鳥居観音 #1

名栗湖を後にして次なるは「鳥居観音」に向かいます。
車でも15分くらいでしょうか、かなり近い場所にありました。ちょうど先週の14,15日が紅葉まつりで、先週と今週の土日は名栗湖から鳥居観音まで無料のシャトルバスが運行されているようです。
本書の説明にもあったとおり旧埼玉銀行頭取の平沼弥太郎が白雲山に開いたとあるとおり、特に歴史ある寺院というわけではないようです。鳥居観音のオフィシャルサイトでの説明です。

『埼玉県の名栗村に存在する「白雲山鳥居観音」は埼玉百選に選ばれた観光名所でもあり、四季を通して楽しめる観音様で、西遊記でお馴染みの「玄奘三蔵法師霊骨」が祀られていることでも有名です。
鳥居観音は何方でもお詣り頂けます様にと、わざとどの宗派にも属さない(とらわれない)宗派を超えた単立寺院と言い、鳥居観音独自の宗教活動を行っております。
野鳥の声を聞き、澄んだ空気を満喫しながらのハイキングは最高です。春の花や秋の紅葉は特に素晴しく又、北野武監督の映画「Dolls(ドールズ)」も鳥居観音参道で撮影が行われたことで知られております。』(鳥居観音のオフィシャルサイトより)

単立寺院とは初めて聞く用語ですが、意外と身近にあるもので、 著名な寺院・神社では鎌倉の長谷寺、日光東照宮、明治神宮、靖国神社などがこれにあたるそうです。
何となく興味を惹かれそうな鳥居観音です。

鳥居観音本堂

県道53号線を北上すると、左側に駐車場と山門が見えました。結構現代的なすっきりとしたデザインの山門です。
鳥居観音山門
山門をくぐって参道を進むと広いスペースの境内に出ます。
目に付いたのが次の看板でした。

鳥居観音本堂屋根修復事業 ご寄進のお願い
ご参拝ありがとうございます。
昨年、埼玉県の「二十一世紀に残したい埼玉ふるさと自慢100選」の中に、「名栗湖と鳥居観音」が皆様のご推挙により選ばれました。
その本堂が、最近雨漏りも多くなり、本尊ならびに貴重な作品に損傷を生じるため、銅版平板葺きに改修することにしました。
そこで、ご参拝者皆様のご理解とご協力を得、一口(銅版1枚)2000円、出来ましたなら1口以上のご寄付を仰ぎ、そこに寄進者のお名前をご記入賜り、この銅版を持って本堂屋根を葺き上げ、皆様のご芳志を永久に保存致したく存じております。
何とぞご協力のほど、宜しくお願い申し上げます。山主合掌』(境内案内板より)

今回ここを訪ねたのは「…埼玉ふるさと自慢100選」なのですが、実際、これが選ばれたのが2000年で、この看板では昨年の出来こととなっていますから少なくても7~8年経過しているということです。
気長な寄付待ちということですが、これだけ立派でも結構台所は大変なんでしょう、きっと。宗教法人といっても怪しいものを販売しているわけではないでしょうからね。
と、まるで寄進したようないいかたですが、きっぱりお断りしました。現在我が家に金銭的余裕はありませんので。

境内から階段を昇った先に本堂があります。
鳥居観音本堂
まずは参詣をしますが、今回はこのお賽銭のみでご容赦願います。

鳥居観音本堂
建立:昭和32年5月
構造:総桧造り、飛鳥朝風様式を加味したもの。内陣は鉄筋コンクリート造り、防火扉装置。
屋上:天下る天女像(避雷針、ブロンズ像)<原型 沢田政広作>
正面扉:厚さ8ミリの硝子の内側に金泥で大法輪を画く。<小川潮人画>
硝子窓:海の幸、山の幸を画く。<互井開一画>
天井斜面絵:観音様の在します補陀落山の模様。<野生司香雪画>
格天井絵:現代画壇の一流大家、二十八名の画。
前机(卓):脚部と迦陵頻伽(妙音鳥)の彫刻にて支え、その翼が高欄を代用している。<平沼桐江刻>
内陣:天井に白鳳凰(巾1.5m、長さ5.5m)四隅に櫻珞形照明を吊るし、斜壁、及周囲に天女舞、正面に如来像、菩薩九体を配した曼荼羅(凡て木彫)を祀り、須弥壇の四隅に護法神である四天王(東方、持国天。西方、広目天。南方、増長天。北方、多聞天)を配置す。<平沼桐江作>
正面の仏壇に次の仏像が祀られる。
聖観音:<脇侍・帝釈天、梵天>(総高2.27m)平沼桐江作
如意輪観音:(総高2.78m)平沼桐江作
准胝観音:(総高1.45m)平沼桐江作
不空羂索観音:(総高3.84m)平沼桐江作
千手観音:(総高3.67m)平沼桐江作
馬頭観音:(総高1.66m)平沼桐江作
十一面観音:(総高3.09m)沢田政広作作
この本堂の仏像は殆ど開祖平沼先生(元埼玉銀行頭取・元参議院大蔵委員長)の謹刻されたものであります。
亡母の遺志を継がれて、昭和15年聖観音(脇侍像共)を刻彫して以来仏刻を続け、山林を開拓植樹し、諸堂等を造立して、わが国寺院の歴史に類例のない霊場を残され、昭和60年、93才で逝かれました。
人間の能力を越えてのご心魂とご善根が、そのまま幽邃な鳥居観音に脈打っていると思えてなりません。 合掌
白雲山鳥居観音』(境内案内板より)

更に本堂には各観音の説明があります。

『鳥居観音ご本尊 七観音菩薩 全国にある観音様の代表七体の観音様
聖観世音菩薩:広い大きな慈しみのお心を持って私たちの苦しみを除き安楽を下さる仏様
如意輪観世音菩薩:私たちの願いや望みを満たし苦しみからお救い下さる仏様
十一面観世音菩薩:観音様の持つそれぞれの能力を十一のお顔で表し私たちを見守って下さる仏様
准胝観世音菩薩:女性の仏様で、災いを除き、命を長らえ子供さん達を守り又病からお守り下さる仏様
馬頭観世音菩薩:昔の交通機関馬等をお守り下さる仏様
不空羂索観世音菩薩:大いなる慈しみのひもで生死の苦しみにもがく私たちをお救い下さる仏様
千手観世音菩薩:千種類の慈しみの手、千種類の慈しみの眼を持って私たちをお見守り下さる仏様
大黒天:仏教の守護神で厨房・台所に祀られ豊かさを願う七福神の一人
どうぞ堂内にあがりお参り下さい。 山主合掌』(本堂案内板より)

ということで、とにかくここには菩薩のスーパースターが勢ぞろいしているということです。ですから救えない苦しみは無い!という勢いのありそうな本堂です。
しかも、堂内にあがってお参りしてよいという、なんとも開かれた寺院です。
そう言われてしり込みする必要も無いでしょうから、ここ本堂に上がらせていただきます。

まずは、先ほどの七観音の説明のあった案内板の後ろにある本堂の窓の絵が互井開一画の「海の幸、山の幸」なのでしょうね。
互井開一画の「海の幸、山の幸」
何となく現代絵画ですよ、イメージ的に。
本堂にあがると正面に仏壇があり、確かに所狭しとスーパースター達が鎮座しています。
本堂内
単純に考えて通常の7倍の観音様がいるのですから、願いも7倍のパワーがあるっちゅうことです。
格天井絵や天井斜面絵、前机(卓)も見て取れます。
また、外陣の左側に「大黒天」が祀られ、右側には「三界萬霊」が祀られています。
大黒天三界萬霊
この聞きなれない「三界萬霊」とは一体何なのでしょうか。
「三界」とはで欲界、色界、無色界という仏教での三つの世界観の総称だそうです。
そして「欲界」とは欲望(食欲・性欲・睡眠欲など)にとらわれた生物が住む世界のことで、いわば我々人間や動物、或いは亡者などが住んでいる世界、いわば煩悩の世界とでも言えば判りやすいかもしれません。
次の「色界」の”色”とは”物質”の意味で、欲望を離れた清らかな物質の世界のことです。食欲と淫欲を断っていて男女の区別がなく、光明を食しているそうなので、当然「欲界」よりも上のランクにある世界です。しかし、情欲と色欲(物質欲の意味)は残っている発展途上でもあるようです。
そして「無色欲」は当然最高部に位置し欲望も物質的条件も超越し、ただただ精神作用のみ住む世界のようです。
そしてこれらの世界に住む凡ての精霊を供養しているといったところでしょうかね。

これだけの高名な観音様が集まっているのですから、内装もそれなりにしなければなりませんのでしょうが、ちょっとキッチュ感も否めませんね。
天井画
少しヒッチコック的めまいが起きそうなので、これにて本堂を出ますが、あまりのパワーに押しつぶされそうな予感は…無い!
天下る天女像
外に出て冷静に眺めると、屋上に確かに「天下る天女像」がおりました。
いわゆる天女が逆立ちしている、って私ではなく家内がそう言ってました。罰当たりが…
何か、くらくらする位見所満載でした。

鳥居観音境内

本堂を出て再び境内に戻ると、まだまだ興味深いものが色々とあるようです。
地蔵堂
小さな堂は「地蔵堂」です。

『地蔵堂 子育地蔵尊 平沼桐江謹刻
このお地蔵様は生まれた子供さん達が元気に又健やかに育ちますようにと願いを込めて彫られたものです。
お参り下さる皆様方も子供さんの成長を祈りお手を合わせ下さい。 昭和17年4月建立 山主合掌』(境内案内板より)

ひねくれて成長したわが娘の成長の修正は出来ないものでしょうかね。

その左奥に2体の銅像があります。この銅像が平沼弥太郎氏の銅像で、隣は奥様の銅像のようです。
平沼弥太郎氏の銅像
平沼弥太郎氏二ついては本書の説明で多少紹介されていますが、もう少し詳しく調べてみることにします。
しかし、そう言ってみたものの意外と詳細なプロフィールはないもので、まあ、かいつまんでということになります。

生まれは説明にもあったとおり当時の名栗村で、1892(明治25)年6月12日生まれで、1912(明治45)年、京華中學校を卒業しています。おそらくこの京華中學校は現在の京華中学高等学校で結構名門でしょう。確か裏手に東洋大学があったはずで何回か東洋大には行ったことがありますから。黒澤明監督なども卒業生だったようですね。
京華中學校卒業直後の仕事については、不明ですがおそらく父の平沼源一郎氏が当時の飯能銀行初代頭取でもあったことから飯能銀行に務めたのではないかと推測できます。
そこで、先にしておかなければならないことがこの「飯能銀行」です。
最初の第1次飯能銀行は1886(明治19)年6月に設立され、1892年に解散したそうです。しかし1900年ごろから飯能周辺での織物産業が勃興期を迎えた頃、地元銀行の設立が求められ1901(明治34)年6月に第2次飯能銀行が設立されたのです。このときの頭取が先の平沼源一郎氏です。そして第2次飯能銀行は順調に発展し、荒川の水運で木材を運び出していたことから1917(大正6)年には東京府南千住町(現在の荒川区)に支店を開設したり、複数の地方銀行やその支店を買収して規模を拡大していったようです。したがって平沼弥太郎氏が入行したであろう1912(明治45、大正元)年頃は順調に業績を伸ばしつつある時期と考えることができます。
こうした幼少期から青年期を見ると、平沼家および平沼弥太郎氏はかなり恵まれた境遇の中で育っていたことが窺えます。
そうしてついに1932(昭和7)年に今度は弥太郎氏自身が第2次飯能銀行の取締役会長(頭取制がなかったようです)に就任したのでした。このように弥太郎氏は家庭に恵まれていて、本人の才能・努力もあってか銀行内でもひたすらエリートコースを歩んだようです。
この頃の弥太郎氏についてのエピソードが残されています。
当時、飯能銀行は1912(明治45)年に設立された「武蔵野鉄道」(現在の西武鉄道池袋線)に多額の融資をしていました。「武蔵野鉄道」は1915(大正4)年に現在の西武池袋線の一部である池袋-飯能間を開業し、1922(大正11)年に池袋 - 所沢間、1925(大正14)年に飯能までの全線を電化し、1929(昭和4)年に吾野まで開業させたのでしたが、不況の影響から経営難となる状態でした。
これで融資が固定化した飯能銀行は信用が急激に低下したため、一時は経営破綻寸前まで追い詰められたようです。
そして1932年取締役会長に就任した弥太郎氏は、東武鉄道と西武鉄道との間で武蔵野鉄道の経営権が取り合いになった機に乗じて、武蔵野鉄道に対する債権を西武が持っていた土地と交換することに成功し、飯能銀行の経営を立て直したそうです。
西武はこれによって東武との争奪戦に優位に立ち、後に武蔵野鉄道を合併することになるのだそうです。場合によっては東武鉄道が走っていたかも知れないのですね。

立ち直った飯能銀行でしたが、戦時色の濃くなった1936年、飯能町にあったもう一つの銀行である「武蔵銀行」とともに大蔵省の検査により合併を勧奨され、1937年合併したのでした。これが第3次飯能銀行となります。
この合併により弥太郎氏は1937年一旦会長を退任しますが、1942(昭和17)年、第3次飯能銀行の取締役となり、翌年の1943(昭和18)年1月には会長就任で再びトップの座に就いたのです。
それもつかの間、第2次世界大戦真っ只中の戦時統制の一環で、川越市に本店を構える旧国立銀行の八十五銀行と、渋沢栄一が設立に深く関与した民営の武州銀行、更に忍町(現在の行田市)に本店を構える忍商業銀行と飯能銀行(本店:飯能市)が1943(昭和18)年7月に合併し、埼玉県に本店を置く普通銀行と貯蓄銀行を統合した「埼玉銀行」となり、この合併により弥太郎氏は埼玉銀行取締役となったのです。

そして終戦を迎え、戦後の時代になり第1回参議院議員選挙が1947年4月に行われ、平沼弥太郎氏は当時の日本自由党から出馬したようです。このときの備考には山林業・県議となっていますので、すでに県会議員だったのですね。
埼玉選挙区としては定数4のところ立候補者は6名でした。投票結果は147,784票を獲得して2位当選を果たしました。このとき弥太郎氏56歳でした。 ちなみにこの時トップ当選した小林英三氏とは川口市の鋳物組合理事長だったそうで、妙なところで地元の名士が表れてきたものです。勿論、存じ上げませんが。
現在の参議院選挙半数改選の最初の選挙だったので、この1回目だけは上位当選者が任期6年、下位当選者が任期3年だったそうです。弥太郎氏は4人中2位ですから6年任期となったのでした。但し参議院議員は1期のみで、改選時には立候補していないようでした。
そして国会議員となった2年後の1947(昭和24)年には埼玉銀行の頭取となったのでした。
まさに順風満帆とはこのことでしょうかね。

そんな平沼弥太郎氏にも好事魔多しの如く不運が見舞います。1961(昭和36)年に起こった「武州鉄道汚職事件」でした。
この汚職事件の主人公は横田基地や立川基地からのスクラップ転売で巨万の富を築いた「滝島総一郎」という人で、当時の国電中央線三鷹駅と埼玉県秩父市を結ぶ全長62.3キロにおよぶ鉄道建設に夢をはせ、関係財界人や沿線市町村長を集めて発起人総会を開催し総代に選出された事から始まるのです。 この発起人には、元国鉄総裁や大映社長永田雅一氏らの大物に混じって埼玉銀行頭取の平沼弥太郎氏も含まれていたのでした。
総代となった滝島総一郎は「武州鉄道」として(実際に埼玉県には武州鉄道が存在していたそうですが、それとは違うそうです)早速、計画書を作成し申請を行いました。しかしこの時点で西武鉄道が「武州鉄道」より早く西武秩父線を申請していたため、両者の路線が競合する形となったのです。
こうなっては黙っていられない西武鉄道は「武州鉄道」の」計画の曖昧さを指摘したり、反対陳述などを起こしたりと巻き返しを図り、またまた沿線住民の一部から騒音や事故を心配した反対運動もおこり、「武州鉄道」の計画が窮地に追い込まれることとなりました。
だが一方で滝嶋は、政界と繋がりのある発起人に資金を渡して工作を依頼したり、賄賂を渡すなど強行な経営で突き進んでいたため、これを見かねた埼玉銀行は発起人から脱退し、滝嶋も発起人総代を追放される事態となったのです。
そしてついに1961(昭和36)年4月、西武鉄道に西武秩父線の免許が認可され、「武州鉄道」の計画はご破算ということで、これにて一件落着となるはずだったのです。
しかし、驚くべきことにその年の7月に池田勇人内閣の運輸大臣であった木暮武太夫から「武州鉄道」に免許が交付されたのでした。 当時の鉄道免許の審議には通常3~4年掛かるものが、申請からわずか2年で免許交付が出ること事態異例なことでした。
これは先の政界工作の効き目であったわけで、実際には池田勇人内閣の前の岸信介内閣の運輸大臣であった楢橋渡に合計2450万円の賄賂を贈り、楢橋が鉄道行政関係者に口利きをしたことで免許が下りたという事実があったからのようです。
この免許がおりた直後から東京地検特捜部が捜査に着手し、青梅地区での用地買収にからむ贈収賄に端を発し、後は芋づる式に不正が暴かれ、最終的には元運輸大臣の楢橋まで含め総勢 18人が逮捕される大汚職事件となったのでした。

このあたりの逮捕劇をもう少し詳しく調べてみます。
1961(昭和36)年9月4日:滝島総一郎、贈賄容疑で逮捕。
1961(昭和36)年9月20日:元運輸相楢橋渡衆院議員出頭、収賄容疑で逮捕。また、文子夫人も逮捕。
1961(昭和36)年9月21日:大映社長永田雅一が召喚され贈賄で逮捕。
1961(昭和36)年9月25日:埼玉銀行平沼弥太郎頭取が召喚、不正融資の疑いで拘留。
1961(昭和36)年10月25日:これまでに18人逮捕されていたうち、滝島総一郎、楢橋渡、永田雅一、平沼弥太郎ら12名が起訴。
そして最終的に最高裁まで審議され有罪判決を受けたのは、滝島総一郎(懲役2年)と楢橋渡(懲役2年執行猶予付き)の2名だけだったのでした。
現職大臣在任中の犯罪で有罪になったのは戦後初めてという歴史を残して「武州鉄道汚職事件」は幕引きとなったのでした。

ある意味では全く不幸な、不運な出来事と言えなくもないであろうが、やはり銀行のトップとしては責任を取らざるを得ないであろうことは明白で、事実、1961(昭和36)年11月、平沼弥太郎氏は頭取を退任したのでした。
これ以降、昭和60年に亡くなるまでの20数年間については調べられませんでしたが、恐らくこの鳥居観音に精力を傾けていたのかもしれませんね。そう想像してもおかしくない半生でしたので。
ちなみにその後の「武州鉄道」は1962年に代表者を変更して会社設立されたそうですが、資金調達が不調で鉄道計画は自然消滅し、免許は1975年度に法的に失効し未成線となったようです。その間の1969年に西武秩父線が開通したのでした。

目を転じて本堂の下には「水かけ観音」が立てられています。
水かけ観音

『「観音さま」とお名を称えながらお像に水をかけ自分の体の悪いところの身代わりとしてお洗いすると、その功徳によって治ることが出来るといわれます
こうした信仰から、永年の患いから救われ、齢百才の長寿を完うされた広瀬様の母堂への供養のためこの石仏が寄進されました。
寄進者 朝霞市 広瀬秀雄殿』(現地案内板より)

こう言った観音さまは結構色々なところにあるようで、最近ではこう言ったものに出会うと、つい眼を洗ってしまうんですね。
信仰で治れば、手術費60万円助かるのですがね。

その後ろに「蹲踞及び台石の縁起」というものが書かれています。

『蹲踞及び台石は東京上野寛永寺に徳川家光公の墓があり、その墓前に慶安4年(1651)4月11日、水戸光圀公の父君に當る徳川房公が奉献せられた銅燈籠の礎石なり。
茲に観音石像とともに寄進するものなり
昭和50年9月吉日 埼玉 朝霞市 廣瀬秀雄』(現地案内板より)

モノを知らないというのは恐ろしく無駄なことで、この「蹲踞(つくばい)」がどういったものかが判らなくで、とにかくこの案内板の近くにあるモノを手当たり次第写真を撮っておきました。
水かけ観音
でもって、結局後で調べたらこれ、所謂手水鉢だったのですね、「蹲踞(つくばい)」って。
そもそも“蹲”(通常一文字で表しているようです)とは、茶室の入口などに設けてある低い手水鉢のことで、茶道の習わしによりお客が這いつくばるように身を低くして手を清めたことから、この低い手水鉢を“蹲”と言うようになったそうですが、現在では手水鉢を中心に意味のある石などで囲まれた全体のことをそう呼ぶそうです。
それでは台石とは…といわれるとこれがまた良く分かりませんが、このあたりの石でしょう(と、やや自棄気味…)。
それにしても、このまん丸の石は何か意味があるのでしょうかね、ちょうど案内板の前にあったので何か意味があると思っていて気にはなっていたのですが…。
まん丸の石

境内だけでも色々あるなあと感心しながら駐車場に向かいます。案内板には救世観音まで徒歩で40分、車で10分とあったので勿論車で行くためです。
「ここでハイキングしてどないするねん」といったところでしょうか、ものぐさ夫婦としては。
駐車場に戻る途中に建物があり「連理館」と書かれていました。
連理館

連理館縁起
この館には開祖平沼弥太郎先生が、鳥居観音の建立に生涯を傾けられた縁の遺品を収納してあります。
亡き母信行院供養のため、ご自分で仏像を刻んでお祀りして以来、次々に仏刻を重ね、諸堂等を造立し、山を開拓荘厳して、わが国屈指の霊場を残されましたが、このことは偏に仏のお加護、先祖の恩愛、近親江湖の厚い協助によって円成されたものであると生前敬虔に拝謝されました。
別々の木が縁によって結ばれ、一つの年輪を刻んだとの古語「連理」を選んで館名とし、故人の受けられた縁の品々をも併せご覧いただいて、鳥居観音の建立と、精魂を?された故人を偲んで戴きたいとしたものであります。合掌
平沼先生略歴 埼玉銀行頭取 他  参議院大蔵委員長
昭和60年8月12日逝去93才 白雲山 鳥居観音』(現地案内板より)

入れるのか入れないのか良く分からなかったので、とりあえずここはスルーして救世観音に向かうことにしました。
何が飛び出してくるのでしょうかね。

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