな影響力を持っていた僧侶の力により再興され、鷲宮神社と大乗院は対立を続けました。』(鷲宮神社の歴史をさぐる-3 解説パンフレットより)

ここには寛政3(1791)年の「鷲宮神社境内図」があり、大内氏の屋敷は約3900坪もある広大なものだということが窺われます。
※久喜市立郷土資料館(旧鷲宮町立郷土資料館)からの無断利用抵触ご指摘のため写真削除 2011/1/18

また、「社家等御朱印書付写」や「下新井郷検地帳」などにより大内家の支配力の強さを証明しているようです。
※久喜市立郷土資料館(旧鷲宮町立郷土資料館)からの無断利用抵触ご指摘のため写真削除 2011/1/18

このときの大乗院との関係をあらわしたのが、「大乗院由緒書」というもので、宝永5(1708)年の文書で、前半に破却以前の大乗院を取り巻く状況、後半に元禄4(1691)年の再興後の状況を記しているものです。内容が結構興味深いものです。
※久喜市立郷土資料館(旧鷲宮町立郷土資料館)からの無断利用抵触ご指摘のため写真削除 2011/1/18

『…この由緒の記述によると、かつて大乗院は七堂伽藍を備え、神社には90の末社があり、12の供僧寺院がありました。しかし、文禄年間(1592~1596)頃から衰えて供僧寺院は6に減ってしまい、寛文年間(1661~1672)の始めに神職の美作(大内美作秀勝)が唯一神道を習って諸堂を破却したとあります。
また、そのことを知足院(護持院)の隆光(5代将軍綱吉の帰依を受けていた僧侶)が知り、大乗院の再興に尽力したことも記されています』(鷲宮神社の歴史をさぐる-3 解説パンフレットより)

神仏習合は知っていましたが、対立していたとははじめて知りました。
全国的にはどうなのでしょうね、多くの寺社で対立していたのでしょうか。ちょっと気になりますね。

そしていよいよ明治以降の鷲宮神社の時代となります。

明治時代以降の鷲宮神社
明治元年、鷲宮神社は神祇官直支配となる准勅祭社になりました。また、明治維新後すぐに政府は神仏分離の命令を出します。そのために大乗院は明治2年に廃寺となりました。神主の大内氏の世襲が認められなくなるなど、明治時代の初めに鷲宮神社は大きく変容しました。
その後、鷲宮神社は県社となり、周辺地域の人々の崇敬を集めました。』(鷲宮神社の歴史をさぐる-3 解説パンフレットより)

鷲宮神社が准勅祭社となった指令書が「神祇官書状」です。
※久喜市立郷土資料館(旧鷲宮町立郷土資料館)からの無断利用抵触ご指摘のため写真削除 2011/1/18

時の政府は武蔵国一宮である氷川神社(さいたま市)を勅祭社とし、12社を准勅祭社としたそうです。
勅祭社とは天皇の使者が例祭の際にお供え物を奉じる神社のことで、准勅祭社はそれに準じるという神社です。12社のうち10社は日枝神社や神田神社・富岡八幡宮などの旧江戸府内にあった神社で、残りの2社が六所宮(現府中市の大國魂神社で当時は武蔵国内にあった)と鷲宮神社だったそうです。
しかし、その後明治4年に官・国幣社以下の社格制度が確立して、勅祭社・准勅祭社制度は短い役割を終えたそうです。

最後が冒頭の挨拶にあった針谷家と速見家の古文書が展示されています。
※久喜市立郷土資料館(旧鷲宮町立郷土資料館)からの無断利用抵触ご指摘のため写真削除 2011/1/18

針谷家文書・速見家文書
鷲宮町には、国による指定2件、県による指定7件、町による指定15件の計24件の指定文化財が所在しています。そのうちの半数にあたる12件の文化財が、鷲宮神社と直接、或いは間接的に関係のある文化財です。
今回の企画展で紹介している針谷家文書、速見家文書は、平成21年6月3日、それぞれ新たに町指定文化財となりました。
針谷家は鷲宮神社の門前通りに所在しています。鷲宮神社創建期に天穂日命らと共に鷲宮の開拓にあたったと伝えられており、江戸時代には鷲宮神領の社領代官・名主を務めていました。針谷家に伝えられた文書は、鷲宮神社や大乗院等の動向を示す「?萱氏系図」「供僧大乗院より差出候書付之写」などの史料が含まれており、神社の由緒を解明する上で大変貴重な史料群です。近世から近代の文書が162点残されています。
一方の速見家も鷲宮神社の門前通りに所在しています。元は豊臣秀頼の家臣でしたが、大阪城落城の後に大内家を頼って鷲宮へ移住してきたと伝えられています。江戸時代には大内家の家来として代々側用人を務めており、明治時代には副戸長なども務めていました。速見家に伝えられた文書は、幕末から明治初期の文書が多く残り、特に幕末の鷲宮神社の領地支配の実態を示す文書が残されています。速見家文書も神社の由緒を解明する上で大変貴重な史料群です。近世から近代の文書が242点のこされています。』(鷲宮神社の歴史をさぐる-3 解説パンフレットより)

所謂、触りだけという展示です。第1回、第2回を見ていないのですが、あわせれば相当な史料でしょう。
しかし壮大な歴史絵巻のような事実に圧倒される思いです。
これだけ見に来ても十分その労力に見合うのではないでしょうか。全く大変貴重なものを見させてもらいました。

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