鳥居観音 #2

境内と本堂を見ただけで、まるで霊場ワンダーランドですね、これは。ある意味ではどえらいものを作り上げたもんだな、と感心しきりです。
さて、境内駐車場をでて5分ほどでハイキングコース(と呼ばれているようです)の入口に到着です。
「納金所」(という言葉も始めて見ました)と書かれた案内看板があり、普通車1台500円と書かれていて、その左側には係りの方が納金を徴収していました。
納金所
マイクロバスは1000円でバイクは300円だそうで、有料道路(事実そうゆうこと)みたいです。
納金していよいよハイキングコースを登ります。
かなりの急坂です。50ccのバイクで上がれるのでしょうか、心配になるほどの急坂です。
名称はハイキングコースとなっていますが、基本は境内…なのでしょうかね。とすれば随分広い境内と言えるでしょう。

急坂を登ると途中に何やら門のようなものが。中華風雰囲気が漂う門で「玉華門」というそうです。
玉華門
急坂の途中にあるので、車を止めて見ましたが車からは降りずにさっと眺めて先に進みます。

先には本の2~30メートル一通となっていて、またそこから坂を上ります。足腰に自信のない方、努々歩いていこうなどと思ってはいけません。痛い目にあいそうですから。
更にヘヤピンカーブの途中に又も何やら建造物があるもんだから、思わずヘヤピンカーブを曲がりきることが出来なくて、切り替えしてしまった私が、情けない。
これは「大鐘楼」でした。
大鐘楼で、
勝手に突いて良いみたいでしたが、ここも車からは降りずに先に進みました。
暫くいくと広い駐車場に出て、白い大きな建物が見えてきました。

玄奘三蔵塔

この白い綺麗な塔は「玄奘三蔵塔」というそうです。
玄奘三蔵塔

玄奘三蔵塔建立縁起 建立昭和35年12月 高さ33m
塔建立の由来
昭和17年日支事変当時、日本軍により中国南京郊外に巨大な石棺が発掘され、これが仏教の偉人玄奘三蔵法師の頂骨とわかり、中国政府により丁重な霊骨塔が建立され、その式典に参列した日本仏教代表の水野梅暁師に贈呈された分骨を、この鳥居観音に奉安することとなった。
塔建立の大要
鳥居観音は有縁有志の協力を得て、五年有余を費やして、白亜三層の塔を建立した。特にこの設計には意をもちい第一層を日本様式、第二層を中国様式に、第三層を印度様式と、法師ゆかりの寺院建築様式をとり入れたものである。
玄奘法師の略歴
玄奘三蔵法師(西暦602~664)は、今から千三百四年前、急報の年止み難く凡ゆる艱難辛苦を冒し、遠く印度に渡り17年に亘り仏跡を巡拝し、多くの国王高僧に面接し、数百巻の仏典を祖国中国に持ち帰り、20年に亘り経典の翻訳に専念し、1385巻という超人的経文を完成して仏教の大躍進の基礎をつくり、日本仏教の興隆の祖と崇敬されております。
その不屈の研究心と逞しい実践力による行動は、かの有名な「西遊記」を通じ今日尚津々浦々で親しまれております。
この玄奘三蔵塔の建立によって、法師の偉大な功績と恩徳が偲ばれ、かつその聖徳が世界平和に普ねかんことを祈念するものであります。
合掌
昭和35年12月8日 白雲山 鳥居観音』(現地案内板より)

鳥居観音のオフィシャルサイトによると、日中印の三層は屋根の形にあるのだそうです。第一層が四角形で日本式を表し、第二層は八角形の中国、そして第三層が十六角形で印度ということだようです。
玄奘三蔵塔
その程度だとあまり違和感はないですよね。結構自然に受け入れられます。

さてそこで、この玄奘三蔵の遺骨の発見や分骨について調べてみました。そこにはかなり遠大なストーリーがあったようです。
現在一般論的に語られている玄奘三蔵の遺骨は14ヶ所に保存されているといわれています。
このそれぞれに遺骨が渡った経緯には、それぞれのドラマがあり、かつその時代の政治、社会を反映したかのような物語があるようで非常に興味深い内容です。

この玄奘三蔵は前述されたように「西遊記」であらましプロフィール的な半生は多くの人が知っているのですが、その最後となると一般的には馴染みがないようです。
玄奘三蔵は664年2月5日、玉華宮というところで亡くなりました。玉華宮は中国のほほ中央に位置している当時長安のあったところで、現在では玄奘三蔵の仏典翻訳の地として観光地化されているそうです。
そして遺体はその玉華宮から長安の大慈恩寺に運ばれ、法要をされた後4月15日に長安東郊産河白鹿原に葬られ,5年後、唐の高宗皇帝の詔によって遺骨は南郊外の興教寺に移されたそうです。そしてここに塔が建てられ永遠に名前をとどめるべく供養されたのでした。
永遠なる供養はホンの僅かな期間だけで、その唐時代の末期に農民蜂起により興教寺の三蔵塔は破壊され、以降実に1000年以上行方知らずとなったのです。その遺骨が発見されたのが明のころで、1686年黄福燈という人達が遺骨を元の石棺に戻して天嬉寺の塔に祀ったようです。ここで、1000年以上も行方知らずだったものが何故発見されて、それが間違いなかったのかどうかは定かではないようです。しかしいずれにせよ、この塔も1854年太平天国の時代の何度かの戦乱により破壊され、同時に遺骨も再び姿を消すこととなったのでした。

この2度も行方不明となった玄奘三蔵の遺骨を発見したのが、前述された日中戦争の最中の日本軍でした。
1937年12月、国民党軍隊が南京から撤退し,高森介隆の引いる日本軍の軍隊が南京中華門外雨花台にある一つの兵器工場に進駐し、1942年、その工場の裏山に参拝用の稲荷神社を建てるため、土砂を掘っている途中で、奇妙な地層が発見されたのでした。
日本政府は専門家を組織して発掘作業を行うと、約3.5m下に石榔が発見されました。
石榔の内側の大きさは59cm×78cmで、深さは57cm。そして石榔の中には石棺があり、その石棺の大きさは51cm×51cmで深さは30cmでした。その石棺の蓋は煉瓦で作られていて、石棺の両側には文字が彫り付けられていました。 その文字の内容は、北宋時代の天聖5(1027)年の法要と明の洪武19(1386)年の法要の内容でした。
そして、その石棺の中には銀で作った小箱1ケ、鋳造された小箱1ケ、玉1点、銅器(茶碗、鼎1点、燭台1点)、磁器(青磁の瓶2点、青磁香炉と青磁皿各1点)、貨幣(破片も含めて計300点以上)と共に、頭蓋骨の一部(耳の部分が付いている頭蓋骨の一部)が見つかり、専門家の鑑定により、その頭蓋骨が玄奘三蔵の遺骨であることが判り、この石棺が玄奘三蔵の遺骨を納めている石棺であると確認されたのでした。
こうして玄奘三蔵の遺骨は再度姿を現したのです。

当時の日本軍はこの遺骨を日本に持ち帰る考えでしたが、諸般の事情により中国政府との交渉が行われた結果、日中双方で遺骨を分けて供養することで合意したようです。
その合意内容は、
1.一部を南京に残して玄奘湖五州に塔を建てて供養する
2.もう一部を北平(現在の北京)の弘福寺で供養する
3.残った遺骨は日本に持っていく
というものでした。

この合意に基づいて各地で供養が行われました。
南京に残された遺骨は3つに分けられ、南京霊谷寺、南京覆舟山頂上の三蔵塔、南京博物院に安置・保存されたそうです。
北京に送られた遺骨もまた3つに分けられ、北平法源寺の大遍覚堂、北平北海の九龍壁新塔の地下、天津の大悲院でそれぞれ供養されたようです。更にその中の一部が成都文殊院蔵経楼霊骨塔に保存されたということです。
それでは日本に持っていく分はどうしたかといえば、日本仏教連合会会長蒼村秀峰法師が、この遺骨を受け取るために訪中し、まずは埼玉県の慈恩寺にて供養されたのでした。

その後1955年には日本にある頭蓋骨を半分台湾に返却することとなり、台湾の著名な観光地日月澤青龍山で玄奘寺を建て霊骨を安置 されたそうです。
また、1956年、周恩来総理がインドを訪問した際、当時のインド総理ニホル氏は玄奘三蔵が五年間留学したナレンダ寺を修復し、玄奘学院と命名することを提案したことにより、一粒の玄奘の舎利をインドに分けたそうです。
そして、1981年には埼玉県の慈恩寺から一部が奈良の薬師寺へと分骨され、更に1984年、玄奘法師がなくなった1320周年を記念するため、その奈良の薬師寺住職高田好胤法師が日本に保存されている玄奘の頭蓋骨の一部を分けて、訪中し陜西興教寺の住職常明法師に手渡して、改めて玄奘塔に安置されたようです。
このように中国では北京法源寺、北京北海公園、南京霊谷寺、南京覆舟山、南京博物院、上海法蔵寺、成都文殊院、韻関の南華寺、台湾玄奘寺、西安興教寺,西安大慈恩寺の11ヶ所、日本では慈恩寺、薬師寺の2ヶ所、そしてインドの玄奘学院の14ヶ所で安置・供養されていると言われているようです。

そういった状況の中で、この鳥居観音にも玄奘三蔵の遺骨があるということは、恐らく日本国内で分骨されたわけではないので、オフィシャル的には一般論とはなっていないのかもしれませんね。
いずれにしても日本では3ヶ所しかない玄奘三蔵の遺骨ということで、大変貴重な施設ともいえるでしょう。

「玄奘三蔵塔」の前には「玄奘三蔵像」が立っています。
玄奘三蔵像
まさに西遊記の姿なのでしょうかね。

塔の1階部分は入れるようになっていて、休憩スペースとしてレリーフなどが飾られていました。
1300年以上前の悠久の地、中国へ思いを馳せるひと時…なんと言うのも実に歴史ロマンというんでしょうが、現実的な私としては先に進むことしか考えていませんから、歴史の旅人にはなれませんね。

駐車場に戻るとちょうど三蔵塔の反対側に大きな石碑が立っています。開祖50周年をきねんした平沼夫妻の頌徳碑だそうです。
平沼夫妻の頌徳碑と紅葉
その近くはちょうど紅葉が非常に綺麗です。先週が一番に見ごろだったようですが、それでも結構きれいですね。

紅葉といえば確かに北野武監督作「ドールズ」はここで撮影されたそうですね。私は本編を見ていませんが、TVの予告などでは確かに紅葉が印象に残っていました。
同じ紅葉でもここなら確かに非現実的なイメージが醸し出せるでしょうね。

救世大観音

「玄奘三蔵塔」からはこの鳥居観音のメイン(勝手にメインにしている)である「救世大観音」に向かいます。
「玄奘三蔵塔」のこの場所からも「救世大観音」が見えます。
玄奘三蔵塔からみた救世大観音
歩いて5分とあるのですが、どう考えても5分でいけるとは思えない距離だと思うので車で向かいました。 意外と近くて多分5分であるけそうかな、とも思えます。

さて、間近にみる「救世大観音」は確かに大きいです。
救世大観音

ご案内
●建立:昭和46年11月
●大観音原型、堂内の諸像仏刻者:開祖、平沼弥太郎先生
●施工者:東京 三信工業㈱
●修復:昭和62年11月
造立の概要
この仏像救世大観音は、寺院の本堂にある須弥壇と仏像を、海抜500メートルの当霊地に建てたものである。
堂屋の高さは12メートルで、屋上の大蓮弁の上に身丈23メートルの大観音と、脇立二尊が天空に聳えている。(以下割愛)』
(現地案内板より)

ということでなかなかフレームに収まりきれないほどの大きさに圧倒されるとともに、特に今日は天気も良いので白亜がより輝いているようです。
さて、この堂内に入ることができるので、200円を納めて入ることにしました。 先ほどの案内板にそって見学することにします。

四天王像とレリーフ
四天王四天王像レリーフ

『屋上の四隅には四天王(2.7メートル)が四方を睨んで立ち、外部壁画には観音33応身のレリーフが見る人々に語りかけるように嵌め込まれている。』

エントランス
エントランスエントランス仁王尊

『入口玄関はギリシャ式で、赤色のネジリ柱はクレラ島のクノックス宮殿の逆さ柱を模したもので、その根元に六頭の阿吽の獅子が警護している。
入り口の敷石は、南方寺院で見られる御影石のムーンストン型のものである。
入口の大扉(ステンレス)は三鈷杵を十字に組んだコイ摩金剛をもじった金箔押さえの中心飾りが輝いている。
その両側の仁王尊は、徳川時代の作である。』

和洋折衷というと格調高いが、ややキッチュとしか思えない、自分が悲しいです。

内部に入ると、一種独特の雰囲気に圧倒されます。
一万体観音一万体観音一万体観音
その最たるものがこの「一万体観音」と言われるものです。
よくよく見ると1体ずつ番号が付けられていました。

『特に壁面いっぱいに祀られる一万体観音は、参拝された方々が、ご先祖の霊を観音様の法座の中でご一緒して安らいでいただいきたいとして奉安しているもので、既に一万体を越えて今尚奉安が続けられている。
わが国では稀なことで、誠に尊いご供養である。』

そして正面には「阿弥陀如来」ご一行が鎮座しています。
阿弥陀如来透かし彫りのレリーフ

『内部正面には阿弥陀如来(高さ3.3メートル)と観音勢至の両菩薩の脇立ちが祀られている。
その上部の欄間には、釈迦ご降誕(向かって右)無憂華と、成道(中央)菩提樹と、涅槃(左)沙羅双樹の三大行事を透かし彫りのレリーフで飾られている。』

良くぞここまでつくられたものだと感心しきりです。信仰のパワーのすごさをありありと感じることができます。
堂内の左右に多くの仏像があります。

『他に三十三観音、薬師如来十二神将、不動明王、吉祥天が祀られている。』

「阿弥陀如来」の左側が「三十三観音」で右側に「薬師如来十二神将」が並んでいます。
薬師如来十二神将三十三観音

また、堂内の右奥に「不動明王」、左奥に「吉祥天」が祀られています。
吉祥天不動明王

「三十三観音」の隣には大観音の縮尺版のようなものがあります。
大観音の縮尺版

『アトリエで原型(六分の一)を作り、拡大して原寸大の塑像(粘土)を製作し、その雌型を現地に組建て、人工骨材による軽量コンクリート構造の打ち放しという新しい試みのものである。』

大観音の原型なのですね。それでも結構大きなものです。

そして先ほどの「不動明王」や「吉祥天」でもそうですが、柱が狭い割には異様に多いように感じます。
24本の柱床の模様

『内部の24本の柱によって300トンの大観音を支えているが、中近東遺跡の石柱の重厚さを思わせている。
床の模様も、周囲に調和させた図案である。』

ここまで来ると息を呑む展開にただただあ然とするばかりです。

堂内の中央に階段があります。
中央に階段
上部には様々なものが配されています。
天女八体ステンドグラス各柱の間の欄間

『中央ドームの八本の大柱の上部の梵字の間に花篭を持った天女八体が、螺旋階段に取り付けられてある隠元型吊灯篭と美しい対照をかもしだしている。
中央の丸天井には、金箔の大法輪とその下に諸仏の種字である梵字が24体配してある。
各柱の間の欄間には、仏菩薩のお顔や、観音28部衆等、色々のレリーフが取りつけられている。
上部の窓9箇所のステンドグラスは日本寺院には珍しい試みである。』

仏教に関するありとあらゆるものをジグソーパズルのように組み合わせて、一つのキッチュな世界観を出しているとしか思えません。
こうなると信仰というよりはアートじゃないでしょうかね、ブッダアート。
そして案内板ではこのように締めくくっています。

『この建築は中近東及びインド等の古代様式と、日本寺院様式とをミックスし、更に新しい試みを加えて調和せしめた昭和現代様式ともいえる平沼先生苦心の設計である。』

確かに苦心されたと思います。ただ、素人が手作りで作られた霊場ですが、チープ感がないところがすごいところです。
ある意味芸術家といっても良いのではないでしょうかね。

そして最後に大観音内部を登ります。

『堂内中央の大観音頭部見晴台まで126段の螺旋階段を登ると展望がすばらしい。』

狭い階段で、途中立ち止まると体が左に傾きます。ずっと右回りで歩いているからでしょう。さらに126段結構きついです。
まるで【荒川のそば】で訪れた橋立堂の鍾乳洞を思い出すような、狭い狭い階段を上がると大観音の頭部です。

「ウーーーム、絶景!」といいたいところですが、足がすくんでいます。
高所恐怖症なのは【いわき散策記vol.1】の塩屋崎灯台で経験済みでした。

ちょうど頭部の後ろで、写真の中央上の丸く垂れ下がったものが大観音の耳たぶです。
大観音の耳たぶ
気持ちが落ち着いてくると眺めも綺麗です。
名栗の町
こじんまりとした名栗の中心地も見え、山間の町なのが良く分かります。
しばし恐怖と戦いながらも絶景を見て降りることにしました。
大観音を降りてきて広場のベンチでしばしクールダウンしてから、鳥居観音を後にしました。

救世大観音からは、先ほどの「玄奘三蔵塔」や「納骨堂」などの遠望が見られます。
玄奘三蔵塔玄奘三蔵塔
不謹慎ではあるでしょうが、キッチュでミラクルな鳥居観音は、きっと「国際救助隊」なのです。救世大観音のあるサンダーバード秘密基地かもしれません。
信仰を離れれば、実に興味深く面白い場所です。まさに「仏教パラダイス」とは実に言いえて妙でした。

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