高山不動尊 #1

「顔振峠」「傘杉峠」と奥武蔵グリーンラインを進んできましたが、これからが主題の「高山不動尊」に向うのです。 山中の寺院という事と、火渡り式という修験的なイメージがより神秘的な佇まいを思い浮かべます。
実際のところはどうなのでしょうか。

国造三輪社

「傘杉峠」からおよそ15分程度で目指す「高山不動尊」に到着します。
10台程度駐車できる駐車場に車を停めて、そこから徒歩で向います。
高山不動尊
しばらく歩いていくと、こんな民家が現れます。
民家 妙に雰囲気がよいですね。
そしてその先には小さな神社がありますが、扁額を見ると「国造三輪社」と刻まれています。
国造三輪社 国造三輪社
“国造”とはちょっとそそられる社名です。少し調べてみましょう。
「三輪神社」とは、大物主神を祀る神社で、その本社は奈良県桜井市にある「大神神社」です。この大神神社は、日本神話に記される創建の由諸や大和朝廷創始から存在する理由などから“日本最古の神社”と称されており、日本国内で最も古い神社のうちの1つであると考えられているそうです。
三輪山そのものを神体(神体山)として成立した神社であることから、現在でも本殿を持たず拝殿から三輪山自体を神体として崇める原始的神道の形態を残しているのです。
この形態は埼玉県神川町の【冬桜の城峯公園】で訪れた「金鑚神社」がまさにその通りでした。またこの大神神社には明神鳥居3つを1つに組み合わせた特異な形式の三ツ鳥居があるのですが、これも埼玉県秩父で訪れた【三峯神社】で訪れた「三峯神社」に三ツ鳥居がありました。
わき道にそれてしまいましたが、本題は、この大神神社が何故“国造”に関連するのかということで、それは大神神社のまつわる件が日本神話にあることからなのです。

古事記によれば大国主神と一緒に国造りをしていた少彦名神が、国造り半ばにして常世に帰ってしまいました。一人残されて今後の国造りに途方にくれていた大国主神ですが、そのとき海の向こうから光輝いてやってくる神様が表れ、大和国の三輪山に自分を祀るよう希望したのだそうです。驚いた大国主神が「どなたですか?」と聞くと「我は汝の幸魂奇魂なり」と答えたというのです。
この“幸魂奇魂”とは、簡単に言えば“神の霊魂”で、大きく分けると天変地異などを起し、病を流行らせるなどの神の荒々しい側面もつものが「荒魂」で、雨や日光の恵みといった神の優しく平和的な側面が「和魂」で、つまり神の加護というのは「和魂」の表れということになるのです。さらにこの“和魂”は「幸魂」と「奇魂」にわけられ、前者は物が分裂し、増加繁殖して栄える力を意味し、後者は串刺しし、統一し調和する力を意味するのだそうです。
こうして大国主神はこの“和魂”を“大物主神”として三輪山に祀ったのですが、このことが大神神社の由緒となったわけなのです。つまり“大物主神”は大国主神の霊魂であるということになるのですが、日本書紀では合理的に別名という言い方をしているようです。
いずれにしてもある意味では大国主神=大物主神ですから、三輪社が“国造”といわれるのも当然ということになるのです。ただし現在、“大物主神”は五穀豊穣、疫病除け、酒造りの神として崇められているようです。
これは江戸時代の「新編武蔵風土記稿」にも記載されています。

高山村 三輪明神社
此村の惣鎮守にして、所祭大己貴命、神体木の立像長二尺五寸許、出現して手刻したまひし像なりと云伝ふ、当社は斉明天皇丙辰の年に、大和国大三輪より勧請すと云、仍て大和山と号す、本地弥陀木の立像長二尺六寸許、社東に御手洗の清水あり、前に弁ず
(「新編武蔵風土記稿」巻之二百四十七(秩父郡之二)より)

但しここでは、はっきりと大己貴命(大国主神の別名)となっています。さらに面白いのは「本地弥陀木・・・」の記述で、これは“本地垂迹”のことで本地は「阿弥陀如来」であったということを表しているのもであると考えられるのです。
“本地垂迹”は【雑司ヶ谷七福神 彷徨】で訪れた鬼子母神で学びましたが、いわゆる神仏習合思想の一つで、日本の神々は様々な仏が化身として現れた権現であるという考え方で、要するにこの神社の本来の仏は阿弥陀如来であることになるわけです。
現在の主祭神は勿論“大物主神”で、三穂津姫命・少名彦神が配祀されており、三穂津姫命は“大物主神”の后です。ということは“大物主神”の本体は大国主神ですから、三穂津姫命は“大国主神”の后でもあるということになるわけです。この辺りが神話のややこしさと面白さの醍醐味と言えるでしょう。
いずれにしてもまた一つ面白い神話を知ることができました。

高山不動の大イチョウ

「国造三輪社」を後にして先に進むと左手に「高山不動尊本坊 常楽院」があります。
高山不動尊本坊
山合の落ち着いた佇まいの庫裏です。
平安時代後半、関東地方は千葉県の千葉氏、上総氏、神奈川県の三浦氏、大庭氏、梶原氏、長尾氏、土肥氏、埼玉県の秩父氏の“坂東八平氏”が支配していました。
そしてこの秩父氏の家系が秩父武綱―重綱―重隆―(畠山)重能―重忠となるのですが、その中の重綱の二男重隆が川越を領して河越氏、三男重遠は飯能市に居住し高山氏、四男重継は江戸を領し江戸氏と名乗たのです。そして高山重遠が当時居住した館がこの高山不動と言われているのだそうです。
本坊の右手にある本堂への参道を登ります。
高山不動尊参道
しばらくすると小高い丘の上に巨木が立っています。
高山不動の大イチョウ
これが「高山不動の大イチョウ」と呼ばれている巨木なのです。

埼玉県指定天然記念物(昭和22年3月25日指定) 高山不動の大イチョウ
この大イチョウは、県下に誇る巨木で、樹高約37メートル、幹回り10メートル、根回り12メートル。樹齢は推定八百年といわれている。露出した根には乳と呼ばれる気根が垂れさがっている。
またの名を「子育てイチョウ」といい、昔から産後、乳の出のわるいものが祈願すると、出がよくなることからこの名がつけられたといわれる。
幹の一部には文政年間、高山一山が焼失した火災の跡が残り、そのときの火災の激しさを物語っている。
昭和63年3月
埼玉県教育委員会・飯能市教育委員会・高貴山常楽院
(現地案内板より)

近づくとその大きさに圧倒されます。
そしてこの垂れ下がった気根が「子育てイチョウ」の由来となった部分なのです。
高山不動の大イチョウ
これは【秩父夜祭】で訪れた秩父神社にも「乳銀杏」と呼ばれる同じイチョウがありましたが、これほど大きなものではありませんでした。
幹の根本には大イチョウの碑と地蔵尊が祀られています。
高山不動の大イチョウ
この巨木をグルッと回り込むように階段を上がると、広い境内となりますが、人と比べるといかに巨木であるかが更に実感できました。
高山不動の大イチョウ
更に、これだけの巨木が残っていることから、不動尊の歴史の長さもまた感じ取ることができるのです。

高山不動尊縁起

広い境内の正面には“来るものを拒むかのような”…ってことはなく、単に「大変だなあ」と思わせる階段がそびえています。
高山不動尊
何段あるのでしょうか、一段一段の幅が狭く、高さがあるので結構登るのもしんどいです。岩殿観音ほどではありませんが。
100段ちょっと位だったでしょうか、上にあがるとそれはそれは重厚さのある本堂が目の前に現れます。
高山不動尊
本堂も間近でみると、かなり大きいのが見て取れます。

国宝高山不動尊縁起略記
当山は今から千三百二十有余年前人皇36代孝徳天皇の御代蘇我氏が横暴をきわめてより大職官鎌足公は仲大兄皇子と力を合せ蘇我氏を討たせらる。然るにその末統が関東に落ち延びともすれば叛旗を翻さんとし東国の地安定せざるにより、白雉5年鎌足公の第二子長覚坊上人、大和国三輪神社の別当宝勝坊上人、藤原の臣岩田三兄弟の5人を関東視察に差し遣せらる。
此の5人が常に不動明王を信仰し長覚坊上人が不動尊荷負い来たり関東諸方巡錫の後、当高山に登りたる処関八州を一眸の内に収め東国平定の根本道場たるの山相を観得したるにより、国家安穏東国平定鎮護のために一宇建立して不動尊を安置し此の趣を鎌足公に上申したる処鎌足公より38代済明天皇に上奉同帝より勅願所として長覚寺不動明王の寺号と三萬六千余坪の御除地を賜る。(現在の見晴台、奧の院の所に建立す)
其の後44代元正天皇の御代行基菩薩は詔を奉じて登山參籠せられし際、一人の老翁現われ、我は当嶺に鎮座す国造三輪明神也、今我が像を刻して当嶺に留め東国の守護神として鎮座すべしと御宣托在って当翁は五代尊不動明王の御尊像と化さる。 行基菩薩は宝玉を感得したれば直に一根五木の大木を切って、五大尊明王の御尊像を彫刻して宝殿に安置したる(現在文化財に指定されている軍荼利明王像は行基作五大尊の内一体なり)

皇室の帰依は勿論民衆の信仰深くその為に一山三十六坊相立って盛況をみる。宗祖弘法大師は秩父霊場巡錫の砌り、当山に登り37日21座8000枚の護摩供の秘法を修して眞言両部の秘法を伝える。人皇74代鳥羽法皇の御代に到り、当院住職覚監法印、醍醐山に登り三宝院勝賢僧正より法流を受け醍醐派となると、ともに眞言両部神道の大道場となるも明治維新後神仏分離により智山派となる。
三宝院勝賢僧正当山不動明王の霊験奇瑞なるを鳥羽法皇に推挙せし処御感銘あらせられ不動明王の大幅を御納めあり今に秘蔵の七夕不動の大幅なり。建久3年源頼朝公より武運長久の祈願の為御除地を賜る。又足利義政公より祈願料として御除地を賜り長禄元年銀製太刀一振奉納あり。
徳川家康公より御除地を賜り尚、天正19年吾野郷の内2石領を不動領として御寄進あり。其の後代々徳川家より御朱印地を賜る。代々将軍を初め一般民衆の信仰厚く、しかるに文政13年12月14日民家の失火により御本堂初め仁王門、神楽殿、本坊、御師等一山焼失す。 其の後現在の御本堂は飯能地方の棟梁により再建におよぶ。
(現地案内板より)

歴史上のキラ星のスターの目白押しといった縁起ですが、まずは“国宝”とは名詞ではなく「日本にとって貴重な宝のようなもの」という意味で捉えておきましょう。
藤原鎌足、仲大兄皇子といえば当然「大化の改新」で、まるで後日談のような縁起で始まっています。
白雉5年ということで、創建は654年という大化の改新の10年後で、歴史の教科書にも掲載したいような由緒なのです。そしてこの中に大和国三輪神社の別当宝勝上人がいたことから、先に参拝した「国造三輪社」もまたそれなりの由緒を持っているということになるのでしょう。
そして最初に建立したのが現在の奥の院のある関八州見晴台のある場所だったということです。

その後、元正天皇在位の715~724年の間で、行基により五大尊が造られ、そのうちの一つが現在に残る「軍茶利明王像」だということになります。五大尊とは、真言密教では不動明王を中心に位置し、東に降三世明王、南に軍荼利明王、西に大威徳明王、北に金剛夜叉明王を配するのが一般的なのだそうですが、天台宗の台密では、金剛夜叉明王の代わりに烏枢沙摩明王が配されるようです。 いずれにしても密教での明王の選りすぐりですから、信仰は篤いといえるでしょう。
ちなみにここでの記述に「我は当嶺に鎮座す国造三輪明神なり、我の像を刻して当嶺に留め東国の守護神として鎮座すべし」とあるのですが、国造三輪明神は“大物主神”ですから、実に不可思議な事象と言えるのですが、これが前述した“本地垂迹”で、“大物主神”の本地が阿弥陀如来だという意味からなのでしょう。
では、阿弥陀如来がなのに何故五大尊ということになるのですが、…わかりません、当然。しかしながら勝手な推測をすればこうゆうことに関係するかもしれません。、密教の仏身感は如来・菩薩・明王に分類する「三輪身」という分類があるそうです。これは自性輪身、正法輪身、教令輪身の三身観をいい、例えば中央に配されるのは、自性:大日如来、正法:般若菩薩、教令:不動明王となっているのです。その中で、その西方の自性に配置されているのが阿弥陀如来なのです。この辺がなにか国造三輪明神との関連なのかもしれません。それにしても宗教の世界は難しいですが…。
その後は記述のとおり、高山不動尊常楽院の繁栄が偲ばれてきます。そして明治期になって神仏分離により、先の国造三輪社と常楽院が別れたのでしょう。
そして現在は、成田不動、高幡不動と並ぶ、関東三大不動の一つに数えられている古刹なのです。
流石に1300有余年の歴史を持つ常楽院だからこその由緒といえそうです。

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