奥武蔵グリーンライン

「法光寺」を後にして次に向うのが今回の主目的地である「高山不動尊」です。しかしながら冒頭にも述べたように不動尊での“火渡り式”が行われていないので、ある意味では主目的ではなくなっているのですが、自然溢れる飯能の地を訪ねる絶好の機会といえそうです。

顔振峠

「法光寺」から一旦229号線を東吾野方向に戻り、左折して県道61号線を進みます。
途中には盛りの桜などが見られもう一度春を楽しめる風情です。
グリーンライン グリーンライン
しばらくすると県道61号線は一旦終了し、林道権現堂線となり10分ほど進むと「顔振峠」に差し掛かります。
グリーンライン
ここは「奥武蔵グリーンライン」と呼ばれる広域林道なのです。
「奥武蔵グリーンライン」は埼玉県入間郡毛呂山町から秩父郡横瀬町を走る林道の愛称で、林道奥武蔵1号線・林道奥武蔵2号線を中心に林道権現堂線・林道奈田良線・林道丸山線・林道猿岩線・林道笹郷線・林道刈場坂線他に作業林道・合わせて20以上が合流する広域林道なのです。
外秩父山地の尾根沿いを走る林道なので、絶景ポイントは多数あり、全線が舗装されていることもありドライブ・ツーリング・サイクリング・ハイキングなども多く、さらに途中には顔振峠、関八州見晴台、飯森峠、苅場坂峠、大野峠など観光名所も多数ある観光向き名林道なのです。
そして到着したのが「顔振峠」なのです。
顔振峠

義経と顔振峠
顔振(かあぶり)峠のいわれには2通りあり、義経が絶景のあまり顔をふりながら登ったためというものと、お供の弁慶が急な登りに疲れて顔を振りながら登ったというものです。いずれも義経が奥州へ逃れる時にここを通ったとしている訳ですが、義経奥州落ちの経路については北陸を通ったとする説が有力です。
かあぶりは、かむり=冠が転じたのではないかとされており、冠のようにとがった山があるためこのような名前となったものと思われます。
環境庁・埼玉県
(現地案内板より)

北陸説も勿論確定ではないのですが、一般的にいえば“安宅関址=勧進帳”の伝説が広く知られているところから、北陸説以外の説はかなり不利なのは否めないでしょう。まあ、それも一つの歴史ロマンと考えれば、これはこれでまた楽しいものです。
その隣には石碑があります。
顔振峠石碑

顔振峠
標高500m、吾野駅から約4km、黒山東武バス終点からも約4km。この峠は昔義経弁慶主従が余り展望のすばらしさに顔を振り振り眺めたので、この名がついたと云われます。
明治維新の際幕軍の勇士(子爵渋沢栄一の義弟)渋沢平九郎は、飯能の戦いに破れ単身顔振峠に落ち来り峠の茶屋にて草鞋をもとめ、その代価として刀を預け店主加藤たきに秩父路の安全なることを聞くも、遠く故郷大里の空を見て望郷の念止みがたく、すすめるお茶も飲み残して黒山に下りて官軍に遭遇し、
“惜しまるる時散りてこそ世の中は 人も人なり花も花なれ”
と辞世を残して自刃し弱冠22歳の若桜おしくもこの峠の麓に散りました。
春夏秋冬折々の関八州の眺めはつきぬ情致豊かな峠で有ります。
平九郎茶屋 加藤ツチ子
(現地石碑より)

いわゆる戊辰戦争の一つである“飯能戦争”の渋沢平九郎ということですが、以前【飯能まつり】で訪れた際の「能仁寺」に飯能戦争の石碑がありました。その碑文を再度掲載してみます。

飯能戦争
徳川15代将軍慶喜は、慶応3年大政を奉還し、翌4年江戸城を明け渡したが、家臣の中には江戸に残留して抗戦を続ける者も多かった。渋沢成一郎、尾高惇忠らと旗本天野八郎らは同志を集めて「彰義隊」を結成し、上野寛永寺にこもり、官軍との対決を叫んでいた。
しかし、内部では江戸市外で戦おうとする渋沢派と、江戸市内で決戦を主張する天野派との対立が生じ、渋沢派は彰義隊と分かれて「振武軍」を結成した。振武軍は江戸をはなれ上野の彰義隊の動静をうかがっていたが、慶応4年5月15日、官軍の総攻撃にあい、彰義隊壊滅の報を受けた。
そこで飯能に退き、本営を能仁寺に置き、近くの6か寺に兵を配置し、官軍との決戦に備えた。そのため飯能周辺の村々から軍用金や馬、兵糧などの調達を行った。
上野の戦いが終わると官軍は振武軍の追討に向かい、戦いは5月23日払暁、笹井河原での衝突をきっかけに両軍の決戦が開始され、夜明けとともに官軍の大砲が振武軍の立てこもった寺を次々と攻撃した。ついに砲弾が本営能仁寺本堂の屋根に命中して火災を起こし、振武軍は圧倒的な勢いの官軍の攻撃にあい、決死の奮戦もむなしく惨敗した。
渋沢平九郎は顔振峠から黒山に逃れ、そこで官軍の兵士に包囲され、自刃した。
この戦闘は2日で終わったが、古刹能仁寺をはじめ4か寺が焼失、民家200戸以上を焼失した。
地元ではこれを飯能戦争と呼んでいる。
昭和55年3月 埼玉県
(現地案内板より)

この「振武軍」の頭取渋沢成一郎が渋沢栄一の従兄弟で、会計頭取の尾高惇忠が渋沢栄一の義兄なのです。そして渋沢平九郎はもともと尾高惇忠の末弟でしたが、渋沢栄一の仮養子となっていた為、渋沢姓を名乗っていたのです。
この飯能戦争後は一体どうなったのでしょうか。
渋沢成一郎は飯能を脱出した後、箱館で榎本武陽らと一緒に戦い降伏し、その後、赦免され東京商品取引所理事長、北海道製麻会社社長を勤めるなど実業界で活躍したのです。また尾高惇忠は1870年に民部省に出仕し、その後、官営富岡製糸工場初代場長や第一国立銀行盛岡支店長等を勤めたそうです。いずれも渋沢栄一の取り成しによるものであることは容易に想像できるところです。
一方、自刃した渋沢平九郎の遺体は現在の越生の町、今市村でさらし首となり、法恩寺の僧侶によって密やかに林中へと埋葬されたそうです。そして残った胴体も黒山村の人たちによって自刃した場所の近くの全洞院に葬られ「ダッソ様(脱走様)」と呼ばれ崇められたそうです。
その後、世の中が落ち着いたころ、これらの話が尾高惇忠に伝わり、平九郎は渋沢栄一らによって東京・谷中の墓地に改葬され、自刃した場所には自刃碑が建てられたのです。
また、平九郎が峠の茶屋から逃げる際に、落人姿では危険だということで、百姓姿に身を変えた際に大刀は預け、小刀のみ持って行ったのですが、渋沢栄一らはその自刃に使われた小刀を探し続け、元・安芸広島藩神機隊隊長・川合鱗三という方が大切に保管していることを突き止め、26年ぶりに持ち主に戻ったのだそうです。

更に、この石碑の隣には「千家元麿・蔵原伸二郎 散策地 顔振峠」と刻まれた標柱があります。
千家元麿・蔵原伸二郎 散策地 顔振峠
千家元麿とは1888年、千代田区麹町で生れた詩人で、武者小路実篤に師事していたことから、実篤の理想郷である「新しき村」が隣接する入間郡毛呂山町にあることにより、元麿は、この顔振峠も散策したのでしょう。
一方、蔵原伸二郎は1899年の熊本県出身の詩人・作家で、19歳のときに上京し慶應義塾大学文学部仏文科に学びました。戦時中は疎開先の入間郡吾野村(当時)で終戦を迎え、戦後は入間郡飯能町河原町(現・飯能市)に居住したのです。こういった経緯から伸二郎がこの顔振峠を散策したのも至極当然なことでしょう。
因みに伸二郎の母いくは北里柴三郎の妹ですので、伸二郎にとっては伯父に当たるわけです。
景色の良い顔振峠ですが、思わぬ歴史が残っている地でした。

この碑の後には文字通りの「顔振茶屋」があり、道を挟んだ反対側には「平九郎茶屋」が向かい合っているのですが、ここまで話を知っては「平九郎茶屋」に寄らないわけにはいかないでしょう。
顔振茶屋平九郎茶屋
平九郎茶屋】については美味是好日を参照いただくとして、店内に平九郎の写真が飾ってあったことだけ記載しておきます。
平沼平九郎
大自然を眺めながらの昼食も結構なものでした。
遠景
渋沢平九郎縁の「平九郎茶屋」でしばし飯能戦争の歴史に浸りました。

傘杉峠

「顔振峠」から再び奥武蔵グリーンラインを北上します。
進み始めるとすぐ左手に「富士見茶屋」があります。
富士見茶屋
文字通りの顔振茶屋、渋沢平九郎縁の平九郎茶屋、そして恐らく富士山が綺麗に見えることから名付けられたのでしょう富士見茶屋と、なかなか峠に相応しい風情のある茶屋のある佇まいです。
富士見茶屋から5分ほど進むと左手に「ベラヴィスタ」というコじゃれたカフェがあるようなので、食後のコーヒーでもと立ち寄って見ました。
ベラヴィスタ
後で知ったことですが、ここは隠れた…的なカフェらしく、先の茶屋同様美しい景色を眺めながらが売りだったようです。
詳細は美味是好日の【ベラヴィスタ】を見ていただくこととして、今日は残念ながら客も一杯でテラスでの優雅なティータイムは味わえませんでしたが、ここでも景観の一端を堪能して先に進むことにします。
眺望
10分ほど進むと林道の両側にビッシリ杉林が囲んでいます。
傘杉峠
そしてそこに「傘杉峠」の道標がありました。
傘杉峠

奥武蔵の造林地
林道奥武蔵線沿いは、ヒノキ、スギの美林をなしているところである。この地域では、江戸時代に入り、人口増と大火で木材需用が増えた江戸へ向けての木材生産が行われ、江戸の西の方の川から運ばれていくるので西川材と呼ばれた。以来、伝統ある林業地として集約的な手入れによって優良財を生産している。
環境庁・埼玉県
(現地案内板より)

確か【飯能まつり】で訪れた「飯能市郷土館」で西川材のことは知りましたし、【名栗湖と鳥居観音】での「名栗カヌー工房」でも西川材を勉強しました。
やはり飯能市にとっての林業、そして西川材は現在でも重要な産業であることを再認識したことになりました。
近づいてみるとそのスギ・ヒノキ林がすばらしい造形をなしているのを見て取ることができます。
傘杉峠 傘杉峠
ある意味花粉症の方々には天敵かもしれませんが、ここは自然の力を崇めておきましょう。
そしてこの道は「関東ふれあいの道」と呼ばれ、吾野駅から顔振峠、傘杉峠を通って高山不動尊、関八州見晴台は一つの見所であるコースなのだそうです。
吾野駅前の法光寺を12時ころに出て、昼食とコーヒーブレイクを含めて傘杉峠まで僅か1時間半しか経過していないドライブでしたので、本来のハイキングでは味わえないモノもあるのでしょうが、その一端を味わったということで良しとしておきます。まあ、実際に歩けませんから・・・。
ハイキングの気分をちょっと味わって、いよいよ次は高山不動尊に向います。

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