久喜市散策

郷土資料館を出たのがPM1:00過ぎでした。
ここで昼食をと、少し遠いのですが久喜市にある蕎麦屋に向かいました。
久喜市は鷲宮町の隣接市で、東武伊勢崎線の鷲宮駅からは南へ一駅の距離です。車でも県道3号線で20分程度でしょうか。
目指す蕎麦屋は久喜駅近くにあります。もうすぐ美味い蕎麦がきっと食べられることでしょう。

石挽手打めん処 風庵

県道3号線を南下し、久喜駅入口の交差点を左折し久喜駅方面に向かい、最初の信号を左折し少し進むと右折沿いにお目当ての「風庵」があります。

建物は比較的新しそうですが、「挽き立て、打ち立て、茹で立て」と書かれた大きな看板が店のポリシーなんでしょう。
風庵

PM2:00少し前だったので店内はすいているようです。
風庵
店内もかなりきれいで、座敷と椅子席があり、30人くらいまでは入れそうな比較的大きなお店です。

十割そばがあるようですが、今回はこの店の人気商品とあった「かきあげそば」をオーダーしました。
生桜えび入りでボリューム満点と書かれてありました。
7~8分程度でしょうか、結構早く出てきました。見るからにおいしそうです。
風庵かきあげそば
そしてその「かき揚げ」は驚きのかき揚げで、この縦だか横だか分からないような厚さを見れば確かにボリューム満点でしょう。
風庵かきあげ
早速いただきます。蕎麦はさっぱりとした感じですが、こしの強さはなかなかいい感じです。
ちょっと甘めの出汁は私ごのみです。
蕎麦の量が若干(といっても普通の人なら十分でしょう)少ない感じですが、かき揚げの量で逆に一人前としては多いかもしれません。 かき揚げも挙げたてのサクサクでおいしいですね。
蕎麦・かき揚げ共に堪能してアッサリの蕎麦湯で〆て950円ですから、なんともリーズナブルです。
他にも人気の商品がいくつかあるようですから、久喜を通る(結構機会が多い)時には又寄ってもいいかもしれません。
気持ちもお腹も満腹・満足で店を後にしました。

足利政氏館址

「風庵」を出て本来は最後の目的地「百観音温泉」に向かう予定でしたが、「風庵」を地図で調べていた際、すぐ近くに「足利政氏館址」という史跡マークがついていたので寄って見ることにしました。
車で2,3分のところです。
それほど大きくはない総門があります。
総門
総門の横には「足利政氏公墓同館址」と刻まれた古そうな石碑が立っています。
足利政氏公墓同館址碑

甘棠院
所在地 久喜市本町7-2-28
甘棠院は、臨済宗円覚寺派に属する寺で、山号を永安山と称し、本尊は釈迦如来である。
古河公方足利成氏の子政氏が永正16年(1519)当初に移り住み館を寺とした。開山は政氏の子(一説には弟とも言う)の貞巌和尚である。天文17年(1548)火災のため堂宇を焼失しているが、翌18年再建され、天正19年(1591)には、徳川家康より寺領百石の朱印地を賜っている。現在の寺域はおよそ7500平方メートルで、空堀がめぐらされ、土塁も一部残されている。
境内には足利政氏の墓があり、高さ113センチメートルの五輪塔には「享禄4年(1531)7月18日甘棠院殿吉山道長大禅定門」と刻まれており、館跡と共に県指定史跡になっている。
また、同寺には国指定重要文化財紙本着色伝貞巌和尚像がある。この画像には「月庵柵源直朝」の落款があり、作者は戦国時代の幸手城主で歌人でもあった一色直朝である。そのほか歴代住職の頂相や絹本着色足利政氏像、、国認定重要美術品の十三版木と九曜菊散双雀鏡など貴重な文化財が所蔵されている。
昭和62年3月 埼玉県・久喜市』(現地案内板より)

鷲宮郷土資料館でも「足利成氏願文」などの文化財がありましたが、この足利成氏や政氏という人物を調べてみる必要がありそうです。
足利成氏は1438年生まれで室町時代の武将です。この当時は室町幕府が第6代将軍足利義教の時代です。 そして成氏は足利家の嫡流足利将軍家の分家にあたり、第5代の鎌倉公方でした。
この鎌倉公方とは、室町時代に室町幕府の征夷大将軍が関東十ヶ国における出先機関として設置した鎌倉府の長官で、正式な呼び名は「鎌倉御所」「鎌倉殿」と呼ばれたそうです。しかし、そういっても鎌倉公方の実態は将軍から任命される正式な役職ではなく、鎌倉を留守にしている将軍の代理に過ぎないようです。
ちょうど成氏は鎌倉公方5代目ですが、歴代の公方は京都の幕府と対立していた経緯があり、4代公方持氏のとき永享の乱を起こし、関東管領(上杉氏)とも対立したのですが敗れ、自害させられたため一旦断絶していたのですが、成氏が幕府から鎌倉公方就任を許されて復活しました。
しかし、蛙の子は蛙で、成氏もまた幕府および関東管領と対立し享徳の乱を起こし、この乱を約30年間戦い抜き関東の戦国時代の幕開けと言われたのでした。
享徳の乱の当初は成氏の優勢で推移していたのですが、幕府の支援により上杉氏が反攻により成氏は鎌倉を放棄し下総古河を本拠地としたので、これを古河公方と呼ぶようになったそうです。つまり成氏は初代古河公方ということになります。

1489年、その成氏の家督を継いだのが子の政氏です。したがって2代目古河公方となります。
家督をついでから政氏は両上杉氏(扇谷と山内)の対立に際して、父成氏と同じ路線を進むことによって、関東での武家棟梁の地位の維持を図ったのですが、結局、その路線が裏目となり、息子(長男・高基、次男・義明)らとも対立する羽目となったのです。
長男・高基との争いに敗れ古河城を失い小山氏の下に落ち延びることとなり、結果、高基と不利な形で和睦し、公方の座を譲り出家した上、武蔵久喜の館で引退することとなったのです。
引退した政氏はこの館に永安山甘棠院を開山して、開基には貞巌和尚を据えたというのは、案内文の通りです。
その後、政氏は享禄4(1531)年7月18日、甘棠院で逝去したそうで、戦国時代の敗将の最後の地という謂れのある史跡ということです。

総門を抜けて参道を進むと山門があります。
山門
風情としては戦国時代そのものの城門のような雰囲気です。わずかに残った塀が古の時代を醸し出しています。
ちょうどこの山門の左右に当時の空堀が残っています。
こちらは山門に向かって右側に伸びる空堀です。
空堀
そしてこちらが左側の空堀です。
空堀
この空堀は昭和48年(1973)の発掘調査で、幅10m、深さ5m、そして45度の傾斜を持つ箱薬研堀で、堀は関東ローム層の滞水層まで掘り下げてあり、当時の水位は約2mくらいの水堀だったことが判明しているそうです。
随分と埋まってしまったということですかね。

山門を抜けるとまた正面に中雀門があります。
中雀門
この中雀門の先に本堂がありますが、ここからは入ることができませんので参拝はまたの機会といういうことです。
本堂
中は樹木がうっそうとしているので、本堂すべてを見ることができませんし、本堂前の何やら大きな石塔も意味不明です。

この門から左手に鉄製の門があります。
鉄製の門
この鉄製の門には総門の前にあったものと同じ紋があしらわれています。
調べてみると(調べなくても本当は察しがつくはずなのですが…)これは「二つ引き両紋」と言う足利尊氏の紋だそうです。
ま、所謂足利家ということでしょう。
こちらの門も開かないので中に入ることはできないようですが、檀家や信徒はどうするのでしょうかね。前もって連絡してから…、な、訳ないですよね。

ちょうど案内板があり、先程の甘棠院の案内板にも記されていましたが、文化財の一覧が掲載されていました。
まずは重文の「紙本著色伝貞巖和尚像」です。
紙本著色伝貞巖和尚像《写真:(C)久喜市オフィシャルサイト》


『国指定重要文化財 紙本著色伝貞巖和尚像 指定年月日 大正3年4月17日
縦90.4cm・横46.7cmの軸装(掛軸)、椅子に坐った僧の全身像で彩色、落款(署名)は、「月庵作」、印「源」「直朝」とあり、賛はない。
作者は古河公方足利氏の重臣で、幸手城主一色直朝である。彼は和歌集「桂林集」の作者で、武将であるとともに優れた文化人でもあった。貞巖昌永は古河公方第2代足利政氏の子息(一説には弟)で、甘棠院を開いた人である。なお、甘棠院には、第19代に至る歴代の頂相(肖像画)が遺されている。 』(久喜市オフィシャルサイトより)

更に国認定の重文が2つあります。
一つが「十三仏版木」です。
十三仏版木《写真:(C)久喜市オフィシャルサイト》


『国認定重要美術品 十三仏版木 指定年月日 昭和23年4月27日
縦85.7㎝・横35.3㎝、最上部に天蓋と主尊虚空蔵、その下に4段3列に十二仏を配置する。「時永正十二(1515)年乙亥二月彼岸日刊」の銘がある。この版木で十三仏を刷って信者に配布したもので、十三仏板石塔婆とともに中世の信仰の重要な資料である。 』(久喜市オフィシャルサイトより)

もう一つが「九曜菊散双雀鏡」です。
九曜菊散双雀鏡《写真:(C)久喜市オフィシャルサイト》


『国認定重要美術品 九曜菊散双雀鏡 指定年月日 昭和24年4月13日
銅製の和鏡で室町時代作である。直径22.5㎝、裏面に大菊を中心に8つの菊をまわりにめぐらす九曜菊を三方に散らした幾何学的な文様をもち、紐(中央のつまみ部分)の上部に向き合った雀を配置する。足利政氏夫人の愛用されたものと伝えられる。 』(久喜市オフィシャルサイトより)

それ以外に、 県指定有形文化財「絹本着色足利政氏像」「縹糸威最上胴丸具足」「源氏車紋鞍(付障泥・鐙・轡)」「道憲作十文字槍」があるそうです。
勿論、現在いる「足利政氏館址及び墓」は大正14年3月31日、埼玉県指定史跡に指定されています。
そして「五輪塔」があるはずですが、中に入れないので見ることはできないようです。
しかし、墓地内を巡っているとちょうどその「五輪塔」の裏側に行くことができます。
五輪塔
ありがたいことにブロック塀は低く作られ、きちんと「五輪塔」を見ることができるようになっています。さすがに古そうな「五輪塔」ですね。

そして墓地の西側(左側)にも水堀跡があり、ここも一部ブロック塀が低くなっているので、堀に下りることができるようになっています。それなりの深さを感じ取ることができますね。
水堀跡

食事のついでに寄ってみた館址でしたが、かなり貴重な史跡でした。

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