吾野の名刹

国道299号線を北上すると間もなく東吾野駅が左手に現れます。 走っている鉄道は西武池袋線で、299号沿いに走っています。
そして東吾野駅を過ぎて少し先を右折すると最初に目指す「福徳寺」に到着です。

福徳寺

長閑な田園地帯を抜けると今が盛りの桜が出迎えてくれました。
やまめ農園やまめ農園
脇に流れている川は“高麗川”から分かれた支流で、ここでは特設でイベントが行われるようです。 名付けて「やまめ農園」とは一体・・・。
やまめ農園
高麗川で獲れた(獲れるのか?)やまめを振舞うのでしょうか。
まあ、それはともかく「福徳寺」に向います。 いきなりの急坂が既に参道です。
福徳寺
残念ながらここでは由緒などに関する掲示が一切ありませんので少し調べてみました。
創建は建暦2(1212)年で、開山は宝山禅師という僧ですが、現在は無住の寺院で檀家一同で支えられているといっても過言ではないようです。本尊は聖観世音菩薩で本堂に祀られています。
鎌倉時代の寺院が長らく無住でいながら荒廃せずに存続しているのは、勿論檀家一同の援助の賜物ではあるのでしょうが、この参道の左手にある阿弥陀堂の存在もまた大きいといえるでしょう。
福徳寺阿弥陀堂
その優雅な阿弥陀堂を望むことができます。

福徳寺阿弥陀堂付厨子(国指定・建造物)
この阿弥陀堂は、間口、奥行ともに3間4面板壁造りの廻縁付きで、前面は精巧な蔀戸となっています。屋根は銅板葺き宝形造りで、その勾配が美しく、頂には露盤・宝珠が載っています。また内部は後方に寄せて来迎柱をたて禅宗様須弥壇が据えられています。阿弥陀堂の創建年代は明らかではありませんが、様式手法により鎌倉時代中期とされ、藤原期の流れを踏襲した、関東地方でも数少ない和様建築です。一方内陣の須弥壇と来迎壁廻りは室町時代に属するものとされています。また、厨子は檜の白木造りで、簡素で省略も目立ちますが、木鼻の特徴や欄間のすかしなどから、桃山時代前後と考えられています。この厨子には鉄造阿弥陀三尊立像(県指定文化財)が安置されています。
なお昭和31年の復元修理により、整備された主な箇所は以下のとおりです。
・側廻り柱間装備を復旧しました。・小屋組を旧に復し宝形造りに改めました。・茅葺を銅板葺に変更しました。
(飯能市オフィシャルサイトより)

今日は年3回のうちの1回である「降誕会・花まつり」であることからご開扉が行われ、内部の様子や鉄造阿弥陀三尊立像を拝観することができるようです。
福徳寺阿弥陀堂 福徳寺阿弥陀堂 福徳寺阿弥陀堂
高山不動尊の火渡り式が見られない分、こちらを堪能しておきましょう。
してみると、やまめ農園での準備は“花まつり”のためのものかもしれませんね。
内部は殺風景といえばそれまでなのですが、何の装飾も無いシンプルな須弥壇が配置されていますが、建物よりはやや新しさを感じます。
福徳寺阿弥陀堂須弥壇 福徳寺阿弥陀堂須弥壇
めったに見られない良い機会に恵まれました。他の2回は7月16日と11月14日だそうです。
阿弥陀堂の脇には殆ど何も判りませんが、古そうな石仏が安置されています。
福徳寺阿弥陀堂石仏
これも年代モノなのでしょうか。
しばらく阿弥陀堂を眺めてから、本堂を参拝します。
一見したところ庫裏のように見えるのですが、こちらが本堂です。
本堂 本堂
こちらも普段は閉められているのでしょうが、今日は多くの参拝者の方がいらっしゃいます。

参拝を済ませて戻るところで、「ユガテ 古道飛脚道」という道しるべが目に留まりました。
ユガテ古道 ユガテ古道
案内に寄ればハイキングコースとして、この福徳寺から“ユガテ”というところまで、かつて飛脚の通った古道を復活されたものだそうです。
“ユガテ”という奇妙な地名の由来は漢字で「湯ヶ天」と書き、昔は天に吹き上げるほど豊かに湯が湧く村で、桃源郷だったところだだったことから付けられたようです。
但しこれには異説もあり、昭和12年に建てられた石柱の道標には「湯ヶ手」と刻まれていているそうなのです。これは古の時代に、この地と草津の地で毎年ジャンケンをして勝った地の方に湯が出ていたのです。しかしながら、ある年からこの地はジャンケンに負け続け湯が出なくなったことからジャンケンに勝って湯が出るようにという願いから“湯勝って→湯勝手→湯ヶ手→ユガテ”となったとも言われているそうなのです。
現在は民家が2軒あるそうで、季節には花に囲まれた美しい山村なのだそうです。是非行ってみたいと思ったのですが、案内には「50分ほどです・・・」と軽く書かれていましたので120%断念しました。ハイキングが好きな方には美味しい道なのかもしれません。
長閑な環境の中での阿弥陀堂もまた風情のある佇まいでした。

法光寺

「福徳寺」から再び国道299号線に戻り北上すること約10分程度で、次なる目的地「法光寺」に到着です。
寺院の駐車所に車を停めますが、駐車場のすぐ裏手が吾野駅ですから、駅からは目と鼻の先ということになります。
吾野駅
“補陀山”と記載された扁額のある門には立派な仁王像が建立されています。
法光寺仁王門
小振りながらも質感溢れる仁王門です。
仁王門を抜けて境内に入ると左手には鐘楼、右手には綺麗な庭園を見ることができます。
鐘楼 庭園
そして鐘楼の先には2つの梵鐘が置かれています。
梵鐘

この梵鐘は東日本大震災で被災した、宮城県名取市閖上 東禅寺より引き上げ、復興までの期間、当寺にて預かり保管している大梵鐘です。
東禅寺は文敬住職の修行時代の同期生のお寺です。
(現地案内板より)

案内板にはその東禅寺の様子が写真で掲載されていますが、早くこの梵鐘を帰せる日が来ることを願って止みません。
東北震災
でも、こういう話はいつ聞いてもいい話ですよね、同期生といったような縁については。
そして正面に見えるのが本堂です。
本堂

曹洞宗 補陀山 法光寺
補陀山 法光寺は、西武池袋線吾野駅下にある曹洞宗の古刹である。寺伝によると、至徳3年(1386)吾野要害山城主岡部新左衛門入道妙高が、父祖の岡部六弥太(鎌倉御家人)菩提のために始め真言宗の寺院として創建されたと伝えられえる。その後、天正年間(1573~92)に関東曹洞宗の三刹、越生龍隠寺第十二世日峰伊鯨禅師により曹洞宗に改宗されている。
現在の本堂は元禄13年3月25日当寺七世の超岩卓全和尚の代、番匠村の棟梁正木文右衛門家次により再建された物である。(間口11間 奥行7間 総瓦葺き本堂)当寺本尊「延命地蔵菩薩」(木彫寄木造坐像)は県指定重文となっている。
本堂左手に、二階建て民家風の観音堂がある。入口前に二本の石柱が立っており、右側には曹洞宗法光禅寺、左側には武蔵野観音霊場第三十一番札所と書かれている。1階はコンクリートの土間で、正面に武蔵野観音霊場札所本尊の十一面観世音菩薩が安置されており、二階は客殿となっている。また、山門の前には、江戸初期に造顕された「六地蔵尊」が祀られており、地元の人々の信仰があつい。
その他、寺宝の刀剣「福岡一文字」(文化財保護委員会登録(埼)10377号長さ二尺五寸三分)等、その他多数の銘木、銘石を有する。
当山裏山の中腹に、十一面観音(行基の作)を祀る「岩殿観音」がある。石灰岩の石窟で、文和五年(1356)比丘元灯はこの山の霊感に打たれ数百人の協力者を得て石龕を完成したといわれている。(埼玉県重要文化財)
(法光寺オフィシャルサイトより)

岡部六弥太といえば、平安末期から鎌倉時代にかけての武将、御家人で、武蔵七党の猪俣党の庶流・岡部氏の当主です。保元・平治の乱では源義朝の家人として熊谷直実、斎藤実盛、猪俣範綱とともに従軍して活躍し、義朝の死後は故郷の岡部に一旦戻り、治承4(1180)年に義朝の遺児・源頼朝が挙兵すると、それに従うこととなったのです。木曾義仲追討戦の後、源義経の指揮下に入り、寿永3(1184)年の一ノ谷の戦いでは平忠度と組み討ち、討たれそうになるも郎党の助太刀によって忠度を討ち取ったのが最大のエピソードとなっているのです。
こうして名を残した岡部氏は、その後、埼玉県深谷市岡部を周辺に代々続くのですが、室町期になって初めてここ法光寺で、深谷市岡部周辺以外にも足跡を残すこととなったのです。
本尊の「延命地蔵菩薩」については別途解説があります。

埼玉県指定有形文化財 木造地蔵菩薩坐像
飯能市大字坂石町分333番地1 昭和49年5月28日指定
法光寺の本尊である木造地蔵菩薩坐像は像高40.5cm、寄木造りで、胎内銘から至徳3年(1386)、岡部新左衛門入道妙高によって開眼供養されたことがわかる貴重な仏像である。
実人的な面貌表現、複雑な衣文の処理、効率の良い木寄せ法などに、当時の完成された鎌倉彫刻の特色を見せている。着衣の裾を鳥の翼のように台座下に長く垂らした法衣垂下像は、中国宋代美術の影響を強く受けており、年紀をもつ本像は銘文にある鎌倉の宅磨派工房に注文・造立されたものと考えられ、その基準作にふさわしい。銘文には「仏所若狭法眼絵所詫磨掃部助入道浄宏」とある。また同様の像は市内では白子長念寺の木像聖観音菩薩坐像など数多い。
なお、法光寺西の山中には貞和2年(1346)に造営され、板碑による四角塔の厨子を持つ埼玉県指定史跡「観音窟石龕」がある。
平成9年3月 埼玉県教育委員会・飯能市教育委員会
(現地案内板より)

この坐像によって創建年月がわかるという非常に貴重な菩薩像といえるのですが、ここでは少し「宅磨派」が気になるところです。
この解説からはいわゆる仏師ということがわかるのですが、仏師で有名といえば運慶や快慶で知られた“慶派”や、“院派”、“円派”等が上げられるのですが、その中に“宅磨派”は現れません。ということはここに記載されてるほど有名な工房では無いのかと思ってしまうのですが、実は仏師自体の違いがあるようなのです。それは慶派や院派などは、確かに仏師なのですが狭義では「大仏師」といわれ、いわゆる仏像などを製作する流派で、“宅磨派”は「絵仏師」の範疇となり、主に仏教絵画の制作や仏像の彩色などに従事する専門職なのだそうです。したがって広義では仏師なのですが、流派的には慶派などの大仏師とは区別されているようです。
そしてこの宅磨派は、鎌倉時代初期の宅磨勝賀と、その父である宅磨為遠を流祖とし、平安時代の温和な彩色、優美な尊像表現を廃して、北宋仏画に倣った新しい画風を打ちたて、大仏師である慶派などの鎌倉美術の成立にも影響を与えたといわれている鎌倉時代最大の絵仏師流派なのです。
鎌倉の来迎寺にも宅間浄宏作と思われる地蔵菩薩像があり、その胎内銘札によると永徳4(1384)年と記されているようですが、それよりも若干新しいこの坐像が基準作ということは、非常に当時の特色を色濃く残しているという意味でもさらに貴重なものといえるのでしょう。
奥深い歴史を持った名刹です。

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