旧渋沢邸「中の家」

誠之堂・清風亭を出て次に向かったのは渋沢栄一の生家である通称「中の家」(なかんち)です。
渋沢栄一は、1540(天保11)年、富農・渋沢市郎右衛門の長男として現在の埼玉県深谷市血洗島で生まれました。血洗島とはなんとも、おどろおどろした地名ですが、深谷市サイトでこう説明しています。

大正初期に渋沢栄一翁は次のような談話を”龍門雑誌”に載せています。
「…恐ろしげなるこの村名のかげには幾多の伝説と口碑(言い伝え)とが伝わっている。しかしそれは赤城の山霊が他の山霊と戦って片腕をひしがれ、その傷口をこの地で洗ったという種類のもので…」(日光の山霊=大蛇と赤城の山霊=ムカデが戦場ヶ原で戦ったという伝説)続いて「…斉東野人(孟子〔万章〕の事理を知らない田舎者の例え)の語たるは言うまでもない」と地名に対しては、あまり伝承や口碑にはこだわらなかったようですが各地を訪れる先々で血洗島の由来を質問されたそうです。
特に定説はありませんが、他に、
1.アイヌ語の「ケシ=厚岸、ケセン=気仙沼、ケッセン」(岸、末端などの意)で血洗(この当て字が憶測のもと)という説。〔因みに利根川のトネはアイヌ語で(tanne)長いという意味〕
2.その昔、この辺りで合戦があり(一説に平安時代に八幡太郎義家の奥州遠征の途中)家臣の一人が切り落とされた片手を洗ったので血洗島と言い、土地の人がその手を近くに葬った墓が手墓と言う伝説がありました。
※手計のハカは地形の崖(ハカ)や古名の竹幌(アイヌ語で縄張り・垣根の意)が手計幌から手計と言う説があります。
◎右のように合戦やアイヌ語などを語源とする説もありますが、通称『チアラジマ』と言うように度重なる利根川の氾濫のため地が荒れたとか、地を洗うように流れたと言う方が頷けるようです。
◎正式名称は『チアライジマ』で島と言うのは、この辺り一帯の利根南岸氾濫原にある四瀬八島の四つの瀬、八つの島に由来します。(中瀬・横瀬、内ヶ島・西島など)
栄一翁は24歳で村を出てから70年近く他郷で活躍している時、たびたび血洗島の意味を尋ねられて語っていると懐かしさと愛郷心が湧いてきて、帰郷の度ごとに故郷の人々のために立派な足跡をたくさん残して下さいました。

と言うことでハッキリした定説は無かったようです。

「渋沢栄一」顕彰説明看板

「渋沢栄一」顕彰説明看板

さて生家に着くと早速案内板がありました。

『我が人生は、実業に在り。―渋沢栄一
天保11年(1840)豪農、渋沢市郎右衛門の子として誕生。
昭和6(1931)年、92歳の大生涯を閉じるまで、実に五百にものぼる企業設立に携わり、六百ともいわれる公共・社会事業に関係。日本実業界の祖。希代の天才実業家と呼ばれる所以である。
慶応3(1867)年、15代将軍・徳川慶喜の弟、昭武に随行してヨーロッパに渡る。28歳の冬であった。
栄一にとって、西欧文明社会で見聞したものすべてが驚異であり、かたくなまでに抱いていた攘夷思想を粉みじんに打ち砕かれるほどのカルチャー・ショックを体験。しかし、彼はショックを飛躍のパワーに換えた。持ち前の好奇心とバイタリティで、新生日本に必要な知識や技術を貧欲なまでに吸収。とりわけ、圧倒的な工業力と経済力は欠くべからざるものと確信した。
他の随員たちの戸惑いをよそに、いち早く羽織・袴を脱ぎ、マゲを断った。己が信ずる道を見つけるや、過去の過ちと訣別、機を見るに敏。時代を先取りするのが、この男の身上であった。
2年間の遊学を終え、明治元年(1868)帰国。自身の改革を遂げた男は、今度は社会の改革に向って、一途に歩み始めた。
帰国の同年、日本最初の株式会社である商法会所を設立。明治6年(1873)には、第一国立銀行を創立し、総監役に就任した。 個の力、個の金を結集し、システムとして、さらなる機能を発揮させる合本組織。栄一の夢は、我が国初のこの近代銀行により、大きく開花した。
以後、手形交換所・東京商法会議所などを組織したのをはじめ、各種の事業会社を起こし偉大なる実績を重ねていった。
栄一はまた、成功は社会のおかげ、成功者は必ず社会に還元すべきという信念の持ち主でもあった。私利私欲を超え、教育・社会・文化事業に賭けた情熱は、生涯変わることなく、その柔和な目で恵まれない者たちを見守り続けた。失うことのなかった、こころの若さ。そこから生まれた力のすべてを尽して、日本実業界の礎を築いた渋沢栄一。並はずれた才覚と行動力は、今なお、人々を魅了する。昭和59年1月 寄贈 エコー実業株式会社

まあ、そんな堅苦しく書かなくともと思いながら「中の家」へ向かいました。
そもそも「中の家」とは、江戸末期、血洗島村には渋沢姓を名乗る家が17軒あったそうです。このため、家の位置によって「東ノ家」「西ノ家」「中ノ家」「前ノ家」「新屋敷」などと呼んで区別されていたそうです。
栄一の父・市郎右衛門は「東ノ家」の当主二代目宗助の三男として生まれたのですが「中ノ家」に養子に入ったのでした。明暦年間の「中ノ家」は小農にすぎませんでしたが栄一がうまれるころになると村の中で二番目の財産家となっていたそうです。
それで栄一の生家を「中の家」と呼んでいるのです。

「中の家」門

「中の家」門

この表門は、当時この辺り一帯の領主であった岡部藩の安部摂津の守が、直々に訪ねて来る際、乗馬したまま門をくぐれるよう高く作られたといわれているそうです。家人は、表門から右へ廻った裏手の門から出入りしていて、普段この表門は閉められていたといわれています。
門の左右に立っている碑は、左は「青淵誕生之地」、右は「史蹟 渋沢栄一生地」と書かれています。


幕末の頃の銅像

渋沢栄一、幕末の頃の銅像

門をくぐると広い庭と池があり、その池の辺に渋沢栄一の銅像があり、「若き日の栄一 Eiichi in Paris 1867」と書かれています。この銅像の姿はパリ万国博覧会で渡仏した頃の姿だそうです。

母屋

かなり大きい母屋

銅像の先に母屋があります。パンフレットに「中の家」の歴史が記載されています。

この屋敷は、渋沢家の住宅等として使われてきたもので、通称「中の家」(なかんち)と呼ばれている。渋沢一族はこの地の開拓者のひとつとされるが、分家して数々の家を起こした。「中の家」もその一つで、この呼び名は、各渋沢家の家の位置関係に由来するものである。
代々当主は、市郎右衛門を名乗っていたが、古くは、新七郎(安邦)の名まで知られている。中の家は、代々農業を営んでいたが「名字帯刀」を許され、市郎右衛門(元助)のときには、養蚕や藍玉づくりとその販売のほか、雑貨屋・質屋業も兼ねてたいへん裕福であった。この家に、後に日本近代資本主義の父と呼ばれる栄一が生まれた。
現在残る主屋は、明治28年(1895)、市郎により上棟されたものである。梁間5間、桁行9間の切妻造の2階建、西側に3間×3間の平屋部分等を持つ。また、主屋を囲むように副屋、土蔵、正門、東門が建ち、当時の北武蔵における養蚕農家屋敷の形をよくとどめている。
栄一は、多忙の合間も時間をつくり年に数回はこの家に帰郷した。東京飛鳥山の栄一の私邸は、空襲によって焼失したため、この家は現在残る栄一が親しく立ち寄った数少ない場所といえる。
また、中の家は、元治、治太郎たちの人材を輩出した。昭和58年からは「学校法人青淵塾渋沢国際学園」の学校施設として使用され、多くの外国人留学生が学んだ。平成12年、同法人の解散に伴い深谷市に帰属し、現在に至っている。昭和26年、埼玉県指定史跡に指定。昭和58年、渋沢国際学園の設立に合わせ、埼玉県指定旧跡「渋沢栄一生地」に指定替えがされた。
副屋の前には、渋沢家歴代の墓地がある。屋敷外の北東には、栄一の号「青淵」の由来になった池の跡に「青淵由来の碑」が建つ。南方200mほどには、この地、血洗島の鎮守である諏訪神社がある。

室内

母屋内

母屋の中についても説明があります。

『青渕のよく寝泊りした部屋です。東京の邸が第二次世界大戦中焼失しましたので現在のこる唯一の起居した場所となりましたこの部屋の脇息 乱箱 文箱 書籍はどれも青渕栄一の使用したものです。』

と説明板にあります。
24歳で血洗島を出た渋沢栄一は、以来、東京を主に暮らしの場としたのですが、つかの間の日がな一日を血洗島の生家でゆっくり過ごしたのではないかと思います。

蔵

母屋の脇には幾つかの蔵がある

配置図を見ると主屋・副屋のほかに土蔵が4つもあり当時の渋沢家の豪農振りがうかがわれるとともに、これをバックボーンとした渋沢の活躍、さらに不自由の無い生活が後の渋沢栄一の執着感のない金銭感覚と福祉などの広い心を持った男に育っていったのが偲ばれる思いでした。

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